御母衣湖

御母衣湖

[1] 御母衣湖

Webページ

[2] 御母衣ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E3%83%80%E3%83%A0

御母衣ダム(みぼろダム)[1]は、岐阜県大野郡白川村、一級河川・庄川本流最上流部に建設されたダムである。

電源開発(J-POWER)が管理する発電専用ダムで、高さ131メートルと日本屈指の規模のロックフィルダムである。只見川の奥只見ダム、田子倉ダムと共に「OTM」の頭文字で呼ばれ、同社を代表する水力発電所の一つである。ダム湖は御母衣湖。水没予定地から移植された荘川桜のエピソードでも知られる。

計画の発足[編集]

庄川は太平洋と日本海の分水嶺に当たる烏帽子岳付近を水源とし、白山連峰と飛騨高地の山間を概ね北に向けて流れ、富山湾に注ぐ北陸地方における大河川の一つである。流域の大部分は山岳地帯で占められ、シベリアから吹く季節風によって冬季は豪雪地帯となる。また夏も台風の通り道になりやすく、全般的に多雨気候である。降り注いだ雨は険しいV字谷を形成する峡谷を急流となって流れ、日本海に注ぐ。急流で水量の多い庄川は水力発電を行うには理想的な川であり、大正時代から黒部川や常願寺川など近隣を流れる河川と共に水力発電所の建設が進められていた。

1926年(大正15年)に白山水力電気が平瀬発電所の運転を開始したことに始まる庄川の電力開発は、浅野財閥総帥であった浅野総一郎の庄川水力電気により1930年(昭和5年)に小牧ダムが完成、当時日本屈指の出力7万2,000キロワットの小牧発電所が運転を開始した。同年昭和電力が小牧ダム上流に祖山ダム・祖山発電所を完成させ、以後庄川は下流から上流に向かってダム式発電所の建設が進められていった。民間で進められた事業は戦時体制の進展に伴い誕生した日本発送電によって庄川水系の電力施設は接収、1942年(昭和17年)には小原ダム・小原発電所が完成する。その日本発送電が1951年(昭和26年)に電気事業再編成令によって分割・民営化されると、庄川水系の電力施設は旧庄川水力電気・昭和電力の流れをくむ関西電力が継承し、成出・椿原・鳩谷の各ダム・発電所が建設された。しかしこれらのダムと発電所は余りある庄川の水量を十全に活用できるほどの貯水池を持たず、電力需要の多くなる冬季に発電能力を発揮しきれなかった。このため庄川の最上流部に巨大なダムを建設し、それによって形成される大容量貯水池によって下流の水量を安定化させ、下流に建設された発電所の出力を増強する必要があった。

すでにこう

[3] 森茂川流れ込みと六厩橋・源流にいた獣と御母衣湖での恐怖の体験, , http://doyano.sytes.net/keiryu/33/index.html

森茂峠を越えて森茂川へ

森茂川へ車で行こうと思うのなら、高山市清見町・小鳥川方面より森茂峠を越えるしか方法がありません。

ただし、林道にはゲートがあります。

また、道路は崩落していて途中までになります。

国土地理院・1/50000の地図では、御母衣ダム湖東側湖畔に沿って、

森茂川の流れ込みあたりまで通じる道路が記載されていますが、

この道路はすでに昭和45年頃から土砂のため埋没しています。

車は通る事はできません。

自転車も難しい。

徒歩でも過酷です。

50年程前までは、集落に人が住んでいて、流れ込みあたりまで車で行けましたが、

現在は、廃村となり人は住んでいません。

このため道路は手入れがされておらず、

峠から1.5キロ下ったところで道路が滑落しており車はここまでです(地図参照)

森茂峠には地蔵堂があります。

地蔵堂の中には天明年間に建立された、お地蔵様が奉られています。

今でも、人里から離れたこの地蔵堂に花が供えられています。

かって、この地域に住んでいた人が、今でも地蔵堂にお参りをしています。

森茂川流域に住んでいた人々は、昭和35年頃に道路が整備されたとともにこの地を離れてしまったそうですが、

当時の住居跡が森茂川流域に残っています。

この地では縄文時代の遺跡も発見されており、随分と古くから人が住んでいたことがうかがえます。

釣りには関係の無い話かもしれませんが「森茂川」に興味が沸いて色々調べてみました。

森茂峠についてはこちらで▼詳しく案内されています。

飛騨の峠・建設省中部地方建設局・高山国道工事事務所

森茂川流れ込みを目指しカヌーを用意したが、風が強く断念。

御母衣から小鳥ダムまで行き峠を越える。

御母衣ダム湖からカヌーを使って流れ込みへ行く計画でした。

一旦は御母衣ダム湖の東湖畔側の隋道付近まで行きましたが、

残念な事に風が強くカヌーを漕ぐには危険な状態のため、小鳥川

まで戻って峠越えしました

移動に多くの時間を費やしたために、既に時間は12時を過ぎています。

森茂峠から1.5キロほど下ると右岸へ渡る橋があります。

ここには既に車が7台ほど停めてありました。

車を降りて流れ込みへと続く道路の状況を確認すると、

道路が滑落しており車が通行出来る状況ではありません。

停めてある車はここで車を降りて、それぞれの

[4] 道路レポート 岩瀬秋町線 (御母衣湖右岸道路), , http://yamaiga.com/road/akimati/main.html

右の地形図を見て欲しい。

これは最新の2万5千分の1図であるが、幅の広い水域を渡る一本の橋が描かれている。

橋には「六厩橋」という注記がなされ、西側の岸辺には三角点がある。

「六厩」は地名で、これで「むまい」と読む。

橋を中心に3本の道が存在する。

一本は南西へ、一本は北へ、一本は東へ放射状に伸びているが、いずれの道も橋の周辺は「破線」で描かれている。

これらの道は、かつてトラックも通る林道だったが、現在は廃道になっているとのことである。

3本が、3本とも廃道になっているとのことである。

現在この橋がどうなっているかを知っている人は、かなり少ないらしい。

だが、そこには大変雄大な、訪れた誰もが息を呑まずにはいられないような巨大吊り橋が架かっているのだという。

この橋が存在する場所は、岐阜県高山市(旧荘川村)と白川村との境を流れる六厩川河口部である。

そこは、巨大な御母衣(みぼろ)ダム湖右岸の、かなり山へ入り込んだ峡谷である。

一見するとダム湖の左岸を通行している幹線道路(国道156号)から離れていないのだが、実際は湖を渡る橋が少ないために、近くはない。

橋から伸びる3本の道は、それぞれが別の終点を持っている。

最も短距離である「右岸ルート」でさえ約13km、次ぐ「森茂ルート」で約14km、「六厩ルート」が約15kmもあるのである。

この橋の情報提供者は過去に二人いた。

一人(原付3種氏)は約10年前にバイクで右岸ルートから橋を目指し、果たせずに途中で断念をしたという。

もう一人(パンダ使い氏)は約4年前に自転車で六厩ルートから橋を目指し、見事に達成した。

だが惜しくもそこで時間切れとなり、来た道を引き返したのだという。

(お二人がその後再挑戦されていたとしたら申し訳ないです。その場合ご連絡下さい。)

原付3種氏はさらに、この橋を紹介した数少ない(恐らく最初の)サイトとして、『冒険伝説』というサイトを教えてくれた。

その管理人のt.s氏は、今から約11前にバイクで森茂ルートに進入し、途中から廃道を徒歩に切り替え橋に到達。

それを渡って、さらに右岸ルートの秋町隧道まで到達して、引き返した模様である。

時期が古いせいもあり、決して豊富な画像で綴られているわけではないのであるが、橋の姿をモニタ越しに見た私は、トリハダがたった。

そして、強く

[6] 道路レポート 六厩川橋攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/morimo/main7.html

11:23 【現在地】

廃道化後の100分間を見渡すと、川原にいた時間が60分、路上にいた時間が40分くらいかと思う。

そして川原にいた時間の全ては、チャリに乗れていない時間だ。

チャリを“運ぶ”というのは、かなりの重労働である。

「押し進み」と「担ぎ」という2つの方法を使い分けるが、押しはこの写真の足元のように障害物が小さい場所で、担ぎは大きい場所で主に使う。

出せる速度は同じくらいだが、体力の消耗は押しの方がいくらか楽。

押しで進めないような場所も多くなってくると、いよいよ「チャリにとって不向きな廃道」と評価出来る。

いずれどちらの方法を用いても、本来はそれなりに重い自重を運動エネルギーに変えて転がす鉄とゴムの塊を、それ以外の手段で“運搬”するというのは、骨が折れる作業である。

何が言いたいかと言えば、もう疲れた。

しかも、今回の“川原歩き区間”の後半は、岩のサイズが大きかった。

より疲労する「担ぎ」をしなければならない、嫌な場面だった。

そして、チャリ担ぎをする度に思う事がある。

チャリにもっとお金をかけて、もっと軽いものを持ってくれば良かったと。

さらに、担ぎにも限界がある。

この上が次なる路盤だが、こんな段差は担ぎ上げることも出来ない。

ここは仮に無荷でもよじ登れなかったと思うが。

ということでさらに川原を迂回するより無いが、いよいよ足元がおぼつかない。

濡れた大きな川石を飛び石のようにして歩くとき、チャリを担いでいると危ない。

危ないが、他に手はない。

さらに、チャリを担いでいる最中は両手が塞がっているので、首のカメラを使うことが出来ない。

写真を撮ろうと思えばわざわざ頭を垂れてチャリを降ろさなければならず、また担ぐときに余計な体力を消耗する。

それでも私は信念的に記録を残したく、何度も何度も頭を垂れた。

ここでの「体力」とは、命と等価である。

体力切れは自力下山の不可化を意味し、携帯もつながらぬ現状では危険である。

あと追加するなら、ここでは捻挫一つでも終わりうる。

一見緩やかな川歩きが、私の体力と気力をじわりじわりと奪っていった。

どうやってもよじ登れない大岩を恨めしく見ながら、その周囲に点在する河中の飛び石を伝って進む。

落ちて怪我をすることもそうだが、カメラを壊してしまうことの方が怖かった。

一応はサブの

[11] 岐阜荘川村 六厩川 - たまにへこむ日記, , http://d.hatena.ne.jp/sed/20051010/1128960751

岐阜荘川村 六厩川

自転車 | 01:12

先週富山から「週末どう?」と電話が来たので、はくたかに乗って富山襲来。ちょっと金使いすぎ。

岐阜・御母衣(みぼろ)湖の東にある六厩(むまや)川を上流から御母衣ダム東岸に出る計画。総勢3名。ツーリングマップルは「がんばれば通れそう」みたいなコメントになっているが、ゲートを突破して 3km ほどで完全に廃道化、崩落倒木多数、4時間近くひたすら担ぎあり薮漕ぎありで、何とか六厩川橋到達(写真) ここから御母衣湖への道がさらにひどいことになっており、御母衣湖へ抜けるトンネルに達することができず*1、六厩川橋から 3km 地点で日没。「今日中に到達することは不可能」と判断しビバークすることに。シュラフがないのでひたすら薮を刈って毛布代わりにして就寝。

翌日全く同じ道を六厩に向け6時間かけて何とか退却。片道 15km 程度の道に丸二日を要する凄まじい企画になってしまった。遭難しないで済んだだけでもハッピーでしょう。ちょっとやりすぎた。反省。

結局、六厩川橋 〜 御母衣湖東岸を結ぶというトンネルは実在するのか、御母衣湖東岸は果たしてどこまで走れるのか、わからないまま退却したため、かなり心残りがある。近くに高速道路も走っているというのに、信じがたく荒廃した道。奥飛騨にはまだこの類の道が沢山あるようで、少し不気味な感じもします。

追記。

以下のページによれば、御母衣湖東岸 〜 六厩川橋間のトンネルは入り口が完全に埋まっているらしい。

http://doya.sytes.net/keiryu/m/7-1/7-1.html

国土地理院・1/50000の地図では御母衣ダム湖東側湖畔に沿って、森茂川の流れ込みあたりまで通じる道路が記載されていますが、この道路はすでに昭和45年頃から隋道が埋まっているため車は通れません。今は完全に土砂に埋没してしまい人も通れなくなりました。

1997年に突破した写真というのもあるのだが…。

http://www.geocities.jp/tdr2508401965/4a20a20s4.html

■ コース

10/9

六厩 R158 分岐付近 (0:15) 林道ゲート (0:30) 担ぎ開始部

(4:30) 六厩川橋 (3:00) 秋町隧道付近? 日没

10/10

秋町隧道付近 (2:00) 六厩川橋 (4:00) 担ぎ

[12] 村道を往く(第三回) - ポンコツラビリンス - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/boro_sabi_tour/15171143.html

A君は『倒木と蔦を利用して、イカダ作って水没隧道を渡ろう!』とか、ファンタジープランを練っている(汗)

[14] 艨艟ノ棲処−森茂林道と秋町隧道, , http://moudou.hatagashira.com/moudou/motercycle/kdx/kdx_touring_report/20100504_kdx_morimoakimachi/20100504_kdx_morimoakimachi.html

地図で見て、昔からとても魅力的に思っていた御母衣ダム周辺の林道。マシンと時間がなかなか合わず、何年も行こうと思っていて実現しなかったのだが、実は昨年、ようやくに走ってきた。

で、だ。御母衣ダム周辺林道のどこへ行こうかと思っていたかというと、まずはここ。 地図を左上から右下へ横切る細い線は尾根上を走る林道で、これは関係ない。問題は右上から左下へ、途中で切れている道だ。古い地図(といっても平成の始め頃まで)には、この部分に隧道があるのだ。未舗装(たぶん)林道の先に現れる謎の隧道。なんかもう、想像するだけでワクワクしてくる。

加えて、その地図を更に左上へ辿ると、川を渡るところに橋が架かっているのが分かると思う。

だがしかし。橋へ至る左下からのルートは、件の隧道のところで切れている。そして橋の右(東)から来るルート、上(北)から来るルートは、いずれも途中で林道が終わり、細い線(徒歩道)となっている。

どう?ドキドキしてきたでしょ。

こうなってくると、廃(?)隧道

と橋をこの目で確かめたくなるのは人情というもの。で、さっきも言ったように、行たのである。

だがしかし、その結果はレポートにまとめる程の成果も得られず、分かりやすく言えば「惨敗」である。南から廃隧道を目指したルートは、激藪のためKDXどころか徒歩でも進めず。東から橋を目指したルートは、途中で路盤が消失(落ちて)していた。やむなく再挑戦の時期を狙っていたのだが、その間に、こっちのサイトで先を越されてしまっていた(一時期、アムンゼンに先を越されたスコットのような気持ちだったのは事実である)りして、ややテンションは下がり気味だった。

しかし持つべきものは友である。昨年の状況を聞いたリターンライダーKDX氏が、是非行きたいという。ならばと今年、再挑戦してみることにしたのである。

さて、廃隧道と橋へのアプローチだが、昨年は南からの六厩林道、そして御母衣湖沿いの秋町林道のコースを取った(両方とも失敗したが)ので、今年はまだ走ったことのない東からのアプローチ、森茂林道を通ることにした。

さて、途中は飛ばして森茂林道の入口がここである。延長は15km(!)とある。これがここから橋までの距離なのだ。

急勾配の九十九折れを10分ほど上がって行った先に森茂峠がある。峠の祠はきちんと清掃されているところから、それなりに

[15] 国道156号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93156%E5%8F%B7

概要[編集]

岐阜県・富山県に跨る山間部は、庄川の谷の斜面を削って道を付けた区間で、かつては道幅が狭く大変危険だったため、路線番号にかけて「(谷に落ちたら)イチコロ線」と揶揄された。

高山市荘川町岩瀬から大野郡白川村牧の御母衣湖にかけてはトンネルの幅が狭く、大型車同士のすれ違いが困難となっている。ローカルルールとしてトンネル内での対面を避けるため、入口手前でクラクションを鳴らしながら通行するトラックが多い。ほぼ全線にかけて東海北陸自動車道が並走しているが、この区間を含む荘川から白川郷の30km区間は、建設費がかさむ等の理由から東側の飛騨清見へと迂回している。現在、当国道の御母衣湖周辺区間において数本のトンネル建設を含めた福島バイパスの計画があり、2010年に福島第3トンネルが供用された。但し県の財政が厳しいことから、同バイパスの他の区間については、建設期間が長期に及ぶ可能性が高い。白川村岩瀬付近で庄川を挟んだ対岸に目を向けると綺麗に積み上げられた山が見えるが、これは東海北陸自動車道の飛騨トンネル掘削時に排出された残土である。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:岐阜市(茜部本郷交差点=国道21号上、国道22号・国道157号・国道248号終点)

終点:高岡市(四屋交差点=国道8号交点)

重要な経過地:岐阜県羽島郡岐南町、関市、美濃市、同県郡上郡八幡町[注釈 2]、同郡白鳥町[注釈 2]、同県大野郡荘川村[注釈 3]、同郡白川村、富山県東礪波郡平村[注釈 4]、同郡庄川町[注釈 5]、砺波市

路線延長:213.7 km(実延長210.9 km、現道210.3 km)[2][注釈 6]

岐阜県区間:149.9 km(実延長147.1 km、現道146.6 km)

富山県区間:63.8 km(実延長63.8 km、現道63.7 km)

指定区間[3]

岐阜市茜部新所1丁目23番 - 郡上市白鳥町向小駄良字内田775番2(茜部本郷交差点起点 - 向小駄良交差点)

砺波市庄川町小牧字矢ケ瀬71番8 - 高岡市上四屋663番の1(小牧ダム湖畔 - 四屋交差点終点)

歴史[編集]

道路法(昭和27年法律第180号)に基づく二級国道として初回指定された路線のひとつである。国道指定当初は、岐阜県郡上郡白鳥町[

[16] 毎日ボンクラな毎日です, , http://weinzel.web.fc2.com/log1110-1112.htm

2011年10月〜2011年12月の日記 トップへ

2011-12-31

・あっという間に

今年ももう終わりですね。1年間の体感速度が年々速くなっている気がしますよ。今年を振り返ると、やっぱり登山に関してはあんまり登れてなかったですね。その分1回の登山が濃かった気はしますが。

スカイラインは走行距離18万キロを超え、来年車検ですがまだまだ乗る感じで。

そういえば今年はiPhone買ったのが大きいです。電池が持たないのが弱点ですが、DropBoxやFieldAccessなど、素晴らしいアプリもそうですが、iPhoneが自宅の無線LANに繋がると撮った写真が自動的に自分のPCに入ったり、とにかくスマートです。もっと使いこなしたいですね。

ちなみに、自分のおもちゃのつもりで買ったタブレットPCは…

文字通り甥っ子のおもちゃと化しました。

2011-12-30

・登り納め

さて、今年最後の登山は大文字山です。当初は去年同様に御来光を拝むつもりでしたが、色々あって6時45分銀閣寺付近の駐車場からスタート。まぁ天気が曇りなのでどのみち見れなかったっぽいですが。

近所の適度な散歩コースなのか、この時間に下ってくる人が結構多いです。7時20分、大文字焼きの火床に到着。

京都市内が一望出来ます。雲りっちゅうか雪が降っていますけど。

7時45分、山頂着。

う〜ん、相変わらず見えませんな。いまいちスッキリしませんが、まぁ、こんな時もあるさー。

せっかくたくさんルートがあるのに同じ道で帰るのも何ですし、かといって南に下りすぎると車まで戻るのが大変なので、一つ下の霊鑑寺に出るルートで帰ります。登りの道はトレッキングコースっぽいですが、こっちはやっぱりマイナールートらしく、普通の登山道のような感じです。市街地に出たら、哲学の道をちょいと歩いて9時前にゴール。

今回の行程図。やっぱり便利なアプリだな。

2011-12-23

・NETSUKE #001-044

前の携帯と比べて、iPhoneは横幅は広いのですが厚みが薄いのでポケットへの収まりは意外と良いのです。しかし幅の広さと、ストラップが付けられないことも相まって、電話が鳴ってもなかなか取り出せないこともしばしば。

そこで…

コネクタの横のネジを利用してストラップを付けられるアクセサリ。

1800円と高い

[17] ツーリングに 尻木宇豚堂/ウェブリブログ, , http://ulman.at.webry.info/201310/article_1.html

行ってきました。

当初は志賀高原に行くつもりでしたが、この日は東側の天候が良くなかったので比較的天気の良い西側へ行くことに。先日の「福井県にタッチ」の続きで荘川〜白川郷方面へ行くことにしました。

安房峠越えで岐阜県入り

安房峠を下る途中から見た乗鞍岳

平湯温泉スキー場前から見た槍ヶ岳

平湯温泉スキー場は少しだけ紅葉しはじめていました。

旧道を登って平湯峠

乗鞍スカイライン頂上は午前11時現在で9℃

ちょっと気温高めですね。

ここからR158で高山、中部縦貫自動車道で飛騨清美JCT、東海北陸自動車道で荘川IC。ここで高速を降ります。

昼になったので荘川町のソバ屋「蕎麦正」に入ります。

このときは新そばまつり期間中でした。

新そば旨かったです。

さあ、R156白川街道に入ります。ここは4年前のZZR一泊ツーリングで通りました。今回は逆方向の北上ルートです。

岩瀬橋が見えてきました。

注意標識

この先が難所であることを予告しています。

岩瀬橋

岩瀬橋を渡った先は直角カーブ

大量の注意標識。さあ、難所の始まりです。

荘川桜

御母衣湖の水没地区から移植した桜の木です。

尾上橋

渡ったところから振り返る

この橋も渡ったところは直角カーブです

この先2本目のトンネル「尾神2号トンネル」の中は補強付き

今はこのように照明が付いていますが、以前は無かった。暗い中でいきなり出っぱりが現れる怖いトンネルでした。大型車の運転手はさぞびっくりしたでしょう。

トンネルを抜けて振り返って撮影

少し行くと1999年開通の福島保木トンネル(全長1106m)と旧道

もちろん右側の旧道に進みます。

旧道に入って最初のトンネル「福島保木第1トンネル」

トンネルを抜けても洞門が続き、次は「福島保木第2トンネル」

ここも抜けても洞門が続き、次は「福島保木第3トンネル」

トンネルに横窓がついています

横窓から外の壁を見るとボロボロ

作ってから50年以上経ちますからねぇ

洞門の上に登るハシゴがあります

湖面を見おろす

この水面下数十メートルには、白川街道の難所「福島歩危」がありました(詳しくはコチラ)

トンネル名の福島「保木」は「歩危」から来ているんですねー。まさかトンネル名に「歩危」なんてコワい名前つけられませんから。

途中明かり区

[18] ミニレポ第227回 国道339号旧道 龍浜〜袰内間, , http://yamaiga.com/mini/227/main.html

ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。

文豪太宰治が、昭和19(1944)年に発表した小説『津軽』の中で、路の果てる地として印象的に描いた 龍飛(たっぴ)崎 。

日本海と津軽海峡を分かつ陸地の尖峰として北海道を間近に望むこの岬には、今でこそ国道339号が東西に通じているが、同国道が指定された昭和50(1975)年当時には、三厩(みんまや)側からしか訪れられない、かりそめの終点だった。ここから小泊(こどまり)へ通じる約24kmの「 龍泊ライン 」が開通し、津軽半島の周回が可能になった記念すべき年は、昭和57(1982)年である。さほど昔のことではない。

ところで、地形的には文句なく津軽半島の突端にあり、半島の東西海岸線を分かつ存在である龍飛崎だが、人文的な意味の境界線といえる市町村境は、そこから少し外れた位置に敷かれている。

具体的には、東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)と北津軽郡中泊町(旧小泊村)の町界線は、岬の突端から1.5kmほど日本海の海岸線を南下した辺りにある。

とまあ、それだけならば古い為政者たちによる群雄割拠の結果かと思うくらいで、わざわざ訪れることはなかったかもしれない。私を強く惹きつけたのは、この町界線から僅かに小泊側へ入った位置にぽつんと描かれた小さな集落だった。私はこの集落の存在を前から密かに気にしていた。

現在の地理院地図には道沿いに4軒の家屋が描かれ、小さな文字で 袰内 という地名が注記されている。

「袰」の字が見慣れないが、調べてみると「ほろ」と読む字だそうであるから、地名の読みは「ホロナイ」だろう。思わずカタカナでそう書きたくなるくらいアイヌ語由来っぽい。「袰」は「母衣」と分かち書きされることもあるようで、こうなると御母衣湖(岐阜県)の名が思い浮かぶ。また、「保呂」や「幌」とも書かれるようで、それぞれ保呂羽山(秋田県)札幌(北海道)などの地名に心当たりがある。

袰内が珍しい漢字を使った地名であることは、惹かれた理由の一つだが、最大の理由ではない。

袰内は旧小泊村では最も北にある集落だ。

だが、

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529288632

メモ