県庁堀

県庁堀

[1] 県庁堀 (けんちょうぼり)

36.3811900039598 139.73130941391

Webページ

[2] 県庁堀 | 栃木市観光協会, , http://www.kuranomachi.jp/spot/kuranomachi/kenchobori/

県庁堀

旧県庁跡地唯一の遺構

明治4年(1871)の廃藩置県により、その11月に下野国は栃木県と宇都宮県にわかれ、さらに、明治6年(1873)には栃木県に統合され、栃木町は下野国を一つの県とする栃木県庁の所在地となった。

現在の栃木市役所、栃木市立栃木中央小学校、栃木県立栃木高等学校のある区域がその敷地跡である。

当時、その敷地の周囲に、約1キロメートルに及ぶ堀を巡らしたが、その堀が今も残り、県庁堀と呼ばれて多くの鯉が群れ泳ぐ姿を見せている。明治16年(1883)第三代県令となった三島通庸(みしまみちつね)はその翌年、県庁を宇都宮に移転したため、わずか13年で県都の幕を閉じている。

この移転の事情には諸説あるが、当時、栃木町が自由民権運動の拠点であったこともその一因といわれている。

旧県庁跡地唯一の遺構である県庁堀は平成8年(1996)県指定文化財(史跡)となった。

[3] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933421039

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