清水峠

清水峠

[1] 清水国道清水峠 (しみずとうげ)

36.8944444444444 138.9475

Webページ

[2] 清水峠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%B3%A0

清水峠(しみずとうげ)は、群馬県みなかみ町と新潟県南魚沼市との境にある峠。中央分水嶺を構成する谷川連峰上にあり、標高は1,448m。

[3] 道路レポート 国道291号 清水峠(新潟側) <リベンジ編>, , http://yamaiga.com/road/shimizu2/main.html

忘れない。

2007年10月8日、午前7時08分。

もうどうにも進むことが出来なくなった我々が、遂に撤退を決心した、あの場面。

傍らには、滝が落ちていた。

“国道”を横断して流れ落ちる、小さな滝。

仰ぎ見る、上れない土斜面。

顔面を伝ったものは、滝の飛沫と前夜から降り出した雨の雫だけではなかった。

二日にわたる挑戦は、唯一の目的を果たせずに終わった。

まさか、我々が二人がかりで挑んでも駄目だなんて…。

そんな傲りをしたたかに打ち据えられた屈服感のなか、上擦った声で放たれた精一杯のことば。

「 くじさん。 このままでは終わらせないぞ…。 」

“ナル水沢の撤退” から1年、

約束に違わず、二人は再び未踏国道へ挑んだ。

※このレポートは、「道路レポ 国道291号 清水峠(新潟側)」の続きです。

群馬県前橋市と新潟県魚沼市を結ぶ一般国道291号のうち、群馬と新潟の県境にそびえる清水峠の前後約27kmが「自動車交通不能区間」に指定されており、車の通れない「酷道」、あるいは「登山道国道」などと揶揄されている。

だが、この道の「車道」としての歴史はたいへん古く、明治14年から18年にかけて内務省が建設した大規模な馬車道「清水越新道」に由来する。この道は当初から国道であったので「清水国道」とも通称される。

現在、この長大な「自動車交通不能区間」の中でも、ショートカットする別の登山道のある新潟側一部区間(約13km)の荒廃は特に著しく、長い間人を寄せ付けない状況となっている。(それでも帳簿上は現役国道)

前回の探索は、この13kmの「廃道区間」踏破を目的としたものであったが、麓から8.8kmの地点で遂に断念を余儀なくされた。

撤退から1年、いまだ踏破の名乗りは聞かない。

それは、私にとって唯一“恵まれている”と思える再訪条件だった。

清水峠は、今や私にとって特別な存在である。

本来私という人間とは縁もゆかりもなかった新潟と群馬の間の峠道だが、全力を尽くしてなお撤退した前回の体験が、私を夢中にさせた。

それでも丸一年間再訪を我慢できたのは、踏破達成への絶対の舞台が欲しかったからに他ならない。

くじ氏の参戦と、積雪に邪魔されない時期を選ぶこと。

これらは最低限必要な再訪の条件だった。

あの手痛い敗退は、我々からこの道に対するあらゆる幻想を奪った。

[14] 道路レポート 国道291号 清水峠(新潟側) <リベンジ編>, , http://yamaiga.com/road/shimizu2/main12.html

決死。

そう言っても決して言い過ぎではないくらいの覚悟を胸に、2年目の雪辱に万全を期して挑んだ「清水峠リベンジ戦」。

ぎゅうぎゅう詰めの山小屋で眠れぬ夜をやり過ごした我々は、朝の6時半に清水峠を発ち、約6時間の格闘の末、4.8kmという距離を背後へと退けた。

それは、我々が去年やり残した「未踏の距離」と、そっくり等しかった。

宿願が果たされた今の時刻は、12時50分。

日没まで、約4時間。

悲しいことに、時間は明らかに足らなかった。

普通に戻ったのでは、日没までに山小屋へは帰り着けない。

そんな分かり易すぎる危機を前に、我々は当初の計画にはなかった「帰路の別ルート」を検討する必要に迫られた。

それが、右図に示した「赤色」と「黄色」の線である。

まず、赤色の線。

これは、とにかく最短距離で清水峠に戻ろうとするものである。

また清水新道を、このあと最も短距離しか歩かずに脱出できるルートでもある。

逆にネックは、本当に居坪坂新道まで無事に斜面を下りられるのか(高低差は実に250m)という点が最大で、次いで居坪坂新道を上り直さなければならないという体力的不安と抵抗感である。

続いて黄色のルートは、私が提案したものである。

これは去年の撤退&下山ルートを活用したもので、距離的には何の旨みもないうえ、3ルート中で最も多くの高低差を克服しなければならない。

だが、全線経験済みと言うことで、事故のリスクは最低に抑えることが出来ると考えられる。

居坪坂新道は良く整備された登山道で、そこで夜になってしまっても問題はない。だから、日没までに最も確実に清水新道を脱出出来るルートとして、このルートには優しい魅力があった。(昨年はナル水沢から1時間半ほどで居坪坂新道に下ることに成功している)

少し自虐的に言えば、いわゆる「チキンルート」である。

最後の青いルートは、単純に来た道を戻るもの。

6時間掛かったコースを戻るのだから、よほどペースを上げなければ途中で日没になってしまうだろう。

だがこれもまた黄色ルートと同じで、全線経験済みという意味ではリスクは低い無難なルートといえた。

特に明るい内に朝日尾根あたりまで戻れれば、あとはなんとかなると思う。

2人でこの3つのルートを話し合った結果、赤か青のどちらかになった。

黄色は流石に冗長が過ぎると言うことで却下となっ

[25] 道路レポート 国道291号 清水峠 隧道捜索編 <最終決戦>, , http://yamaiga.com/road/shimizu3/main5.html

《 11:26 隧道擬定点(東口) 【MAP】 》

清水集落を自転車で出発してから5時間半。

我々は最終目的地に無事到達した。

古老さん、本当にありがたう!

この時点で明らかだった。

隧道は開口していない。

薄雪が斜面のほぼ全体を覆っているために、日と岩と草が合作する“影”などというものに惑わされることなく、一目でいかなる穴も開口していないことを看取することが出来た。

雪は意外な事に、道中のみならず、この地に至っても我々の味方となった感があった。

薄雪はルートの特定にも特効があった。

前回の探索では、はじめは隧道を意識することなく、左へと尾根を回り込むようにブッシュのトラバースを行い、尾根先端に至って初めて、ルートが無い事を知ったのである。

だが、今回改めて見れば、ルートは間違いなく正面の尾根へ直進しており、左へ向かおうという意識は全く感じられなかった。

この一事を以てするだけで、隧道以外は考えにくい。

単純明瞭。

ここが現役国道という格式高い場所でなく、例えば地元の地味な林鉄だったら、深く考えずに隧道跡と即断するレベルだった。

だが、今回ばかりは慎重に慎重に判断しよう。

気軽に再訪出来ないしね。

決まりですッ!

ここが隧道跡地に違いない。

そして、 “影”の正体見たり!

これぞ今まで百回以上目にしてきた、埋没した隧道坑口の特徴的凹地形である。

こんなにあからさまなのに、4年前の写真は幾ら見返してみてもやはり不鮮明である。

(着色した部分が同一箇所である)

オブローディングにとって、探索時期が如何に重要か思い知った。

HAMAMI氏が撮影していた、“影”の正体を確かめる私の姿。

途中からせっせと雪を掘っているが、これは地表の状態を確認しようとしていたのである。

隧道の痕跡であるわずかな隙間、いかなる地下への開口部をも見逃すまいという、執念的行為であったが、

手袋越しとはいえ濡れた手指で雪を掘る作業は、思わず顔をしかめるほどに辛かった。

しかし、ここで最善を尽くさねば、後で後悔するに違いなかった。

途中からはHAMAMI氏も加わって、二人で納得のいくまで、

怪しい斜面の雪を全てどかして確認した。

到着から66分後。

眼前には、我々によって蹂躙された坑口跡斜面があった。

この間、隙間がありそうな場所は、全て雪をどかして確認した。

そしてその結果、

[29] 道路レポート 塩那道路工事用道路, , http://yamaiga.com/road/ennakouji/main12.html

2011/9/28 --:-- 【現在地】

私は、酷く疲れていた。

このことに対して異論は持つ人はいないだろう。

それにそもそもこれは、私がこうしてレポートをしなければ誰にも知られることなくひっそりと終わるだけの、非常にプライベートな旅の出来事である。

私がこの“観察小屋”の中で、ちょっとだけ目を瞑るつもりで、その先にある“こと”には考えが及ばないほど疲労した(むろん目覚まし時計をセットするなどしていない)状態で午睡に及んだことを、いったい誰に責められようか。

私は、多分何のきっかけも無しに、「 ハッ 」と目覚めた。

その時の感覚は、私がかつて普通に仕事場で働いていた当時の出勤前(朝とは限らなかった)、稀に、とても嫌な予感と共に自動で目蓋が開き、言い知れぬ焦燥感に急かされながら、目線を枕元に彷徨わせる(そして時計を求める)、あの「やらかした」感覚そのものだった。

私は、酷く慌てた。

が、数瞬を経て寝惚けが醒めれば、私は「やらかさず済んだ」と理解し、同時に非常に安堵した。

なぜならば、外の明かりが、鉄格子の窓にまだ見えたから。

ただ、先ほどまであった「影」は、もう鮮明では無くなっていた。

思い出したように、ケータイを取り出して時計を見る。

「16:53」

重ねてホッとする。まだ日没前だ。あと30分少しある。

それにしても、どれだけ寝たのだろう。

デジカメのタイムスタンプをチェックすると、16:07に小屋の中で( 前回 最後の)写真を撮影していた。

何てことはない、私の昼寝は、1時間にも満たなかったのである。

小屋の中は寒くも暑くもなく、過ごしやすかったのだが、我ながらよく目覚めたものだと思った。

…というわけで、ハラハラさせてゴメンね皆さん!

「塩那の夕日ショー」の始まりだぜ!!

(ただ、このあとに「信じがたい出来事」が起きることを、私はまだ知る由もなかった)

ウェストポーチを付けて(重いメインのリュックは「記念碑」前に置いてきていた)、小屋の外へ出てみると、またちょっと焦ってしまった。

先ほどまで小屋の前からも見えていた太陽が、もう見えなくなっていた。

が、まだ日没時間前であることを冷静に思い出す。

単にこの場所が物陰になっているだけなのだ。

日が傾いたから、物陰が長く伸びただけ。

まだまだ塩那の日没を眺められる場所は、この周囲に数え

[31] 尾瀬紀行(9)尾瀬 「点線国道」, , http://sky.geocities.jp/orimasa0225/oze-hiuti5.htm

国道401号線標高図 (「道中閑有り」;http://www.hyokozu.jp/henshu/ さんから借用しました)

因みに・・、 隣県同士でお互いの県へ車で行き来するための車道が無いのは、全国で群馬県と福島県のみであるらしい。 尤も、群馬県と福島県が接している総延長距離は20kmに満たない。 この県境の中心に尾瀬沼があり、西には尾瀬ヶ原が広がる。

その昔、群馬県の沼田市から、尾瀬沼を通って福島県の会津若松へ至る道は群馬側からは会津街道、福島側からは沼田街道と呼ばれ、会津と上州を結ぶ交易路とされていた。

交易が盛んに行われていたのは江戸期のことで、初代沼田城主の真田信幸(信之;真田家当主・真田昌幸の子。 公式には上田藩および松代藩の初代藩主)が戸倉に関所を設けたのち、路の整備を行ったとされている。 交易された物資は、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などで、尾瀬沼のほとりの三平下のあたりで中継されていたという。

また、幕末の戊辰戦争(1868年)の際には会津軍と征東軍が会戦しますが、最後まで抵抗した会津軍は、沼田街道を通って征東軍が侵攻してくることに備え、大江湿原辺りに防塁を築いたとされる。 その名残りが現在でも大江湿原に馬蹄型として見られるが、結局は会津軍は尾瀬を越え、戸倉で交戦になったため、この防塁が使われることはなかったという。

現在、この街道は尾瀬を通る国道401号(沼田街道・会津街道;重複区間あり)として、沼田市から会津若松市に至っている。 但し、檜枝岐地区の七入、赤法華、沼山峠休憩所、尾瀬、そして片品村の三平峠、岩清水、一ノ瀬休憩所、大清水までの区間は登山国道、点線国道などとして知られる。 (但し、この歩道区間は国は群馬県、福島県両県に保守、管理を委譲し、直接的には関与していないため、正確には国道指定はされていないらしい)

点線国道とは、国道の車両通行不能区間における国道指定された連絡路(海上国道を除く)のことで、同じく群馬県内では上越国境谷川岳山麓を通って清水峠から越後へ通じる国道291号、通称・清水街道がある。 この区間は、歩行でも一部通行不能部分がある。

小生のH・P 「上越国境・谷川岳」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kokkyou.htm

次回、古代の「尾

[32] 道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間, , http://yamaiga.com/road/r256_kami/main2.html

2011/4/21 14:03 《現在地》

上村市営住宅の裏手にある「マムシの大岩」 (←酷い略称だと思うがお許しを) の前で、車が通れる「国道」はいとも呆気なく終わりを迎えた。

自転車も、ここまでだ。

第二第三の「大岩」が転げ落ちてくることを阻止すべく、山の縁には真新しい土留め擁壁が施工されており、一見すると国道どころかいかなる道も続いていなさそうだったが、見えざる道を見る者であるオブローダーの本領発揮とばかりに付近を詮索した結果、写真の位置を「道」と判断した。

「マムシの大岩」の裏から東へ伸びる、高い擁壁と低い擁壁に挟まれた、細い上り坂のような敷地である。

周囲を「長野県」の用地杭が囲んでおり、「国道だから」だといいたいところだが、県が施工した「急傾斜地崩壊対策工事」の関係かもしれない。

いずれにしても民家の敷地ではないようだから、大手を振って歩いても…、良いのかな…?

擁壁と擁壁の隙間を10mほど歩くと山側の擁壁が終わり、宅地側にある擁壁の裏へ自然に入り込む形になった。

そして気付くと、自分は町側ではなく山側の存在になっていた。

国道は最終的にこの山の頂である小川路峠を目指すわけだから、山へ入ることは目的に適っている。

ここが正解だという期待を強くしたが、一方でそんな期待を挫くように、狭い行く手に大量の枯れ竹が山積みにされており、私の前進を露骨に邪魔してきた。

枯れ竹の山を踏み越えることは単純に面倒なだけでなく、バキバキと喧しい音を立てることになる。民家の裏手に忍び込んでいる現状に少なからず後ろめさを感じている私は、出来るだけ隠密に行動したかった。だから道なき斜面をよじ登って高巻きの迂回を決行した。右の写真は高巻き中の撮影だ。

土留め擁壁越しに、この国道の終点であり、旅の起点となった向井橋が見えた。

あそこからここまで、ほんの400m足らずでしかなかった。

上村側の国道256号のまともな区間が、どれほど僅かであるかがお分かりいただけるだろう。

全国458路線の国道の中で、終点や起点のこれほど間近に「自動車交通不能区間」がある路線は、他にないと思う。

これは同じ位置から振り返って、市営住宅内の俯瞰を撮影した。

国道はこの住宅地を狭い路地で横断し、山へ取付いていると思われる。

住宅地の造成が行われた後に国道が指定されたわけではなく、先に

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[34] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054526708272

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