田沢湖線

田沢湖線

[1] 田沢湖線 (たざわこせん)

Webページ

[2] 田沢湖線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%A2%E6%B9%96%E7%B7%9A

田沢湖線(たざわこせん)は、秋田県大仙市の大曲駅から岩手県盛岡市の盛岡駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。 地方交通線とはいえ、東北本線沿線から秋田方面へは重要なリレー的路線の需要もあるため、1996年から1年間運休して軌間を新幹線と同じ1435mmの標準軌に拡幅する工事を行い、翌年にミニ新幹線である秋田新幹線のルートとして東京駅からの直通を可能にした。全線が単線であり、上下の秋田新幹線「こまち」が途中の駅や信号場で行き違いを行う光景が見られる。

[3] 君の知らない旧国道 - 6日目その1 [雫石〜橋場], , http://ccsf.jp/~mwe/tour/20100731/6-1.html

遂に自転車人生初めての『6日目』に突入しました。今日こそは絶対に秋田へ辿り着くぞっ。現在地は岩手郡雫石町, 既に秋田県と接しているんですから。

しかし, ある意味, これからが今回の旅の本番と言っても過言ではありません。秋田へ走るのも3年目, 今年この経路を選んだ理由は, 間違いなくこの先にあるのです。さあ, まずは山へ到ること。そして山を登ること……

いつものように早朝から身支度を整え, 一宿のお礼を言って05:40に出発します。勿論, 朝食抜き。……この先, 最短距離で雫石市街を抜けようとすると, コンビニも何も全く無いんですよ。それは流石にまずい(8年前の青森3日目どころの話ではない)ので, 一旦R46雫石バイパスへ向かいました。こちらにはコンビニが2軒あることを確認しています。

で, 辿り着いたのはサンクス雫石バイパス店。ありがたやありがたや。

ここまでの走行記録(笑)……走行時間0.03.54, 走行距離1.08km, 平均速度16.9km/h, 最高速度38.2km/h(街道→雫石町役場), 総走行距離9,305.6km。

朝ごパンです。……失敗でした。茹で卵が, 堅茹ででした。私, 堅茹で卵って駄目なんですよ……口の中が粉塗れになる感触がひたすら気持ち悪くて。同じ理由で小豆餡が駄目なので和菓子が苦手だったりもします。しかし食べ残すのは矜持が赦さないので, 無理矢理にでも食べます。

更に栄養ドリンクと, 水分・凍結水分を買い込んで, 06:10改めて出発。

[4] 橋場駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A0%B4%E9%A7%85

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。

出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)

橋場駅(はしばえき)は、岩手県岩手郡雫石町にあった国有鉄道橋場線(現在の田沢湖線)の駅である。現在の赤渕駅の北西約1kmのところにあった。

正式に廃止手続きがなされたという記録はなく、現在も休止扱いである。

駅構造[編集]

2面2線のホームを持つ地上駅であった。また、遺構から転車台や貨物用ホームがあったと推測されている。

歴史[編集]

元々橋場駅は、盛岡駅から生保内駅(現在の田沢湖駅)を経由して大曲駅に至る路線の途中駅として計画された駅である。1922年には「橋場線」として盛岡駅から橋場駅までが開業(大曲からも生保内まで「生保内線」が開業)し、橋場駅は橋場線の仮の終着駅として設置された。

しかし、戦中の1944年からは不要不急線として雫石駅 - 橋場駅間および橋場駅は休止され、両駅間の線路は撤去された。

戦後に橋場 - 生保内間の建設が再び計画された際、建設ルートが当初の橋場駅経由のルートから、現在の赤渕駅付近より当初ルートを外れて田沢湖方面に直進する新ルート(現在の田沢湖線のルート)へと変更された。このため、新ルートと当初ルートの分岐点付近に赤渕駅を設置した上で雫石駅 - 赤渕駅までが再開され、その後新ルートにより橋場線は「田沢湖線」として全線開業している。

そして、赤渕駅付近から橋場駅までは再開されることなく放棄され、現在に至っている。

年表[編集]

1922年(大正11年)7月15日 橋場軽便線(後の橋場線)の終着駅として開業

1944年(昭和19年)10月1日 太平洋戦争の影響により休止、雫石駅から当駅までの区間は不要不急路線として線路や施設を剥がされる。

1964年(昭和39年)9月10日 橋場駅手前に赤渕駅を新設した上で雫石駅 - 赤渕駅間が再開業。新ルートの制定により赤渕駅付近 - 橋場駅間は不要となり、橋場駅は放棄

1966年(昭和39年)9月10日 生保内線(大曲駅 - 生保内駅)・完成した生橋線(生保内 - 赤渕)が橋場線に編入され田沢湖線と改称

1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により、同線大曲 - 盛岡間は東日本旅客鉄道(JR東日本)へ承継されるが、同線雫石 - 橋場間の敷地は日本国有鉄道

[5] 橋場駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A0%B4%E9%A7%85

元々橋場駅は、 盛岡駅 から 生保内駅 (現在の田沢湖駅)を経由して 大曲駅 に至る路線の途中駅として計画された駅である。1922年には「橋場線」として盛岡駅から橋場駅までが開業(大曲からも生保内まで「生保内線」が開業)し、橋場駅は橋場線の仮の終着駅として設置された。

しかし、戦中の1944年からは 不要不急線 として雫石駅 - 橋場駅間および橋場駅は休止され [1] 、両駅間の線路は撤去された。

戦後に橋場 - 生保内間の建設が再び計画された際、建設ルートが当初の橋場駅経由のルートから、現在の赤渕駅付近より当初ルートを外れて田沢湖方面に直進する新ルート(現在の田沢湖線のルート)へと変更された。このため、新ルートと当初ルートの分岐点付近に赤渕駅を設置した上で雫石駅 - 赤渕駅までが再開され、その後新ルートにより橋場線は「 田沢湖線 」として全線開業している。

そして、赤渕駅付近から橋場駅までは再開されることなく放棄され、現在に至っている。

年表 [ 編集 ]

1922年 ( 大正 11年) 7月15日 橋場軽便線(後の橋場線)の終着駅として開業

1944年 ( 昭和 19年) 10月1日 太平洋戦争 の影響により休止、 雫石駅 から当駅までの区間は 不要不急路線 として線路や施設を剥がされる。

1964年 (昭和39年) 9月10日 橋場駅手前に赤渕駅を新設した上で雫石駅 - 赤渕駅間が再開業。新ルートの制定により赤渕駅付近 - 橋場駅間は不要となり、橋場駅は放棄

1966年 (昭和39年)9月10日 生保内線(大曲駅 - 生保内駅)・完成した生橋線(生保内 - 赤渕)が橋場線に編入され田沢湖線と改称

1987年 (昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化 により、同線大曲 - 盛岡間は 東日本旅客鉄道 (JR東日本)へ承継されるが、同線雫石 - 橋場間の敷地は 日本国有鉄道清算事業団 へ承継

1998年 (平成10年)4月1日 日本国有鉄道清算事業団が解散、 日本鉄道建設公団 へ承継

2003年 (平成15年)10月1日 日本鉄道建設公団が解散、 独立行政法人 鉄道建設・運輸施設整備支援機構 へ承継

橋場駅が戦後復活されなかった理由 [ 編集 ]

歴史の節 に上述した通り、戦前の当初計画は盛岡 - 橋場 - 生保内(現・田沢湖) - 大曲と線路を結ぶ計画で、この計画に

[6] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sasimaki.html

県内にある国鉄、もしくはJR由来の廃隧道のうち最後まで未探索だった、JR田沢湖線「刺巻〜田沢湖」間にある二隧道の探索を終えたので、公開しよう。

JR田沢湖線刺巻駅は、新幹線も停まる田沢湖駅の一駅隣の駅で、立派な標準軌のレールとは如何にも不釣合いな半面ホームの無人駅である。

近くには刺巻湿原というミズバショウの名勝地があるが、普段は僅かな通勤通学客にのみ利用される駅だ。

そこに、チャリを詰め込んだ輪行バッグを抱え降り立った私。

秋田駅からは奥羽本線と田沢湖線の始発を乗り継ぎ、この日の旅のスタート地点としてここを選んだのである。

無論この日の最初のターゲットは、近くにある筈の二本の廃隧道である。

チャリを駅前で組み立てている間も、駅の正面を通る国道46号線にはひっきりなしに往来があったが、駅に立ち寄る人は誰もいなかった。

国道を田沢湖方向へ約二kmほど進むと、田沢湖線の下を潜る。

跨道橋のすぐ先に見えるのが、現在の第一刺巻隧道である。

実は今回、殆どの事前情報を持っていなかった。

相互リンク先サイト『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』のTILL様から頂いた情報によれば、昭和57年の田沢湖線電化の際に刺巻田沢湖間の2本の隧道が廃止されたという。

その詳しい場所は分からない。ただ、現在の同区間にも2本の隧道があり、その本数の一致から、多分旧隧道も現在のトンネルと離れていない位置にあるのではないだろうかと推測していた。

それと、以前車窓から廃隧道と思しき坑門の一部が見えたことがあり、やはりそれは現隧道のすぐ近くであった。

今回は、これらの情報を元に、足で隧道を探さねばならない。

マイナーな廃隧道なのか、これまでここを取り扱った書籍なども見たことが無い。

まずはじめに刺巻駅側になる西坑門に出会ったのだが、前の写真の通り国道との比高は大きく、また予想していたことだが、やはり雑草の繁茂は凄まじく、国道からは全く廃隧道らしい物は確認できない。

もしかしたら、ここに隧道はなかったのかもという不安を感じつつ、国道をそのまま200mほど辿り、反対側の坑門の前に来た。

こっちは幸い坑門と道路との高度差は余り無いが、坑門が眠っていそうな斜面は遥か叢の奥であり、国道から全く見えない坑門を手探りで探すのはうんざりした。

もう少し、古い地形図などで事前

[7] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sasimaki_2.html

大正12年竣工の第一・第二刺巻の二隧道は、昭和57年の田沢湖線全線電化に伴い新トンネルに更新され、その役目を終えた。

国道から近いものの、余り知られていないこの廃線区間を、たっぷりとお伝えしたい。

いよいよ、今回その全貌が!

第一刺巻隧道を後にして、再び国道を走る。

もう一本ある筈の廃隧道だが、事前調査が不足していた為、場所は特定できていない。

ただ、現在の線路にも、もう一本の隧道があり、そこに廃隧道も眠っている可能性は高い。

国道と線路が並走する脇に数軒の民家が連なっており、ここが刺巻の集落である。

小さな集落を過ぎると線路は隧道に、国道は玉川に迫り出した山肌を迂回しつつスノーシェードに入る。

ここにあるのが現・刺巻第二隧道だが、その刺巻集落側の坑門付近は国道から少し離れており接近が困難である。

多分廃隧道もここにありそうだが、こちら側からのアプローチはひとまず諦め、反対側の坑門へと廻ってみる事にした。

スノーシェードをくぐり、反対側へ。

スノーシェードを抜けると、再び線路が姿を現したが今度はずいぶんと上だ。

この探索、意外に苦戦するかもしれないなと感じた。

鉄道は隧道から直ぐに玉川を渡る長い長い高架橋に差し掛かる。

ここに廃隧道が隠されていると仮定して、アプローチするならば、何とかこの高架橋に登らねばならぬのか…?

しかし、それはタブーでは??

とにかく激しいブッシュである。

当然国道からは廃隧道らしい物は見られない。

本当にここにあるのだろうかと、不安になってきた。

隧道と高架橋は一体的であり、この高架橋も昭和57年に新設された物に間違いないであろう。

そうなると、どこかに旧橋の痕跡も隠されているはずなのだが…。

それが見つかれば、おのずと旧隧道の位置も判明しよう。

玉川のほんの100mほど上流には生保内発電所が稼動しており、そこへ向かう河畔の作業道路に分け入ってみる。

向こうには大きな発電所の建物が見えていたが、それよりも私の気を惹いたのは、この錆びたトラス橋である。

この橋、かつては国道46号線に供されていた道路橋と思われるが、このお話はいずれ別稿としたい。

トラス橋は生保内橋といったが、作業道はこの橋の袂を過ぎ発電所で終点となる。

そこまで往復してみたが、なかなか鉄道の旧橋の痕跡は見つからない。

「ま

[8] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://www.yamaiga.com/rail/hasiba/main.html

ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。

その駅は、橋場駅という。

国鉄橋場線の終着駅である。

だが、この駅が機能を停止して、既に60年以上の時間が過ぎている。

橋場駅は、鉄道省の橋場軽便線(軌間1067mm)の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。

県都盛岡から西へ約24km延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は、当時人口1000人ほどであった岩手郡御明神村(現在の雫石町の西部)にあり、その沿線には小岩井農場などの牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても、単独で採算性があるような路線ではなかった。

やがては橋場駅の西に奥羽山脈を貫通する大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)から大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(または盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。

そのためか、開通翌年の大正12年には軽便鉄道から普通鉄道に格上げされ、橋場線へと改称された。

同じ使命を帯びた秋田県側の生保内線が、大曲から生保内まで開業したのは大正13年のことで、橋場線と生保内線という2つの盲腸線が、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て向き合う形となった。

その後、政局のうねりや太平洋戦争による工事の中止など、次々に難局に見舞われ、奥羽山脈の貫通という終局の目的は容易に達成されなかったが、計画自体は死滅せず、昭和41年になって、鉄建公団の手でようやく国鉄生橋線が開通。

生橋線は橋場線および生保内線と併合されて、全線開業と同時に国鉄田沢湖線が誕生した。

橋場線の開通から、実に45年もの歳月が流れていた。

その後もローカル線でしかなかった田沢湖線が、軌間1435mmへ改軌されたうえ「秋田新幹線」の線路として生まれ変わったのは、JR化後の平成9年のことである。

だが、この秋田岩手両県民の百年の大計の影で、ひっそりと放棄され、既に忘却の彼方へと消えてしまったかのような、橋場線の休止区間が存在する。

それが表題の橋場駅と、橋場駅に隣接する約1kmの休止線である。

橋場駅の休止は、太平洋戦争が激烈を極めた昭和19年に行われた。

政府は不足しつつあった鉄材の補給のため、軍事上重要でないと判断された鉄道のレールを剥がして転用するという、世に言う「不要不急路線」のレール供出を強制

[10] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://yamaiga.com/rail/hasiba/main.html

ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。

その駅は、橋場駅という。

国鉄橋場線の終着駅である。

だが、この駅が機能を停止して、既に60年以上の時間が過ぎている。

橋場駅は、鉄道省の 橋場軽便線 (軌間1067mm)の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。

県都盛岡から西へ約24km延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は、当時人口1000人ほどであった岩手郡御明神村(現在の雫石町の西部)にあり、その沿線には小岩井農場などの牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても、単独で採算性があるような路線ではなかった。

やがては橋場駅の西に奥羽山脈を貫通する大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)から大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(または盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。

そのためか、開通翌年の大正12年には軽便鉄道から普通鉄道に格上げされ、 橋場線 へと改称された。

同じ使命を帯びた秋田県側の生保内線が、大曲から生保内まで開業したのは大正13年のことで、橋場線と生保内線という2つの盲腸線が、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て向き合う形となった。

その後、政局のうねりや太平洋戦争による工事の中止など、次々に難局に見舞われ、奥羽山脈の貫通という終局の目的は容易に達成されなかったが、計画自体は死滅せず、昭和41年になって、鉄建公団の手でようやく 国鉄生橋線 が開通。

生橋線は橋場線および生保内線と併合されて、全線開業と同時に 国鉄田沢湖線 が誕生した。

橋場線の開通から、実に45年もの歳月が流れていた。

その後もローカル線でしかなかった田沢湖線が、軌間1435mmへ改軌されたうえ「秋田新幹線」の線路として生まれ変わったのは、JR化後の平成9年のことである。

だが、この秋田岩手両県民の百年の大計の影で、ひっそりと放棄され、既に忘却の彼方へと消えてしまったかのような、 橋場線の休止区間 が存在する。

それが表題の橋場駅と、橋場駅に隣接する約1kmの休止線である。

橋場駅の休止は、太平洋戦争が激烈を極めた昭和19年に行われた。

政府は不足しつつあった鉄材の補給のため、軍事上重要でないと判断された鉄道のレールを剥がして転用するという、世に言う「不要不急路線

[12] 国道46号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%9346%E5%8F%B7

概要[編集]

陸上距離:118.7km

起点:岩手県盛岡市上田3丁目2番1(NHK前交差点=国道4号交点、国道281号・国道282号起点)

終点:秋田市川尻町字大川反233番7(臨海十字路=国道7号交点、国道13号終点)

主な経由地:仙北市、大仙市

指定区間:全線

歴史[編集]

1953年5月18日 二級国道105号秋田盛岡線(秋田県秋田市 - 岩手県盛岡市)

1963年4月1日 一級国道46号(岩手県盛岡市 - 秋田県秋田市) - 105号を昇格。105号は大曲市 - 大館市に。

1965年4月1日 一般国道46号(岩手県盛岡市 - 秋田県秋田市)

2012年12月 2012年12月2日に起きた笹子トンネル天井板落下事故に伴い、仙岩トンネルが笹子トンネルと同構造の天井板が設置されているため緊急点検の対象となった。国土交通省の発表によると、吊り金具が約2,500本中1本、両端支持金具が約2,500本中2本欠落していることが判明し、即時補充された。また、天井板約13,000枚中7枚に劣化が見付かったため、合板を仮設置して応急処置し、代替の天井板を入手次第交換するとしている。

重複区間[編集]

国道341号:秋田県仙北市田沢湖生保内字野中(野中交差点) - 秋田県大仙市協和境字岸館(上淀川交差点)

国道105号:秋田県仙北市田沢湖小松字山崎(本町交差点) - 秋田県仙北市田沢湖小松字城廻(城廻交差点)

国道13号:大仙市協和境字岸館(上淀川交差点) - 秋田県秋田市川尻町字大川反(臨海十字路・終点)

通過する自治体[編集]

岩手県

盛岡市 - 岩手郡滝沢村 - 岩手郡雫石町

秋田県

仙北市 - 大仙市 - 秋田市

接続路線[編集]

※バイパスのうち、盛岡西バイパスを除く(当該記事を参照)。

一般国道・高速道路[編集]

岩手県

国道4号(※国道4号重複=国道281号・国道282号、いずれも滝沢村方面へ重複、起点)(盛岡市・NHK前交差点起点)

東北自動車道盛岡IC(盛岡市)

秋田県

国道341号(仙北市・野中交差点 -(重複)- 大仙市・上淀川交差点)

国道105号(仙北市・本町交差点 -(重複)- 城廻交差点)

国道13号(※大曲方面へ国道341号と重複)(大仙市・上淀川交差点 -(重複)- 秋田市・臨海十字路終点)

秋田自動車道秋田南IC(秋田市)

国道7号(秋田市・

[13] ◆旧国鉄橋場線橋場駅◆, , http://www.cafe-dragoon.net/trip/rosen/tazawako_line/hashiba/index.html

(概要と説明)

橋場駅は当初、盛岡と大曲を結ぶ鉄道として軽便鉄道法により計画された路線上の駅として計画された。盛岡側からは橋場軽便線(はしばけいべんせん)として1922(大正11)年6月25日に盛岡=橋場間が、大曲側からは生保内軽便線(おぼないけいべんせん)として1923年に大曲=生保内(現在の田沢湖)間が開業し、橋場駅は仮の終着駅として誕生した。

ちなみに1922年の軽便鉄道法廃止により、それぞれ橋場線(はしばせん)、生保内線(おぼないせん)と改称されている。

その後、政府の緊縮財政などにより見送られたが、昭和に入りようやく橋場=生保内間の計画が認められ、工事線生橋線として着工された。この時の計画は、国見温泉方面を経由した国道46号線仙岩峠旧道に近似したルートであった。

ところが、生保内側からは6kmの志度内の手前数十mまでのレールまで敷いて路盤ができ、後は難所の仙岩峠を越えるだけという段階で日中戦争の激化により中止された。さらに戦争継続上必要であった鉄材の確保のため軍事上重要でない路線を休止して、レールを剥がして活用しようとした。いわゆる不要不急線である。この橋場線も例外ではなく、雫石=橋場間7.7kmが不要不急線と指定されてしまった。レールは取り外されて、貨物輸送で磨り減った山田線のレール交換に転用された。こうして1944(昭和19)年10月1日、橋場駅は「休止」となった。

戦後、建設中止となった生橋線、そして休止された橋場線を復活させようとの気運が高まり、この橋場駅にも線路が戻ってくるはずだったが、結果は意外な展開となった。

当時、新線建設には国から補助金が出されていたので、かつての橋場線の復活では補助金がもらえないため、計画を改めて雫石=赤渕間を新線として開通させることにした(1964(昭和39)年9月10日延伸開業)。さらに生橋線のルートも橋場=生保内から、赤渕=生保内に変更。当初の計画では現在の国道46号線に沿ったルートだったが、赤渕からまっすぐ生保内を目指すルートへ変更され、赤渕から橋場の間に線路が敷かれることはなく完全に放棄された。ただ書類上は「廃止」されたわけではなく「休止」扱いとなっている。

一方新ルートで建設された路線は1966(昭和39)年9月10日の生保内=赤渕間完成により全線開通し、名称も「田沢湖線」となった。

「この地

[14] 五能線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%BD%E7%B7%9A

路線データ[編集]

管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)

区間・路線距離(営業キロ):147.2km

駅数:43(起終点駅含む)

五能線所属駅に限定した場合、奥羽本線所属の東能代駅と川部駅[1]が除外され、41駅となる。

軌間:1067mm

複線区間:なし(全線単線)

電化区間:なし(全線非電化)

閉塞方式:特殊自動閉塞式(電子符号照査式)

運転指令所:秋田総合指令室(CTC)

最高速度:85km/h

全線秋田支社の管轄である。

運行形態[編集]

運転系統は途中の深浦駅を境におおむね区分される。一部は深浦駅をまたいで運転される列車があるが、一部の臨時列車をのぞいて深浦駅で列車番号が変更される。

東能代側では、東能代駅 - 能代駅間の区間列車が多く、運転本数は同区間の運転列車の3分の2を占める。これは奥羽本線から能代市の中心部にある能代駅を接続する役割があり、1時間あたり1本程度運転されている。その他、東能代駅 - 岩館駅間の区間列車がある。岩館駅 - 北金ヶ沢駅間については海沿いを走るため、吹雪・強風・高波による運休が年に何回かある。臨時快速列車をのぞけば岩館駅 - 鰺ヶ沢駅間で4 - 7時間ほど運転されない時間帯がある。

川部側では、快速「深浦」をのぞく全列車が奥羽本線に乗り入れ弘前駅に直通する。深浦駅 - 弘前駅間の列車のほか、鰺ヶ沢駅 - 弘前駅間の区間列車が半数を占めていて、1 - 2時間に1本程度運転されている。また、深浦駅 - 青森駅間に快速「深浦」が1往復運転されているが、五能線内は各駅に停車する。

一部列車(東能代駅 - 能代駅間の区間列車は全列車)においてワンマン運転が行われている。

リゾートしらかみ[編集]

詳細は「リゾートしらかみ」を参照

日本海の海岸沿いを走るというロケーションを活かし、土曜休日を中心に観光列車が運転されている。1990年から50系客車を使用した「ノスタルジックビュートレイン」が運転を開始したが、冬季運転の困難などにより1997年にキハ40系気動車による快速「リゾートしらかみ」に置き換えられた。運転区間は、秋田駅 - 東能代駅 - (五能線) - 弘前駅・青森駅間である。2003年と2006年にはそれぞれ編成が増備されて1日3往復の運転(冬期は最大2往復。通常は土曜・日曜日のみの1往復)となり、五能線の顔となっ

[15] 滝沢市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E5%B8%82

歴史[編集]

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、南岩手郡滝沢村・鵜飼村・大沢村・篠木村・大釜村の区域をもって滝沢村が発足。

1897年(明治30年)4月1日 - 所属郡が岩手郡に変更。

1965年(昭和40年)10月25日 - 村章・村歌・滝沢音頭を制定[1][2][3][4]。

1989年(平成元年)4月1日 - 村制100周年。

1990年(平成2年)8月17日 - 村民憲章を制定[5]。

2014年(平成26年)1月1日 - 滝沢村が市制施行して滝沢市となる。

単独市制移行に向けての経緯[編集]

2013年12月1日の時点で岩手県内13市15町5村のうち7番目に人口が多く、市に昇格可能なだけの人口には早くから到達していたものの、長らく「村」にとどまっていた。これは、峠を挟んで巣子地区(旧・滝沢村周辺)と鵜飼地区(旧・鵜飼村周辺)に世帯・商業地が分散してしまっているため、村内にはっきりとした市街地の集積がないことや、村民の多くは隣接する盛岡市に通勤・通学し、普段の買い物に関しても盛岡にほぼ依存しており、盛岡市のベッドタウンとしての位置づけが強いことなど、人口以外の「市となる条件(地方自治法 第八条第一項)」を満たしていないためであった。

さらに、市となる条件を満たしていないという直接的な理由のほかにも、「村」という言葉に人が抱く「のどかで豊かな美しい場所」というイメージのブランド性を維持するためという、戦略上の理由もあった[6]。

中核市指定を目指していた盛岡市との合併案も持ち上がり、盛岡市では合併協議会も設立されたが、滝沢村民による強い反対により実現しなかった。なお盛岡市は2006年(平成18年)、岩手郡玉山村を編入合併して人口30万人を達成し、2008年(平成20年)4月に中核市に指定されている。

滝沢村単独で市制施行することについては、1997年(平成9年)に当時の村長だった柳村純一が意欲を示したものの、その時は結局実現に至らなかった。しかし、全国の人口5万人以上の町村は大半が単独市制に移行している[7]ことや、2009年(平成21年)度の村民アンケートで盛岡市との合併に反対する意見が63.5%と、2007年(平成19年)度調査より2.2ポイント上昇していることなどを背景に、2011年(平成23年)から市制移行に向けた動きが再び始ま

[16] 岩泉線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%89%E7%B7%9A

岩泉線(いわいずみせん)は、かつて岩手県宮古市の茂市駅と同県下閉伊郡岩泉町にある岩泉駅を結んでいた東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

茂市駅で山田線から分岐していた、第二次世界大戦中に耐火煉瓦の原料となる耐火粘土の輸送のために建設された路線で、日本国有鉄道(国鉄)時代に特定地方交通線第2次廃止対象線区に選ばれていた[1]が、並行する道路が整備されていなかったため、代替道路未整備を理由に名松線[注釈 1]とともに廃止対象から除外された[2]。2010年7月31日に発生した土砂崩れによる脱線事故のため、以来全線で運休になっていたが、2012年3月30日にJR東日本は鉄道での復旧を断念し、バスによって輸送を継続したいという方針を発表し[3]、2013年11月8日に廃止届が提出され[4]、2014年4月1日に廃止された[5][6]。

歴史[編集]

全通までの経緯[編集]

岩泉線の歴史は、1922年に公布された改正鉄道敷設法の別表第8項に掲げる予定線として「岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ袰野[注釈 2]付近ニ至ル鉄道及落合付近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道」と規定されたものに端を発する[8]。この予定線は、袰野で三陸海岸沿いに走る別の予定線「岩手県久慈ヨリ小本ヲ経テ宮古ニ至ル鉄道」(別表第6項)[注釈 3]に接続するものであった[8]。

この予定線は直ちに建設に着手される見込みはなかった[8]が、第二次世界大戦に入ると、小本川上流で耐火煉瓦の原料となる耐火粘土が採掘されることから、これを輸送する路線として山田線茂市駅から浅内駅に至る鉄道路線が着工されることになった[7][注釈 4]。

この路線は小本線と称し、まず1942年6月25日に茂市駅から岩手和井内駅までの区間が開業した[8]。次いで岩手和井内駅から押角駅までの区間も1944年7月20日に開業した[2]が、この時点では岩手和井内駅以遠の区間は貨物輸送のみであった[2]。その先も浅内駅までの延長工事が進められていた[2]が、第二次世界大戦中には開通せず、耐火粘土は索道によって押角駅まで運ばれていた[2]。また、木材輸送も行われていた[8]。

終戦後も工事は継続され、押角トンネルが貫通した出口に宇津野駅を設け[2]、1947年11月25日に押角駅から宇津野駅までの区間も開業[8]、これと同時に岩手和井内駅か

[17] 陸羽東線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%BD%E6%9D%B1%E7%B7%9A

陸羽東線(りくうとうせん)は、宮城県遠田郡美里町の小牛田駅から山形県新庄市の新庄駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。

路線データ[編集]

管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)

区間・路線距離(営業キロ):小牛田駅 - 新庄駅 94.1 km

駅数:27(起終点駅含む)

陸羽東線に限定した場合、起終点駅(小牛田駅は東北本線、新庄駅は奥羽本線の所属[1])が除外され、25駅となる。

軌間:1,067 mm

複線区間:なし(全線単線)

電化区間:なし(全線非電化)

閉塞方式:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)

運転指令所:小牛田CTC

最高速度:

小牛田駅 - 鳴子温泉駅間 95 km/h(キハ110系またはキヤE193系気動車列車時に限る。それ以外は85 km/h)

鳴子温泉駅 - 新庄駅間 85 km/h

最急勾配:18.2 ‰(鳴子温泉駅 - 赤倉温泉駅間)

新庄駅から南新庄駅の南側付近までは奥羽本線と並行して線路を敷設している。複線路線のように見えるが、奥羽本線は山形新幹線走行のため標準軌に改軌しており、双方の線路は完全に独立している。なお、改軌以前も単線並列となっていた。また陸羽東線は非電化のため、陸羽東線側の線路には架線はない。南新庄駅も地図上は奥羽本線上にあるように描かれているものもあるが、奥羽本線には南新庄駅はなく、陸羽東線上だけにホームが設けられており同線の列車のみ停車する。1915年の陸羽東線開業以来このようになっているが、1944年から1960年の間は陸羽東線の線路を撤去し奥羽本線と共用していた。ただし、1960年の増設線路はもともとは奥羽本線用に増設したものを、戦前のように陸羽東線が使うことに決定したものである。

全線が大都市近郊区間の「仙台近郊区間」で、小牛田駅・古川駅・鳴子温泉駅でICカード乗車券「Suica」が利用可能である[2]。

全区間が仙台支社の管轄である。国鉄時代は前述の奥羽本線との並行区間については、同線と同様に秋田鉄道管理局の管轄だった。

運行形態[編集]

各臨時列車については「#過去の観光臨時列車」を参照

基本的に普通列車のみの線内運転で、系統としては鳴子温泉駅を境に東西に分割されているが、少数ながら全線を通して運転される列車も設

[18] 鉄道写真:中山峠と〈奥の細道〉を行く 陸羽東線・中山平−堺田, , http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/sl/sl164.html

自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp

SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|

HOME

|

SL写真展 ( INJEX ) 

|

田辺のリンク集

|

メール

|

…………………………………………………………………………………………………

・奥の細道に沿った陸羽東線

164. 

中山峠と「奥の細道」

・陸羽東線/中山平−堺田

〈0001:中山峠を登る〉

〈0002:梁を渡る〉

〈0003:中山平から堺田へ進入〉

…………………………………………………………………………………………………

〈紀行文〉

今回は陸羽東線の下り列車を、鳴子温泉を過ぎてV字谷の大谷川の断崖をのごって台地状の中山平を過ぎて、国道47号線とからみながら開けた高原のような雰囲気を感じさせる中山峠手前の辺りで撮った二大をお目に掛けたい。重連の発車地点である川渡の先で荒尾川を渡って西岩の断崖を登り始めた陸羽東線は支流の大や川を四回渡っている。その最三大や川橋梁では中山平の先で大や川と、それに流れ込む軽井沢川、そして砂利道の国道47号線を一括して跨いで大家川の北側の山すその高台をサミットに向かって最後の勾配を登っている。ここからはしばらく道路と鉄路は並走しており、築堤を進む列車を下から仰ぎ見て追い掛ける構図も素晴らしい。

やがて宮城/山形の県境が近づいて来ると、陸羽東線が改良された国道を堺田架道橋で跨いでイル所に手合うのだが。渡しが通い始めた昭和43ねん頃の昔の砂利道の国道は大谷川と関沢川と一緒に第四大谷川橋梁の下を潜って峠に向かっていたのだった。この第四大谷川橋梁は大谷川の最も上流に位置しており、長さも高さも違う橋桁が各一連が煉瓦積みの橋台と、石積みの橋脚に架かっていた。

このような峠のサミットでもない所が県境となっているのには人間臭さが感じられる。その昔から北出羽街道の中山越における新庄領と伊達領の境目は明確な線引きが行われていなかったようで、後に紛争が絶えなかったが、幕府の裁定に持ち込まれて、正保2年(1645年)に境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解したと云う

こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。この境目は今日も県境として引きつがれている。二万五千分の一地形図を見ると、第四大谷川橋梁は山形県

[19] 八高線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A

八王子駅 - 高麗川駅間 [ 編集 ]

中央本線 上りホームの反対側1番線から 八王子駅 を発車すると、右手に 横浜線 が分岐し 京王線 を跨ぐ。左へカーブし中央本線から分かれ、 浅川 を渡り、 国道16号 ( 八王子バイパス )を跨いで勾配を上っていく。 国道20号 (甲州街道)を潜って巨大な倉庫や工場の林立する 北八王子駅 に到着する。北八王子を発車すると勾配を下り、 中央自動車道 を潜ると間もなく 小宮駅 に到着し、勾配を下りながら 1945年 に 八高線列車正面衝突事故 のあった 多摩川橋梁 にかかる。多摩川両岸に向き合う 東京都下水道局 の二つの 下水処理場 を右手に見ながら鉄橋を渡ってしばらく直線に進むと 青梅線 を跨ぎ、青梅 電留線 、 米軍横田基地線 、 保線 基地などを大きく抱き込む形で左にカーブし、右手から 西武 拝島線 が寄り添ってきて 拝島駅 に到着する。

拝島駅を出るとすぐ国道16号の武蔵野橋を、 五日市線 、青梅線とともにくぐり、両線を左に分けながら住宅街の間のゆるい勾配を直線で上り、 東福生駅 に到着。東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の路線は 横田基地 拡張にともない付け替えられたが、基地を完全に迂回したわけではなく、駅を出るとしばらく基地内の住宅やスーパーマーケットの間を走る。基地内を出て右に並行していた国道16号が、 瑞穂バイパス となり下をくぐって左に分かれていくと、コンクリート壁の間を抜ける。この部分は 滑走路 からすぐの延長線上にあり、未電化時代は トンネル となっていた部分である。これは昔、 飛行機 からの部品落下などが時おりあったためだが、飛行機の安全性向上もあり、電化の際に 架線 を張る邪魔になるため上部が取り壊された。 新青梅街道 を跨いですぐに、 箱根ケ崎駅 に到着。箱根ケ崎駅は拝島方面からの折り返し列車もある。以前は待避線もあったが撤去された。

箱根ケ崎駅を出ると、かつては本線の右側を複線のように貨物線が並走していた。撤去された現在は草に覆れ面影が乏しい。ゆるい登り勾配を進むと、瑞穂バイパスの跨線橋をくぐる。ここで、八王子駅から当線の左右を並行して走ってきた国道16号と一旦別れ、 川越市 までは、当線と 川越線 とは全く別ルートを走る。 埼玉県 入間市 に入り、 狭山茶 の 茶畑 の中を走り標高158メートルの八高線最高

橋場線

橋場線

履歴

[25] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933402833

メモ