十島村

十島村

[1] 十島村 (としまむら)

29.838528 129.853222

Webページ

[2] 十島村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B3%B6%E6%9D%91

十島村(としまむら)は鹿児島県、東シナ海上の[[トカラ列島|吐喇(トカラ)列島]]各島を行政区域とする村である。フェリーとしまの都合上、村役場は鹿児島市にある。 中心となる島は中之島である。また、口之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・小宝島・宝島にも住民がいる。

[3] 琉球海道~トカラ列島(前編) 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/tokara1.html

1. トカラ列島と十島村

屋久島の南には、トカラ海峡が広がり、トカラ海峡で大隅諸島が終わる。

トカラ列島は大隅諸島と奄美群島の間に広がる島々で、

そのほとんどが、霧島火山帯に属する火山島である。

トカラ列島は、大隅諸島から奄美群島への琉球弧の架け橋となり、

古来から琉球弧を行き交う人々に、琉球海道の中継点としてその存在が知られてきた。

興味深いことに、トカラ列島のほとんどの島で「平家の落人伝説」が残されており、

島民は平家の子孫であることを自負している。

平家の落人伝説は、九州の山奥の椎葉や五木でも見られるが、

三島村の硫黄島やトカラ列島、そして喜界島や奄美大島、加計呂麻島でも残されている。

平家の落人が大和の京文化を南西諸島に持ち込んだことは、間違いないようである。

トカラでは、中世、日本と琉球王国の架け橋を担っていた史実が残されている。

トカラの島々の住民は、薩摩に間接的に服属することで、

薩摩の御用聞きとして、南方の事情を薩摩に伝える役割を果たし、報酬を受けていた。

また一方で、琉球王国に日本の事情を知らせて、報酬を受けていた。

薩摩が琉球支配に乗り出すときには、その指南役として手引きをしながらも、

琉球王国に対して薩摩の意図を伝達し、平和裏に支配が運ぶよう琉球王国を説き伏せていた。

奄美大島と喜界島までは琉球王国だったが、トカラ列島は琉球王国の支配を受けたことはなく、

かといって薩摩も薩南諸島より南にあるトカラ列島は、領地として支配なかった。

トカラ列島はあまりにも小さな島々だったため、領地としての価値がなかったからだが、

それゆえに、日本と琉球王国の架け橋となる中立したポジションになりえたのである。

トカラ列島は現在十島村に所属し、7つの有人島と5つの無人島を持つ。

島の領域は南北150kmを越え、海域も含めた領域面積で「日本一長い村」である。

明治維新後、7島の有人島に三島村の3島の10島で「十島村」として誕生したが、

戦後、トカラ海峡より南部がアメリカに占領されると、3島が独立して「三島村」となった。

そして1952年に十島村が日本復帰にすると、

三島村となった3島を除いた7島で「十島村」は復活した。

有人7島は北から口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島で、

無人5島は臥蛇島、小臥

[5] 中之島 (鹿児島県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E5%B3%B6_%28%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%29

中之島(なかのしま)はトカラ列島に所属する島。面積は34.47km²。周囲30km、最高点は御岳(トカラ富士)の979m。人口は167人、世帯数は97世帯(2004年10月1日現在)[1]。

島名は七島の中ほどにある島であるということに由来している[2]

地名(行政区画)としての「中之島」は鹿児島県鹿児島郡十島村の大字となっており、島の全域がそれに該当する。

概要[編集]

十島村で最も人口が多く、1956年までは村役場の所在地であった。村役場が村外の鹿児島市に移転した後も2008年までは支所が置かれ、駐在所や民俗資料館・天文台などの施設が集まる実質的な村の中心地である。

地域[編集]

公衆浴場[編集]

温泉(公衆浴場)[3]が数か所存在する。西海岸沿いに設けられた東区温泉、西区温泉は、ともに乳白色のミョウバン・硫黄・塩分を含んだ天然温泉である。泉質:硫黄泉、効能:神経痛・筋肉痛・痔疾・冷え性という。

交通[編集]

島内を周回する道路は多数存在するものの未舗装の箇所が多い。島内は琉球寒山竹の生育が著しく、これらの未舗装の道の中には通行不可能になったものも少なくない。

十島村の他の島と比べると大きな島だがバス・タクシーは存在しない為、民宿にて車をレンタルするかフェリーで持ち込まないと島内での活動が制限される。

施設[編集]

十島村役場中之島支所

中之島天文台

十島村立中之島小中学校

鹿児島中央警察署中之島駐在所

十島村に唯一存在する駐在所であり、中之島駐在所の管轄区域は鹿児島郡十島村の全域が指定されている[4]。

中之島郵便局

中之島灯台

十島村歴史民俗資料館

十島村開発総合センター

店舗[編集]

永田商店

最低限の日用品と焼酎・ビール・アイスクリーム・タバコを取り扱っている。

通信[編集]

携帯電話はNTTドコモのみ利用可能である。十島村開発総合センターに公衆電話がある。

歴史[編集]

江戸時代以降[編集]

中之島という地名は江戸期より見え、薩摩国川辺郡のうちであった。薩摩藩直轄地で郷には属さず、薩摩藩の船奉行の支配下に置かれていた。

口之島や宝島と同様に津口番所、異国船番所、異国船遠見番所が併置されており、鹿児島城下より派遣された在番と横目が常駐していた。中之島の在番は中之島の他に諏訪之瀬島、悪石島を管轄しており、在番の指示を受けた郡司が島政に当たったとされる。「薩

[6] 鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令 - Wikisource, , http://ja.wikisource.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%92%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E9%83%A1%E5%8D%81%E5%B3%B6%E6%9D%91%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%B3%95%E3%81%AE%E9%81%A9%E7%94%A8%E5%8F%8A%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AB%E4%BC%B4%E3%81%86%E7%B5%8C%E9%81%8E%E6%8E%AA%E7%BD%AE%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%94%BF%E4%BB%A4

内閣は、昭和二六年一二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令(昭和二十六年政令第三百八十号)第一項前段及び第五項の規定に基き、この政令を制定する。

1 鹿兒島県大島郡十島村の区域で北緯二十九度から北緯三十度までの間にあるもの(口之島を含む。)に地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)及びこれに基く命令を適用する。この場合において、この政令施行の際限にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿兒島県大島郡十島村となるものとする。

2 前項の規定により十島村となる従前の村にこの政令施行の際限に属している財産の処置については、鹿兒島県知事が定める

3 第一項の規定により十島村となる従前の村の議会の議員、村長、助役その他の職員のうち地方自治法の規定による職員に相当するものでこの政令施行の際限にその職にある者は、それぞれ地方自治法の規定による十島村の相当の職員となるものとする。この場合において、従前の規定により任期の定めがある職員については、従前の規定による任期にかかわらず、地方自治法の定めるところによる。但し、その任期は、従前の規定によりその者が選挙され、又は選任された日から起算するものとする。

4 第一項の規定により十島村となる従前の村の條例、規則及びその他の規程でこの政令施行の際限に効力を有する者は、法令又は鹿児島県の條例に違反しないものに限り、地方自治法及びこれに基づく命令中の相当規定による十島村の條例、規則及びその他の規程となるものとする。

5 前二項に定めるものを除く外、従前第一項に規定する区域に適用されていた法令で地方自治法及びこれに基く命令に相当するものによつてした手続その他の行為は、地方自治法及びこれに基く命令中の相当規定によつてした手続その他の行為とみなす。

[7] 昭和二六年一二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令 - Wikisource, , http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BA%8C%E5%85%AD%E5%B9%B4%E4%B8%80%E4%BA%8C%E6%9C%88%E4%BA%94%E6%97%A5%E9%99%84%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E8%A6%9A%E6%9B%B8%EF%BD%A2%E8%8B%A5%E5%B9%B2%E3%81%AE%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%81%8F%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E4%B8%8A%E5%8F%8A%E3%81%B3%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%88%86%E9%9B%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BB%B6%EF%BD%A3%E3%81%AB%E4%BC%B4%E3%81%86%E9%B9%BF%E5%85%92%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E9%83%A1%E5%8D%81%E5%B3%B6%E6%9D%91%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9A%AB%E5%AE%9A%E6%8E%AA%E7%BD%AE%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%94%BF%E4%BB%A4

内閣は、ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件(昭和二十年勅令第五百四十二号)に基き、この政令を制定する。

1 鹿兒島県大島郡十島村の区域で北緯二十九度から北緯三十度までの間にあるもの(口之島を含む。)については、他の法令の規定にかかわらず、当面の間、政令で特別の定をするものを除く外、従前その区域適用されていた法令のみを適用するものとする。この場合において、これらの法令の実施上琉球諸島民政府又はその機関に属していたもの以外のものは、国家及び裁判所の権限に属するべきもの並びに政令で定める場合を除く外、鹿兒島県知事が行うものとし、その区域で従前公務に従事していた者は、相当の公務員となるものとする。

2 前項の規定により鹿兒島県知事が行う権限は、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)の適用については、国の機関としての権限とみなす。

3 この政令施行の際限にその職にある鹿兒島県大島郡十島村の村議会の議員、村長、助役その他任期の定のある職員で政令で定めるものは、他の法令の規定にかかわらず、政令で定める日まで在職する。

4 前項に規定する職員の退職に因る選挙の選挙人名簿の調製その他必要な措置については、他の法令の規定にかかわらず、政令で特別の定をすることができる。

5 前各項に定めるものを除く外、昭和二六年一二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」を実施するため第一項に規定する区域について必要とされる経過措置は、政令で定める。

[8] 臥蛇島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A5%E8%9B%87%E5%B3%B6

臥蛇島(がじゃじま)とは、鹿児島県のトカラ列島に属し、トカラ列島で最大の中之島の西約28kmに位置する無人島である。1970年(昭和45年)に全島民が移住し無人島となった。

地名(行政区画)としての「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村の大字となっており、島の全域及び小臥蛇島の全域が大字の範囲に含まれている。郵便番号は891-5200。

地勢[編集]

臥蛇の名前については、海東諸国記に「掛蛇島」、清汪楫録に「臥蛇また外蛇」と記されている。その名が示すとおり、島を沖から眺めると、蛇が伏せた様な形をしている。

また、元島民によると、昔船着場の近くに丁度蛇が伏せたような形の岩があったから、とも言われている [要出典]。なお、この岩は今では台風により流失。

年平均気温:18.1℃ 年間降水量:2619.7mm

長径約3km、短径約2km、最高点は御岳_(臥蛇島)の497m。周囲は高さ50mから100mの断崖で、楠久浜に僅かだが海浜がある。平坦地は殆ど無く、北西部に緩やかな斜面があるのみ。

島そのものは新第三紀鮮新世の古い火山活動により出来たと考えられているが、無人化により地質調査が成されていない為、詳細は不明。主に安山岩により形成されている。

植生は主にリュウキュウチク群落、タブノキ・スダジイ群落、ビロウ群落から成る。

山:御岳_(臥蛇島)・矢筈岳・五神岳・金居岳

小字名:湊・上村・中村・上原・赤土原・野・イタブ山・黒島崎・クスクノ浜・ヨカ子・エヒヤ・岩屋・ウチゴル・シブル・川浜

南東方向に小臥蛇島が存在する。

臥蛇島地図(国土地理院による地図閲覧サービス)

国土地理院・地図・空中写真閲覧サービス

※空中写真閲覧サービスにより、1948年(昭和23年)や1967年(昭和42年)当時の集落や畑地を確認することが出来る(鹿児島郡十島村・USA-M878-13・KU6711Y(2)-C1ga-1等)

年表[編集]

1185年(文治元年) - 平家が壇ノ浦の戦いで大敗、その時平家一統が臥蛇島を含め十島の島々に落ち延びたとされている。

1227年(安貞元年) - 十島が川辺氏の支配下に入る。

1434年(永享6年) - 島津氏が臥蛇島と平島を種子島氏に与える。

1513年(永正10年) - 臥蛇島より種子島氏へ鰹節と鰹煎汁、綿を上納する。

1761年(宝暦11年) - 島津氏への年頭の祝

[9] 琉球海道~竹島・硫黄島・黒島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/mishima.html

1. 三島村の三つの島(竹島・硫黄島・黒島)

薩摩半島から50~60km南の沖合に、三つの小島が浮かんでいる。

三つの小島とは、三島村に所属する、竹島、硫黄島、黒島のことである。

このうち竹島と硫黄島は、薩摩半島最南端の長崎鼻や、

九州最南端の佐多岬から眺めることができる。

とくに硫黄島は、海から火山が突き出したその風貌から、遠くから視認しやすい島だ。

これら竹島・硫黄島・黒島へは、村営旅客船「フェリーみしま」で鹿児島から向かうことができる。

隔日で朝、鹿児島港・南埠頭を出港して、

竹島、硫黄島、黒島の順に接岸する。

二日一往復なので、その日じゅうに鹿児島へは戻らず、黒島の片泊港での碇泊となる。

翌日の朝、黒島を出ると、硫黄島、竹島の順に接岸して、鹿児島へ戻る。

上りか下りのどちらかが隔日に運行されるので、あらかじめダイヤを調べておきたい。

近年は、夏の繁忙期に、枕崎に立ち寄よる運行ダイヤも組まれている。

三島村は戦前は十島村に属していたが、

トカラ列島が戦後アメリカに接収されたのを契機に、十島村から分離独立した。

現在は十島村と共に、役場が鹿児島市内にあるが、

役場がその自治体の土地にないのは、全国でも鹿児島県の三島村と十島村、

そして沖縄県の竹富町だけである。

ちなみに竹富町役場があるのは石垣市である。

小さな離島が集まった自治体は、拠点となる場所がその近隣の都市になってしまうが、

役場が自治体の外にあると、村職員の住民税が自治体に還元されない問題が発生する。

三島村の人口は400人余り。その半数は黒島にいて、過疎化が深刻な状況にある。

島の主な産業は畜産業で、黒毛和牛である鹿児島黒牛の生産が盛んである。

2. 竹島

竹島と聞くと、韓国に占領されている竹島を連想するかもしれない。

しかし、あちらは島根県の竹島で、こちらは鹿児島県の竹島でまったく別の島。

竹島の名前の由来は単純明快で、

島全体が琉球竹で覆われた「竹の島」という、それだけのことだそうだ。

竹島のそのすぐ東側には、南西諸島へ向かう航路があり、

屋久島航路や十島航路、奄美・沖縄航路を行き来するフェリーから、竹島は良く見える。

細長く、高低差のない平でなだらかな島で、

周囲は13km、人口は100人にも満たない小さな島である。

黒毛和牛の放牧が盛んで、島の

[10] 三島村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9D%91

三島村(みしまむら)は、薩摩半島南端から南南西約40kmの位置にあり、竹島・硫黄島(鬼界ヶ島)・黒島の有人島と、新硫黄島、デン島の無人島から成り立つ。

歴史[編集]

戦前まではトカラ列島の7島(現在の鹿児島郡十島村(としまむら))を含めた大島郡十島村(じっとうそん)の一部であったが、米軍の占領政策により北緯30度線(屋久島と口之島の間)で分断され、村役場のあった中之島と切り離された為、残った3島で仮の十島村役場を鹿児島市に設立、鹿児島郡の管轄下に入る。1952年(昭和27年)2月10日に7島が日本に返還され、改めて十島村が設立された後も3島は統合せず、三島村として完全に分離する。

1973年(昭和48年)、大島郡から鹿児島郡に郡変更がなされ、現在に至る。

村役場が鹿児島市に置かれている理由としては、歴史的な理由だけでなく、行政機能の能率を上げる為による。いずれかの島に役場を置くより、県都であり生活圏である鹿児島市に置いていた方が、国や県との折衝がやりやすく、また住民にしても、各種申請が行いやすいという理由がある。また、交通手段を村営船のみに頼っている為、欠航等により鹿児島市に足止めされた場合でも、村役場の助けをもらえるという利点もある。ただし、役場職員のほとんどが村内に住所を持たないため、村長選や村議会選の選挙権が無く、また税が村に入らないなどの問題がある。

地名[編集]

硫黄島

黒島

竹島

地理[編集]

南西諸島の最北端に属する。

竹島:面積4.20km²、周囲9.7km、人口112人

硫黄島:面積11.65km²、周囲14.5km、人口142人

黒島:面積15.37km²、周囲15.2km、人口215人

行政[編集]

村長:日髙郷士

村の行政機関[編集]

鹿児島市

三島村役場

竹島

竹島出張所

硫黄島

硫黄島出張所

三島開発総合センター

黒島

大里出張所

片泊出張所

大里ふるさとセンター

片泊ふれあいセンター

三島村消防団(事務所管は三島村役場)

竹島消防分団

硫黄島消防分団

大里消防分団

片泊消防分団

なお、三島村には常備消防はなく火災等災害時は消防団が対応する。救急に関しては診療所に配置されている患者輸送車(軽ワゴン車)で対応し、重症患者はヘリコプターにより昼間は鹿児島県消防防災航空隊、夜間は海上自衛隊鹿屋救難飛行隊に搬送される。また、例外として第10管区海

[11] 上三島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%89%E5%B3%B6

上三島(かみみしま)は、薩南諸島北部に位置する島嶼群である。別名、口之三島(くちのみしま)。

概要[編集]

黒島、硫黄島、竹島の有人3島と、デン島、新硫黄島の無人島からなる。

全島で鹿児島県鹿児島郡三島村を形成する。古くはトカラ列島(下七島)とともに薩摩国川辺郡に属し川辺郡十島(かわなべぐんじっとう)と呼ばれていたが、1897年に大島郡へ移され十島村(じっとうそん)を形成していた。しかし、1946年2月2日に北緯30度を境としてトカラ列島以南がアメリカ軍の軍政下に置かれたことから、上三島の部分のみ三島村として分離。1952年にトカラ列島が日本に復帰し十島村(としまむら)となった後も、引き続き三島村として存続している。

上三島は、大隅諸島に含まれるとする説と含まれないとする説がある。天気予報では「種子島・屋久島地方」に含まれ、さらに「種子島地方」と「屋久島地方」とに細分する場合には「種子島地方」に含まれる[1]。

ギャラリー[編集]

[12] 小臥蛇島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%87%A5%E8%9B%87%E5%B3%B6

小臥蛇島(こがじゃじま)とは、鹿児島県のトカラ列島に属し、臥蛇島の東南東約5.6kmに位置する無人島である。鹿児島県鹿児島郡十島村に属する。

地勢[編集]

周囲は最高点までほぼ断崖状態で、居住に向かない地形・地質であるため、有史以来人が住んだ記録はない。臥蛇島同様、昆虫等の固有種が多く生息すると推測されているが、無人であることと上陸が厳しいことなどから、詳しい調査はまだ成されていない。地質はデイサイトを主とすると見られている。

南方向に沖ノ瀬と呼ばれる岩場がある。

関連項目[編集]

火山の一覧 (日本)

外部リンク[編集]

小臥蛇島火山(日本の第四紀火山)

[13] 琉球海道~屋久島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/yakushima.html

1. 黒潮に浮かぶ洋上アルプス~屋久島

屋久島へ向かうには、鹿児島空港から飛行機を利用するか、

鹿児島港・南埠頭からフェリーまたはジェットフォイルを利用するのが一般的だ。

空路、鹿児島へ入る場合は、そのまま鹿児島空港で乗り換え、屋久島空港に入る。

鹿児島市街からアプローチする場合は、高速船を利用するのが一般的である。

マイカーやバイクを運ぶなら、毎朝8時に出航する「フェリー屋久島2」を利用すればよい。

この他に、谷山港から「フェリーはいびすかす」で渡る方法がある。

「フェリーはいびすかす」は毎日18時に谷山港を出航し、翌朝早朝に屋久島・宮之浦港に着く。

この方法だと、朝一番に屋久島に入ることができるので、登山する方にお勧めできる。

ただし、この船は貨物船なので乗り心地はあまり良くない。

快適な乗り心地のクルージングを楽しむなら断然、「フェリー屋久島2」だ。

屋久島は一周がおよそ120kmの円形の島。

自転車でも一周することができるが、アップダウンがかなりあるので覚悟が必要だ。

島の大部分は山岳地帯で、最高峰の宮之浦岳は標高1935mで九州一の高さを誇る。

海岸から山頂まで2000mの標高差がある高山が連なるため、「洋上アルプス」と呼ばれる。

亜熱帯・温帯・亜寒帯、と変化に富んだ気候が見られる特色のある島だ。

また屋久島は非常に降水量が多いため、「水の島」と呼ばれている。

屋久島に降水量が多いのは、屋久島が山岳の島であることと密接な関係があり、

黒潮の湿った空気が屋久島の山岳にぶつかって雲を発生させ、雨を降らせる。

だから洋上は晴れているのに、屋久島だけが雲に包み込まれて雨になる。

屋久島だけがまるでベールに覆われるように雲海に包み隠されてしまう。

「屋久島は月に35日雨が降る」と言われる。

いつも島の何処かで雨が降っていると例えられるほどで、屋久島は天気予報が当てにならない。

にわか雨や天気雨が多く、晴れたと思ったら土砂降りの雨が降り、

天候に翻弄されていると感じさせられるほどだ。

そんな島ゆえに、屋久島に訪れるときは周辺の天気にじゅうぶん目を配りたい。

周辺が高気圧に覆われ快晴であることが、屋久島が晴れるための最低条件。

気温が上がると上昇気流が起きて雲ができるので、快晴の期待度が高いのは朝である。

屋久島の玄関は島

[14] 琉球海道~口永良部島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/kuchinoerabu.html

1. 緑の火山島

屋久島の12km西の沖に周囲50kmほどのひょうたん型の小さな島が浮かんでいる。

十島航路や奄美・沖縄航路のフェリーに乗ると、

屋久島のちょうど反対側に間近に迫ってくるのが口永良部島だ。

しかしこの島に上陸するとなると、屋久島を経由しなければならない。

行政区域は屋久島町に属していて、まるで屋久島の付属品のような島だ。

屋久島は世界遺産になって知名度が上がり、観光客も増える一方だが、

口永良部島は相変わらず、人知れずひっそり屋久島の横に佇んでいる。

口永良部島へは屋久島の宮之浦港から屋久島町営「フェリー太陽」で向かう。

フェリー太陽は口永良部島へ1日1往復運行されていて、

偶数日は朝、奇数日は昼に宮之浦港を出航する。

偶数日は昼、奇数日は朝に種子島へ1往復していて、

種子島、屋久島、口永良部島を相互に結ぶ役割を果たしている。

宮之浦港を出航すると、フェリー太陽は口永良部海峡に向かう。

出港してしばらくすると矢筈岬の一湊灯台が見えてくる。

正面には口永良部島が見え、その先端にメガ崎灯台が見える。

口永良部島の海岸には断崖が迫り、荒々しさを感じさせる。

フェリー太陽は口永良部海峡を渡ると、口永良部島の南岸に沿って走り、

島の最高峰である標高650mの古岳を正面に見据える。

口永良部島は火山島で、新岳と古岳の二つの火口がある。

江戸時代に大爆発を起こし多数の死者が出たとの記録があり、

その後も度々、噴火を起こしている。

霧島~桜島~鬼界カルデラを結んだ直線の延長上にあり、霧島火山帯に属している。

霧島火山帯は日本で最も活動が盛んな火山帯で、絶えず噴煙を上げる桜島はその代表格。

三島に属する薩摩硫黄島も霧島火山帯に属する火山島であり、

鬼界カルデラのすぐ南に位置する口永良部島もまた、同じ霧島火山帯にある。

火山島でありながら、緑に覆われて火山に見えない島の様相から「緑の火山島」と呼ばれる。

仰々しい古岳を回りこむと、隠されたように湾があり、本村(ほんむら)港が見えてきた。

本村の町は古岳の奥まった入江にある。

ひょうたんの形をした島のちょうど窪みのところにあたる。

口永良部島の人口はおよそ150人で、その大半がこの本村に住むが、

町というには余りにも頼りない、集落という程度の小さな港町だ。

[15] 初の縦置き陶棺、奈良で発見 古墳後期、省スペース化?:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASH6Y5J6ZH6YPOMB00V.html

古墳時代後期(6世紀後半~7世紀中頃)の円筒形をした陶製ひつぎ(陶棺)が、奈良市西大寺赤田(さいだいじあこだ)町1丁目の赤田横穴墓群(おうけつぼぐん)で見つかった。市埋蔵文化財調査センターが29日発表した。底が平らで縦に置いていたとみられ、全国的に例がないという。

墓群は埴輪(はにわ)作りや陵墓造営にあたった土師(はじ)氏の墓とみられ、これまでに横穴墓16基が確認されている。今回、9号墓(7世紀中頃、墓室の長さ5・7メートル)で口径約30センチ、高さ約85センチと、口径約27センチ、高さ約67センチの大小二つの土師器(はじき)の棺を確認。底が平らな円筒形で、半球形のふたが付いていた。骨は見つかっていないが、木棺でいったん土葬した後、骨を再葬したとみられるという。

丸底で寝かせて置く須恵器(すえき)の円筒形の陶棺は、岐阜や近畿地方で見つかっているが、縦に置ける棺は初めて。狭川(さがわ)真一・元興寺(がんごうじ)文化財研究所研究部長は「7世紀半ばは埋葬施設や葬儀を簡素なものにする『薄葬(はくそう)』が広がる時代。縦置き型の棺は、専有面積を小さくする必要に迫られていたことがうかがえる」と話す。

[16] 甑島列島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6

歴史 [ 編集 ]

古代・中世 [ 編集 ]

甑島列島には約8000万年前の 白亜紀 の地層が残っている。日本国内では初めて ケラトプス の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは 翼竜 や ワニ など爬虫類の化石も発見されている [19] 。 上甑島 の 里 遺跡は、甑島列島唯一の 縄文土器 が出土した遺跡である [20] 。上甑島の里遺跡、 江石 遺跡、 桑之浦 遺跡、下甑島の 手打 遺跡、 片野浦 遺跡からは 弥生土器 、 土師器 、 須恵器 などが出土している [20] 。

上甑島の桑之浦には 神功皇后 の 三韓征伐 に関する伝説が残る [21] 。 奈良時代 には薩摩 隼人 族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される [21] [3] 。 平安時代 初期に編纂された『 続日本紀 』が「甑島」という名の初出であり [5] 、 遣唐使 船が甑島に停泊したことが記された [21] 。平安中期に編纂された『 和名抄 』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する [21] 。甑島列島の各地に 平家の落人 伝説が残っている [21] 。 鎌倉時代 中期から370年間、13代に渡って 小川氏 が統治を行ない [22] [12] 、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された [21] 。里には 承久の乱 で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の 日置郡 田布施(現 南さつま市 )に移封されて甑島の統治から離れた [23] 。

近世・近代 [ 編集 ]

江戸時代 には 島津藩 の直轄地となり、島津藩が採用した 外城制 の枠組みの中で 地頭 (領主)が派遣された。里・ 中甑 ・手打には地頭仮屋が置かれ、ひとつの集落の中に士族の居住地である麓、農民の居住地である在、漁民の居住地である浜が置かれた [24] [22] 。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ [25] 、薩摩藩の 南蛮貿易 の中継基地にもなった [26] 。甑島列島は 天草 や 長崎 と同じく キリシタン 文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054525761934

メモ