恐ろしいねじれ穴を攻略した私は、更なる奥地に眠ると言う、もう一つの隧道を求め更に沢を遡ることにした。
しかし、この先には道が無い。
やはり、この隧道が上流へ向かう道だったのであろうか?
やむを得ず、隧道上を直接越えることにした。
すると、河岸の険しい崖の上部には意外なほど広い平地が広がっていた。
そして、再び斜面を下ると。
反対側の坑門が存在していたと思われる部分には、小さな小さな穴が口をあけていた。
しかし、とても人が入れる大きさは無い。
顔を入れることさえ出来ない。
覗き込むと、内部にも狭い空洞が続いていることが分かる。
だが、大きな隧道が埋没した姿と言うよりかは、もともと人の入れる隧道ではなかったように見える。
やはり、隧道最奥部で見た土管と、この小さな穴は続いているのだろうか?
とすれば、やはり水路として利用されていた隧道、いや、水道だったのか。
ただ、隧道内部で見た崩落閉塞点の先が、どこかへと通じていたのだとしたら、それは、どこなのだろう。
付近には、隧道の坑門とおぼしき物は見当らない。
謎の多い隧道であった。
再び上流へ向けて歩き出すと、先ほどまでと同じような道が現れた。
特に険しい部分には土橋が桟橋状に設けられており、ビニールで底面を補強した形跡がある。
このビニールの残骸と、
道は非常に緩やかな勾配で、一方的に上っているということ。
途中にわざわざ多数の桟橋を設け、可能な限り水平を保つように設計されていること。
さらに、先ほど見たとおり、この険しい河岸の断崖を敢えて通らずとも、広い河岸段丘が存在していること。
これらのことから、この道は、水路だったのだろうとほぼ断定できる。
現在では荒野となってしまったようだが、下流木曽石の河岸段丘上には、「開拓田」と呼ばれる地名があった事を『秋田山想会著 太平山登山総ガイド(1979刊)』から知った。
この水路との関連は不明である。
桟橋の一部は腐り、崩落しかけている。
これらの場所は、細心の注意を払って斜面に張り付いて進む。
斜面が幾分緩やかな場所は、概ね笹薮に覆われている。
そして、そこには未だ水を蓄えた水路が残されていた。
もっとも、淀んだ水に流れは無い。
だが、この道が、本来は水路であった証といえるだろう。
河床もだいぶ狭くなり、流量も減ってきた