戸地

戸地

[1] 戸地

Webページ

[2] 佐渡市戸地集落「戸地ライフ・toji-life」, , http://toji.life.coocan.jp/index.html

佐渡ケ島の戸数僅か65戸の「戸地(とじ)」集落のページです。少子高齢化と過疎化の中で伝統文化を守り、素晴らしい自然を守り生活する様子を伝えるものです。出身者の方々がふるさとへの思いを深めてくれれば幸いです。

[3] 戸地・戸中「石投げ戦争」1, , http://toji.life.coocan.jp/o-space/kodomo101.html

昭和33年、稲刈りも終わり秋も深まった11月の土曜日の放課後、小学校の運動場で誰かが追いかけられていた。

ジグザグに逃げていたがやがて捕まり首を捕まえられて頭を叩かれていた。

追い掛けていたのは戸地部落の6年の「しず」、追われていたのは戸中部落の5年の「てつお」であった。戸地部落と戸中部落の戸数はほぽ同じ80戸程で両集落の子供たちの通う相川町立北小学校は戸地の外れにあった。

そこから50mの所に佐渡最高峰「金北山」1171mに源を発して流れている戸地川があり、佐渡金山に電力を供給するために、中流には落差270mを誇る第一発電所、下流の小学校の対岸には落差60mの第二発電所が作られていた。

江戸時代に第二発電所の付近に水車小屋があり大きな石臼が回り佐渡金山から海上輪送された金鉱石の「こなし」がされていて集落もそこに車町があり現在の集落と2分されていた。

江戸時代の終わり頃、今までにない大洪水となり車町は跡方もなく海に流出してしまいその後、

現在の部落に集約された。

第二発電所の黒い水路管の100m位下流の所に余った水を放出する滝があり、今日も白い水しぶきを上げていた。

北小学校のグラウンドは狭く、50mのかけっこのタイム測定はこの滝の横のトロッコのレールが引いてあったコンクリートの狭い通路で行ったりもした。

その滝の10m下流に橋と トンネルの入り口があった。橋の手前に「杉山製材所」があり、丸太の製材や、「かまぼこ板」や、冬学校等で使う燃料の「ばいた(薪)」

等を作っていた。子供たちは製材所の中や、おがくず捨て場やその周辺でよく遊んだ。

下流は戸地川の河口の浜「カラ間」で、今日は少し波があり、小石の岸に白いしぶきが舞っていた。海岸段丘はストートに海の上まで伸び、そこから垂直に60mの絶壁となって落ち込んでいた。

戸中部落はその絶壁の向う側に位置し、海岸段丘の下と海との僅かな隙間に集落があり又、人家は段丘の崖の中腹にまではい上がっていた。段丘の延長上に国

の天然記念物に指定された波触甌穴群のある平根崎が長い岬を日本海に突き出していた。

戸地部落と戸中部落の人々の往来はトンネルがすべてであった。

長さは 250m程で電気はついてなく、中は岩盤がむき出しで、地下水が染み出てきて常に道路はどろんこ状態であった。

100mほど進むと海よりにぼっかり穴が

[4] 戸地川発電所の歴史, , http://toji.life.coocan.jp/info/info12.html

名 称 】 佐渡鉱山近代遺跡 戸地第一、第二発電所

【所在地 】 新潟県佐渡郡相川町戸地

【遺跡の立地 】

戸地第二発電所は、戸地川下流の海岸に近い県道(佐渡一周線)の、戸中トンネル戸地川入口より、約300メートル山側に入った所に位置する。江戸時代の地名は「戸地車町」

と称した。

【歴 史 】 戸地第一・第二発電所の水力の源は戸地川でありますが、この戸地川流域は慶長時代の初期より佐渡鉱山との関係が深く、佐渡鉱山大盛りの元和・寛永期の佐渡名奉行鎮目

市左衛門も、寛永4年7月に戸地の鉱山施設を視察に訪れ、事故死をした。

戸地川は全長5.2キロで、長さにおいては佐渡で17位、水量の豊かさでは6位、急流たる点では第1位(『金泉郷土史』)ということと、上流の方に「かっこめ鉱山」があっ

たこともあり、慶長10年代より相川鉱山から、人と物資が運び込まれ(「川上家文書」)、同19年には浦目付所も設置され、寛永3年(1626)から相川より鉱石を運び

(鶴子鉱山・相川鉱山とは、「馬道」という山道で往来した)、水車を建て粉成(こなし)は勿論、吹立てもしていた(「佐渡年代記」)。 寛永5年からは直轄粉威から請負粉成となり、

享保6年(1721)まで95年間続き、翌7年浦目付所も廃止となった。 この間数回の洪水で苦しんだとある。 これが現在「第二発電所」のある所の「戸地車町」(相川鉱

山より約12キ。)で、川の対岸にはここも鉱山に関係の深い「戸地炭町」(慶長年代に炭座が置かれた)があり、元和8年に佐渡一国の炭竃税(岩木拡「佐渡の炭かま」)を

取り扱った記録が残る。

戸地車町は度重なる洪水と、鏈粉成の中止により、また炭町は明治10年戸地村に合 併され、両町共消滅した。 鍵粉成に使用された石磨は、昭和20年頃まで戸地集落内に

300個余りあったが、現在は100個位しか残っていない。

当時日本第3位の落差を誇った第一発電所、いつも水車タービンの「ウーン」といううなり声が聞こえていました。

学友会の夏休み登山は低学年は第一発電所が定番で排水プールで泳いだり、水の冷たさに震えたり・・それは閉鎖されるまでの長期に渡って戸地の子供たちにとって忘れがたい思い出の場所でした。

鉄管の上空を荷物用(工事用)のワイヤロープが張ってあったり、又、命知らず?の大人が乗って頂上まで行ったり、戸地の中で異文

[5] 隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線 戸中隧道旧道, , http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main6.html

このように私は佐渡の“魔窟”を堪能したわけだが、皆さまにもその魅力が伝わっているだろうか。

ここでは最後に、本編の冒頭で投げかけた“疑問”について、机上調査での解明を試みたいと思う。

どんな疑問であったかといえば、以下の通りである。

【隧道の竣工年に関する疑問点】

「道路トンネル大鑑」では、大正2年竣功とされている途中第一・第二隧道であるが、大正2年測図版に描かれている隧道は1本だけで、しかも後の版に描かれる第一・第二の2本の隧道とは微妙に重ならない位置に描かれている…ように見える、という問題である。

そもそも、大正2年竣功という数字は「道路トンネル大鑑」巻末のリストにそうあるだけで、これが正しいと断言するためには他の典拠を求める必要があるだろう。

というわけで、地元のことは地元の本に求めることにする。これぞ王道。

まずは、旧相川町が平成7年に刊行した「佐渡相川の歴史 通史編 近・現代」を取り寄せてみた。

そして読んでみると、同書は交通史についてかなりページを割いていて、期待以上の情報を得る事が出来た。

中でも戸中隧道に関する記述は、町内にある他の隧道よりも念入りであり、それだけ町民にとっても印象深い存在だったのだと推測する。

少し分量が多いので、何段かに分けて転載していこう。

さて、海府道工事最大の難関はトンネル掘りであった。

北狄・戸地境の旧鷹の巣トンネルは、大正六年に着手し(中略)同年内に竣功したが、戸中洞屋(どや)のトンネル開鑿は、その後一、二年かかり、その後で第一隧道の長さ一七四メートル、幅三,五メートル、高さ三,四メートル、第二隧道四〇メートル、幅三,四メートル、高さ三,八メートルの再改修工事が終わるのは、昭和四年十二月から翌五年九月にかけてであった。

いきなり、大鑑の記述と反した内容が出てきてしまった(笑)。

この本によれば、戸中隧道は大正6年か7年に開鑿されたもので、さらに昭和4年から5年にかけて「再改修工事」を受けたのだという。

「大鑑」に記載された隧道の延長や幅員などのスペックは、再改修後の数字と合致しているので、探索中に戸地側坑門の歪な形状(右画像)より見出した天井切り上げの改修は、この時に行われたものと推測出来るわけだが、ともかくこの記述からは、戸中隧道が大正2年に竣功したという根拠を求める事が出来ない。むしろ、反説になっ

[10] 新潟県道45号 佐渡一周線 戸中トンネル旧道 戸中第一・第二隧道 1, , http://d-road.sytes.net/r.php/road/ni45_tochuu/1

(佐渡一周編その1からの続き)

大正時代、断崖に陸路を切り開くべく、次々に隧道が誕生していった。

その多くは、現代の交通に合わせて新たに掘られたトンネルの横で、静かに時を過ごしている。

当時の工事では、やはり隧道工事がもっとも困難であった。

北狄で最初の隧道を開いたはよいが、その先も果てしなき断崖が続き、多くの隧道が必要とされた。

特に、北狄地区の北にある戸地地区より先のおよそ6kmの海岸線は、「戸中の洞屋」「四十二曲り」という佐渡外海府でも1、2を争う難所が連続し、

「佐渡の親不知」とも評されるほどであった。

相川町から北進してきた海府道(現在の県道45号)の工事も、あまりの険しさにこの区間の工事を後回しにして、

さらに北方の集落から南進する形で工事が進められた。

結局、戸中より先の難所に海府道が貫かれたのは工事が始まってから二十年以上も経過した昭和になってからである。

北狄隧道よりおよそ1.7km。

その間も道は海岸段丘の根元を走り、崖が海まで迫っている。

大正6年、北狄隧道の竣工とともに北狄地区まで伸びた海府道はさらに北進を続け、大正7年には戸地(とじ)の集落にまで達した。

今私がいる場所がその戸地集落だ。

集落の北端には戸地川という川が流れており、現道は近代的な橋でそれを越えている。

また、橋の向こうには大きなトンネルが見える。

あれは昭和49年竣工の「戸中(とちゅう)第二トンネル」だ。

戸中というのは、あのトンネルを抜けた先の集落の名前である。

うっかりして橋の方の名前を調べてくるのを忘れてしまったが、写真左下に写る親柱には「しんと」まで判別できたため、

おそらく名称は「新戸地(川?)橋」と思われる。

「新」が付くからには、オリジナルの「戸地(川)橋」があったはずだ。が、今は無い。

無いというのは、

現道のすぐ左脇に、現道と並行する小道がある。

これが旧県道であり、その道が川にぶつかるところでこの光景に出会った。

川の向こうにはやはり隧道があり、あれこそが大正時代、海府道として築かれた隧道のひとつ、「戸中第一隧道」、その姿である。

周囲の絶壁の中に埋もれるようにして鎮座するその姿に、思わずため息が漏れた。

アクセスするための橋がなく、手の届かなくなった存在がますます寂然として心を打つ。

なにより、隧道の前にぽつん

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