奥羽本線

奥羽本線

[1] 奥羽本線 (おううほんせん)

40.8261788758563 140.707397460938

Webページ

[2] 奥羽本線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E6%9C%AC%E7%B7%9A

奥羽本線(おううほんせん)は、福島県福島市の福島駅から、山形県と秋田県を経由して青森県青森市の青森駅に至る鉄道路線(幹線)である。 福島駅 - 新庄駅間の山形新幹線「つばさ」運転区間には、山形線(やまがたせん)の愛称がつけられている。この区間についての詳細は「山形線」を参照のこと。

[3] 陸羽東線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%BD%E6%9D%B1%E7%B7%9A

陸羽東線(りくうとうせん)は、宮城県遠田郡美里町の小牛田駅から山形県新庄市の新庄駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。

路線データ[編集]

管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)

区間・路線距離(営業キロ):小牛田駅 - 新庄駅 94.1 km

駅数:27(起終点駅含む)

陸羽東線に限定した場合、起終点駅(小牛田駅は東北本線、新庄駅は奥羽本線の所属[1])が除外され、25駅となる。

軌間:1,067 mm

複線区間:なし(全線単線)

電化区間:なし(全線非電化)

閉塞方式:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)

運転指令所:小牛田CTC

最高速度:

小牛田駅 - 鳴子温泉駅間 95 km/h(キハ110系またはキヤE193系気動車列車時に限る。それ以外は85 km/h)

鳴子温泉駅 - 新庄駅間 85 km/h

最急勾配:18.2 ‰(鳴子温泉駅 - 赤倉温泉駅間)

新庄駅から南新庄駅の南側付近までは奥羽本線と並行して線路を敷設している。複線路線のように見えるが、奥羽本線は山形新幹線走行のため標準軌に改軌しており、双方の線路は完全に独立している。なお、改軌以前も単線並列となっていた。また陸羽東線は非電化のため、陸羽東線側の線路には架線はない。南新庄駅も地図上は奥羽本線上にあるように描かれているものもあるが、奥羽本線には南新庄駅はなく、陸羽東線上だけにホームが設けられており同線の列車のみ停車する。1915年の陸羽東線開業以来このようになっているが、1944年から1960年の間は陸羽東線の線路を撤去し奥羽本線と共用していた。ただし、1960年の増設線路はもともとは奥羽本線用に増設したものを、戦前のように陸羽東線が使うことに決定したものである。

全線が大都市近郊区間の「仙台近郊区間」で、小牛田駅・古川駅・鳴子温泉駅でICカード乗車券「Suica」が利用可能である[2]。

全区間が仙台支社の管轄である。国鉄時代は前述の奥羽本線との並行区間については、同線と同様に秋田鉄道管理局の管轄だった。

運行形態[編集]

各臨時列車については「#過去の観光臨時列車」を参照

基本的に普通列車のみの線内運転で、系統としては鳴子温泉駅を境に東西に分割されているが、少数ながら全線を通して運転される列車も設

[4] 奥羽本線旧線・きみまち阪公園付近の隧道群・その5: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2012/09/post-8d09.html

第四小繋隧道の探索を終え、見つけることができない第三小繋隧道は放置プレーし、次の第二小繋隧道を目指すため、再度道の駅二ツ井に戻ってきた。

道の駅を左手に見送りさらに先に進んで行くと、どこかの工場(こうば)か若しくは資材置き場のような場所が見えてくる。

この奥に目的の第二小繋隧道がある。

幸いゴールデンウィーク中は当然休みのようなので、ササッと脇道を通らせてもらった。

水場や水を流す堀のようなものがあり、長靴を持ってきていないのが本当につらかった。

そしてそれらを潜り抜けた先には・・・、

あった!!第二小繋隧道だ!!

足場がヘドロのような場所もあったため、慎重に近づいた。

そしてとうとう第二小繋隧道の目の前に立った。

第四小繋隧道以上に立派な坑門であった。全体が立派、というかレンガ造りだな。

隧道右上部には『No.2』と書かれていた。一発でこの隧道が第二小繋隧道だと分かっていいね(笑)

また坑門の下半分は両方とも崩れており、中の赤レンガがはっきり見て取れる。

それじゃ中に入ってみる。

この隧道は第四小繋隧道とは違い、出口付近が軽くカーブしているが、明かりは見えるため長さはそれほどでもなさそうだ。

またこの隧道はつい最近までキノコ栽培か何かのの場所として利用されていたようで、それらに使用されていたモノ(送風機なども残骸もあった)が地面にたくさん散らばっていた。

ガラスだけは踏まないように気を付けながら先に進んだ。

途中退避抗を撮影。

ちなみに右上の看板には『水位注意』と書かれていた。

反対側の出口が近づいてきたのだが、こちらは入口側よりもさらにひどい状況であった。

機材やら木材やらが足元一杯に散乱しており、出るのに大変苦労した。

・・・・・・まぁ勝手にここに来ているのはこっちのほうなのだが。

そして第二小繋隧道の反対側の坑門。

こちらは入口側とは違ってシンプルな坑門だが、予想以上にきれいであった。

坑門脇には『1955-9 工藤組』と刻まれていた。

また碍子の残骸がぶらーんとぶら下がっていた。

第二小繋隧道の側面も非常に丁寧に作られていた。

というかこれだけ出っ張ってしまうと列車が通るのに邪魔になるんじゃないかと心配してしまった。もちろんそんなことは無いのだろうが。

路盤跡はさらに向こうに続いていた。

次回は隧道は無いけど、最終回。

結構変わったものがあったよ。

[5] 奥羽本線旧線・きみまち阪公園付近の隧道群・その6(最終回): 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2012/09/post-e41d.html

第二小繋隧道を抜け、今回の探索の最終目的地を目指した。

隧道出口の左側には崩れた建物があった。その近くには耕作放棄された水田跡(畑跡?)があったので、それに関係する小屋だろうか?

それらを左手に見ながら先に進むと、目的物が見えてきた。

ここが今回の探索の最終目的地である七座信号所跡である。

信号所のホームなのでかなり簡素な作りになっている。

青森方面に向かって右側のホーム。

ちなみにホーム側面には『1965-9』と書かれたプレートが貼られていた。

こっちが逆に左側のホームである。

こちら側のホーム付近にはこの信号場に関連する建物の土台部分のようなものがあったが、どのようなものなのかはよくわからなかった。

この信号場の先には第一小繋隧道があるようだが、ちょっとこの先には進めそうにもないようなので諦めた。

と書くと聞こえはいいのだが、なんてことはない事前の調査が適当だったため、第一小繋隧道を失念していただけだった・・・orz

次回の宿題だなこりゃ。

振り返ってもう一度七座信号所跡を見てみる。

この信号場から国道へアプローチする道路があるため、アクセスは非常に容易だ。

また国道の戻る途中に湧水が湧いていた。水が冷たくて気持ちが良かった。

道の駅に戻る途中国道から第二小繋隧道の坑門が見えた。

この季節ならすぐに発見できる。

道の駅のすぐ近くの旧奥羽本線の路盤跡をずっと目で追いかけていたら、路盤下にレンガ造りの暗渠隧道が見えた。

そして道の駅ふたついに戻って今回の探索は終了。

若干心残りの部分もあったが(第一小繋隧道の未探索とか)、とりあえずはこんなもんでしょう。

この日は他の場所の探索もあったし、急いでそちらに向かったのであった。

[6] 奥羽本線旧線・きみまち阪公園付近の隧道群・その4: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2012/09/post-582f.html

ようやっとこさ隧道に会うことができた。

ちなみにこの隧道は第四小繋隧道という名前のようだ。

早速坑門をチェックしてみる。

キレイな馬蹄型の坑門であり、崩落箇所なども全然見当たらない。

よーしそれじゃ中に入るかと思ったら・・・、

ゲゲッ!汚くて入れない・・・

Σ(¯ロ¯lll)

今日は長靴を忘れてきたのでムリして突入することができないんだよね・・・。

しかも何かシダ植物のようなものも生え始めているし。

まぁ入れないなら入口から可能な限り調べてみるか。

というかこの隧道入口から少し入った場所でちょっとだけ狭くなっているな。

向こうはレンガ造りのようだから、後から入口だけ広くしたのだろうか?

もしそうだとしても意味が良くわからないのだが・・・・。

さてこちら側からはこれ以上調べることができなさそうだし、明らかに一直線の隧道で閉塞はしていなさそうなので、もう一度公園側に戻って隧道入口を探してみるか。

戻る途中もう一度米代川ときみまち坂公園の桜が見えた。

そして再度公園に戻ってきた。

先ほどの隧道の高さから考えて、実は思った以上に低い場所に線路があるようだから、写真に見える「桜まつり」の看板を左に進んだところ・・・・。

あっさり見つかりました・・・orz

さっきまでの捜索は一体何だったんだ・・・・・・・。

il||li _|¯|○ il||li

ま、気を取り直して調べてみるか。

ちなみに入口の坑門脇にはご丁寧に『奥羽本線旧トンネル(昭和46年まで使用)』とか書かれている。

どうせなら隧道の名前(第四小繋隧道)も書いてくれれば完璧だったんだけどなぁ。

内部に入ってみる。

まず長さだがそれなりに長そうだが、200メートルは無いだろう。

また入口左側の側面には『50』と『1956-11』と刻まれていた。

1956-11というのは完成(もしくは改修・拡張等の作業)が終了した年月日だと思われるが、『50』というのはどういう意味があるのだろうか?

まさかこの隧道の制限速度ではないと思うのだが・・・。

しかし右側の側面を見てみると『1968-3』と刻まれていたのだ?

左右で全く違う年月日が刻まれている・・・。どう解釈してよいモノやら・・・。

また隧道中央部付近で崩壊があったようだ。

向こう側からは全然わからなかったなこれ。

まぁ通ることができない隧道の調査はこれくらいにして、次の隧道を調べ

[7] 奥羽本線旧峯ノ山隧道その1: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2011/05/1-7fd1.html

5月GW連休の隧道探索の前半(田沢湖線旧刺巻隧道群)の探索を終え、続けて奥羽本線の新線切り替えに伴う廃隧道群の探索へと向かった。

途中角館を通ったのだが、桜まつりの最中だったらしく渋滞が始まっていた。

もちろん世界のサトアツは桜などより隧道が好きなので、無視してさっさと進んでいった。

今回紹介する隧道は峯ノ山隧道というのだが、この隧道は探索の直前まで全然存在を知らなかった。

刺巻隧道群の探索だけでは物足りないと思っていたのでネットでネタを探していたら見つかった、ということである。

目標の隧道は奥羽本線の羽後境駅と峰吉川駅の間にある。

この場所は来たことはないがある程度知っている。

何故かというと、むかし流行った電車でGOの秋田新幹線を運転したときに何度も通ったのだ(笑)。

なんだか意味不明な親近感の持ち方だが、それはそれ。これはこれ。

それぢゃ向かうか!

地図を見てみるとこの辺りが怪しそうだった。国道13号の脇にいかにも線路の保線用道路への入口っぽい場所があったのだ。

入ってすぐに写真のような施設があった。何の目的なのかはよくわからなかったが、よく見てみると雪が積もりすぎたら降ろしてくれみたいなことが書いてあり、いかにも豪雪地帯らしい説明文だなと感じた。

わけの分からない施設からかなり急な下り坂を降りたところ。道が結構湿っていたので靴がすべって大変だった。

で長年の勘からここら辺は新線と旧線の分岐っぽい場所だとピーンと来た。

そして後ろを振り返ったら・・・。

あった!!峯ノ山隧道だ!!!

そこからゴッツリして隧道へ向かおうと思ったら・・・。

入口付近水没してるやん!!

無理すればイケなさそうなこともないが、ほかの隧道探索もあることから南側坑門のアプローチを諦めることとした。(最後の隧道探索なら濡れるの覚悟で突っ込むこともあり得るかと思った。というか長靴持って来いよ俺・・・orz)

ここで立ち尽くしても仕方がないので、気を取り直して、それじゃあよし反対側(北側)から調べに行くこととした。

行こうとしたら秋田新幹線こまちがまたまたやってきた。

次回は北側坑門からアプローチ!

[8] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/daishaka.html

明治27年12月1日、後の奥羽本線の一部として建設された奥羽北線の最初の開業区間は、青森駅から弘前駅までの区間であった。

その大部分は広大な津軽平野にあり平坦な線路が続くが、途中一度だけ峠を越えている。

それが、青森市と浪岡町の境を成す大釈迦峠である。

これは、標高100m強に過ぎない丘陵状の峠であるが、その浪岡側には最大25‰の急勾配が控え、秋田青森県境の矢立峠と並び、奥羽北線を代表する難所であった。

この大釈迦峠が、勾配を緩和した新線に切り替えられたのは昭和38年のことであり、昭和40年前後に各所で路線の改廃が進んだ奥羽本線内でも、比較的早く交換された部分である。(災害を原因としない路線付け替えとしては最古)

そして、峠を貫く隧道が、取り残された。

奥羽本線で最も早く開業し、いち早く消えていった隧道とは、一体どんな姿なのか。

レポートしよう。

2004年2月18日。

この日の青森は変わりやすい天気だった。

空は、冬の透き通った青空が広がったかと思えば、今度は夕暮れのように暗い雷雲に閉ざされた。

そして、今また天候の急激な変化が起きつつあった。

国道7号線を、いよいよ大釈迦峠に向け登り始めようと言う、そのときに。

峠の登りが徐々に姿を現すも、道の両脇には民家が軒を連ね、事業所やコンビニまである。

勾配も緩やかで、とても困難な峠という景色ではない。

しかし、それでも私は全く容易ではなかった。

なぜならば、この雪だ。

降ってくる雪もそうだが、この、道の狭めるように路肩を埋める雪が、邪魔だ。

ここは天下の往来「国道7号」である。狭い歩道もあるにはあるが、全く除雪されておらず、全く用をなさない。

車道を走るのは専らのこととはいえ、路肩に寄れば濡雪に足を取られ、あまり車道に出ればトラックにクラクションを鳴らされ…。

どないせーちゅんじゃ!!(怒)

イライラしながら登っていたら、あっけなく峠に到着。

この時、天候は最悪の吹雪となっており、カメラを取り出すことも躊躇われた(壊れるから)。

人生初めてチャリで青森市入りするという感激もそこそこに、こんな所に立ちつくしていては、いつ車に轢かれるか分からない!

冬の山チャリ…、いや、とにかく冬のチャリは、めちゃくちゃ危険なのだ。

私が肌で感じる危険の度合いと言えば、そうだなー。

いつ

[9] 隧道レポート 奥羽本線旧線 唐牛隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/karausi/main.html

もはや廃線趣味の世界でも語り尽くされた感のある、東北地方もう一つの幹線鉄道、奥羽本線。

明治期に開業している路線の各所には、老朽化した煉瓦造りの旧隧道が放棄されたままに残り、それぞれの地域で独特の存在感を示している。

そして、そのうちの一本が、終点にそう遠くない青森県弘前平野の片隅に、残っている。

『鉄道廃線跡を歩く〈8〉』巻末資料の「全国線路変更区間一覧」(←この資料はシリーズ中でもおそらく最も役に立つので、全巻揃えるのはちょっと…という方でも、この巻だけは買った方がよいと思う) によれば、この旧線区間があるのは碇ヶ関駅と長峰駅の間で、廃止された旧線の延長は700mとある。複線化と線形改良、そして隧道の老朽化を理由にして、昭和46年に現在線へと切り換えられているようだ。

短い旧線区間に、隧道の数は一本。

現存するならば、おそらくは簡単に補足できそうな物件である。

だが、その短さ故か、或いは単にマイナーであるためか、これまで書籍やネット上で取り上げられたことがないのかも知れない。

私は2004年に探索しているが、今回はその模様をお伝えしよう。

なお、探索日は2004年2月18日である。

もう一度。

探索日は、2月18日である。

秋田発青森行きの奥羽本線始発列車に乗り込んだ私は、凍てついた鉄路が北へ、そして内陸へ進むにつれ、車窓の景色がモノトーンに変貌していく様を、ただ黙って見ていた。

そして、きつく暖房の効いた車内で、いつしか眠りに落ちていた私が目覚め、ようやくデッキへと移動を始めたのは、長い長い県境のトンネルを過ぎてしばらく経った頃だった。

矢立峠で青森県内に入って2つ目の駅である碇ヶ関に降りた。

木造の駅舎から出た途端、しんしんと落ちる綿雪が頬にあたってシャンといった。

私は来てしまった。

もちろん、山チャリをするために……。

後にも先にも、こんなに雪深い中を探索したのは、この他に数えるほどしかない。

この日、私が最初の探索箇所に選んだのは、碇ヶ関駅のすぐ南にある短い旧線区間。

前出のリストによれば、津軽湯の沢と碇ヶ関の間でも、昭和46年に複線化のため500mの線路が付け替えられている。

現在線の碇ヶ関トンネルに対応する区間だが、以前の線路はトンネルを迂回するように山際をカーブして通過していた。

駅から1kmほど線路沿いの道を南下す

[11] 奥羽本線 矢立峠付近の旧線遺構その1, , http://homepage2.nifty.com/bobsatoh/haitetsu/haitetsu4-1.html

2010年GWの廃線探索は、近場である奥羽本線の青森・秋田県境に位置する矢立峠付近の旧線隧道群の探索に決定し、早速現地調査に向かった。

ここへ向かう途中、小坂鉱山跡や名も無き廃鉱山?のようなものを見ながら来ており、それはそれでよかったのだがやはり今回のメインは奥羽本線の隧道探索なので、気持ちを切り替えて調査を開始した。

八戸から車を走らせること3時間くらいで、奥羽本線碇ヶ関駅に到着した。すぐ近くに道の駅いかりがせきがあり、またGWということもあるため多くの人でにぎわっていた。

駅自体はなかなか風情を感じる駅舎であり、また中に入って時刻表を見てみたところ、特急列車のほか寝台列車「あけぼの」も停車するようだ。

今回は駅舎を見ることが目的ではないため、早速最初の目標である「唐牛隧道」へ向かうこととした。

[14] 奥羽本線旧峯ノ山隧道その2: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2011/06/2-d8ef.html

さてさて、旧峯ノ山隧道の北側坑門を探しにやってきた。

国道を走っていくと、パーキングエリアがあった。ここを起点に探してみようと思った。

車を止めて降りてみたら、なぜかサントリーオールドの空き瓶が2本も落ちていた。誰か車中泊でもしたのだろうか。

パーキングエリアから下を見たら、いかにも怪しい道があった。もうこれは直感で旧線跡だなと思った。

そんでそこへ降りようと思ったのだが、適当な道がなかったので崖をおりた。

で降りた。現線は川を鉄橋で渡向こう岸のほうへ続いているようだ。そこから歩いていくと、いよいよ怪しげな雰囲気になってきたぞ(笑)

そしてとうとう、旧峯ノ山隧道北側坑門に到着した。入口付近は軽くだが水没していた。

坑門はよくある昔風の?レンガ造りでちょっぴり感動した。先に見た刺巻旧隧道はシンプルな坑門だったからだろうか?

・・・いや、南側坑門へ近づけなかったからだろう。

坑門左側下部にこの坑門の特徴があった。かなり変わった形をしているのだが、どういう目的でこのように作られたかはよくわからない。

拡大したところ。ほんとによくわからない。でもこのデザインはちょっと気に入ってたりして。

それぢゃいよいよ内部に侵入する。入口付近が水没しているのでコースを選びながら慎重に進んでいった。

内部はバラストが敷かれているわけではなく、土やらヘドロっぽいのがあった。

内部に入ってから入口を見てみた。水没しているが、一部に木材が散乱しているところがあり、その上を歩いて渡った。

また入口脇にも木材が積まれていた。ひょっとしたら木材の貯蔵場所として使われていた時期があったのかもしれない。

隧道は軽くカーブしているが、長くはないのですぐ出口の明かりが見える。

出口付近に近づいてきたのだが、さっき南側からみたとおりこちらも水没していそうな気配がしてきた。

そして出口付近に到着してビックリした。

まるで台風が通過した後のような雰囲気があった。そしてヘドロも大量にありそうな気配がする・・・・・・orz

風雪除けのためのスノーシェードは片っ端から吹き飛んでおり、廃隧道っぽい雰囲気をいい感じにアレンジしている。

南側坑門はスノーシェードのせいでうまく全景を撮影することができないのだが、何とかとることができた。

北側坑門と同じようなデザインだ。ただ北側にあった気に入った小窓のようなもの?を見つけること

[15] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/nozoki/main.html

このレポートを作成した際に、山行がを構成するディレクトリに新しく、「nozoki」が追加された。

当然このレポのアドレスにも、「nozoki」の文字が含まれるが、変な目的で来た検索ロボットに引っかかりはしないか、少し心配である。

山行がに集う健全なマニアの皆様はご存じの通り、「nozoki」は、「覗き」ではなく、地名の「及位」である。

さて、今回紹介するのは、山行がでももうお馴染みとなった奥羽本線の旧線跡だ。

奥羽本線、大滝・及位間は、明治37年に開業しており、ここには第一〜第三及位という、3本の隧道が掘られた。

いずれも、真室川(ここでは河川名)の右岸の山肌の凹凸に呼応する形で存在し、この区間全体としては、難所であった雄勝峠への登攀アプローチをなす。

故に、第二隧道あたりから目立った勾配が現れ、そのまま第三を経て及位駅に通じる。

廃止されたのは、第一・第二は昭和50年。

第三のみ、かなり早く昭和37年となっている。

いずれも、交流電化を見越して、もしくは交流電化に際して、隣に現隧道を開削する形で、廃止されている。

なお、本レポートの作成には、相互リンク先サイト『ニヒトアイレン』内の記述を参考にさせていただきました。

深く感謝申し上げます。

まずはじめに紹介する第三及位隧道は、国道13号線の及位隧道のすぐ傍にある。

及位駅から南へ約1km、国道とは一段高い位置に併走する奥羽本線。

その鉄路と、国道とが並んで隧道を迎える。

奥羽本線の旧隧道は、それらにサンドイッチされる位置に、今も口を開けていた。

アプローチは、写真に写る国道から右に分かれる急な登りだ。

保線員たちが利用するこの道を上ると。

そこには銀色に光る単線の鉄路がある。

その国道側には、車一台分の轍が奥へと続いているが、これが隧道とともに廃止された旧線敷きであろうことは、想像に難くない。

この轍に従って、現役の第三及位隧道の坑口脇を通り過ぎて、さらに奥へと行くと。

国道の隧道間近で、猛烈な笹藪と杉林に阻まれ、小さな広場で行き止まりとなった。

しかし、藪に阻まれ見えないが、旧隧道は、このすぐ奥に隠れている。

チャリを倒し、リュックをおろし、ライトの準備にかかる。

が、ライトがない。

ヨッキれん、生涯3度目のSF501紛失に気がついた瞬間であった。

この後、いった

[16] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/daishaka2/main.html

奥羽本線の大釈迦・鶴ヶ坂間は、現在まで二度の改線を経ているという、珍しい区間だ。

まずは、明治27年開通の初代ルートは、延長274mの大釈迦隧道を峠のサミットに据えた路線だったが、前後の勾配は厳しく通行には補機を要した。

昭和38年に、この勾配を緩和する目的で開通したのが、二代目の大釈迦隧道を擁するルートで、短絡化をも果たした。

線形については、もうこの段階で殆どそれ以上改良のしようがないものと思われたが、当時の国鉄は、3代目の隧道の開削を遂行し、これが昭和59年に開通した新大釈迦隧道、現在線である。

今回紹介するのは、2代目の大釈迦隧道だ。

本隧道は、延長1470mと、現隧道の2240mには劣るものの、小規模な峠を直線的に突破するには十分な長さである。

そして、この長さは、私がかつて侵入した廃隧道(正確には今回の隧道は、廃止されていない)中、最長である。

(ちなみに、二番目は僅差で旧横黒線仙人隧道1453m…ただし、1000m付近で閉塞)

素朴な疑問として、なぜ2代目の隧道が僅か21年間しか利用されなかったのかと思うわけだが、これについては、どうも、青森〜弘前間の複線化の一環として計画されたものらしい。

ただし、詳細は不明ながら、その計画は頓挫しているようだ。

それでは、私の探険の様子を紹介しよう。

信じがたい光景が、私を待ち受けていた。

初代大釈迦隧道を探索し、腰までの雪に苦しめられながらもチャリに戻った私に、辛い現実が待ち受けていた。

愛車が、凍っている!

シャーベット状に融けた雪を付けたまま放置された私のチャリは、そのまま完璧に凍り付いていた。

なんと、車輪が回らない。

走れない。

困る。

足蹴にしたり、手で小突いたりして、何とか車輪は回るようになったものの…。

それ以外の駆動部は、殆ど全滅した。

まず、ブレーキ。

全然駆動しない、前も後ろも、全く。

仕方がないので、足ブレーキのみで制動することに。(←絶対に危険なので真似をしないように!)

変速系も、もちろん全く駆動せず。

仕方がないので、適当な段に固定し走行することに。

私のチャリは、ただペダルを漕ぐと車輪が回って前進するという、超基礎的な動作しかしないのである。

笑ってしまった。

この先、青森市に向かって、国道7号線を下っていかねばならないのに…。

[17] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/kotunagi.html

今回紹介する区間で、県内に残る奥羽本線の廃トンネルは打ち止めだ。

奥羽本線二ツ井〜前山間は、全国的にも有名になった恋文コンテストの舞台きみまち坂を通過する区間だ。

白神山地の南端が米代の流れを湾曲し、深い淵に切り立った岩肌が洗われる。

崖沿いに開削された狭い国道7号線と、寄り添って走る単線の線路。

ゆったりと流れる米代と、その畔に連なる車の群れ。

その眺めは、もうない。

国道は昭和54年バイパス化、かつての国道は県道に降格となった。

そして、奥羽本線の鉄路は、さらに遡ること8年、昭和46年には長大なトンネルを供する現線に切り替えられている。

発生した旧線は、総延長3.9km、4本の隧道を有する、長大なものだった。

当レポートはその痕跡を辿りつつ、二ツ井から前山方向へと進行する。

2003年4月10日、午前8時30分。

この日は、奥羽本線の廃隧道を一挙に攻略する目的で、能代市富根で輪行を解いた。

間も無く富根の廃隧道を攻略し、続いてのターゲットとなったのが、このきみまち坂に眠る小繋廃隧道群だ。

天候は快晴であり、4月は廃線探訪には最も適した時期である。

未知を暴くことへの興奮は、既に最高潮に達していた。

テンションの高い状態だ。

写真は、二ツ井市街地を貫流する米代川の畔から、これから挑むきみまち坂方面を望んだものだ。

正面にある山がきみまち坂で、手前に写る水色の6連ポニートラス橋は、旧国道7号線、現一般県道322号線の琴音橋である。

右端には雪解けを水を集め、濁流のように増水した米代の灰色の水面も見える。

藤琴川に架かる琴音橋の袂である。

かつては国道であったが、この橋と、この先のトンネルの狭隘、および老朽化がバイパス化の主要因であった。

琴音橋が始めて架橋されたのは、明治17年のことである。

それ以前は橋がなく、渡し舟に頼っていたという。

現在のトラス橋が架設されたのは、昭和27年のことである。

この素敵な橋名が、誰によって、どのような経緯で決定されたものなのかは、気になるところである。

琴音橋からきみまち坂へ…

よくは分からないが、地名としては最高のレベルだろう。

一つ前の写真にも写っているのだが、路上に設置されているこの標識も、年代を感じさせる。

はたして、左側にはどのような標識が設置されていたのだろうかと

[18] 奥羽本線旧線(前山〜二ツ井間) - 失われた鉄道 - 秋田各駅停車の旅, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~akitetu/lost/l_ouu/

開業当初は太平山を南側に迂回する形で国道7号線沿いに敷設されていました。その後、前山〜富根間の複線化の際、曲線改良と短絡化による時間短縮を目的に太平山に太平トンネルときみまち坂トンネルが新設され、この区間は直線化されました。これにより旧線は放棄されました。旧線は4つのトンネルがあり、現在でもその姿をとどめています。

路線概要

[19] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/hasigeta.html

古くは明治より、近代秋田の交通を支え続けてきた奥羽本線。

東北本線と並ぶ東北の大動脈として宿命付けられていた“本線”だったが、その福島〜秋田〜青森を結ぶ487.4kmに及ぶ行程には、険しい山々にいくつもの大河…殆ど手付かずだったみちのくの自然そのものが立ちはだかっていた。

明治26年、工事は青森・福島両方から開始された。

それぞれが、暫定的に北線・南線と呼ばれ、ほぼ両者の中央であった秋田県湯沢を目指したのである。

そして、明治32年の6月、県境の矢立峠の難工事を制し、当時の北秋田郡白沢村にまで鉄路を伸ばした奥羽北線が、秋田県鉄道一番乗りを果たした。

さらに、同年11月には当時まだ市制が敷かれる前の大館町(現大館市)までが開業している。

その後も日露戦争を挟みつつも工事は続き、明治38年に遂に、南・北線は一つになったのである。

今回のターゲットは、明治32年に開業した大館〜白沢間にある。

白沢駅の南500mほどの位置に、この区間で唯一の隧道「橋桁トンネル」がある。

現在利用されている橋桁トンネルは、昭和46年に奥羽本線の電化に伴い竣工した複線のトンネルだ。

それ以前、明治の開業当時から69年もの永きにわたり活躍した旧トンネル。

それがターゲットとなる。

いよいよ県北でも春の訪れが強く感じられる4月上旬、青森県碇ケ関を目指し国道7号線を北上する山チャリストの姿。

計算通りとはいえ、順調に順風を受け労せず北上してゆくその様は、幾多の困難に挑む山チャリストらしくないように感じられる。

否。

自転車は、自然を活かして進むべきものなり。

さればこそ、真の自然との一体感を得られるのだ。

これぞ真の『山チャリ道』なり。

…言い訳くさくならぬうちに、さっさと本題に入ることとする。

大館市街で90度方向を転換し、県境へ向け北上を始める7号線。

勾配は非常に緩やかながら、彼方の矢立峠を目指し、確実に上りは続いてゆく。

その途中、市街と県境のほぼ中間地点にあるのが、白沢地区である。

写真に見える町並みが白沢の集落であり、その向こうにはこれから越える峠の山並み。

奥羽本線と国道は概ね並走しているが、この辺りでは線路は向かって右側になる。

ちょうどこの場所にチャリを置いて、旧橋桁隧道の探索に入った。

というのも、想像していたよりも容易く、目指す

[20] ミニ・レポート, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_36.html

今回はまた、皆様からの情報提供をお願いしたいと思います。

見つけたのは、謎の鉄道橋なんです。

もっとも、謎といっても、今度の物件はしっかりと地形図にも載っていたし、存在自体は疑う余地は無いんです。

では、その地形図をちょっとご覧頂いちゃいましょう。

これは、大正元年測量・昭和14年修正版の5万分の一地形図の一部分です。

写真の範囲は、奥羽本線の東能代駅駅の一帯ですが、いかがでしょうか。

見慣れない鉄路が、一本、描かれてますのに、お気づきになりましたか?

それは、東能代駅のすぐ東より北に分岐し、全体がS字を描くようにして蛇行、わずか2kmほどで米代川に阻まれて終点となっています。

奥羽本線の支線のようでありますが、沿線には駅どころか、人家ひとつ無い様子ではありませんか。

貨物扱い専用の支線だったにしても、余りにも辺鄙な場所に何ゆえこのような線路が敷かれていたのでしょう…。

なぞは、尽きません。

では、実際に現地へ足を運んで見ましょう…。

11月5日午前6時過ぎ、能代市鰄淵(かいらげふち)の米代川河川敷。

鰄淵は東能代駅付近では機織(はたおり:東能代駅の旧名でもある)に次ぐ市街部であるが、米代川の堤防に近い2kmほどは空き地が広がっており、人気は無い。

普通なら市街地の河川敷でこの時間といえば、犬の散歩やらジョギングの人々が多く出没しそうな物だが、妙に寂しい。

写真は堤防上の道に立ち、上流方向を眺める。

左の二本の立て札には、時空の歪みを感じさせられたが、その話はまたいずれ…。

同じ場所に立って、今度は川下の内陸側を撮影。

広大な空き地は一応区画整理を受けているようで、道路網があったりする様だが、人家は一軒もなく、当然ながら人の姿はゼロ。

東能代駅が一応奥羽本線内では能代市の中心駅であるが、駅からほんの2km足らずでこんな有様なのだ。

五能線の能代駅こそが、能代市の中心にふさわしい駅だといえる。

話が脱線した。

古い地形図に描かれていた支線の終点は、この更地のどこかに違いないようであるが、すっかりと土地は整理され、廃線跡の痕跡は一切見つけられない。

だが諦めずに、ここから東能代駅へと、廃線跡に近いと思われる道を通って向かってみる。

ある程度内陸に入り駅まで500mほどになると、やっと工場群が現れる。

これは能代工業団地であ

[21] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/daishaka2/main5.html

今回は、弘前側坑門から外へと脱出してみた。

やはりこの雪の下にも、レールが現存しているのであろうが、まだまだ深い積雪のため判明しない。

路盤の上にも容赦なく小さな枝が雪を破って生えており、夏場のアプローチはより難しいに違いない。

緩んだ雪は私の体重を支えることが出来ず、ズボズボと埋まる。

坑門を背に左を見れば、ほんの20mほど先に、現在線の(新)大釈迦トンネルが口を開けている。

このような矩形断面の鉄道トンネルは、地方では余り見られないものだ。

これは、このトンネルが一般的な山岳工法ではなく、開削工法(一旦地表を隧道の深さまで掘り返して施工し、最後にまた埋め戻す工法)によって造られたことを示す。

いわば、今潜り抜けてきた旧線がスノーシェードによって成していた雪よけを、現在線はトンネルの開削工法による延長によっていると言える。

そして、これまた鉄道トンネルとしては珍しく、立派な扁額が存在する。

新大釈迦トンネルは総延長2240mと、矢立峠を貫いている矢立トンネル3180mには及ばないが、長いトンネルである。

未だ雪に閉ざされた旧トンネルの姿。

詳しいことは不明だが、地形的に見て、人工的に開削された凹地に鉄道を敷き、屋根のようにスノーシェードを設置したように見える。

トンネル上に見える青いポニートラス橋は、農道用のものだ。

坑門には施錠されたフェンスがゲートの役目を果たしており、私はそこを乗り越えてきたが、パタ氏がまだ中に残って、私を見つめていた。

こちらの南京錠もこじ開けようとした者があったのか、破損していたが、まだ鍵として機能していた。

私は、パタ氏にも乗り越えることを促した。

彼は、今回初投入となる「I・Oデーター製のムービーデジカメ」のスイッチを入れると、坑門の様子を実況中継し始めた。

ひとしきり実況すると、彼もまたフェンスによじ登った。

今度は、二人で線路脇の斜面によじ登り、スノーシェードを跨ぐように架けられた農道橋を目指した。

残雪に足をとられながらも、このタスクをやり遂げ、狭い橋の上から新旧の線路を一望することが出来た。

見ている内に、一帯にけたたましいサイレンのような警報が鳴り出した。

すぐに、弘前側からこちらへ向かってくる列車の姿を我々は見た。

列車は大釈迦駅を通過してきたらしく、相当の速度で接近してくる。

[27] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/daishaka_2.html

私は、坑口部の僅かな緑の上に荷物を置くと、既に閉塞と伝えられている隧道への進入を開始した。

坑口部にだけ、小さな氷筍が無数にあるが、天井につららはない。

坑門に根を下ろした木の姿。

氷点下の気温に、煉瓦までが白く凍り付いているかのようだ。

単線用の隧道であったわけだが、その内部空間は想像以上に広い。

普段、林鉄用の狭い隧道に慣れているせいか、単線の鉄道隧道といえ、決して狭くは感じない。

むしろその広さ故に、奥へ進むにつれ私の貧弱な明かりでは全体を照らしだせず、不安感さえ感じた。

慣れというのは、凄いものだ。

閉所への恐怖を克服した代わりに、周りを把握しにくい大断面隧道の方が怖いだなんて…。

本隧道では、他の廃止隧道にありがちな、コンクリート補強の痕跡が、坑口部を除いては無い。

内部は、竣工当時のままと思われる完全な煉瓦組みである。

それがまた、異様な雰囲気を醸し出しているのだ。

30mほど進んだところで、吹雪の依然止まぬ外界を振り返る。

白と黒だけしかない景色。

まるでその景色が意識を持っているかのように、私に強烈な印象を送り込んでくる。

隧道は、私に何を伝えようとしているのか。

その声なき声を聞かんと、精神の帯域をすべて開放する。

それは、

私にとって、至福の瞬間だ。

地底の温度は外界に比べ通年の変化が少なく、それが崩落が坑口部に集中する理由の一つなのだが、この隧道においても同様である。

竣工から112年目の冬。

隧道は、今も次の列車を待つかのように、静寂と均整を保っている。

だが、すでに出口はない。

隧道は、緩やかに左へカーブしており、坑口から推定100mほどで、振り返っても入り口は直接見えなくなる。

より深い闇の奥、なおも空洞は続いているが、その暗冥の底に人間の気配を、ふと感じた。

ぎょっとして、ライトで照らし出した先には…。

白いお釜が一つ、主の帰りを待っている。

その傍には、無数の瓶が転がっている。

サイダーや、酒など、今は見ることがない年代物の瓶たちだ。

背筋に、嫌な物を感じた。

人が、いたのか。 こんな闇の奥に…。

他にも、明らかに生活痕と思われる遺構が点在していた。

入り口からは決して見えない暗闇に入った途端に、突然現れた、異様な生活臭。

私が、少ない明かりで発見した物は、隧道中央に置

[28] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sasimaki.html

県内にある国鉄、もしくはJR由来の廃隧道のうち最後まで未探索だった、JR田沢湖線「刺巻〜田沢湖」間にある二隧道の探索を終えたので、公開しよう。

JR田沢湖線刺巻駅は、新幹線も停まる田沢湖駅の一駅隣の駅で、立派な標準軌のレールとは如何にも不釣合いな半面ホームの無人駅である。

近くには刺巻湿原というミズバショウの名勝地があるが、普段は僅かな通勤通学客にのみ利用される駅だ。

そこに、チャリを詰め込んだ輪行バッグを抱え降り立った私。

秋田駅からは奥羽本線と田沢湖線の始発を乗り継ぎ、この日の旅のスタート地点としてここを選んだのである。

無論この日の最初のターゲットは、近くにある筈の二本の廃隧道である。

チャリを駅前で組み立てている間も、駅の正面を通る国道46号線にはひっきりなしに往来があったが、駅に立ち寄る人は誰もいなかった。

国道を田沢湖方向へ約二kmほど進むと、田沢湖線の下を潜る。

跨道橋のすぐ先に見えるのが、現在の第一刺巻隧道である。

実は今回、殆どの事前情報を持っていなかった。

相互リンク先サイト『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』のTILL様から頂いた情報によれば、昭和57年の田沢湖線電化の際に刺巻田沢湖間の2本の隧道が廃止されたという。

その詳しい場所は分からない。ただ、現在の同区間にも2本の隧道があり、その本数の一致から、多分旧隧道も現在のトンネルと離れていない位置にあるのではないだろうかと推測していた。

それと、以前車窓から廃隧道と思しき坑門の一部が見えたことがあり、やはりそれは現隧道のすぐ近くであった。

今回は、これらの情報を元に、足で隧道を探さねばならない。

マイナーな廃隧道なのか、これまでここを取り扱った書籍なども見たことが無い。

まずはじめに刺巻駅側になる西坑門に出会ったのだが、前の写真の通り国道との比高は大きく、また予想していたことだが、やはり雑草の繁茂は凄まじく、国道からは全く廃隧道らしい物は確認できない。

もしかしたら、ここに隧道はなかったのかもという不安を感じつつ、国道をそのまま200mほど辿り、反対側の坑門の前に来た。

こっちは幸い坑門と道路との高度差は余り無いが、坑門が眠っていそうな斜面は遥か叢の奥であり、国道から全く見えない坑門を手探りで探すのはうんざりした。

もう少し、古い地形図などで事前

[29] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/iwagake/iwagake.html

現在、『秋田県内の廃トンネルの完全制覇』というなかなか達成し難い目標を持って探索を続ける私だが、今回紹介するこの隧道群と出会うまでは、“鉄道の旧トンネル”は、調査対象外であった。

それが、方針を転換して“対象”としたのは、この隧道が気に入ったからである。

以下に、紹介したい。

なお、この隧道群については、以下のサイトで廃線の経緯等を含めた詳細が紹介されております。

当レポートの作成時にも大変参考にさせていただきました。

⇒ http://homepage2.nifty.com/tilleulenspiegel/index.htm …『 NICHT EILEN 』

作者様には、本当に感謝です!

右の地図は、雄勝町院内から雄勝峠に至る一帯である。

今回の主役は、国道13号線ではなく、併走するJR奥羽本線である。

1966年に地図上で青で示した1600mが、赤で示した新線に切り替えられたそうである。

複線化の工事によるものらしい。

(なぜ、新線を単線で作り、旧線も上下線の何れかとして継続利用することをしなかったのかは不明。そうしたら、コスト浮きそうなものだけど…)

それでは、現地のレポートに移ろう。

旧線跡へは、国道13号線から入る。

ちょうど、県境へ向けて国道を走ると、途中二度、鉄道の下をくぐるのだが、この一度目の交差地点に、写真の入り口が有る。

特に標識などは無いが、ほかに紛らわしい分岐も無いので発見は容易だ。

鉄道と国道とはずっと併走しているが、この旧線跡とは高度差が10mほど有る。

旧線跡は、土手のような盛土上にあり、ここに登る短いのぼりが、急だ。

しかし、すぐに旧線跡に出会う。(写真右)

ここまで登って来た道は、旧線跡を十字に切って、さらに山中に上っていくようだが、入った事は無い。

さて、旧線跡に立って、南を見る。

(旧線跡は北にも少しあるのだが、余りにも草道になっていた為に、後回しに…)

土手のような道の向こうには、目を凝らしてみるとコンクリートが見えている。

あれはもしや…。

早速出現したトンネル。

この時点では、まだ名称は不明(そもそも慣れない鉄道トンネルということもあり、事前の知識は非常に少なかったのだ。)。

しかし、初夏の日差しに萌える緑の奥に、独特の存在感がある。

なんていうのかな、…

洞窟とか廃ト

[30] 2012年12月22日 - Passage Station, , http://3001m115a.blog50.fc2.com/blog-date-20121222.html

本日もお立ち寄りいただきありがとうございます。 12月は何かと忙しい。まさに今、そんな感じです。(^-^;) 踏ん張りどころですね。。。 さて、日が開いてしまいましたが、今回も青森遠征記の続き。 貨物編でお送りいたします。 16日の朝から津軽線内で待ち伏せしていました… 天気はイマイチで、小雨もぱらついて。 2012/12/16 3050レ 奥内 - 左堰 EH500-73号機牽引で3050レが通過。 串パン…というか、架線柱と同化しているし。(^-^;) 2012/12/16 ????レ 奥内 - 左堰 続いて捉えたのは、EH500-75号機牽引の貨物。 強風による遅延があったのか、どのスジにも当てはまらない時間で通過(8:45頃)。 …8053レなのかな? 印象的だったのは、牽引されていたのが全てコキ105形だった事ですね。 …正直、コキ105形を見ることがなかったので新鮮でした。 ご存知の方、いらっしゃいましたら教えてください。(^-^;) 2012/12/16 3096レ 奥内 - 左堰 その後にやってきたのは3096レ、数少ないED79重連の運用ですね。 先頭はED79-57号機、次位にED79-58号機でした。 やっぱり重連は格好いいですね。(^-^) 津軽線内での撮影は、以上。奥羽本線に移動。 2012/12/16 8096レ 川部 - 北常盤 北常盤のストレートで芋臨の8096レを撮影。 EF510-10号機が先頭でした。 到着してから、さほど時間も無く、「つがる52号」のアングルで撮れませんでした。('ω';) 平川橋梁の方へ移動。奥羽本線内唯一の金太郎運用を。 2012/12/16 8079レ 撫牛子 - 川部 構図が日の丸ですね。('ω';) EH500-63号機が仕業に当たっていました。 EH500 A160仕業 東仙台信【単780】宮城野【ヨ2073】東青森【8078】青森信【8078】弘前【8079】青森信【8079】東青森【2072】八戸貨物【2080】宮城野【単789】東仙台信 青森県を後にして、白沢駅へ。 ちょうど4061レの通過時間でしたので。(^-^;) 2012/12/16 4061レ 白沢 EF81-633号機が牽引していました。 橋桁トンネルを抜けて、駅へ侵入してくる所を。 天気も回復して、逆光気味です。(^-^;) 最後

[31] 鉄道写真:中山峠と〈奥の細道〉を行く 陸羽東線・中山平−堺田, , http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/sl/sl164.html

自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp

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…………………………………………………………………………………………………

・奥の細道に沿った陸羽東線

164. 

中山峠と「奥の細道」

・陸羽東線/中山平−堺田

〈0001:中山峠を登る〉

〈0002:梁を渡る〉

〈0003:中山平から堺田へ進入〉

…………………………………………………………………………………………………

〈紀行文〉

今回は陸羽東線の下り列車を、鳴子温泉を過ぎてV字谷の大谷川の断崖をのごって台地状の中山平を過ぎて、国道47号線とからみながら開けた高原のような雰囲気を感じさせる中山峠手前の辺りで撮った二大をお目に掛けたい。重連の発車地点である川渡の先で荒尾川を渡って西岩の断崖を登り始めた陸羽東線は支流の大や川を四回渡っている。その最三大や川橋梁では中山平の先で大や川と、それに流れ込む軽井沢川、そして砂利道の国道47号線を一括して跨いで大家川の北側の山すその高台をサミットに向かって最後の勾配を登っている。ここからはしばらく道路と鉄路は並走しており、築堤を進む列車を下から仰ぎ見て追い掛ける構図も素晴らしい。

やがて宮城/山形の県境が近づいて来ると、陸羽東線が改良された国道を堺田架道橋で跨いでイル所に手合うのだが。渡しが通い始めた昭和43ねん頃の昔の砂利道の国道は大谷川と関沢川と一緒に第四大谷川橋梁の下を潜って峠に向かっていたのだった。この第四大谷川橋梁は大谷川の最も上流に位置しており、長さも高さも違う橋桁が各一連が煉瓦積みの橋台と、石積みの橋脚に架かっていた。

このような峠のサミットでもない所が県境となっているのには人間臭さが感じられる。その昔から北出羽街道の中山越における新庄領と伊達領の境目は明確な線引きが行われていなかったようで、後に紛争が絶えなかったが、幕府の裁定に持ち込まれて、正保2年(1645年)に境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解したと云う

こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。この境目は今日も県境として引きつがれている。二万五千分の一地形図を見ると、第四大谷川橋梁は山形県

[32] 東北旅行(東北本線大沢田トンネル付近)⑥:しゅうちゃんのお出かけ日記:So-netブログ, , http://sl-taki.blog.so-net.ne.jp/2008-02-02

今日は東北旅行(青森から一ノ関へ)からの続きで(昭和40年8月11日)一ノ関~有壁間にある大沢田トンネル付近(一ノ関側)で撮った画像を見てください。 一ノ関機関区を後にしてD62の走行写真など撮るため、ミヤコバスに乗って約5㌔程で鬼死骸という怖いバス停名で降りました。と思っていますが今一?です。 大沢田トンネル付近は下り線と上り線が離れており、トンネルも独立しています。真夏のムンムンした蒸し暑い日の撮影だった様な記憶があります。 かなり古い時代には、ここから東側へ数キロの所に旧線があって勾配が16%以上の峠越えをしていました。トンネルをサミットとする峠は、かなりの難所だったそうです。有壁峠、有壁隧道と言っていました。

左側下り線、右側上り線です。丁度列車同しのすれ違いですね。架線が既に引かれていましたがまだ電車や電機等の運用はしていませんでした。

上りD624+C58(多分)の重連で50両近い貨物を引いてきました。

後方補機が付く場合も有ったんですね。補機はC58303でした。

上り特急「つばさ」通過して行きました。この前に特急「はつかり」が来るのですがフイルムに写っていないので、きっと撮り損ねたのでしょう。

下りC619牽引普通列車青森行きと思います。

上りC6128牽引の列車ですが列車名は不詳です。旧国道4号線をくぐり、大沢田トンネルに入ります。その上から撮影しています。

下りD624牽引貨物列車

DD51が牽引する上り優等列車上野行きですが、急行「みちのく」?急行「ひめかみ」?それとも何だろうなぁ。

下り急行「あけぼの」は仙台始発(13時50分)、横黒線(現在は北上線)、奥羽本線経由で青森行き(21時53分着)の運転でした。 客車、貨物を牽引は殆ど蒸気機関車でD62、D51、C61、C60、C58、それとDD51など、多彩な顔ぶれだったんですね。 最後の撮影はフイルムを見ると、上りC61が引く荷物列車が写っています。何時頃でしょうね。 この後、一ノ関駅までは5㌔程あるので多分バスで戻り次の目的地、3度目の夜行列車でまたまた北上し青森行き23時01分の普通列車を待ちます。駅舎の時計はまだ18時15分です。(前回の東北旅行(一ノ関)に駅舎の画像を載せています)。気長に待っていた様ですね。

ここで撮影した一ノ関機関区とD62の画像は下記の「なめくじ会鉄道写真館」のホ

[33] 道路レポート, , http://yamaiga.com/road/hakkouda/main.html

2004年5月中旬、山行が宛てに一通のメールが寄せられた。

そこには、私を即座に夢中にさせるネタがしたためられていた。

差出人は、青森県にお住まいのぴょんぴょん氏。

その彼が以前登山で利用した道が、戦前の車道の跡であるというのだ。

その道の場所は、右の地図の通りである。

地図の最も下に水色がかっている部分があるが、これは十和田湖である。

その十和田湖の北岸の突端である御鼻部山付近から北上し、海抜900m前後の山上を縦走。

いよいよ南八甲田山の峰峰に対峙し、これをヘアピンカーブで上り詰める。

最高所は、標高1200mを超える稜線上にあり、この名が、地獄峠。

ここから猿倉温泉へ向け、数度のヘアピンカーブを経つつ緩やかに下りるというコースである。

すなわち、北東北有数の観光地である「十和田湖」と「八甲田山」とを短絡する稜線ルートといえば分かりやすい。

このルートは、確かに一般の道路地図にも示されている。

だが、それは「歩道」としての記載であり、その存在する場所からも、ただの登山道路と見える。

ここに車道がもし存在するとしたら、果たしてそれが廃道となるものだろうか?

現在の国道ですら遙か谷を下り谷地温泉を経由して繋ぐこの二大観光地を短絡する路線、まさに、最高の観光道路ではないか。

メールを頂いた瞬間より、私の興味はこの道から離れなかった。

図書館に赴いたり、WEBをさすらい情報を集めた。

ぴょんぴょん氏からも積極的に追加情報を頂戴した。

それらを総合すると、ますます謎の深い道だと言うことが分かった。

それぞれの情報の出所は煩雑になるので示さないが、私が調べた限りでも、次のような情報が、この道について錯綜した。

・昭和8年〜9年に建設された「酸ヶ湯大鰐線」という観光道路である。

・昭和8年から3年間掛けて建設された産業道路である。

・一度も車が通ることなく現在に至る。

・検査の車が通ったこともある。

・昭和9年から3年がかりで、県が救農土木事業として建設した道である。

・救農対策で建設された後は、旧陸軍が使用する軍用道路であった。

・この道は「旧道」と呼ばれ、一部が登山道として再利用されている。

・この道を「旧県道」として案内しているガイドマップも存在している。

・戦後、道は放棄され現在は大部分が自然に帰した状態になって

[34] 東北新幹線新青森開業が青森で盛り上がらない理由。(その1) - とれいん工房の汽車旅12ヵ月, , http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20110110/p1

鉄道関係の時事ネタを紹介するブログです。趣味の外縁部に転がっている、生活には役に立たない情報を中心に語ります。廃線、未成線、LRT、鉄道旅行、鉄道史、駅、遊覧鉄道、鉄道マニア、鉄道本書評、海外の鉄道、奥祖谷観光周遊モノレール、宮脇俊三、種村直樹、今里筋線、阪急新大阪線、三江線、西武線、マンガ、アニメ、読書...etc。

「鉄道未成線を歩く」など同人誌3点をただいま書店販売・通販中。http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20121228/p1参照。

■[鉄道系 ヒマネタ]東北新幹線新青森開業が青森で盛り上がらない理由。(その1)

12月の岩手県出張にあわせて東北新幹線に乗ってきたことは、以前、「弘南鉄道弘南線のラッセル車キ104の試運転列車」の最後に軽く書いてみた。

青い森鉄道で青森〜八戸間を往復した後、青森駅前の東横インのレストランマップで紹介されていた飲み屋に入ってみた。青森駅から徒歩5分ほど、

店内は地元客でほぼ満席だったんで、カウンターの隅にあった空席に座らざるを得なかった。

お隣は、青森で不動産業をやっている社長さん。地元の商工会にも入っている。

「ねえ、東北新幹線、どうだった?」というのが真っ先に出た質問だった。

東北新幹線の新青森開業。やはり地元でもいろいろと気になるようだ。他の席の人たちも、ヨソから来た僕の話を聞きたがる。

「新幹線で観光客が来てくれると言いね」とは後ろの席のおっちゃん。ただ、青森駅前で観光客相手し仕事をしているけど、同業も含めてこれといって仕事が増えたという実感はない。カウンターで魚を捌いている店主もうなつぐ。

続いて隣席の不動産屋のおっちゃん。「あまり土地も動いていないしね」。

「あれ、でも3、4年前に新しいホテル(東横イン)がそこに出来たんでしょう」と僕。でも、大きな動きは青森駅周辺ではなかなか起きていない。土地が動いているのはやはり郊外部だけなんだよね。......と不動産屋におっちゃんはボヤく。言われてみれば、新青森駅近くにホテルがないのかネットで調べてみたが、2010年12月現在、1軒も存在しないことに驚かされた。

青森駅界隈ではあまりいいことはないなあ、というのがみんなの感想。タクシーもクルマの送迎もみんな新青森駅に行っちゃうのかね。あんな辺鄙なところ、行きづらいよなあ……とか雑談もしながら長い時

[35] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/niiyama_3.html

天井を覆いつくすコウモリの群れにビビリまくりながらも、辛うじてその目で崩落の現実を内部から確かめることに成功。

あとは、崩落現場となった老方側坑門を確認すれば、いつも重苦しい独特の空気を纏う二井山隧道との、一応の決着を見ることが出来よう。

崩壊した隧道を迂回し、坑門を目指した。

秋田県主要地方道48号線の唯一の不通区間である二井山隧道を迂回する道は大きく分けて2本あるが、二井山の集落内を通る道が一般的だ。

一方、最大限通行可能な部分を利用しようとすれば、このもう一本の迂回路となる。

標識も何もない畦道であり、通行量の少なさは疑いようも無い。

しかし、一応二井山隧道老片側坑門のすぐ傍から南へ別れ、畦道500mほどで、同隧道二井山側坑門に近い出羽グリーンロードに出られる。

写真に写る白いガードレールが、まさしく県道の不通区間の始まりであり、迂回路が間もなく県道に合流する部分だ。

合流した県道から、不通の隧道方向を見る。

かつては鉄道が通っていたのだが、ちゃんと車道幅(1車線だが)に土手は拡幅されており、畦道として辛うじて生きながらえる。

だが、その先の森で道は唐突に終わる。

ブツッと森へ消える道。

訪れる度に、時期にも拠るのだろうが、だんだんと森は深くなっている気がする。

もはや、この先に道があったことを確信できる者でなければ、入ろうなどとは決して考えないであろう。

この森っぷりは、はっきり言って、二井山側以上だ。

初っ端から大量の蜘蛛の巣に阻まれ萎えたが、ここまで来たら坑門はすぐそこ。

何も考えずただただ前進!

幸い深い森の中ほど下草の繁茂は免れており、奥へ進むほど道跡ははっきりとしている。

そして、僅か50mほどで、坑門のあるべき斜面が見えてきた。

遂に、対面のときが来た!

蜘蛛の巣を掻き分け、一歩一歩前進するたび、坑門の代わりに見えてくる茶色の斜面。

様子がおかしい。

鬱蒼とした森の中に、ひっそりと静かにたたずんでいた坑門は、

どうなってしまったというのか?!

あと20m。

視界を遮る枝葉の向こうに、遂に坑門の全体像が見えてきた。

そこにあった姿は、衝撃的の一言。

一昨年には、まだまだ健在であったはずの坑門は、無残にも天井が落ち、大量の土砂に埋もれている。

70年以上も昔のことだが、ここを本州縦断を夢見て走った小さ

[36] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/kotunagi_3.html

奥羽本線の二ツ井・前山間には、かつて4本の隧道があった。

昭和46年に長い日本の新トンネルで短絡する現行ルートが開通するまで、そこは単線ながらも重要な路線として活躍してきた。

廃止後約30年を経て、すっかりと姿を変えてしまった線路跡を、二ツ井側から辿ってみた。

今回はいよいよ最終回。

残る隧道は一本だ。

国道から線路跡の細い砂利道へと降りると、そこにはホームがあった。

これは、駅なのか??

予想だにしなかった廃駅の出現に、興奮度はマックスに!

ホームの隅には、竣工年度を示すプレートが残されていた。

見てみよう。

そこには『1965.■』の文字。

最後の一文字(竣工月だろう)は判別できないが、このホームの竣工年度が1965年だということだろう。

ここに初めてレールが敷かれたのは1901年、廃止は1971年である。

となると、このホームが現役であったのは、僅か6年間ということだろうか。

ホームは両面にあり、複線の幅があった。

北側のホームにはホッパーの跡のような物も見受けられたが、荒廃しており判然とはしない。

ホームの長さは僅か車両一両ほどしかなく、駅というにはお粗末過ぎる。

南側のホームからの、二ツ井方向の眺め。

まっすぐの線路の向こうに見える山並みは、米代川の対岸に聳える七座ななくら山だ。

きみまち坂の眺めには欠かせない七座山だが、この場所から見る景色も、なかなかだ。

丁度ホームの上を国道が跨いでいて、その橋台にはまだ、当時の注意書きがペイントされていた。

『左右指差確認』の必要はもう永遠に無い。

種明かしだ。

このホームは、七座信号所の跡である。

この信号所は複線の新線には移設されることは無く、未来永劫に廃止されたのだ。

ちなみに、この信号所のある場所の地名は、小繋だ。

或いは、隣接集落の小泉だろう。

しかし、対岸であり、集落名ですらない「七座山」の名を、信号所に付けた風流が、なんか好きだ。

あと、素朴な疑問だが、信号所にホームは必要なのだろうか?

しかも両面の。

客扱いは無かったと思うが、謎は残る。

個人的にはこの遺構が、今回の探索では最も印象に残った。

信号所跡を過ぎ、国道の下をくぐると、道はなくなってしまう。

この先はまっすぐな切通が国道に沿って続いている。

いや、これが切通しだと言う確証は

[37] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/kyowa.html

当隧道の正式な名称や延長を、書籍『奥羽鐡道建設概要』の内の表記として、『NICHT EILEN』の管理人TILL様よりご紹介いただきました。

名称:峯ノ山隧道

長さ:約 156.9メートル

廃棄(現在線への置き換え):1975(昭和50)年9月26日

国道13号線が秋田市を発し、協和町の中心地境さかいを経て国道46号線と別れるとすぐ、峰の山から繋がる稜線を越える小さな峠を越え、東北有数の規模を誇る仙北平野に達する。

この峠には、どうやら失われた道路トンネルがあったらしい。

相互リンク先である『MOTO WORKS HIRATA

』サイト内に1958年頃に撮影されたと言う、国道13号線のなぞの隧道写真を発見した事が始まりであった。

これまでも何度となく何気なく通っている小さな峠道に、重厚な石組みのトンネルが存在していたと言う事だけでも十分衝撃的であったが、何よりも、もし未だにこの隧道が残っているとしたら、ぜひとも、この目におさめておきたい。

県内では、残念ながら未だにあいまみえたことのない、石組みの隧道が、もし残っているなら…。

いても立ってもいられなくなったヨッキれんは、去る7月11日、東北地方をこの年一番目の台風が押し寄せた、その雨の中、完全防水装備でのレイニーサイクリングに挑んだのだった。

結局、失われた道路トンネルを発見する事はできなかった。

可能な限り詳細に行った現地調査の末、私の出した結論は、

…というものだ。

残念な結果であるが、この隧道の顛末については、今後、図書資料などにあたり、ぜひ解明したい。

しかし、実はこの調査の途中、一瞬、「まさか、発見か?!」と思わせた、ある遺構に遭遇した。

それも、なんと隧道である。

私が思いがけず出会ったのは、どうやら、国道に併走するJR奥羽本線の旧線に残された、廃隧道であったらしい。

以下は、そのレポートである。

前述の通り、同日は、暴風でこそないものの台風に伴った、やむ気配のない大雨。

合羽にくるまれた私の体だが、足元や顔面はもうびしょ濡れ。

レイニーサイクリングの辛さを、ひしひしと感じながら、この、峠に至った。

国道341号線が右に分かれるとすぐに直線のぼり(写真上)に入り、1kmほどであっけなく峠の切り通しに至る。

途中に、一箇所大きく蛇行するS字カーブがあり、この区間は

[38] 国道107号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93107%E5%8F%B7

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年9月)

雑多な内容が羅列されています。(2012年9月)

本国道は大船渡港へ直結しているため、運搬・配送の車が利用する道路であり、いわゆるトラック街道である。特に北東北から北陸方面への貨物輸送のメインルートとして使われている。

また、日常の足としても重要な国道で、大船渡・遠野・北上・横手・本荘の都市圏における自家用車通勤の要となっている。

特に秋田県内の区間においてはバイパス工事・拡幅工事が昭和末期から現在にかけて多数行われ、改良区間が多い国道である。

岩手県北上市和賀町仙人 - 同県和賀郡西和賀町間は錦秋湖(湯田ダム湖)の湖岸に急カーブと急勾配が続き(ワインディングロード)、多数のスノーシェッドがある難所である。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:大船渡市(権現堂交差点=国道45号交点、国道397号起点)

終点:本荘市[注釈 2](水林交差点=国道7号交点、国道105号起点、国道108号・国道341号・国道398号終点)

重要な経過地:岩手県気仙郡住田町、遠野市(小友町)、同県上閉伊郡宮守村[注釈 3]、江刺市(梁川)[注釈 4]、北上市、横手市、秋田県平鹿郡雄物川町[注釈 5]、同県由利郡東由利町[注釈 2]

路線延長:194.3 km(実延長190.2 km、現道189.4 km)[2][注釈 6]

岩手県区間:120.6 km(実延長120.5 km、現道120.0 km)

秋田県区間:73.7 km(実延長69.7 km、現道69.4 km)

指定区間:国道13号と重複する区間[3]

歴史[編集]

1953年(昭和28年)5月18日

二級国道107号大船渡本荘線(大船渡市 - 秋田県由利郡本荘町[注釈 7])として指定施行[4]。

1965年(昭和40年)4月1日

道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道107号(大船渡市 - 本荘市[注釈 2])となる。

路線状況[編集]

バイパス[編集]

世田米バイパス

江釣子バイパス

江釣子バイパス(えづりこバイパス)は、北上市に建設されたバイパス道路である。

[39] 旧・橋桁トンネル捜索 - おおだての街と鉄道日記 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/rossy3930/21073954.html

白沢のホームからここまでの廃線跡は盛り土が撤去されてますがここから

トンネルの入り口までは盛り土が残ったままです。

[41] CCSF - 逐次雑記 2008年4月下旬, , http://ccsf.jp/diary/200804-3.html#d20080430-n1

◇ 仮面のメイドガイ ご奉仕 三「ロマンティックが止まらない?」(4月19日放映分)

評価……☆☆☆☆(前回比: ±0)

女子剣道部vs男子剣道部……というか, 乳ファンクラブ。一瞬でもまともに相手しようとした時点でなえかの精神的負けです(^^;;; そんな変態どもを成敗している脇でなえかを見つめる目に気付く, 妖怪センサーならぬメイドガイセンサー。これはフルメタっぽくなるのか, と思いきや……むしろロッカー爆破しそうなのはなえかの方でしたな(^^;;;

「昔は姉ちゃんも, 運命の出会いに憧れ, フラグにときめき, ベストエンディングを夢見た恋する少女だったんだ」なんだその表現。しかるにそんな甘酢っぱい過去も, 『毒殺女』の異名と共に返上してしまったなえか。でもベッドの下には……ちょっと古めのティーンズ雑誌? 「たった一度の失恋も乗り越えられないぶんざいで剣の道を語るなど笑止!」「失恋がどんなに辛いか知ってるの!? 僕なんてバッドエンドの度に枕を濡らしているんだから!」幸助は二次元が真剣に恋人らしい……。「何が眼鏡に妹に猫耳だ! この呪われた子孫達め!」鞠絵にキョン妹に葉月ですな。葉月は角川系ではないんですけど。

「メイドガイ特製ドリンク, しかも嬉しいカロリー0!」なえかの扱いに一つ慣れたようです(^^;;; で, その中身は……媚薬ですか? 今の富士原家においては, 誰を相手に発情しても面白い事になってしまいますな。ということで被害者はフブキ「コガラシさんどうするんですかこれー!?」「心配するなもっとやれ。小一時間ほど外に出ている」空気読まなきゃbyマイメロ(^^;;; そしてやってきたじーちゃん → 猟奇現場(^^;;;

エビフライ特訓……回想シーンで出来てたのは, 少なくとも見た目はまともな弁当だったのに, 結局爆発料理人なんですな(^^;;; 「お食べ(↓)」「女の子の料理は残さず食べる, それが男の運命です(↓)」最低限, 食べても命に別状無いものなのであれば, そうだけどさ(^^;;; 「……食べ物だ! 人が食べても平気なものだ! しかもエビフライだと味で判るほどの出来栄えだ!」そこまで感動されてしまうのって, なえかが如何に猛毒料理人として名を馳せていたかが知れるというものです。あの弁当1食だけじゃないって事だよね。

ここまで来てようやくラブレター開

[42] 岩泉線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%89%E7%B7%9A

岩泉線(いわいずみせん)は、かつて岩手県宮古市の茂市駅と同県下閉伊郡岩泉町にある岩泉駅を結んでいた東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

茂市駅で山田線から分岐していた、第二次世界大戦中に耐火煉瓦の原料となる耐火粘土の輸送のために建設された路線で、日本国有鉄道(国鉄)時代に特定地方交通線第2次廃止対象線区に選ばれていた[1]が、並行する道路が整備されていなかったため、代替道路未整備を理由に名松線[注釈 1]とともに廃止対象から除外された[2]。2010年7月31日に発生した土砂崩れによる脱線事故のため、以来全線で運休になっていたが、2012年3月30日にJR東日本は鉄道での復旧を断念し、バスによって輸送を継続したいという方針を発表し[3]、2013年11月8日に廃止届が提出され[4]、2014年4月1日に廃止された[5][6]。

歴史[編集]

全通までの経緯[編集]

岩泉線の歴史は、1922年に公布された改正鉄道敷設法の別表第8項に掲げる予定線として「岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ袰野[注釈 2]付近ニ至ル鉄道及落合付近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道」と規定されたものに端を発する[8]。この予定線は、袰野で三陸海岸沿いに走る別の予定線「岩手県久慈ヨリ小本ヲ経テ宮古ニ至ル鉄道」(別表第6項)[注釈 3]に接続するものであった[8]。

この予定線は直ちに建設に着手される見込みはなかった[8]が、第二次世界大戦に入ると、小本川上流で耐火煉瓦の原料となる耐火粘土が採掘されることから、これを輸送する路線として山田線茂市駅から浅内駅に至る鉄道路線が着工されることになった[7][注釈 4]。

この路線は小本線と称し、まず1942年6月25日に茂市駅から岩手和井内駅までの区間が開業した[8]。次いで岩手和井内駅から押角駅までの区間も1944年7月20日に開業した[2]が、この時点では岩手和井内駅以遠の区間は貨物輸送のみであった[2]。その先も浅内駅までの延長工事が進められていた[2]が、第二次世界大戦中には開通せず、耐火粘土は索道によって押角駅まで運ばれていた[2]。また、木材輸送も行われていた[8]。

終戦後も工事は継続され、押角トンネルが貫通した出口に宇津野駅を設け[2]、1947年11月25日に押角駅から宇津野駅までの区間も開業[8]、これと同時に岩手和井内駅か

[43] 廃線レポート 飯田線旧線 旧第一久頭合隧道, , http://yamaiga.com/rail/iida_misakubo/main2.html

2009/1/25 7:00

予想外の展開となった。

昭和52年に「変状」によって廃止されたという「旧第一久頭合隧道」の南口は、産廃処分場の一部となって確かに存在していたが、最新の地形図上では未だそこを線路が通っているように描かれていたのである。

つまり、現実には地形図にないところを線路が通っていることになる。

残りさほど長くはないと思うが、その新旧線合流地点を求め、芋掘地区対岸の旧線路盤を前進する。

歩き始めると間もなく、色々なモノが一挙に現れた。

それは大きく分けて3つ。

まずは、仮設の鉄パイプを欄干代わりに据えたコンクリート橋。

続いてごく短い廃レール造の落石覆い(らしきもの)。

そして奥の突き当たりにあるものは、別方向へと伸びる堅牢そうな鉄の落石覆いだ。

つまりは間もなく現在線と合流するようだが、直前にさほど期待していなかった旧線遺構が2つも出てきた事になる。

手前から順に見ていきたい。

まずは仮設欄干が一見して興を削ぐこと著しいコンクリート橋であるが、わざわざ遠景を確保(→)したところ、立派に鉄道遺構をしていることが明らかとなった。

全国的に見て希少だとかここだけだというようなモノではないが、それでも廃線跡の橋梁が崩されず、しかもほぼそのままの姿で車道転用されているというのは、線路付け替えの歴史を体現する重要な遺構といえる。

残念ながら橋梁名の調べは付かなかった。(詳しく橋桁を調べれば銘板があったはずだ)

そしてこの構造物(写真は逆向きで撮影)。

謎の構造物と言っても良いかも知れない。

落石や雪崩を防止するための設備としてはあまりに脆弱で、力を逃すのも下手そうだ。

何に似ているかと言われれば間違いなく公園の「藤棚」で、廃レールを用いている事が鉄道構造物らしい唯一の点だろうか。

両側の柱の上部に見られる曲線部の処理などは、駅のホームのそれにそっくりである。

正体ははっきりしないが、当初からこの長さであったとすれば、それは線路上を架空していた索道か何かがあって、その墜落物から鉄道を守るための覆いかも知れない。(元々は格子の間に鉄網がはめられていたのだろう)

そしてここで、遂に現在線が出現! 合流!

地形図をかくも裏切り、浅い掘り割りの途中で左から合流してくる堅牢な落石覆いの正体は、くろがね光る現在線だった。

当然そこには、「第一久頭合トンネル」

[44] 廃線レポート 真室川森林鉄道 高坂ダム周辺区間, , http://yamaiga.com/rail/oosawagawa/main.html

このほか、レポート化していない探索も多少あるが、基本的に真室川林鉄に対する私の印象は、東北の他の多くの森林鉄道と同じく、比較的穏やかな地形を舞台に活躍した路線である。

だが、この写真のシーンを知っていたならば、印象は少し変わっていたはずだ。

こんな場面が真室川林鉄にあったのか。

これはどこなのか。果たして今も遺構はあるだろうか。この規模である。道路になったり、ダムに沈んだりしていなければ、十分に残っているはずだが…。

ならば、こんな凄まじい絶壁の風景と共に、 まだ見ぬ隧道が2本も存在することになるのである!

私が最後に真室川林鉄の探索をしたのは2006年であり、だいぶ時間は空いてしまったが、再訪する必要があると考えたのは、写真に気付いた2013年春のことだった。

【周辺図(マピオン)】

同じ写真を見て興奮していた人物は、もちろん私だけでは無かった。

そして、私よりも素早く行動を起こした人物がいた。

この時のメールのやり取りをきっかけに、以後何度も貴重な情報を提供してくださることになる尾花沢市在住の 酒井氏 もその一人である。

以下に同氏から2013年5月に戴いたメールの一部を転載する。

早速情報ですが、山形県ホームページ近代化産業遺産真室川森林鉄道の6番目の写真(隧道と隧道の間を運材車とDLが走行)が気になり、地形図から高坂ダム付近に在るのではないかと思い、雪解け直後に現地にて隧道があるのを確認しました。 雪解け直後は遠目での確認だったので、間近で写真を撮りたいと思い、本日ダム見学ということで高坂ダム管理事務所の許可を得て職員の方と同行し、ダムすぐ下流の橋の上から撮ることができました。内、1枚写真を添付いたします。

添付されていた画像は携帯で撮影されたものか、サイズが小さく鮮明では無かったが、確かに白黒写真と同じ地形の場所は現存していて、さらに隧道が口を開けていることが見て取れた。

加えて、 「現場は高坂ダムすぐ下流」 という、極めて有力な情報!! これで探索の決行が決まった。

…というような流れで探索へ向かったのであるが、その本編を開始する前に、舞台の説明をしておこう。

幸い、最近になって「 近代化遺産 国有林森林鉄道全データ(東北編) 」のような優れた資料が入手出来るようになったので、過去のレポートよりも正確に概要を説明することが出来る。

[45] 橋梁レポート 秋田木材専用線 桧山川橋梁(仮称) 再訪&机上調査編, , http://yamaiga.com/bridge/akimoku/main.html

2003(平成15)年11月10日に公開したミニレポート【 能代駅近くの謎の廃鉄道橋 】を記憶しているという方は、当サイトの熱心な読者さまの中でも、かなり少ないと思われる。

本橋は、秋田県内に残る数少ない鉄道用廃橋ではあるが、余り目を引く規模ではなかったし(特に川面からの高さが小さいことがインパクトを薄めている)、私自身もレポートから数年後に住居を秋田から東京ヘと移してしまったため、ますます印象から遠ざかってしまっていた。

だから、これを再訪したのは、里帰り期間中のほんの偶然の悪戯(友人とドライブしている最中に近くを通りかかったので立ち寄ってみた)でしかなかった。

しかし実はこの廃鉄橋、わが国の橋梁史上に燦然と名を連ねうる、逸材だった。

本編は「再訪&机上調査編」と題して、2012(平成24)年の再訪をきっかけに判明した 本橋にまつわる「貴重な事実」と、未だ解き明かされぬ謎 について、まとめておきたい。

なお、文責はいつも通りヨッキれんだが、気持ち的には「鉄道友の会」秋田支部郷土誌編纂室長として公表している。支部長ミリンダ細田氏を中心に、私を含む総勢5名(2016年4月現在)の少数からなる秋田支部では、随時支部会員を募集しています。ご入会お問い合わせは 鉄道友の会本部 へ。

1. 橋の再訪で発見したものは――

【位置図(マピオン)】

2012/4/2 16:30 【現在地】

約8年半ぶりに訪れた、東能代駅裏手の現場。

そこには桧山川を渡る連続5径間、総長70mほどの上路PG(プレートガーダー)廃橋が、特に変化した様子もなく、泰然と存在していた。

正式名は相変わらず分からないので、鉄道橋の命名法に則って「 桧山川橋梁 」とする。

変わらず架かっていたことに安堵した私は、挨拶がてら、この橋を再び渡ってみることにした。

写真の向かって右、東能代駅のある側から、懐かしの渡橋へ挑む。ちなみに前回とは反対方向也。

遠目には「変わらなかった」廃橋も、実際に渡ってみると、過ぎ去った年月は確かに感じられた。

隙間だらけのPGを突き破って生えた、氾濫原に根を張る生きた木々はさらに太く生長していたし、半面、以前は気にせず歩けたはずの枕木や中央の踏み板など死んでいる木々は、一層朽ちてスカスカになっていた。

橋上の枕木を延長する形で空中に設けられた、木製の勾配標も、肝心の

[46] 八高線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A

八王子駅 - 高麗川駅間 [ 編集 ]

中央本線 上りホームの反対側1番線から 八王子駅 を発車すると、右手に 横浜線 が分岐し 京王線 を跨ぐ。左へカーブし中央本線から分かれ、 浅川 を渡り、 国道16号 ( 八王子バイパス )を跨いで勾配を上っていく。 国道20号 (甲州街道)を潜って巨大な倉庫や工場の林立する 北八王子駅 に到着する。北八王子を発車すると勾配を下り、 中央自動車道 を潜ると間もなく 小宮駅 に到着し、勾配を下りながら 1945年 に 八高線列車正面衝突事故 のあった 多摩川橋梁 にかかる。多摩川両岸に向き合う 東京都下水道局 の二つの 下水処理場 を右手に見ながら鉄橋を渡ってしばらく直線に進むと 青梅線 を跨ぎ、青梅 電留線 、 米軍横田基地線 、 保線 基地などを大きく抱き込む形で左にカーブし、右手から 西武 拝島線 が寄り添ってきて 拝島駅 に到着する。

拝島駅を出るとすぐ国道16号の武蔵野橋を、 五日市線 、青梅線とともにくぐり、両線を左に分けながら住宅街の間のゆるい勾配を直線で上り、 東福生駅 に到着。東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の路線は 横田基地 拡張にともない付け替えられたが、基地を完全に迂回したわけではなく、駅を出るとしばらく基地内の住宅やスーパーマーケットの間を走る。基地内を出て右に並行していた国道16号が、 瑞穂バイパス となり下をくぐって左に分かれていくと、コンクリート壁の間を抜ける。この部分は 滑走路 からすぐの延長線上にあり、未電化時代は トンネル となっていた部分である。これは昔、 飛行機 からの部品落下などが時おりあったためだが、飛行機の安全性向上もあり、電化の際に 架線 を張る邪魔になるため上部が取り壊された。 新青梅街道 を跨いですぐに、 箱根ケ崎駅 に到着。箱根ケ崎駅は拝島方面からの折り返し列車もある。以前は待避線もあったが撤去された。

箱根ケ崎駅を出ると、かつては本線の右側を複線のように貨物線が並走していた。撤去された現在は草に覆れ面影が乏しい。ゆるい登り勾配を進むと、瑞穂バイパスの跨線橋をくぐる。ここで、八王子駅から当線の左右を並行して走ってきた国道16号と一旦別れ、 川越市 までは、当線と 川越線 とは全く別ルートを走る。 埼玉県 入間市 に入り、 狭山茶 の 茶畑 の中を走り標高158メートルの八高線最高

[47] ミニレポ第230回 国道285号旧道 羽立橋, , http://yamaiga.com/mini/230/main.html

日本には古くても頑張っている橋がたくさんあるが、どの橋もいつかは必ず寿命を迎えるときが来る。

私にとってなじみ深いフィールドである秋田県の上小阿仁村にも、現代日本人の平均寿命くらいは働いている橋があるのだが、それが最近いよいよ寿命を迎えそうな気配が濃くなっているので、ここに記録を留めておきたいと思う。

これは、保存活動が行われそうなほど有名でも、特別珍しい構造というのでもない、日本の各地にまだまだたくさんある平凡な老橋の姿である。

橋の名前は、おそらく 羽立(はだち)橋 という。

橋名ははっきりしない部分がある(理由はこの後の本編で)のだが、とりあえずこの名前で進める。

羽立橋は、秋田県北秋田郡上小阿仁村にある 国道285号の旧道 の橋で、同村を南北に貫流する小阿仁川に架かっている。

国道の橋だったのは昭和45(1970)年の国道285号初指定時から、昭和53(1978)年に「新羽立橋」を含む羽立バイパスが開通するまでの比較的短期間だが、橋そのものは 昭和12(1937)年の完成 であり、今年平成29(2017)年に築80年を迎えた。

現在この橋は上小阿仁村の村道・長信田羽立線の一部になっている。

以下の探索レポートは、今から9年前の平成20(2008)年の姿である。

それではご覧いただこう。

2008/9/27 9:10 《現在地》

ここは羽立橋の東岸だ。

橋の年齢よりは若いものだと思うが、1本のサクラが橋頭の空を覆い隠さんばかりに枝を広げていて、花の時期にはきっと素晴らしい眺めだと思う。

全長120mのまっすぐな橋の向こうに、対岸の堂沢地区の山がちな景色が見えている。

こちら側は羽立地区といい、橋の名前の由来になったものと思われる。

見たところ、どこにでもありそうな古ぼけた橋という印象を受ける。

ではこの橋のどこから「古ぼけた」印象を受けるかと問われれば、路面の両側の低いコンクリート欄干と、それとは対照的に巨大な親柱、加えて親柱の手前に侍る副親柱とも言うべき存在たちによると答える。これらは皆、古い橋の外見的特徴であり、特に低い欄干だけは現代の橋が(道路構造令的に)真似の出来ないことだ。

それともう一つこの橋の古さを感じる点があるとしたら、それは親柱よりも目立つように設置された重量制限の標識や看板だ。

橋には10トンの重量制限が行われてい

大釈迦隧道

大釈迦隧道

第二小繋隧道

第二小繋隧道

第四小繋隧道

第四小繋隧道

峯ノ山隧道

峯ノ山隧道

橋桁トンネル

橋桁トンネル

履歴

[60] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933381479

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