湯田ダム

湯田ダム

[1] 湯田ダム (ゆだだむ)

39.3016666666667 140.885138888889

Webページ

[3] 湯田ダム - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。 国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

[4] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[5] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga/main2.html

水路上の廃墟を後に、廃道をすすむ。

この先について、偵察時にくじ氏は延々と斜面を歩いたと言うが、現在の状況は、ややそれとは異なる。

幸いにも、我々は道路敷きを失わずに、辿ることに成功しているようだ。

このあたりは、さすがに大人数の目で周囲をよく観察しながら歩いている成果だろう。

これ以上なく毒々しいキノコが発見された。

まるで、目の細かいスポンジのような、手のひらほどもあるキノコ。

もっと大きなものもあった。

食えるのかな?

今度は、かなり原形を留めている石垣に遭遇した。

それは、昭和初期の旧道でよく見られる、丸石の石垣だった。

この石垣の下は藪も浅く、休憩にはもってこいだった。

一休止だ。

休みながら、周囲を見回してみる。

すると、目の前の石垣のさらに上部に、もう一段の石垣が発見された。

視線をさらに上に遣ると、もう一段あるではないか。

我々は、自分の目を疑った。

1段、2段、3段…

4段、5段、6段!!

一体、何段あるんだ!

ここは、古代の山城か?!

そこには信じがたいことに、7段以上の石垣が、斜面を覆うように築かれていた。

しかも、今自分たちがいる場所も、谷底へと段々になって続く石垣の、中腹に過ぎなかったのだ。

下を見ても、何段もの石垣が見える。

このときの衝撃と言ったら、そんな経験はないものの、古代遺跡の発掘に成功したような興奮だった。

いや、ともすればマジでピラミッド?!

そう思えるほどに、山肌一面が、古い石垣に覆われていたのだ。

道は、このまま真っ直ぐ続いているが、通りすぎるには惜しい。

二人を置いて、石垣の上部へと行ってみることにした。

石垣の上

実は、石垣の頂上には、何か石垣とは異質の、灰色が見えていたのだ。

パタ氏もそれに気が付き、石垣の上にあるのは建物かと、と疑問を述べた。

私は、石垣を直接登ることは出来ないから、脇の森を、生木や根を頼りに、強引に登った。

斜度60%を越える、急な斜面である。

そうして登っていくと、次第に石垣の上にあるものがはっきりと見えてきた。

それは、確かにコンクリートの建造物のようであった。

興奮に身を躍らせるようにして、2分かけてこの崖を登り切った。

既に、後続も登り始めている。

私の奇声に、ただ事でないことを察したようだ。

そこには、直径20m、

[11] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/bridge/wakasennin.html

この写真。

なにやら、時代錯誤な景色であるが、紛れも無く、先日の景色である。

一応、今回の主役は、明らかに古臭いこの橋なのだが、奥に写る巨大な工場。

この迫力には、かなりマイッタ。

一目見た瞬間に、もう、私は骨抜きにされてしまった。

一目ぼれというやつである。

奥に写る沢山の建物は全て同じ敷地無いにあるものなのだが、一際目立つ正面の工場は、一見して廃墟かと思った。

その全体が赤錆に覆われ、その屋根の上の一部は草地と化してさえあった。

さすがに、これで現役とは思えない。

そう思ったのだが、周辺の工場は、稼動しているようであり、これでも現役なのかもしれない。

手持ちの地図には何の施設も描かれていない一角に、この工場群を含め、国道を挟んで反対側にも、同規模の巨大な工場があった。

こんな内陸の、山間の地に、なぜこれほどの巨大工業地帯が形成されているのか、甚だ疑問である。

ともかく長い歴史を持つ工場のようで有るから、私などには与り知らぬ、深い訳がありそうだ。

この魅力的な、そしてなぞめいた一角は、岩手県北上市は、湯田ダムのすぐ下流、JR和賀仙人駅が最寄の、国道107号線沿いである。

ここに私は、この巨大工場を背景に従える、大変に荘厳な、廃橋を発見した。

北上市へ向かって、国道107号線を進んでいた私と、この旧橋との出会いは鮮烈であった。

錦秋湖畔の道なりは、水面に沿ってほぼ平坦であるが、湯田ダムを越えると途端、まさしく堰を切って勢い良く落ちる水のごとく、和賀川に沿う国道も、急な下り坂となる。

その水面に日の光が届かぬのではないかと言うほどに、極めて深く険しい和賀川の峡谷に目を奪われる。

そこで現れる、同じ名を冠した数々の道路構造物。

スノーシェード、スノーシェルター、そしてトンネルが、急な下りのさなか、あっという間に過ぎ去ってゆく。

共通の名は『和賀仙人』。

何とも美しい名、である。

そして、長かった奥羽山脈越えの終端。

険しい峡谷から、人里へと景色が変わる、その境界に待ち受けていたのが、『和賀仙人橋』であったのだ。

さながら、仙人の住む世界と、人界を分け隔つ門のように…。

この橋を勢い良く駆け抜ける私の目に飛び込んできたのが、まずは先ほどの巨大な工場の姿。

そして、すぐ隣を併走する、石と鉄を組み合わせた旧橋の姿であったの

[12] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main3.html

通常の水位では決して地上へと現れることもない、廃止されたダムの堤体を通って、左岸間近へと我々は移動した。

だが、ここから通常の汀線である湖岸の斜面までは、泥の沼地をおおよそ20mほど歩かねばならない。

一見して、そのうちの手前側10mほどは表面にひび割れもなく、足を踏み入れればどうなるのかは、もう体がよく分かっている。

体験したものにしか分からないことだと思うが、深い泥というのは、本当に危険なものであり、水ならば泳げば進むことも出来るだろうが、泥はそうも行かない。

実は、時として水没以上に難地であったりもするのだ。

写真でも、僅か2歩分だけ泥に進入した痕跡があるが、これは私が早まって進入し、危うく再び帰れなくなるところだった名残だ。

だが、くじ氏が指さす方向に、活路はあった!

これが、答えだ!

とは言っても、意味が分からないだろうから、補足説明。

最後尾のHAMAMI氏が通っている場所が、唯一通れるコースである。

そこは、コンクリの堤体の縁になっており、このときはちょうど汀線でもあった。

この縁の部分だけが、僅かに波で泥が流され、辛うじて定規一本分程度のコンクリが見えていた。

あとは、両足でしっかりと泥を切り崩しながら、足場を広げつつ歩くことで、此岸までのルートを確保できた。

言うまでもないが、泥のぬめったコンクリ上を滑り落ちれば、即 底の見えぬ湖にドボン!

かなり、恐かった。

恐かったが、全員無事にここを突破し、見事左岸に辿り着いた。

左岸の斜面。

通常は水面下になっている部分には、なにやら橋台のようなものが瓦礫に半ば埋もれていた。

この斜面の上部には、国道107号線が通っており、賑やかな道の駅も間近だ。

これらコンクリートや石垣の構造物が何であるかは、推測の域を出ないが、大荒沢ダムの関連施設であった可能性の他に、旧平和街道の遺構である可能性も捨てきれない。

確かに当時は、後の国道となる平和街道が、この左岸を通っていた。

やや左岸上流側から見た大荒沢ダムと、管理事務所跡と思われる建物(右)。

昭和初期としては規模の大きな発電用ダムだったが、“日本のTVA”とまで呼ばれた湯田ダム国策の前ではあえなく水没し、僅か20年と少しの寿命を終えてしまった。

これら失われた土地での体験が、私の和賀への愛着をより一層深くした事は間違

[19] 廃線レポート 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡, , http://yamaiga.com/rail/ooarasawa/main.html

10年ぶりの好機、来たる。

岩手県公式サイトに、「 仙人発電所及び和賀川発電所の定期点検等に伴う湯田ダム水位低下 」というお知らせが、平成26年8月4日に掲載された。

これによると、湯田ダムの水位を「通常低下させる最も低い水位」よりも更に約6.5m下げて 定期点検 を行うという。

またその期間は、平成26年9月21日〜平成26年11月30日で、それ以前の8月上旬から徐々に水位を下げていくらしい。

このお知らせを見た瞬間、私の目の前には土色に干上がった広大な土地が広がった。

そして大地の中央には、立派なホームを何面も横たえた巨大な駅の姿が見えた。

それは、今からちょうど10年前、間近に見ながら近付かず、そのまま水中へと見送ってしまった“幻の駅”。

その名は、 大荒沢。

あのときは水没した廃隧道が攻略目標であったとはいえ、探索の過程で間近に見えた廃駅へまるで近付かなかったのは、後の私に大きな心残りを与えた。

(※参考: 10年前のレポート その1 / 10年前のレポート その2 )

今から2年ほど前に突如当サイト初の完全机上レポート「 旧岩手県道 大荒沢停車場線 」を公開したのも、そんな忘れがたい心残りの現れだったし、二度と訪れる機会が無いことを覚悟してのことでもあった。

それが、まさかこんなに早く、再びまみえる機会が来ようとは……!

この機を逃せばまた10年待たねばならない。 此度の好機を見逃すな!!

というわけで、10年前は不参加だったミリンダ細田氏を誘って、9月14日に現地へ行ってきた。

計画上の最低水位に到達するのは9月21日からということだったが、そうなると(10年前のように)工事関係者の目を気にしなければならないかも知れないし、 ここ でリアルタイムの水位を調べたところ、前日13日時点の水位が標高210mになっていて、これは計画されている最低水位の208.5mと1.5mしか差がないことから、既に大荒沢駅は水上に出ていると判断できたことも大きかった。

そしてなにより、あと1週間が待ちきれなかったというのも正直な所である。

2014/9/14 7:14 【周辺地図(マピオン)】 / 【現在地】

10年前と全く同じスタート地点。

ここへ来たのも、またきっかり10年ぶり。

錦秋湖の南岸を走る峠山林道(一部砂利道)が “謎のトンネル” に

[21] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin.html

見えているのにたどり着けない。

廃線を探索する趣味を持つ人なら、誰しもが遭遇するジレンマだ。

その理由の多くは、地形的な制約によるものだろう。

それは、少々無鉄砲な踏破力を売りにする私と言えど、おなじこと。

過去に多くの道で涙を飲み、そのいくつかはリベンジを果たし、結局辿りつけていないものも、ある。

今回、見た瞬間に私を虜にした隧道を紹介しよう。

実は、レポートとして紹介するには、まだ時期尚早との考えもあった。

と言うのは、レポートタイトルの「和賀仙人鉱山鉄道」だが、実際にそういう風に呼ばれていた路線はない。

路線名すら分からないと言う、ありえない様な話が、現実に起きているのだ。

勿論これは、今後の十分な調査によって、正しい路線名も判明するだろうし、前後関係も判明しよう。

本来なら、それらを待ってから公開すべきものだが、この衝撃は2004年の初陣を飾るにふさわしいと勝手に判断し、未完成ながら紹介に踏み切ることにした。

まず、私が現時点で把握できている情報だが、これから紹介する隧道が存在したのは、現在では廃線となって久しい鉄道上だ。

昭和初期の地形図の一部を下に抜粋したが、この図中に描かれている軌道が、この名称不明路線である。

この地図が描かれた30数年後には、図中の広い範囲が湯田ダムの作り出す錦秋湖によって水没することになる。

以前、当サイトでも紹介して反響の大きかった、旧国鉄横黒線「仙人隧道」の在りし日の姿も、描かれている。

そして、その探索時から気になっていたのであるが、その西側坑門付近から和賀川沿いを、連なる断崖の記号に隠されるようにひっそりと伸びる軌道の線が、見えるだろう。

さらに、「仙人鉄鉱」と言う文字のすぐ右に、控えめに描かれた隧道の存在することに、気が付かれただろうか。

軌道は隧道を潜り、現在のダムサイトの手前まで川沿いを進んだ後、無理な九十九の線形で「大荒沢」に至っている。

この大荒沢は、旧横黒線には同名の駅が存在していたが、ダムにより水没廃止となっている。

ここは、仙人鉱山と並んで鉄を産する大荒沢鉱山の膝元であった。

ここから先は、私の推測も一部交えられるが、図中の軌道は大荒沢鉱山と仙人鉱山、更に終点の仙人製鉄所を結ぶ鉱山軌道ではなかっただろうか?

この一体の鉱山軌道と言えば、同製鉄所がその運営に大きく寄与

[22] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin/main.html

岩手県和賀郡の特にこの錦秋湖周辺は、森吉と並んで、山行がには特になじみの深い土地である。

それは言うまでもなく、これまでに幾度もの良質の探索を提供してくれたと言うことだ。

具体的には、2003年度の山行がレポの読者人気投票第1位となった「 錦秋湖 水没遺構群 」を筆頭に、本年度の「 和賀計画 」など、本レポ(=道路レポ)クラスを二本紹介できているし、隧道レポとしても「 大荒沢隧道 」や、「 謎のトンネル 」などというのもあった。

これらは、全て錦秋湖の湖畔や、そのすぐ下流の和賀仙人地域に集中している。

そんな、私をアツくしてやまない和賀に関する、新しい情報がもたらされたのは、この夏のことである。

複数の読者様から教えて頂いた情報によれば、

9月末から11月の下旬にかけて、湯田ダムの設備更新工事などに伴い、通常の最低水位よりも、さらに6メートルも、水位を下げる のだという。

湯田ダムと言えば、もちろん錦秋湖を生み出したダムである。

つまりは、いくつもの水没遺構が眠ると期待される、あの錦秋湖が、かつて無い水位まで減水するというのである。

こっ、これは重要情報である。

予定していた山チャリ計画を急遽キャンセルして、錦秋湖への幾度めかの探索に赴いたのは、掲示板などにも、ちらほらと水位減少の情報が書き込まれ始めた、10月上旬のことである。

ただし、時間の都合上、かつて探索したことのある汀線ギリギリのラインは探索対象外とさせていた。

具体的には、「旧北上線 本内隧道」や「スノーシェード跡」、それに対岸の国道107号線の旧橋遺構群などである。

上記のものは、全て先に挙げた「錦秋湖水没遺構群」のレポをご覧頂きたい。

ずばり、今回のターゲットは一つだ。

それは、衝撃の鍾乳隧道、旧北上線仙人隧道だ。

ダム下流の和賀仙人地区と、現在は水没し、駅も消滅した大荒沢地区とを繋ぐ、北上線最長の隧道仙人隧道の、その大荒沢側坑門である。

果たして、二度と訪れぬかも知れない、最低水位以下の水位に、隧道の痕跡は現れるのか?!

流石に現存は難しいというのが、率直な予想ではあったが、とにかく行ってみた。

そして、そこで見た水位の低さは、“何か”を期待させるに充分なものであった。

この日、色々走った後に、最後の目的地として、錦秋湖へと来た。

時刻は、もう15時をまわっ

[25] ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑, , http://yamaiga.com/mini/222/main.html

今回は、「 廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡 」 には、まだ続きがあった!

…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。

2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。

次に我々が目指した場所は、 大荒沢ダム跡 である。

大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。

大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。 (10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→ レポ )

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。

次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。

駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。

これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。

普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。

地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。

そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。

はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。

昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大

[26] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/kinshu.html

以前より気になっていた、謎のトンネルの調査を行った。

以下は、2002年8月8日のレポートである。

右の地図を見ていただきたい。

秋田と北上を結ぶ古くからの重要路線「平和街道」(国道107号線)と、幽玄な景観を見せる巨大人造湖の錦秋湖の一帯である。

ここは、日本列島の脊梁をなす巨大な奥羽山脈に存在する、天然の切り通しであり、悠久の時をかけて和賀川が作り上げた、極めて大規模なV字峡である。

よって、ここを通う道は数多い。

国道107号線は言うに及ばず、JR北上線。

そして、近年は秋田自動車道が多くのトンネルを穿ち、駆け抜けた。

また、錦秋湖をなす湯田ダムは1964年竣工当時国内有数の規模を誇ったが、その建設は、建設史上に残る巨大な移転事業でもあった。

移転戸数600戸、鉄道付け替え15km、道路付け替え39km、などである。

それらの遺構の多くは深い湖底に沈んだが、渇水期にはその一部が、さも現道のようにさえ見える美しさで覗くことがある。

ここは、廃道・旧道ファンにとっては、大変に魅力的なゾーンである。

しかし、実は今回のターゲットはこれら、失われた道ではない。

現道である。

地図で青い線で示した部分が、今回の調査で走行した部分だが、中央やや右寄りに、長いトンネルを描いた。

これが、今回の主役なのだ。

このトンネルとの出会いは、去年だ。

出張の移動で、秋田自動車道をバスに揺られている最中、殆どトンネルばかりで車窓など期待できない「湯田〜北上西」で、ふと見た窓の外にそれが見えた。

トンネルの入り口のように見えた。

場所は、まさに高速道路以外に全く通うものが無いと思われる、長大トンネルに挟まれた短い区間である。

そこは、峠山トンネルと大荒沢トンネルの合間の僅か、1kmほどの区間であった。

正直、目を疑った。

一帯には、(少なくとも私の手持ちの地図では)高速以外に道はなく、当然それらしいトンネルも描かれてはいない。

付近には、集落のひとつも無い。

これが出会いであり、以来ずっと気になっていたのだ。

現場へは、国道107号線から天ヶ瀬橋を渡り、湖対岸の集落へと入るが、この集落は湖畔の狭い平野部に他の集落から離れ存在しており、一帯では、ダム建設による水没を免れた唯一の集落ではなかろうか?

JR北上線の湯田錦秋湖駅や、秋田自動車道

[27] 大荒沢信号場 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%92%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E5%A0%B4

大荒沢信号場(おおあらさわしんごうじょう)は、かつて岩手県和賀郡西和賀町にあった日本国有鉄道(国鉄)北上線の信号場である。信号場となる前は駅であった。

和賀仙人駅とゆだ錦秋湖駅の中間点近くに位置した。

概要[編集]

大荒沢信号場は、1924年(大正13年)10月に東横黒線(現北上線の東側)が西横黒線(同じく西側)との連結を目指して西進するなかで、難所であった仙人隧道の貫通にともなって隧道西側まで延伸した際に、暫定的な終着駅、大荒沢駅として開業した。すぐ後の同年11月には大荒沢から陸中川尻駅までの最後の区間が開通し、横黒線は東西が連結して全通、大荒沢は中間駅となる。

その後、湯田ダム(錦秋湖)建設の為に大荒沢駅を含む約15kmの区間がダム湖に沈むこととなり、1962年(昭和37年)に現在線である新線へと付け替えが行われた。その際、大荒沢駅は駅としては廃止され、信号場へと格下げとなった。その後、1970年(昭和45年)には、信号場としても廃止され、現在に至る。

ルート変更前、つまりダム湖に沈む前には駅周辺に大荒沢の集落や大荒沢ダムがあったが、現在は周辺には秋田自動車道錦秋湖SAを除くと大荒沢・小荒沢という沢があるくらいである。

廃止跡[編集]

現在、現在線上の信号場跡地はホームなどの遺構がわずかに現存している。

旧線上の駅跡地は、基本的にはダム湖の渇水期にも姿を現すことなく湖底に沈んだままであるが、現在もホームおよび軌道敷の跡が残存していることが確認されている(外部リンク参照)。

歴史[編集]

1924年(大正13年)10月25日 - 国有鉄道の大荒沢駅として、東横黒線 和賀仙人〜大荒沢間開通時に開業。一般駅であった。

1924年(大正13年)11月15日 - 路線が陸中川尻駅までが延伸開業し、横黒線が全通。

1962年(昭和37年)12月1日 - 横黒線ルート変更(新線付替え)に伴い廃止。大荒沢信号場として格下げされ新線上へ移転。

1966年(昭和41年)10月20日 - 横黒線が北上線に改称。

1970年(昭和45年) - 大荒沢信号場廃止。

隣の駅[編集]

日本国有鉄道

北上線

和賀仙人駅 - 大荒沢信号場 - 陸中大石駅(現:ゆだ錦秋湖駅)

外部リンク[編集]

山さ行がねが - 廃止跡地をリポート。

新線上の信号場跡

渇水期よりも水位が低い時に現れた旧線上の駅跡

[28] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/oukoku/main.html

「日本のTVA」と称された、北上川流域を舞台にした壮大な治水計画があった。

TVAとは、テネシー川流域開発公社のことで、アメリカの流域開発の嚆矢とされる。

河川開発を通じて地域経済のたて直しや、電源開発、耕地開発、治水などを総合的に行う事業として、1933年ごろに始められたものである。

日本でも、戦後これを手本に各地で河川開発が行われたが、その中でも、最大の規模を誇ったのが、北上川流域に五つのダムを設ける計画である。

そのなかでも、最大の規模を誇ったのが昭和39年に竣工した湯田ダムである。

竣工当時、日本最大の規模を誇る重力アーチ式ダムであり、その堤高は89.5mに及んだ。

この数字は、現在でも日本3位である。

そして、この巨大なダムが和賀川に誕生せしめた人造湖が、公募によってその名が決められた錦秋湖。

錦秋湖の湛水面積は最大630ヘクタールであり、これは現在でも、重力アーチ式ダムとしては国内最大である。

この広大な湖の底に沈み、移転を余儀なくされた家屋数は622戸。

さらには、国道の付け替え延長13350m、国鉄線の付け替え延長15300mにも及んだ。

それら全てが、前代未聞の巨大ダム建設の一部であった。

以来、錦秋湖はその名の通り、秋の紅葉の一際映える静かな湖面を湛え続け、湯田町の観光名所のひとつとなった。

付け替えられた国道やJR線となった鉄路は、その時代を反映しつつ、今も重要な路線として生き続けている。

さらに近年では湖畔を秋田自動車道が貫き、一帯の秋田岩手間の自動車交通メーンルートとしての地位は、永劫の物となったように思える。

竣工後約40年を経た現在、湖底に沈んだ旧道がどうなったのか。

それは、もはや想像の世界にしかありえない情景と、思っていた。

しかし…

例年、夏の僅かな期間。

最もダムの水位が下がる時期に、湖底の一部が地上に現れるという。

そこには、40年間止まったままの時間があるかもしれない。

私はついに、現地の調査に赴いた。

以下は、そのレポートである。

岩手県和賀郡湯田町 川尻

レポートの始まりは、ここ、岩手県の西の果て和賀郡は湯田町の川尻地区である。

湯田温泉峡に近く、横手地方と北上地方を結ぶ国道107号線と、盛岡方面に伸びる県道1号線とが分かつ、交通の要衝である。

眼下に見えるのが今回、その

[32] 国道107号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93107%E5%8F%B7

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年9月)

雑多な内容が羅列されています。(2012年9月)

本国道は大船渡港へ直結しているため、運搬・配送の車が利用する道路であり、いわゆるトラック街道である。特に北東北から北陸方面への貨物輸送のメインルートとして使われている。

また、日常の足としても重要な国道で、大船渡・遠野・北上・横手・本荘の都市圏における自家用車通勤の要となっている。

特に秋田県内の区間においてはバイパス工事・拡幅工事が昭和末期から現在にかけて多数行われ、改良区間が多い国道である。

岩手県北上市和賀町仙人 - 同県和賀郡西和賀町間は錦秋湖(湯田ダム湖)の湖岸に急カーブと急勾配が続き(ワインディングロード)、多数のスノーシェッドがある難所である。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:大船渡市(権現堂交差点=国道45号交点、国道397号起点)

終点:本荘市[注釈 2](水林交差点=国道7号交点、国道105号起点、国道108号・国道341号・国道398号終点)

重要な経過地:岩手県気仙郡住田町、遠野市(小友町)、同県上閉伊郡宮守村[注釈 3]、江刺市(梁川)[注釈 4]、北上市、横手市、秋田県平鹿郡雄物川町[注釈 5]、同県由利郡東由利町[注釈 2]

路線延長:194.3 km(実延長190.2 km、現道189.4 km)[2][注釈 6]

岩手県区間:120.6 km(実延長120.5 km、現道120.0 km)

秋田県区間:73.7 km(実延長69.7 km、現道69.4 km)

指定区間:国道13号と重複する区間[3]

歴史[編集]

1953年(昭和28年)5月18日

二級国道107号大船渡本荘線(大船渡市 - 秋田県由利郡本荘町[注釈 7])として指定施行[4]。

1965年(昭和40年)4月1日

道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道107号(大船渡市 - 本荘市[注釈 2])となる。

路線状況[編集]

バイパス[編集]

世田米バイパス

江釣子バイパス

江釣子バイパス(えづりこバイパス)は、北上市に建設されたバイパス道路である。

履歴

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メモ