亀の瀬地すべり

亀の瀬地すべり

[1] 亀の瀬地すべり

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[2] ふるさと地盤診断ウォーク「亀の瀬地すべり」 vol.4 幻の鉄道トンネル | 徒然漫歩計, , http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=229

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亀の瀬・排水トンネル見学のあと、いよいよ2年前に発見された旧国鉄関西線 ・亀の瀬トンネルにはいることになる。昭和7年の亀の瀬地すべりで圧壊され消失したと思われていた鉄道トンネル。それが地下水の排水トンネル建設中に偶然発見されたものだ(左写真はトンネルの発見を伝える平成21年12月10日朝日新聞の記事)。 まずは、このトンネルの全体像を、JTB発行「地形図でたどる鉄道史」(今尾恵介・著)から見ておこう。 「広い大和盆地(奈良盆地)を流れる飛鳥川や竜田川、葛城川などすべての川は大和川の1本にまとまり、河内の大阪平野を目指すのだが、その喉の部分にあるのが亀ノ瀬である。ここは生駒と葛城の両山脈の末端部に挟まれた、まさに隘路と呼ぶにふさわしい難所で、大阪府と奈良県の境界(大和・河内国境)もここを通っている。 明治に入り、大阪と奈良を結ぶ鉄道を計画した私鉄の大阪鉄道(のち関西鉄道、現・関西本線)はここを通すルートに決め、まず明治22年(1889)に大阪ミナミの湊町を起点に柏原までを開通させた。奈良からも翌23年に王寺までを開業、残りは柏原〜王寺間のこの峡谷の隘路だけになったのである。 亀ノ瀬には当初亀ノ瀬(431m)、芝山(216m)などのトンネルと、大和川に架かる3つの橋梁が建設された。明治22年に着工されたのだが、この地域が厄介な地滑り地帯であったため、これらのトンネルに異常な圧力がかかり、工事完成後に煉瓦に亀裂を生じ、崩壊する危険が出た。大阪鉄道では明治24年(1891)に当局に改築許可願を出しているが、これらのトンネルを掘り直すなどで時間を費やしたためにこの区間だけ開通が遅れてしまった。会社は苦肉の策としてトンネルの西側に亀瀬仮停車場を設置、東口付近に設けた稲葉山仮停車場との間を人力車での連絡を始めた。トンネルはようやく明治25年に改築完成し、同年2月2日に同区間が開通、これで湊町〜奈良間41・2㎞がようやく全通した。同時にトンネル東西の仮停車場は廃止となっている。 その後、この区間は輸送量の増大とともに複線化され、列車が増発されたが、この地

[3] 鉄道と王寺(その4), , http://www.town.oji.nara.jp/history/train4.html

7. 町制施行祝賀飛行の大惨事

大正15年(1926)4月17日から3日間の予定で計画された町制施行記念祝賀行事は、第1日目の予定を順調に消化しましたが、第2日目の18日、重大事件が発生しました。午前10時40分ごろ、町制施行祝賀飛行として大和川の川原に着陸するはずだった飛行機が、それを観覧していた小学生児童のところに誤って墜落してしまったのです。この事故は2名が死亡、22名が負傷するという大惨事となりました。大正15年(1926)4月27日「町制施行祝賀飛行事故報告書」では、事故が発生した経緯や負傷した児童の救護活動など、この事故の顛末を詳細に知ることができます。王寺町の門出を祝うときに、このような大惨事があったことを忘れてはなりません。

8. 亀の瀬地すべりの発生

亀の瀬地すべりは、昭和6年(1931)11月27日、大阪府中河内郡堅上村大字峠(現柏原市)で亀裂が発見されたことにはじまりました。この亀裂はやがて拡大し、ついには大字峠を中心にして山塊が地すべりを起こしたのです。これにともなって、亀の瀬を通っていた鉄道にも影響が及び、昭和7年(1932)2月1日からは亀ノ瀬隧道(トンネル)が不通となって、やむを得ず隧道の東口・西口に仮駅が設けられて隧道区間は徒歩連絡によることとなりました。また、一方で亀の瀬地すべりは大和川の川床が隆起するという事態もともなっており、これによって川水がせき止められ、同年7月には上流の王寺町藤井の住宅25戸が浸水するという被害が生じています。

9. 地すべり見学と復旧工事

深刻な被害を受けている堅上村大字峠(現柏原市)と王寺町藤井は、地すべりと川床の隆起という事態に日夜悩まされ、昭和7年(1932)2月からは朝鮮人労働者を含む延べ35万人あまりもの人々によって行われることになる復旧工事もはじまっていました。しかし、こうした被害の一方では、地すべり災害のようすを見学に訪れる人々が殺到していたのです。多いときには1日2万人以上もの見学者が訪れ、亀の瀬までの貸切列車が走り、徒歩連絡道にはカフェーなどの露天商が出店、見学記念絵葉書も発行されました。こうして昭和7年(1932)末まで約1年間にわたって発生した亀の瀬地すべりも同年12月31日に復旧した関西本線新線の開通で一応の幕を閉じました。

[4] 国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所 | 亀の瀬 | 亀の瀬を楽しむ | JR関西本線と亀の瀬隧道, , http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/outline/landslide/enjoy/tunnel.html

亀ノ瀬トンネル(隧道)は、かつて国鉄(運営事業体は数度変化)関西本線の河内堅上駅―王寺駅(現在では三郷駅)間に存在したトンネルの名称です。

「亀ノ瀬トンネル(隧道)」は大阪、奈良間における最初の鉄道は大阪鉄道(現関西本線)によるもので、明治22(1889)年に着工、明治25(1892)年1月に完成し439メートルの長さがありました。さらに大正13(1924)年には先の単線トンネルとはコースを変えて、長さ703メートルの単線トンネル2本が設けられ線路が増設(復線化)されました。大正期のトンネルは路線増設時に新たに掘削されたものですが、大阪行きのトンネルの西口より246メートルは明治期のトンネルの一部を活用していました。つまり、奈良方面から大阪方面へ向かう列車は大正期の坑門から入り、明治期の坑門から出ていたことになります。

昭和6(1931)年11月に始まる大規模な亀の瀬の地すべりにより、亀の瀬トンネル内で壁面に亀裂が発生、昭和7年2月1日、関西本線は運転を中止。2月4日トンネルは崩壊し、閉鎖されました。上下線がそれぞれ崩壊したことから路線は急遽対岸へ移設(現路線)され、以来トンネルはその姿を表すことはありませんでした。

平成20(2008)年11月、亀の瀬地すべり対策工事の一貫で行なわれていた地下水排除を目的とした排水トンネル工事の掘削推進中に、坑口より約30m地点でレンガ構造の旧国鉄トンネル下り線(大阪方面行き)、約50m地点で上り線(奈良方面行き)が発掘され、亀ノ瀬トンネルの一部がほぼ当時の原形をとどめた状態で発見されました。

亀ノ瀬トンネルの内部構造の煉瓦組積法は起拱線から下部の側壁はイギリス積みを採用し、上部のアーチは長手積みとなっていました。また、上方には蒸気機関車の通過で付着した煤煙が確認されました。これらのうち、排水トンネルとの交差部から離れた旧下りトンネルの王寺方39mを、約120年前のトンネルの貴重な遺構として保存されることとなり、現在、地すべり見学会に合わせて公開されています。

JR関西本線は亀の瀬地すべりに翻弄されてきました。現在のJR難波駅(旧称湊町駅)−奈良駅間は大阪鉄道会社が明治21(1888)年に政府に路線変更を申請して、翌22年5月に湊町から柏原駅に至るまでの区間が開業しました。

この線の主要工事は亀の瀬隧道(トンネル)を含む3つの隧道

履歴

[5] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529295831

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