毛馬水門

毛馬水門

[1] 毛馬水門 (けますいもん) , 毛馬閘門 (けまこうもん) , 毛馬排水機場 (けまはいすいきじょう) , 毛馬洗堰

34.7204033475013 135.516840219498

Webページ

[2] 毛馬水門 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%A6%AC%E6%B0%B4%E9%96%80

毛馬水門(けますいもん)は、大阪府大阪市北区にある淀川と旧淀川(大川)を隔てる水門。大川に流れる水量を調整する役目と同時に、淀川と大川の水位差により困難となる船舶の通過をスムーズにさせるための設備である閘門 および 大川の水を強制排水するための機能を備えている。 本頁では、国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所毛馬出張所 および 大阪府西大阪治水事務所 が管理している設備のうち、「毛馬閘門(けまこうもん)」「毛馬排水機場(けまはいすいきじょう)」を含む旧淀川側にある施設について解説する。

[3] 淀川大堰 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%A0%B0

淀川大堰付近の空中写真。淀川大堰左岸(右下)の毛馬水門を経て南東方向へ分流するのが旧淀川(大川)である。1985年撮影。

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

淀川大堰(よどがわおおぜき)は大阪府大阪市都島区毛馬町4丁目と東淀川区柴島2丁目にまたがる、一級河川・淀川本流に建設された堰である。

国土交通省近畿地方整備局と独立行政法人水資源機構が共同で管理を行う可動堰で、1964年(昭和39年)に完成した長柄可動堰を改造して1983年(昭和58年)に完成した淀川最下流にある河川施設である。大阪府と兵庫県への上水道と工業用水道供給を目的にしている。

沿革[編集]

古くから京阪神の大動脈として利用されていた淀川であるが、戦後高度経済成長に伴って阪神工業地帯の生産が拡大。それに伴って大阪市を中心とする地域では人口が爆発的に急増した。このため従来の水道施設では増え続ける人口へ対処できないことから、新たな水資源の開発が課題となった。

1962年(昭和37年)、水資源開発促進法が制定されて首都圏と関西圏への水資源需要に対応するための水資源開発公団[1]が発足。淀川水系は利根川水系と共に水資源開発を重点的に行う「水資源開発水系」に指定された[2]。これにより淀川水系では淀川水系水資源開発基本計画が策定され、上流部に高山ダム(名張川)・青蓮寺ダム(青蓮寺川)・室生ダム(宇陀川)が建設された。下流部には新淀川と旧淀川分離の際に建設された可動堰があったが、これを改良して大阪府・兵庫県への新規上水道・工業用水道供給を行うことを目的に改造。1964年8月1日に旧大阪中央環状線・長柄橋沿いに長柄可動堰が完成した。

その後建設省近畿地方建設局[3]は1971年(昭和46年)3月に淀川水系の治水計画の基本となる淀川水系工事実施基本計画を改定し、淀川下流部[4]における計画高水流量を大幅に改定した。この中で200年の一度の水害に対応する治水計画にするため、予想する流量を当初計画の約二倍にあたる毎秒12,000tの洪水量とした。こうした大幅な流量増加に対応すべく上流では日吉ダム(桂川)・比奈知ダム(名張川)の建設、中流部では堤防の増強、下流では新淀川・旧淀川の掘削と拡張によって治水を行おうとした。ところが、下流部の河道掘削と拡張を行う際に、長柄可動堰は洪水を安全に流下させる阻害要因に

[4] @nifty:デイリーポータルZ:線路を歩ける橋、赤川鉄橋をくぐる、渡る, , http://portal.nifty.com/kiji/130607160840_1.htm

赤川鉄橋は、全国的にもかなり有名な橋で、ドラマのロケ地になったことなんかもあるらしい。複線の鉄道橋として架けられたが、現在下流川の単線しか利用されていないため、上流側を大阪市が借り受け、歩行者専用の「赤川仮橋」として運用している。しかし、ついに複線化の工事が始まるため、この秋までで「赤川仮橋」の運用は終了するのだそうだ。

というわけで、「せっかくだし、船でくぐりに行きましょうか」ということになった。どちらかというと、大阪で船に乗ることになったので、「なんなら赤川鉄橋でも行きましょうか」という順番なのだが、まぁ細かいことはいいだろう。

船に乗るのが好きなのだ。

[5] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

履歴

[22] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933392497

メモ