神奈川県道304号腰越大船線

神奈川県道304号腰越大船線

[1] 神奈川県道304号腰越大船線 (こしごえおおふなせん)

Webページ

[2] 神奈川県道304号腰越大船線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%81%93304%E5%8F%B7%E8%85%B0%E8%B6%8A%E5%A4%A7%E8%88%B9%E7%B7%9A

神奈川県道304号腰越大船線(かながわけんどう304ごう こしごえおおふなせん、以下県道304号と記す)は神奈川県鎌倉市腰越(腰越地域)の腰越橋交差点より同県同市小袋谷(大船地域)の神奈川県道301号大船停車場線までの約5kmを走る県道。(ただし、同市山崎から大船停車場線までの400メートル程は2014年開通予定) 1960年(昭和35年)4月1日、神奈川県によって県道に認定された。

[3] 青蓮寺 (鎌倉市) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%93%AE%E5%AF%BA_%28%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%29

青蓮寺(しょうれんじ)は、神奈川県鎌倉市手広にある高野山真言宗の寺院。高野山宝寿院(無量寿院)末。詳しくは飯盛山仁王院青蓮寺(はんじょうざんにおういんしょうれんじ)と号する。高野山真言宗準別格本山。関東八十八ケ所第五十九番札所、東国新四国八十八箇所第八十八番結願札所、相州二十一箇所第十九番札所

歴史[編集]

弘仁10年(819年)に空海(弘法大師)が開山し、長禄年中に善海が再興したと伝わる。天正19年(1591年)には徳川家康より手広村に25石の寄進を受け、関東壇林三十四院のひとつとしても名を連ねるなど徳川氏からは寺格を高く評価されていたようだが、天保4年(1833年)に起きた火災と関東大震災の時に寺院が倒壊した事によって寺の史料の多くが散逸しており、詳しい事はよくわかっていない。

近世初期には相模国に30以上の末寺を抱えていたが、江戸時代中期以降はその多くが、無住ないし廃寺となっており、寺院経営は苦しかったようである。

寺には、弘法大師が寺の裏手にある山(飯盛山)で修行をしている時に天女から仏舎利を託され、翌朝目を覚ますと青い蓮華(ハスの花)が一面に咲いていたという伝承が残っており、寺の名前もこれに由来している。なお飯盛山は戦後急速に宅地化が進んだ周辺区域の中でも比較的豊かな自然が残存しているため、鎌倉市でその自然環境を保護しようとする動きがある。

寺は神奈川県道304号腰越大船線と旧江ノ島道に面している。かつて旧江ノ島道から青蓮寺へ抜ける洞門が存在したが、県道304号が開通した際に山ごと切りくずされ、以降この洞門は入り口で封鎖されている。なおこの洞門の付近には庚申塔があり、かつては洞門の付近を村の境としていたことが推測される。 昭和25年に住職の草繋全宣師が京都大覚寺門跡に栄晋された時に多数の末寺が青蓮寺を離れ大覚寺末となる。

境内[編集]

重要文化財[編集]

木造弘法大師坐像

蓮唐草蒔絵箱形礼盤・黒漆華形大壇

本尊[編集]

本尊は鎌倉時代作の木造弘法大師坐像で、国の重要文化財に指定されている。この木像は両膝等の関節が鎖によって結ばれ、動かすことのできる珍しい仏像で、俗に鎖大師とも呼ばれる。秘仏で毎年大晦日を初め年に5回開帳されている。この大師像はもともと、鶴岡八幡宮にあったが、明治に起きた廃仏毀釈のあおりを受けこの寺へ移され今に至っている。

椿地蔵[編集]

[4] 江の島道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%B3%B6%E9%81%93

江の島道(えのしまみち)は旧藤沢宿から龍口を経て江の島に至る旧道。また鎌倉街道を小袋谷から分岐し龍口を経て江の島にいたる旧道も江の島道と呼ばれた。いずれの旧道も江の島へ向かう遊山客や地域住民の生活路としてにぎわい、多くの寺社・旧家が立ち並んでいたが、明治時代以降になると鉄道・新道の開通によって廃れていった。現在では要所要所に残されている道標などが往時の姿をしのばせている。この道標の中には江の島と深い縁を持つ杉山検校が建てたものが多い。

この江の島道は旧藤沢宿(現在の遊行寺周辺)から江の島までの約1里(4Km)を結ぶ旧道で、龍口までは現在の国道467号とほぼ平行して走っている。

遊行寺門前の遊行寺橋はかつて大鋸(だいぎり)橋という名で、旧東海道が境川を渡る橋であった。明治初期まではこの橋のたもとに大きな鳥居が立っており、多くの浮世絵に描かれている。この鳥居が江島神社の一の鳥居であり、江の島道の入口にあたっていた。鳥居の脇には道標が立っていたという。現在遊行寺内真徳寺の庭内に「江の島弁才天道標」がある。鳥居の撤去時期は不明だが、その後、藤沢駅南口に建てられていた時期があるという。

ここから南下する国道467号は「遊行通り」と呼ばれており、途中から藤沢駅方面に分岐する。この分岐点には杉山検校が建てた道標が残っている。国道と分かれた「遊行通り」は、神奈川県道306号藤沢停車場線と名を変え藤沢駅北口に達する(ここから左折して進んだところに藤沢市役所新館があり、その脇に杉山検校が建てた道標2基が並んでいる。これらは国道467号の東側にある本館前庭から近年移されたもので、もともとは藤沢宿近くと辻堂から移設されたものである。これ以外に「従是右江嶋遍/當所龍口」と刻まれた平頭角柱型道標も並んでいる)。

藤沢駅北口広場からは東海道本線の下を歩行者用の地下道で抜けることができる。地下道を出たところが南口広場で、正面に江ノ島電鉄線藤沢駅と小田急百貨店藤沢店が入る江ノ電ビルが建っている。そのビルの東側から鵠沼石上地区を南下する「ファミリー通り」商店街がかつての江の島道である。1km弱で緩やかな下り坂になり、下りきったあたりがかつて「石上の渡し」があった場所である。境川はここから江ノ島電鉄のあたりまで曲流していた。

そのまま進むと道は東にカーブし、国道467号と交差して「上山本橋」で境川を渡る

[5] 隧道レポート 鎖大師参道の隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/tebiro/main.html

今回の物件は、このあたり。 →【周辺地図(マピオン)】

のんびり地図を眺めていたら、鎌倉市の西の外れあたりに小さな小さな隧道の記号を発見。

地図を思いっきり拡大しないと表示されなかった。

まあ、小さいだけで特に何かありそうってわけじゃないけど、この辺りを探索するついでに、見てみることにした。

隧道が描かれていたのは、鎌倉市の西縁に沿って大船駅付近(山崎)と江の島付近(腰越)を結んでいる神奈川県道304号「腰越大船線」沿いで、この道が西鎌倉地区がある丘陵地帯を乗り越える小さな峠道の途中だった。

地名表記でいえば、鎌倉市手広2丁目地内である。

では、まいろう。

2008/6/27 11:35 【現在地】

県道32号の手広交差点を右折し、県道304号を腰越方面に向かう。

おおよそ600mで道は徐々に上りはじめ、本格的な坂道を前にしてこの風景を迎える。

左に見えるのが県道304号、右に分岐しているのは青蓮寺の表参道である。

車止めの奥にある立派な山門が、平安初期の開基を伝える同寺の由緒と格式を物語っている。

近隣では鎖大師という名の方が有名で、門前にあるバス停の名前も鎖大師である。

これは鎖の仕掛けで膝が屈伸するようにしつらえられた、ご本尊である仏像の名に由来するらしい。

それはそうとして…

もう私が求める“ブツ”も、見えてるっぽい……。

県道は青蓮寺の境内の外周に沿って緩やかにカーブしながら上っていく。

地形的に見れば本来この場所は、寺の裏山の山腹であったはずで、県道がそこを大胆に切り開いていることが見て取れた。

その副作用で、県道の山側の法面は都会ではあまり見られないくらいの切り立ち方も見せていた。

また、その壁に吹き付けられたコンクリートの苔むした風合いから、それが決して最近の工事ではないという事も感じられた。

私が地図に見つけた1本の小隧道はこの長く高い法面の途中に、これ以上なく“ぽっかり”という表現がぴったりな感じで、口を開けていた。

ぽっかり。→

地図で見ていて予想してはいたが、案の定、それはとても短い隧道であった。

正面に立ったこの段階でもう、この隧道の全貌を把握。

あとは向こう側の坑口を見れば、この隧道の外形については“完全解明”である。

しかし、この坑門はなかなか面白い形をしている。

最大の特徴は、トンネルの軸線が坑門平面の直角方

履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054521835022

メモ