銚子の滝

銚子の滝

[1] 銚子の滝

Webページ

[2] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/kanayamataki_3.html

恐ろしいねじれ穴を攻略した私は、更なる奥地に眠ると言う、もう一つの隧道を求め更に沢を遡ることにした。

しかし、この先には道が無い。

やはり、この隧道が上流へ向かう道だったのであろうか?

やむを得ず、隧道上を直接越えることにした。

すると、河岸の険しい崖の上部には意外なほど広い平地が広がっていた。

そして、再び斜面を下ると。

反対側の坑門が存在していたと思われる部分には、小さな小さな穴が口をあけていた。

しかし、とても人が入れる大きさは無い。

顔を入れることさえ出来ない。

覗き込むと、内部にも狭い空洞が続いていることが分かる。

だが、大きな隧道が埋没した姿と言うよりかは、もともと人の入れる隧道ではなかったように見える。

やはり、隧道最奥部で見た土管と、この小さな穴は続いているのだろうか?

とすれば、やはり水路として利用されていた隧道、いや、水道だったのか。

ただ、隧道内部で見た崩落閉塞点の先が、どこかへと通じていたのだとしたら、それは、どこなのだろう。

付近には、隧道の坑門とおぼしき物は見当らない。

謎の多い隧道であった。

再び上流へ向けて歩き出すと、先ほどまでと同じような道が現れた。

特に険しい部分には土橋が桟橋状に設けられており、ビニールで底面を補強した形跡がある。

このビニールの残骸と、

道は非常に緩やかな勾配で、一方的に上っているということ。

途中にわざわざ多数の桟橋を設け、可能な限り水平を保つように設計されていること。

さらに、先ほど見たとおり、この険しい河岸の断崖を敢えて通らずとも、広い河岸段丘が存在していること。

これらのことから、この道は、水路だったのだろうとほぼ断定できる。

現在では荒野となってしまったようだが、下流木曽石の河岸段丘上には、「開拓田」と呼ばれる地名があった事を『秋田山想会著 太平山登山総ガイド(1979刊)』から知った。

この水路との関連は不明である。

桟橋の一部は腐り、崩落しかけている。

これらの場所は、細心の注意を払って斜面に張り付いて進む。

斜面が幾分緩やかな場所は、概ね笹薮に覆われている。

そして、そこには未だ水を蓄えた水路が残されていた。

もっとも、淀んだ水に流れは無い。

だが、この道が、本来は水路であった証といえるだろう。

河床もだいぶ狭くなり、流量も減ってきた

[3] 京都寺社案内*法厳寺(牛尾観音), , http://everkyoto.web.fc2.com/report1323.html

山科音羽の法厳寺(ほうごんじ)は音羽山(おとわやま)の西南にある支峰、牛尾山(うしおやま)の中腹に建つ。かつては清水寺の奥の院といわれた。厳法寺(ごんぽうじ)とも称された。通称を牛尾観音(うしおかんのん)、牛尾山(うしのうざん)ともいう。山号はかつて牛尾山、現在は牛王山(うしのおさん)という。

単立の本山修験宗。本尊は十一面千手観音。

京の通称寺霊場33番、牛尾観音。

◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。

奈良時代、778年、また延暦年間(782-806)、創建されたとの伝承がある。かつて、現在地よりも山頂よりにあったという。

平安時代、真言宗開祖・空海(弘法大師、774-835)、文徳上人、天台宗・円仁(慈覚大師、794-864)、天台寺門宗の宗祖・円珍(智証大師、814-891)、真言宗小野流の祖・聖宝(理源大師、832-909)、真言宗小野流の祖・仁海(951-1046)らが入山したという。(寺伝)

平安時代中期、観音信仰により栄える。

その後、衰微する。

南北朝時代(1333-1392)、全山が焼失する。山麓の小山ノ里の内海覚念は、焼跡に草庵を結び諸仏像を安置する。

室町時代、1480年、牛尾観音参詣について記されている。旧地は現在地より山上4、5町の処にあったという。(「山科家礼記」、同年条)

安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉は祈願成就の報恩に、寺社奉行・前田玄以をもって当山の再興を行わせる。

その後、焼失し、荒廃する。

近世(安土・桃山時代-江戸時代)、再建された。観音信仰により賑わう。

江戸時代、1685年、廣瀬三郎は寛存上人を迎え再興する。寛存は中興第一世になる。

1689年、浄遍上人が入山し、現在の本堂が再建される。浄遍は中興二世になる。

1710年、赤穂浪士の大石内蔵助は仇討の成就を当寺に祈願し、毎夜、人目を避け当山に祈願したという。

1831年、門空上人が入山する。

1847年、現在の本堂が建立されたともいう。

幕末、第121代・孝明天皇(1846‐1867)の頃、勤皇の志士らの密議の場として使われたという。

現代、1945年、山号を牛尾山より牛王山に改める。

◆延鎮 平安時代前期の法相宗の僧・延鎮(生没年不詳)。報恩に師事、没後、大和に 高野山真言宗の子島(嶋)寺を継いだ。優婆

履歴

[4] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933384574

メモ