いかがだっただろうか。
全編を通じて一度も廃道や旧道を探索する事がなかったので、つまらなかった人もいるかも知れないが、私の好きなものを伝えたかった。後悔はない。
それにしても、探索から執筆まで既に6年も経過してしまったが、改めて見てもこの道の「山岳ハイウェイ」ぶりは色褪せていない。
反曲するバンク・カーブが小刻みに連絡する風景や、無理矢理感の漂う上下線分離、そして下り側のエンブレ看板乱舞など、これほど“揃った”道はなかなか無い。
この近くでは、例えば急勾配という意味では「熱海新道」はもっと凄いし、高規格ぶりやエンブレ看板乱舞については、近頃無料化されたばかりの「箱根新道」が比肩しうるが、波打つようなバンクカーブだけは、この亀石峠の圧倒的個性と思う。
亀石峠には、どんな過去があったのだろう。
最後に亀石峠の道路改良史を振り返ることで、このレポートを終えたい。
右の地形図は、昭和34年版の5万図「熱海」の一部である。
今日の亀石峠の交通量の多さからは想像し難いが、亀石峠は昭和30年代に入ってもしばらく自動車が通りぬけられるような道路はなかった。
旅人が歩くことを専らとしていた時代には距離の短い亀石峠は東西交通の要路であったが、東側の谷が極めて深く険しいために車道化は容易でなく、その実現には莫大な投資を要すると考えられた。
当時、北の熱海峠と南の冷川峠に自動車の通れる道路が通じていたが、その間は約30kmも離れており、中間にあたる亀石峠の開発は伊豆全体の開発にも重要な意味があった。
開発の遅れた亀石峠に大きな転機が訪れたのは、空前のマイカーブームと観光ブームの出現を行政によって予感され、それを故意に誘発することで国民生活の一層の向上を図ろうとした昭和30年代であった(実際のブームは昭和40年代に起きる)。
そういう意味で左の地図は、開発直前の平穏な最後の時代を示しているのであり、それから僅か半世紀で地図をこれほどまでに変化させた(右図にカーソルオン)のは、まさしくブームのなせる業であった。
右図は、伊豆箱根地方に昭和から平成の現代までに出現した、全ての有料道路を表示したものだ。(緑のハイライトが付いている道は、現在も有料道路として存続している)
ある程度この辺りの地理に明るい人でも、「あの道が有料道路だったのか」と驚く道が、一つや二つあるのではないだろうか。