寺町通

寺町通

[1] 寺町通 (てらまちどおり)

35.0036695812448 135.766848921776

Webページ

[2] 寺町通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%BA%E9%80%9A

寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。 都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を限る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。 寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であった。東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担が大変であったことがフロイスの『日本史』に書かれている。鴨川に近く、狭隘な敷地が多かったためしばしば水害や火災に見舞われた。この頃、洛中北部にも、聚楽第の北辺を守る形で京都改造の一環として同じく寺院集中地区である「寺之内」が形成されたが、寺町と違って水害の不安の無い高燥地で、法華寺院のしかもいずれも大寺が配置されたため、寺町との環境の差は歴然としていた。このため、寺町の寺からは「奉行の前田玄以が法華宗だからいい場所を法華寺院に与えた」との不満が出たと伝えられるが、実際は寺町にも本能寺や妙満寺などの法華寺院が移されていた。相次ぐ火災に見舞われて江戸時代中期以降には寺地を寺町から洛東に移す寺院もあり、例えば真如堂も元禄の大火の後、寺町今出川付近から現在の左京区に移っている。 かつては南北方向の主要な通りの一つであり、今出川通から二条通にかけては京都電気鉄道寺町線(のちに買収され京都市電)の路面電車が走っていた。1920年代に河原町通が拡幅されると、市電のルートもそちらに移るなどメインストリートの座を譲った。市電の廃線後、しばらくは代わって市バスが通っていたが、それも廃止され、現在は騒音に悩まされることない静かな通りとなっている。 丸太町通から二条通までは、古美術店や画廊、古書店などが並ぶ寺町会の商店街である。御池通から四条通に至る区間は、アーケードの商店街となっており、日中は車両進入禁止である。御池通から三条通までは、寺町専門店街であり、新京極通と平行する三条通から四条通までは、寺町京極商店街である。また、四条通から高辻通にかけては、東京や大阪と比べると小規模ながら電気街になっており、京都の秋葉原や日本橋といってもよい通りであったが、近年は郊外型や大阪梅田・京都駅近辺の大型家電量販店の台頭で、秋葉原、日本橋や大須同様に、往時と比べて電気店の数が減少し、新しい都心型のマンションなどが建設されている。 御池通から四条通までが路上喫煙等禁止区域である。

[3] 寺町通の古い町並み, , http://www.ichiro-ichie.com/05koto/kyoto2/02south-noth/a03teramachi-dori/teramachi-dori01.html

寺町通は一筋東の河原町通と共に鴨川西岸に沿って、北区から五条通まで京都市街を南北に縦断する延長約4.6kmの通りです。平安京における洛中最東端の路で、東京極大路にあたります。当時の東京極大路は一条通がその北端でした。公家や武家の屋敷が建ち並ぶ通りでしたが、戦乱によって荒廃し、その後豊臣秀吉の洛中改造によって再開されました。市街地の拡大と共に北は鞍馬口通まで延伸、東の防衛線として洛中の寺院がこの通りの東側に集められたことから、寺町通と呼ばれるようになりました。

寺社の数は最も多い時期で117を数え、これは当時の洛中の寺院のおよそ1/3にあたります。しかし、宝永5年の大火でその2割が焼失。さらに秀吉無きあと寺院の多くが鴨川の東へと移転していった為に、現在のこの通りには寺町と呼べるような寺院が軒を連ねる風景は見ることができません。

寺町通は明治に入り、五条通から南へも延伸され、新寺町通と呼ばれていましたが、この区間はその後、河原町通の拡張延伸によって取り込まれてしまい消滅します。五条通の南側に寺院が集まる地区がありますが、ここは平安期の河原院跡地に造られた寺町で「下寺町」と称されています。

明治五年に寺町通と裏寺町通の間に小路が開かれ、平安期の通の名を取って新京極通となり繁華街としての賑わいは今に至ります。

南北に長い寺町通はいくつもの表情を持ちます。まず五条通から四条通にかけては、この通りで最も町家が残されている場所です。四条通から御池通にかけては一部アーケードの商店街を形成、その先御所の東側を抜けて今出川通を過ぎると、再び郊外型の商店通りとなります。古い町家はあまり残されてはいません。

[4] 京の道 今日の道 第204回 マンガと絵本の博物館~烏丸通北から南~その16, , http://kyoto1966.blog.fc2.com/blog-entry-217.html

京の道 今日の道

京都の観光地の周辺の様子や 季節の移り変わりを 写真を織り交ぜて紹介。 「京都は、観光地そのものよりも 移動中の道にその良さがある」が コンセプトです。

押小路(おしこうじ)から烏丸通(からすまどおり)を南に向いています。 京都では比較的高いビルが続いていく中、 約50m先に少し開けた場所があります。 それが今回ブログの訪問地「京都国際マンガミュージアム」です。 一応中の方に許可をもらったところだけ撮ったのですが、 それでもブログ1回分の写真枚数になってしまいました…… 撮影日は、2014年5月1日木曜日午前10時20分。 GW中日は、雨が降ったり晴れたりと忙しい天候でした。 押小路から、烏丸通を南に約50m進みました。 西側歩道沿いに、この「京都国際マンガミュージアム」があります。 では、こちらの階段を上っていきます。 階段を上がって、カフェの前で西を向いています。 こちらが、マンガミュージアムの入り口です。 その手前に桜の木がありますが、ここが小学校だった名残でしょうか? その桜の木の下に、このような張り紙がありました。 日本文はともかく、英文を読むと毛虫に刺された方がいらしたのか、 そこが気になりますね。 自分も毛虫に刺されたことがありますが、 手の平の一部が握りこぶしくらいの大きさに腫れましたし…… 入り口を入ると、すぐに売店があります。 マンガも売られていましたが、 アニメのグッズや絵本も売られていました。 (「京アニグッズ」も売られていました) その脇に券売機があって、この切符を買って中に入ります。 800円と多少高いのですが、 その代わり当日なら何回出入りしても構いません。 ちょうど切符を買おうとしたときに、 フランス人御一行が(彼らの言語で分かりました) 30人ほど来られてなかなか中に入れませんでした。 入り口付近に、こちらのパンフレットがありました。 それぞれ言語が違いますが、書かれている内容はほぼ同じです。 これを読んでいると、ここが「巨大なマンガ図書館」なのではなく 「マンガ」「絵本」をテーマにした博物館であることが分かります。 外国から来られた方や、小中学生が 「マンガ」という文化を学ぶ場所なのでしょうね。 ともかく、「マンガミュージアム」の中に入っていきました。 ここは元々小学校の校舎ですが、その壁面の大半が本棚になってい

[5] 京都市電 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%9B%BB

京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りで全廃された。

概要[編集]

1895年(明治28年)、民間企業である京都電気鉄道により第1期区間が開業。日本最初の一般営業用の電車となった[1]。京都に日本初の電車が開業した背景には、国内に先駆けて(世界でも2番目ともいう)水力発電が行われたことが挙げられる。京都は東京奠都に伴って天皇の膝下という地位を失い、市民の間で衰退が懸念されたことから、その挽回策として政府からの下賜金をもとに琵琶湖疏水が計画された。当初水車に利用する予定であった水力が発電に使えると知った設計者田辺朔郎は、急遽渡米して世界初といわれる水力発電設備を調査の上、帰国後ただちに設計を変更して蹴上に水力発電所を建設した。だが、電力を得ても当時はまだ電灯の使用が見込めず、産業用動力としてもなじみがなかったため、結果的に路面電車が電力の唯一の使い道となった。

最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでのこととされる。ただし、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。また、開業当初には路面電車による交通事故を防止するため先導役の少年が電車の前を走りながら「電車、来まっせ。電車、来まっせ」と声を張り上げた。時には先導役の少年自身が電車に轢かれるという痛ましい事故もあったという。

その後、京都市によっても1912年(明治45年)の4路線7.7km開業を皮切りにして独自に路線建設がなされ、それと競合することになった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、市へ1918年(大正7年)に買収された。

京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は76.8km、車両351両(1957年度)の路線となった。乗客も増え1963年(昭和38年)には一日平均564,488人の利用があった。

しかしその後の自動車の普及により乗客の減少がつづき経営が困難とな

[6] 京都 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD

この項目では、有史以降の日本の都市・都について記述しています。日本の自治体については「京都市」を、都道府県については「京都府」を、福岡県の郡については「京都郡」を、小惑星については「京都 (小惑星)」をご覧ください。

名称[編集]

「京都」の由来[編集]

東アジアでは古来、歴史的に「天子の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗(司馬師)の諱である「師」の文字を避けて京都(けいと)と言うようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。

日本でも飛鳥京や恭仁京などが京都とも呼ばれた。平安京において「京都」[4]が、定着したのは平安後期からで、京や京師という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が平安京の固有名詞[5]のようになり、定着していった。造都当時は「北京」とも呼ばれた。対して奈良のことを「南京」と呼んでおり、以後長らく奈良の代名詞「南都」として多用された。

京都と洛陽[編集]

古く京都は、しばしば中国王朝の都となった洛陽に因み、洛陽、京洛などといわれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという[6]。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため「洛陽」とは即ち京都を指す言葉になり、その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる[7]。また一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに洛陽のみが使われるようになったと考えられるという(「平安時代史事典」『洛中』)。京の都に上ることを上京(現在は東京に上る事を「上京」と言う)、上洛と言う。現在でも「洛陽工業高校」など固有名詞に残るほか、洛南・洛北・洛西・洛東といった呼称が使われている[8]。また、東京を含めた京都以外の地方から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」ということがある。特殊な例として「下洛」という語が平家物語に見られる。山法師が京中を侵すことを指した。また京域内を「洛中」と呼び、京

履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933414966

メモ