清水国道

清水国道

[1] 清水国道

Webページ

[2] 道路レポート 国道291号 清水峠 隧道捜索編 <最終決戦>, , http://yamaiga.com/road/shimizu3/main5.html

《 11:26 隧道擬定点(東口) 【MAP】 》

清水集落を自転車で出発してから5時間半。

我々は最終目的地に無事到達した。

古老さん、本当にありがたう!

この時点で明らかだった。

隧道は開口していない。

薄雪が斜面のほぼ全体を覆っているために、日と岩と草が合作する“影”などというものに惑わされることなく、一目でいかなる穴も開口していないことを看取することが出来た。

雪は意外な事に、道中のみならず、この地に至っても我々の味方となった感があった。

薄雪はルートの特定にも特効があった。

前回の探索では、はじめは隧道を意識することなく、左へと尾根を回り込むようにブッシュのトラバースを行い、尾根先端に至って初めて、ルートが無い事を知ったのである。

だが、今回改めて見れば、ルートは間違いなく正面の尾根へ直進しており、左へ向かおうという意識は全く感じられなかった。

この一事を以てするだけで、隧道以外は考えにくい。

単純明瞭。

ここが現役国道という格式高い場所でなく、例えば地元の地味な林鉄だったら、深く考えずに隧道跡と即断するレベルだった。

だが、今回ばかりは慎重に慎重に判断しよう。

気軽に再訪出来ないしね。

決まりですッ!

ここが隧道跡地に違いない。

そして、 “影”の正体見たり!

これぞ今まで百回以上目にしてきた、埋没した隧道坑口の特徴的凹地形である。

こんなにあからさまなのに、4年前の写真は幾ら見返してみてもやはり不鮮明である。

(着色した部分が同一箇所である)

オブローディングにとって、探索時期が如何に重要か思い知った。

HAMAMI氏が撮影していた、“影”の正体を確かめる私の姿。

途中からせっせと雪を掘っているが、これは地表の状態を確認しようとしていたのである。

隧道の痕跡であるわずかな隙間、いかなる地下への開口部をも見逃すまいという、執念的行為であったが、

手袋越しとはいえ濡れた手指で雪を掘る作業は、思わず顔をしかめるほどに辛かった。

しかし、ここで最善を尽くさねば、後で後悔するに違いなかった。

途中からはHAMAMI氏も加わって、二人で納得のいくまで、

怪しい斜面の雪を全てどかして確認した。

到着から66分後。

眼前には、我々によって蹂躙された坑口跡斜面があった。

この間、隙間がありそうな場所は、全て雪をどかして確認した。

そしてその結果、

[6] 隧道レポート 清水国道の“利根郡内にあった隧道” , , http://yamaiga.com/tunnel/ayado/main.html

清水国道には、全部で2本の隧道があった。

群馬県の高崎から新潟県の長岡まで遙か全長170km。

おそらく1本の道としては明治日本最大の新道計画であった「清水国道」(明治18年開通)は、気宇壮大な列島横断道路でありながら、明治初期の土木技術や工期の制約、そして当時の鉄道偏重政策に起因する国家的な予算不足などから、この道には意外にも、山坂を隧道で貫通する場面が少なかった(いうまでもなく隧道は工費が嵩む)。

明治の新道工事と言えば、かの三島通庸(ミッチー)を有名たらしめた「万世大路」(山形〜福島、明治14年開通)に、その象徴とも言える当時日本最長の隧道(栗子山隧道)が設けられた事とは大いに対照的で、清水国道を短命に終らしめた原因の一つをここに見る事も出来る、果敢かつ無謀な“隧道忌避”の設計であった。

しかし清水国道の全体が有名無実に終ったわけでは決してなかった。

確かに列島横断道路としての“核部”である清水峠こそ開通から僅か一冬で車両通行不能になったと言われているが、それ以外の群馬県側や新潟県側のアプローチ部分は今日まで主要道路であり続けている。具体的に言えば、清水国道は現在の国道17号(東京〜新潟)の上越国境部(および高崎以南と長岡以北)を除いた大半部のルーツとなったのがこの道である。

廃道としての清水国道は、清水峠にほとんど集約されているといってもいいくらいである。

序言に戻る。

清水国道には全部で2本の隧道があった。

いずれも名称は不明であるが、そのうちの1本は、清水峠の新潟県側廃道区間内(本谷)にかつてあり、現在も多少の痕跡を留めている事が昨年の探索によって確かめられた。(以後、便宜的に「本谷隧道」と呼称する)

では、残るもう1本の隧道はどこにあり、現在どうなっているのか。

私の知る限りでは、まだ解決されていない(言及自体も見たことがない)この“大問題”が、本稿のテーマとなる。

上記の資料を引用するのはこれが2回目であるが、本谷隧道探索後の机上調査の過程で入手した、清水国道の開通を伝える新聞記事である。

そして現在のところ、この記事が2箇所の隧道についての最も詳細かつ信頼すべき情報源であり、ここには「字本谷と称する地」の隧道(本谷隧道)の後に、もう1本の隧道の所在地を次のように書いている。

“群馬県上州利根郡に属する地に一箇所十余間” …と。

とはいえ

[8] 道路レポート 国道291号 清水峠 新潟側 , , http://yamaiga.com/road/shimizu/main.html

おそらく、日本でもっとも有名な廃道の一つである。

多くの廃道ファンや国道ファンが、畏敬を込めて、こう呼ぶ。

清水国道 と。

清水国道の歴史は古く、明治の初期にまでさかのぼるのであるが、これは後にしよう。

それよりも、先に現状から説明したい。

清水峠は、群馬県と新潟県の県境(上越国境)上にあり、列島の中央分水界をなす、海抜1,448mの峠である。

この道は国道291号に指定されているが、峠の前後あわせて約28kmが「自動車交通不能区間」となっており、俗に言う“酷道”のひとつである。

これはおそらく、全国でも最長クラスの国道における自動車交通不能区間であるが、それでも群馬県側の大半は登山道になっていて、多少健脚であれば誰でも歩くことが可能である。

そして、素晴らしい景観を誇る清水峠に立つことも出来る。

だが、新潟県側の大半の区間(約12km)は廃道になっていて、

ここ何年、或いは何十年の間、誰一人として通り抜けた人がいない。

…そういう道だということに、 なっている。

今回は、いつも以上に大袈裟なことは言っていないつもりだ。

「フリー百科事典wikipedia」の『清水峠』の項にも、「徒歩での通行も事実上不可能」と書いてあるし、私が個人的に巡った様々な情報サイトや調べた書籍等にも、やはりこの新潟側の清水国道を踏破したという話は、ない。

極端な話、「私は通りましたよ」という生の声を一度も見聞きしたことがない道だ。

ただ、4年余りの工事を経て明治18年8月に、国道8号として馬車の通れる幅3間(5.4m)の峠道が開通したという記録。

同年9月に峠で行われた開通式には、皇族の北白川宮能久親王をはじめ、内務�ク参議山縣有朋、司法�ク議定官山田顕義、元老院議官林友幸、土木局長三島通庸など、錚々たる顔ぶれが揃ったという記録。

そして、開通翌月の大雨で道が決壊し、そのまま冬を迎えてますます崩れ、翌年以降も回復されぬまま遂に廃道となったという… 思わず「それ本当かよ」とツッコミたくなるような、伝説的廃道譚が語られ続けている。

この無謀な失敗道路の全く恥ずべき峠の名が、歴史の闇へと早晩消えてしまわなかった理由は、野蒜築港などと並び、日本最初期の国家的土木事業であったからだろうか。

或いは、皇籍にある人物が開通式典に参列した威光ゆえ、葬り去ることが出来なかった

[18] 道路レポート 国道291号 清水峠(新潟側) <リベンジ編>, , http://yamaiga.com/road/shimizu2/main3.html

探索二日目、

清水国道アタック当日。

現在地は清水峠にある白崩避難小屋。

これより清水国道を下り、おおよそ5km先にある昨年の断念地点「ナル水沢」へ向かう。

その第一行程は、1.2km先の「上の分岐」までだ。

2008/10/12 6:23

白崩避難小屋。

我々の戻るべき場所。

寝床、炊事道具、行動食以外の食料などが、一番奥の特等席で我々を待つ。

荷物の傍に紙皿を置き、そこに“おつまみ”の煎った豆をめいっぱい空けてきた。

ちゃんと帰ってこなければ、きっと誰かに食べられてしまう。

これは、無事の帰還を誓う我々流のおまじないだった。

意図したわけではないけれど…。

小屋の裏手は北側。

我々が登ってきた、そしてこれから向かう越後側だ。

小さな祠が祀られているが、金属製の作りからいって古いものではない。

そのすぐそばに、昭和14年と刻まれた国鉄送電線の竣工記念碑がある。

…以上。

戦国時代からの長い歴史を誇る峠であるが、野仏のひとつも見あたらない。

確かに武士たちが背負うべきは碑(いしぶみ)ではなく祖国の命運であり、また江戸時代には禁制の峠であったかもしれない。

しかし、ひとときとはいえ上越間交通の主役を射止めた明治において、何かしら建碑があって然るべきではないのだろうか。

曲がりなりにもこの場所は、明治18年に皇族を含む貴賓(三島通庸もいた)が一堂に会しての開通式典、さらに馬車による荘厳な開通パレードの行われた会場である。

清水国道には、記念すべきことなど何もないと言うことなのか…。

そして南側、

上州の山並み。

雲に隠れている稜線は谷川岳の主峰を含むもので、その先の明るい広がりは関東平野へ連なるものだ。

我々は越後側の踏破に固執しているが、この景色を見ていただければお分かりのように、麓の集落までの距離も高低差もこの上州側に軍配が上がる。

地形の険しさも、あの泣く子も黙る「一の倉沢」を仰ぎ見る道だと言えばお分かりいただけるだろう。

もし越後側同様の廃道になっていたなら、おそらく清水峠の踏破は初めから専門家の手に委ねなければならなかった。

幸い、登山道国道と呼ばれる通りの状況になっている。

「登山道」 だけどな。

三方向目の眺めは西。

昨日、真っ暗な中で風に打たれながら歩いた道のりを振り返っている。

こんな風になっていた

[29] 道路レポート 長野県道55号大町麻績インター千曲線 差切峡, , http://yamaiga.com/road/sasikiri/main5.html

2014/10/28 13:21 【現在地】

差切5号隧道を皮切りに、かなり矢継ぎ早のペースで現れてきた隧道群も、2号隧道から150mほど離れたところにあるこの隧道、 差切1号隧道 をもって、打ち止めとなる。

そして隧道群の終わりは、差切峡を無事に通過し終えるということでもある。

事実、隧道の向こう側にはもう、先ほどまでのような、そそり立つ山肌のシルエットは見えていない。

なお、「 大鑑 」には、1号隧道について全長20m、幅3.3m、高さ3.2m、竣工昭和28年という記録がある。

この20mという全長は、既に開削されてしまった旧5号隧道の13mに次いで短い。

目前に現れた1号隧道は、これまで目にした5〜2号隧道の中で最短というだけでなく、幅も3.2mと一番狭い。「大鑑」でもそう記録されていたが、現状でもそのままのようだ。

そして、素掘吹き付けの2号隧道には見られなかった坑門があり、そこには見馴れたデザインの扁額も取り付けられていた。

そこで私は気付いた、小さな異変に。

ここまで2号隧道を除く各隧道で扁額を見たが、この1号隧道だけはなぜか「一号隧道」と、番号が漢字で書かれているのである(他はみなアラビア数字)。

「だから何だ?」

…そう言われると、困るんだぜ。扁額のデザインは4号や3号で見たものと全く同じなので、単に文字を入れる人間の気まぐれか或いはミスで、「1」ではなく「一」を入れたというだけだろう。

実はこの隧道については、 さらに重要な異変 があるのだが、私が気付いたのは、もう少しだけ後だった。

目の前にある1号隧道の大きな異変にも気付かないほど、私の意識は“旧道”発見へ注がれていた。

そしてその甲斐あって、今回もまた旧道が発見された。

4号や3号隧道の旧道で見たような片洞門が、1号隧道の“外”に続いていた。

もしかしたら本当に、2度あることは3度あるかも知れない!

隧道の坑門が旧道へのアクセスを邪魔していたが、自転車を残して身軽になれば、これを越えるのは難しい事では無かった。

たった数分前に体験した2度の強烈な成功体験がリフレインする。

おそるおそる、過去2回の成功地である岩場突端のカーブを回り込むと…

残念! 今回、隧道は無し。

さすがにそう何度も思い通りにはならないのである。

1日で2本も未知の明治廃隧道を発見したのだから、もう

[30] 隧道レポート 国道8号旧道 阿曽隧道(旧黒崎トンネル), , http://yamaiga.com/tunnel/aso/main2.html

2015/9/14 15:17 【現在地】

見事な二次放物線のアーチを描き出した石造の坑門。

ただし、放物線云々というのは「廃道本」で読んだ記憶から導かれた言葉であり、肉眼でアーチ形の正確な区別をするのは不可能だ。

例えば、多心円アーチと呼ばれるものと、二次放物線アーチの区別は、正確な測量でもしなければ難しいといわれる。

一般的にアーチの高さ(ライズ)に対する幅(スパン)の比をライズスパン比といい、半円アーチで1/2となる。扁平になるほど数字が小さくなり、扁平アーチと総称する。アーチ橋と呼ばれるものは、ほぼ例外なく扁平アーチである。

逆にライズスパン比が1/2より大きな値を取るものは縦長なシルエットになり、 尖頭アーチ と総称される。

なお、アーチとして最も安定した構造は半円アーチで、そこから離れるにつれて徐々に構造としては不安定になっていく。

…といったところが、私の中の一般的なアーチに対する理解である。

補足として、鉄道用の暗渠にはそれなりの頻度で尖頭アーチが用いられるのであるが、これには理由があって、大正5(1916)年に国鉄が制定した「混凝土拱橋標準」という示方書に、半卵形アーチやビリケンアーチと呼ばれる尖頭な多心円アーチが制式されていたためである。しかし、本隧道は明治の作であることや、多心円アーチではなく放物線アーチとされていることなどから、両者に直接の関係は無いだろう。ただし、尖頭アーチに至った技術的根拠には重なる部分があるかも知れないが、不明。

数学的な興味と、技術的な興味と、単純な珍奇なものへの好奇心という、三重の魅力で私をしばし釘付けにした石造放物線アーチであるが、やがて我に返って、通常の探索を続行する。

まずは首を上に向けての坑門観察。

アーチ、スパンドレル、帯石、笠石などといった石造坑門の標準的な構成要素が見て取れたが、その全体を覆い隠してしまうほどに濃緑色のツタが勢力を強めていて、お洒落な洋館のような洒脱した雰囲気を醸し出していた。代官山ってカンジ(←無根拠)。

なお、こびり付いているツタは、季節によって紅葉し落葉もする種類なので、この雰囲気も夏に訪れた故の個性だろう。

悪い印象はない。というか、素直にかっこいいと思った。

ただし、ツタのせいで肝心の扁額が読めなくなっていたら残念だったのだが、どうやらそもそも扁額は無い

[31] 隧道レポート 国道27号旧道 吉坂隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/kissaka/main2.html

吉坂隧道の東口は、どこにある?

前回、西口を発見したが、内部は落盤のため坑口からわずか20mほどで完全に閉塞していた。

隧道の通り抜けができなかったので、今度は東口を探してアプローチしたい。

ただ、東口の位置については、大きな謎があった。

それは、「 大鑑 」に本隧道の全長として記載されている141.5mという数字は、峠を潜り抜けるには短すぎるという問題だ。

右図に付した青丸は、西口を中心に描いた半径141mの円だが、この長さでは到底峠を貫くことが出来ないのである。

極端にトンネル内部の勾配を大きく取れば、吉坂峠の頂上辺りに抜けることは不可能でないかも知れないが、それはあまりにも不自然である。

…結論として、 「大鑑」のこの数字は誤りなのだ。

しかし、それは現地探索も机上調査も終えた今の見解であり、探索前の段階では東口の位置を考える上での大きな障害になっていた。

前回の冒頭でも述べた通り、吉坂隧道はそれが極端に短命な存在であったためか、歴代の5万分の1地形図に正しい姿で描かれたことがない。

そのため、発見できないことへの警戒が普段よりも強くあり、そのためやや念入りの事前調査を行ってから探索に望んだ経緯があった。

旧地形図に代って旧隧道の位置確定の役に立ってくれたのが、古い航空写真だった。

右図は 昭和27(1952)年の航空写真 だが、ここにお目当ての吉坂隧道が写っており、坑口前後の道から坑口の位置を推測することが可能である。

そして、変化後の画像はそれから11年後の 昭和38(1963)年 に撮影されたものである。

2枚の写真を比較してみると、この短い期間に吉坂隧道の西口に通じる「旧道」は、完全に見えなくなってしまった。

新トンネル(青葉隧道)建設に伴う残土(ズリ)で埋め立てた可能性が高そうである。

そして懸案である東口の位置であるが、 青葉隧道の東口から非常に近い位置に存在していたように見える。

…場所はだいたい分かったが、これはこれで新たな懸案事項となってしまった。

下手したら建設位置が重なってしまっていて、そのために旧坑口が破壊されてしまった可能性もありそうだ。

(だから今回は西口により大きな期待を抱いていたのだが、閉塞していたものは仕方ない。)

2016/10/17 16:27 《現在地》

これから現道の青葉隧道を通って、吉坂隧

[32] 道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間, , http://yamaiga.com/road/r256_kami/main2.html

2011/4/21 14:03 《現在地》

上村市営住宅の裏手にある「マムシの大岩」 (←酷い略称だと思うがお許しを) の前で、車が通れる「国道」はいとも呆気なく終わりを迎えた。

自転車も、ここまでだ。

第二第三の「大岩」が転げ落ちてくることを阻止すべく、山の縁には真新しい土留め擁壁が施工されており、一見すると国道どころかいかなる道も続いていなさそうだったが、見えざる道を見る者であるオブローダーの本領発揮とばかりに付近を詮索した結果、写真の位置を「道」と判断した。

「マムシの大岩」の裏から東へ伸びる、高い擁壁と低い擁壁に挟まれた、細い上り坂のような敷地である。

周囲を「長野県」の用地杭が囲んでおり、「国道だから」だといいたいところだが、県が施工した「急傾斜地崩壊対策工事」の関係かもしれない。

いずれにしても民家の敷地ではないようだから、大手を振って歩いても…、良いのかな…?

擁壁と擁壁の隙間を10mほど歩くと山側の擁壁が終わり、宅地側にある擁壁の裏へ自然に入り込む形になった。

そして気付くと、自分は町側ではなく山側の存在になっていた。

国道は最終的にこの山の頂である小川路峠を目指すわけだから、山へ入ることは目的に適っている。

ここが正解だという期待を強くしたが、一方でそんな期待を挫くように、狭い行く手に大量の枯れ竹が山積みにされており、私の前進を露骨に邪魔してきた。

枯れ竹の山を踏み越えることは単純に面倒なだけでなく、バキバキと喧しい音を立てることになる。民家の裏手に忍び込んでいる現状に少なからず後ろめさを感じている私は、出来るだけ隠密に行動したかった。だから道なき斜面をよじ登って高巻きの迂回を決行した。右の写真は高巻き中の撮影だ。

土留め擁壁越しに、この国道の終点であり、旅の起点となった向井橋が見えた。

あそこからここまで、ほんの400m足らずでしかなかった。

上村側の国道256号のまともな区間が、どれほど僅かであるかがお分かりいただけるだろう。

全国458路線の国道の中で、終点や起点のこれほど間近に「自動車交通不能区間」がある路線は、他にないと思う。

これは同じ位置から振り返って、市営住宅内の俯瞰を撮影した。

国道はこの住宅地を狭い路地で横断し、山へ取付いていると思われる。

住宅地の造成が行われた後に国道が指定されたわけではなく、先に

[34] 土木学会図書館|旧蔵写真館 11.綾戸(あやど)橋, , http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/furuichi/lib11.html

1.解説

写真下部中央に下記の記載がある。―;Ayado−Bashi;−−;Gunba−Ken;―右端に下記の記載がある。 F.Nozawa,Enginner(何れも手書き)

Gunba−Kenを群馬県と理解するとこの橋は利根川上流の沼田市南端から子持村、赤城村北端にかけての綾戸峡谷に架かる橋と推定される。

図―1に示した視点を置くと、綾戸の隧道を含め、写真―11)と同じ景観であり、綾戸峡谷であることがわかる。

野沢房敬は1892(明治25)年頃約1年半の間群馬県に勤務して、多くの橋を架設している2)。図―2からもこの時期この場所に橋が架けられていたことがわかる。

以上からこの橋は下記の橋と評定する3)。

綾戸橋 1893(明治26)年5月竣功 橋長127m 幅員4.2m

2.清水新道4)

群馬県の前橋と沼田を結ぶ街道、すなわち現・国道17号は真田街道、清水新道、あるいは三国脇往還とも呼ばれていた。

この街道のうち、渋川と沼田間は利根川を挟んで東側と西側の二つの街道があった。東側ルートは参勤交代道路であったが、曲折・上下が多い。

これに対して、西側ルートは、ほとんどの区間が平坦であるが、沼田市南端と子持村北端の間は子持山塊が利根川に迫り、往時はこの間を「七曲がり十八坂」と称する山越えをしなければならなかった。この不便を解消すべく1846(弘化3)年に僧江舟が主導して利根川沿いに幅・高さ各2尺(0.6m)のトンネルを穿ち綾戸の穴道と呼ばれた。1863(文久3)年これを拡幅して、人馬が通れる隧道となった。1881(明治14)年に内務省が起工した清水新道の工事に際して、この付近は隧道を避けて、1885(明治18)年に図―2に示すようなルートとなり、利根川を棚下橋と綾戸橋(橋長127m幅員5.4木橋)とで渡った5)。1901(明治34)年に綾戸綾桜の両トンネルを含む西岸沿いの新道が完成して、綾戸橋ルートは廃道となった。

(図―3)

この西岸沿いの道路は国道17号として1966(昭和41)年大改修がなされている6)。

3.綾戸橋

1893(明治26)年に竣功した綾戸橋は写真から、多径間の木鉄混合上路トラス橋と推定できる。立派な親柱と高欄付きの橋梁である。

また、写真を見ると取り付け道路の石積みに下層と上層の2段が認められる。

おそらく、再架した

清水峠

清水峠

履歴

[35] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054526707036

メモ