(佐渡一周編その6からの続き)
外海府から佐渡最北端の地、鷲崎から南下する海岸線は内海府と呼ばれる。
佐渡の親不知と呼ばれた交通の難所が三つも四つも連続するような外海府とは異なり、断崖が海に直立するような箇所はあまりない。
とはいえ、所によってはやはり隧道なしでは自動車の往来ができないような場所もあり、鷲崎まで車道が開通したのは昭和40年代のことである。
それまでは鷲崎と両津を結ぶ航路によってかろうじて結ばれており、陸続きであるにもかかわらず、生活必需品などの輸送は船に頼っていたのだ。
内海府のその道の開鑿も、外海府と同じく大正時代に遡る。
外海府における海府道の工事が始まった大正2年、「県道馬首線」の予算六千円が県議会で計上され、
翌大正3年6月に両津市(当時は両津町)を起点として測量が開始された。
(あくまでも外海府と比較して、だが)地形が穏やかな馬首集落までの道は5年後の大正7年に到達し、さらに延伸されて北に進んでいった。
大正8年の県議会において馬首線は「海府線」として名称を改められ、その終点は佐渡最北端の地、鷲崎とされた。
これにて名実ともに外海府の「海府道」に繋がる、沿岸道路の開通を目指すことになる。
当初は10ヵ年継続事業として予算が計上されており、思うに10年での開通を目論んでいたようだ。
しかしながら、馬首のすぐ先の「鬼の面」と呼ばれる難所で一気にブレーキがかかり、さらにその先の隧道工事に6年も要したため、
予定の10年以上を経過した昭和5年になっても、海府線は鷲崎より程遠い黒姫という集落に達しただけであった。
さらに、黒姫集落より北は山塊が海に突き出た険しい場所が続き、さらに戦争の激化に伴って、工事は中断してしまった。
戦後もしばらく工事が再開されることはなく、かろうじてそれまで開通した区間を走るバスも昭和30年頃までは黒姫集落が終点であった。
工事再開には時間を要したが、昭和37年および40年に難所を避ける隧道(虫崎隧道、北小浦隧道)が完成した後は加速度的に工事が進んでゆくことになる。
その一方で、鷲崎からさらに奥に入った集落、願・北鵜島・真更川周辺の道は県道といえども磯を歩くようなところであり、
昭和39年に出された道路開削の陳情書は自衛隊による道路開削を求めるほど切実なものであった。(なお、当時自衛隊による道路