大荒沢

大荒沢

[1] 錦秋湖大荒沢 (おおあらさわ)

39.2960887205203 140.880689620972

Webページ

[2] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[3] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin/main3.html

湖畔から見る、大荒沢の露出した湖底。

そこには、今なお鮮明に田畑の形が浮かびあがった。

手前に見える堤防のような道が、かつての北上線である。

私は、湖畔を往く道を断たれ、夕暮れの中途方に暮れて湖を見つめた。

そして、地図をひらいて、あるはずもない、別の道を探したのである。

だが、意外なところに突破口があった。

それは本当に、難しいパズルにただ一つの解法を見つけたような、胸のすく発見であった。

その答えとは…?

私が考えた、工事現場のある湖畔を迂回して、隧道のあるだろう大荒沢河口部に至るためのルートは、左の図の緑色の線の通りである。

以前紹介して、以来はそのままになっていた「 謎のトンネル 」を潜って、秋田自動車道にぶつかる。

地図をよく見ると、この秋田自動車道に重なるようにして、小荒沢という沢が流れているというのが、今回のルートの肝である。

もうお分かりだろう。

あとは小荒沢を何とか湖まで下れば、見事工事現場を迂回して、目的の大荒沢河口部に辿り着けるというわけだ。

我ながら、今まで無用の長物のように見えていた「謎のトンネル」を活用したルート取りに自己満足し、成功前に納得してしまった。

だが、このルートは、本当に大成功だったのである。

善は急げと、早速林道に戻ってチャリを回収し、久々に、あのトンネルに入る。

時刻は、16時49分。

全長400m程度の謎のトンネルは、相変わらず真っ暗であった。

特にトラブルもなく、幾つかの待避所がある素堀りコンクリ吹き付けのトンネルを通り抜ける。

そのまま、高速道路の下をアンダーパスして、砂利道となる。

砂利道は、二手に分かれる。

メインの道は直進であるが、私は高速道路の側道として設けられたらしい、高速沿いの道へはいる。

この辺り、急いでいたので写真はないが、難しい部分ではない。

側道は下刈りされておらず、所々背丈より深い藪になっていたが、ここも強引に進んだ。

16時55分、高速の小荒沢橋の下をアンダーパスする。

脇には、すっかりコンクリートの函に収まった小荒沢が流れている。

まだ、なんとかチャリで進めるので、少しでも時間を短縮するために、猛進する。

一挙に核心が近づいてくる手応えだ!

普段はなかなか見られないアングルから、高速道路の坑門をゲット。

小荒沢と大荒沢との間の小さな尾

[6] ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑, , http://yamaiga.com/mini/222/main.html

今回は、「 廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡 」 には、まだ続きがあった!

…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。

2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。

次に我々が目指した場所は、 大荒沢ダム跡 である。

大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。

大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。 (10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→ レポ )

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。

次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。

駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。

これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。

普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。

地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。

そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。

はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。

昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大

[7] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main3.html

通常の水位では決して地上へと現れることもない、廃止されたダムの堤体を通って、左岸間近へと我々は移動した。

だが、ここから通常の汀線である湖岸の斜面までは、泥の沼地をおおよそ20mほど歩かねばならない。

一見して、そのうちの手前側10mほどは表面にひび割れもなく、足を踏み入れればどうなるのかは、もう体がよく分かっている。

体験したものにしか分からないことだと思うが、深い泥というのは、本当に危険なものであり、水ならば泳げば進むことも出来るだろうが、泥はそうも行かない。

実は、時として水没以上に難地であったりもするのだ。

写真でも、僅か2歩分だけ泥に進入した痕跡があるが、これは私が早まって進入し、危うく再び帰れなくなるところだった名残だ。

だが、くじ氏が指さす方向に、活路はあった!

これが、答えだ!

とは言っても、意味が分からないだろうから、補足説明。

最後尾のHAMAMI氏が通っている場所が、唯一通れるコースである。

そこは、コンクリの堤体の縁になっており、このときはちょうど汀線でもあった。

この縁の部分だけが、僅かに波で泥が流され、辛うじて定規一本分程度のコンクリが見えていた。

あとは、両足でしっかりと泥を切り崩しながら、足場を広げつつ歩くことで、此岸までのルートを確保できた。

言うまでもないが、泥のぬめったコンクリ上を滑り落ちれば、即 底の見えぬ湖にドボン!

かなり、恐かった。

恐かったが、全員無事にここを突破し、見事左岸に辿り着いた。

左岸の斜面。

通常は水面下になっている部分には、なにやら橋台のようなものが瓦礫に半ば埋もれていた。

この斜面の上部には、国道107号線が通っており、賑やかな道の駅も間近だ。

これらコンクリートや石垣の構造物が何であるかは、推測の域を出ないが、大荒沢ダムの関連施設であった可能性の他に、旧平和街道の遺構である可能性も捨てきれない。

確かに当時は、後の国道となる平和街道が、この左岸を通っていた。

やや左岸上流側から見た大荒沢ダムと、管理事務所跡と思われる建物(右)。

昭和初期としては規模の大きな発電用ダムだったが、“日本のTVA”とまで呼ばれた湯田ダム国策の前ではあえなく水没し、僅か20年と少しの寿命を終えてしまった。

これら失われた土地での体験が、私の和賀への愛着をより一層深くした事は間違

[14] 廃線レポート 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡, , http://yamaiga.com/rail/ooarasawa/main3.html

2014/9/14 7:35 【現在地】

これは10年前に今回と同じように点検水位になったときに撮影した写真である。このように駅の全体を俯瞰するアングルでは今回撮らなかったので、この写真を使って大荒沢駅の大雑把な構内配置を説明する。(「現在地」は、今回の探索のもの)

まず、この写真で黄色く塗った範囲は、駅の敷地として周辺よりも高くなっている(盛り土されている)場所である。

ほぼ平坦な大荒沢の集落跡にあって、駅だけがホームの高さ分だけ高いために、草木がまるでない状況ではよく目立っていた。

そして大荒沢駅には複数のプラットホームが存在する。

湖畔から見て奥、つまりかつての和賀川の流れに近い側に改札口と1番線ホームがあったとみられる。1番線ホームは片面の単式ホームで、おそらくは北上方面への列車が発着していたものと思う。

ちなみに、駅前には 一般県道大荒沢停車場線 があり、大荒沢集落の間を縫って和賀川対岸の平和街道(国道107号の水没した旧道)へ通じていた。

そして1番線と複線の線路を挟んで向かい合っていたのが、2番線と3番線を有する島式ホームで、そのどちらかが横手方面の乗降場だったのだろう。

また、ホーム間の移動通路は、現在でもローカル駅でしばしば見られる平面交差であっただろう。

そしてもうひとつ、改札の北上寄りに行き止まりの頭端式ホーム(幅は複線分だが車止めは北側の一基だけ存在)が存在している。これは貨物用ホームと思われる。

以上のように、大荒沢駅は、交換可能な旧国鉄駅の典型的な体裁を整えた立派な駅であった。

この撮影から10年後の我々は、湖底の泥濘を踏みしめて、はじめてこの駅のホームに立ち入ろうとしている。

まずは、最も“陸”に近い3番線。次いで2番線から1番線へ渡り、例の「 あれ 」を確かめたい!!。

意を決して、泥濘の大海へ漕ぎ出す。

いま見ているのは、3番線ホームの北上側端部の辺りで、地表の凹凸に浮き上がった最も大きな膨らみが目指すホームである。他にも薄らとした膨らみがあるが、バラストを盛られた線路の盛り上がりに他ならない。このような形で廃止前の線路配置が分かるというのも、なかなかに貴重な体験だった。

なお、これまでの偵察的要素を持った探索により、干上がってからあまり時間が経っていないこの泥濘の世界では、行動の自由が相当に限られていること

[17] 大荒沢信号場 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%92%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E5%A0%B4

大荒沢信号場(おおあらさわしんごうじょう)は、かつて岩手県和賀郡西和賀町にあった日本国有鉄道(国鉄)北上線の信号場である。信号場となる前は駅であった。

和賀仙人駅とゆだ錦秋湖駅の中間点近くに位置した。

概要[編集]

大荒沢信号場は、1924年(大正13年)10月に東横黒線(現北上線の東側)が西横黒線(同じく西側)との連結を目指して西進するなかで、難所であった仙人隧道の貫通にともなって隧道西側まで延伸した際に、暫定的な終着駅、大荒沢駅として開業した。すぐ後の同年11月には大荒沢から陸中川尻駅までの最後の区間が開通し、横黒線は東西が連結して全通、大荒沢は中間駅となる。

その後、湯田ダム(錦秋湖)建設の為に大荒沢駅を含む約15kmの区間がダム湖に沈むこととなり、1962年(昭和37年)に現在線である新線へと付け替えが行われた。その際、大荒沢駅は駅としては廃止され、信号場へと格下げとなった。その後、1970年(昭和45年)には、信号場としても廃止され、現在に至る。

ルート変更前、つまりダム湖に沈む前には駅周辺に大荒沢の集落や大荒沢ダムがあったが、現在は周辺には秋田自動車道錦秋湖SAを除くと大荒沢・小荒沢という沢があるくらいである。

廃止跡[編集]

現在、現在線上の信号場跡地はホームなどの遺構がわずかに現存している。

旧線上の駅跡地は、基本的にはダム湖の渇水期にも姿を現すことなく湖底に沈んだままであるが、現在もホームおよび軌道敷の跡が残存していることが確認されている(外部リンク参照)。

歴史[編集]

1924年(大正13年)10月25日 - 国有鉄道の大荒沢駅として、東横黒線 和賀仙人〜大荒沢間開通時に開業。一般駅であった。

1924年(大正13年)11月15日 - 路線が陸中川尻駅までが延伸開業し、横黒線が全通。

1962年(昭和37年)12月1日 - 横黒線ルート変更(新線付替え)に伴い廃止。大荒沢信号場として格下げされ新線上へ移転。

1966年(昭和41年)10月20日 - 横黒線が北上線に改称。

1970年(昭和45年) - 大荒沢信号場廃止。

隣の駅[編集]

日本国有鉄道

北上線

和賀仙人駅 - 大荒沢信号場 - 陸中大石駅(現:ゆだ錦秋湖駅)

外部リンク[編集]

山さ行がねが - 廃止跡地をリポート。

新線上の信号場跡

渇水期よりも水位が低い時に現れた旧線上の駅跡

[18] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[19] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/oukoku/main3.html

錦秋湖畔に残るのは、旧国道の廃橋ばかりではない。

国鉄横黒線(現JR北上線)の廃線跡も、渇水期にはその姿を汀線ぎりぎりに現すのだ。

今回は、いよいよこの廃線跡へ。

大石橋と旧橋

徐々に改良が進む湖畔の橋の中で、未だに未改良のままある大石橋は、昭和35年の竣工である。

まさにダム工事による付け替え道路工事にあわせて建設された物だ。

そして、この大石橋の上からは、今までで最も良く原形をとどめる旧橋の姿を見ることができる。

大石沢に架かる旧橋は、両端こそ緑に飲まれているものの、非常に良く原形をとどめている。

まるで模型のような小さなアーチ橋は、見ていると自然と笑顔になれるような、やさしい魅力を感じる。

これはぜひ、行ってみたい!

ほぼ直上から見下ろした旧橋の姿。

なんともいえない構図にもう、クラクラである。

しかし、先述したとおり、現橋といえど大変に狭隘である上に、昼夜を問わず通行量のある国道である。

大型車などが通行すると大変に揺れるという状況では、長居も無用だろう。

ここに立ち止まっていては、通行の妨げになりかねない。

[23] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga/main9.html

山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、和賀軽便鉄道跡を追跡中。

和賀仙人鉱山跡を通過。

これから紹介する区間は、極めて荒廃が進んでおり、一挙手一投足を誤れば即重大事故に繋がります。

絶対に不用意には近づかないで下さい。

橋梁連続部

和賀仙人鉱山の赤茶けたガレ場急斜面を攻略した我々の足には、既にかなりの疲労感が蓄積していた。

ここまで、既に半日近く廃道や廃墟を探索し続けている。

ガレ場を過ぎると、断崖はますます和賀川にせり出してくる。

この先が、国道からもよく見ることが出来る、絶壁の軌道跡となる。

いよいよ、私が計画した和賀計画、最難の区間の登場と思われた。

私は、視界を得るために岩場に半身登って撮影している。

足元の緑の部分が、僅かに残された軌道敷きである。

軌道の下も、目の前の岩場同様、ほぼ垂直に和賀川に落ち込んでいる。

密度の濃い藪を掻き分けて、且つ足元に細心の注意を払いながら、私、くじ氏、パタ氏の並びで一列に進む。

この先、もはや写真撮りのために危険を冒している余裕はなくなり、分かりづらい写真が続くが、とにかく難所であるとご理解頂きたい。

一歩間違えば、確実に肉団子になる。

先の岩場を突破すると、一旦森に入る。

しかし、その地形の険しさは殆ど変わらず、むしろ、足元に張りだした根への躓きや、枯葉に沈んだ浮き石、滑りやすい土の斜面など、危険度は上だ。

そのことを、実感を伴って思い知りながら進むと、石垣が現れた。

一つめの橋梁の跡である。

斜面に刻まれた沢を渡る橋は立派な石垣の橋台を両岸に残したまま忽然と姿を消している。

ここは、木の根を手がかりにして、へつるように突破した。

両腕に命が預けられた時の、あの独特の感触、恐怖に違いはないが、何処か危険な悦楽を孕んでいる…。

まだこれは、地獄の入り口に過ぎなかった。

来た!

我々は、眼前に広がる景色に、完全に言葉を失う。

対岸から見ることが出来る景色や、私の大荒沢隧道攻略、くじ氏のプレリサーチなどで、この様な光景が出現することは、頭では分かっていた。

しかし、実際にそれが目の前に現れ、しかも、この場所に対する我々の目的が 「突破」 の2文字であるとき、そこに感じた戦慄は、完全に命の駆け引きを覚悟させた。

ま、まずい。

ここは…、

ここは人の来る場所じゃ

履歴

[25] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933357370

メモ