内ヶ戸歩危

内ヶ戸歩危

[1] 国道156号内ヶ戸歩危 (うちがとほき)

Webページ

[2] 道路レポート 国道156号旧道 内ヶ戸歩危, , http://yamaiga.com/road/r156_utigato/main2.html

トンネルを抜けると廃道だった。

こんな書き出しの文学作品があったら読んでみたいだろうか。

このシチュエーションは色々な意味で象徴的であり興奮を覚えるが、文学を語るにはいささか土臭すぎないだろうか。

やはりここはオブローダーの世界だと思う。

この先は、「内ヶ戸歩危」(うちがとほき)と呼ばれる“難所”であった。

「歩危」は字の如くの危険地帯を現す方言地名で、白川村誌は村内4つの代表的な歩危を挙げている。

福島歩危、平瀬歩危、内ヶ戸歩危、下田歩危だ。

内ヶ戸村名義は、此村東方白川激流高岸に臨みて住人家にて、岸にそひて通ふ路もなければ、三方嶮しき山の包み周らしたる故、内之處と名づけしなるべし。然る村故に、南方飯島村の下田へ出るにも、北方椿原村へ出るにも、嶮難の山路を、上りつ下りつ、打越て通ふを、内之處歩危と言て、諸人いといと苦みて、福島歩危にもかはらぬ難所なりとて、越中城ヶ端歩荷も、此嶮路を避て、曲渓の四十八瀬を渉渡して、美濃国へ往来することなり。

土地に慣れた歩荷(ぼっか)たちでさえ避けたという内ヶ戸の難所は、現在椿原ダムの湖底に沈んでいるはずである。

だが、おそらくはその直上に付けられたであろう旧国道もまた、“車危”とでも言うべき危険を強いた。

結果、狭隘で線形も良くなかった「馬狩橋」の架け替えと絡め、開通から20年足らずで現在のルートへ切り替えられたのだ。

今回は、この内ヶ戸歩危にて、最善を尽くす!

2009/4/30 15:18 【現在地】

で、

気付いたときにはもう、

ここにいた。

この崩壊現場は、青と白と黒が主役の、美しい現場だった。

恐怖を感じるよりも先に、自らをその場に置きたいという衝動に駆られた。

だが、そのような激情に従うだけならば、私はとうに故人である。

半ば身を委ねながらも、咄嗟に身軽になるくらいの冷静さは有している!

というわけで、今回は自転車とリュックを、まとめて大放出だ!!

彼ら無くして本来の「旧道巡り」は出来ないが、身重のままこの「歩危」斜面に挑むことのリスクは、湖面へドボンという救われない結末を予感させたうえ、上手く目前の難場を突破できたとしても、崩壊箇所はひとつではない可能性がある。(予感と言っても良かった)

また自己分析すると、私は最初で引っ込みが付かない場合、無理に最後まで行く悪癖があるのである。

ここは、冷静である

[5] 国道156号旧道 内ヶ戸歩危 - 轍亡き路へ - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/suisin_train/25183596.html

ものすごい余談ですが、このレポ書いているのは大学のテスト2時間前(しかも課題がまだ終わっていない状態)から書いてます…w

歩危。

その昔、通行することがとても危険だとされた場所のことを指す。

白川の三大歩危とされるのは福島・下田、そして今回レポをする内ヶ戸の3つである。

本来であれば、福島・内ヶ戸・下田と3つすべてを制覇するつもりで居たのだが天気は御母衣ダムに差し掛かったところで殴りつけるような雨に変わった。

この時点で福島歩危の攻略は見送りとなった。

…まぁ福島歩危は過去に1度散策したことがあるため(レポはこちらでも、跡地のほうでも公開はしていない)また次回に取っておいた。

続いて比較的距離の近い内ヶ戸と下田の2つだが、こちらもあいにくの雨で見送ろうとしたが、せめて内ヶ戸を行ける所までとして、心ない折り畳み傘とせめてもの救いとして長靴を穿いて雨の中出陣した。

この道のレポは先駆者さんが居る。大体どこもそうなのだが、ここはかのプロオブローダーのヨッキれんさんが挑んでご自身のHPでレポを公開している。

私は高3の夏までは道への興味は全くなく、ただの鉄ちゃんであったことはこのレポを読んでいる一部の方は知っていると思う。その後、ニコ動で「酷道」の走破動画を見て「酷道」の分野に足を踏み入れ「道」の楽しさを知った。

その後ヨッキれんさんのHPに出会い、廃道の世界へのめり込んだというわけである。

そこでこのレポを読んで、この橋に一目惚れしたわけである。

降りしきる雨の中現れた一本の橋。

名を馬狩橋という。

この橋は「カンチレバートラス橋」、または「ゲルバートラス橋」と呼ばれる特殊な構造をしている。

構造についてはうまく説明できる自信がないのでWikipediaを参照していただけるとありがたいです…

とりあえず真ん中が浮いているということだけ言っておきます(謎

[6] 2白川郷の地名呼名 | 白川郷の歴史と文化や旅行と見どころ, , http://cloud-line.com/travelshirakawagou/history20/

白川郷の歴史と文化や旅行と見どころ The history, culture and a travel, and highlight of Shirakawa-go

岐阜県大野郡白川村 境川 白川村の北端と越中(富山県)の国境に「境川」という川が流れていたのである。 小白川地区 白川村の北端に「小白川」地区があったのである。 打越峠 小白川地区の山から西に通じる峠が「打越峠」であった。この打越峠北の尾根上に小白 川砦があったのである。 籠の渡し小白川 小白川と越中(富山県)を結ぶ国境の境川という川に「籠の渡し小白川」があったので ある。 小白川砦 小白川の打越峠北の尾根上に「小白川砦」があったのである。 加須良地区 椿原地区から西の山奥に「加須良」地区があったのである。白川郷の北海道といわれた 秘境が「加須良集落」で、山々に囲まれた全くの別天地でした。加須良地区には外部から の電話、電気は引線されておらず、昭和43(1968)年の離村するまで電気は自家発電?(谷 川を利用した水力発電)の生活であった。昭和42(1967)年に離村。 加須良川 加須良集落から、椿原の北の庄川まで流れたいたのが「加須良川」であった。「加須良集 落から加須良川沿いを下って椿原北まで通じる道」(距離約6km)は、近代の道で昔はあり ませんでした。加須良川沿いに、加須良林道が昭和36(1961)年に完成してようやく「自 動車が」加須良集落まで入れるようになったのであった。 蓮如峠 加須良地区から南南東に「蓮如峠」があった。昔は、蓮如峠→加須良集落→越中(富 山県)桂集落→加賀(石川県)に抜ける道があったのである。1469~1486年(文明年間) 蓮如上人が白川郷加須良集落を訪れ、蓮受寺に休泊されたという言い伝えからこの「横谷 峠~蓮如峠~加須良集落」へ通じる道が古くからあったことが分かるのである。 芦倉地区(庄川の東、右岸に位置する) 椿原地区 籠の渡し椿原 椿原集落と芦倉集落の庄川に「籠の渡し椿原」があったのである。 有家ヶ原地区(庄川の東、右岸に位置する) 内ヶ戸地区 椿原ダム建設により昭和13(1938)年までに離村、水没したのであった。 内ヶ戸歩危 内ヶ戸集落の北と南に「内ヶ戸歩危」があったのである。迂回路は内ヶ戸集落から西に 山を越えた、馬狩谷沿いを通行してい

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