通常の水位では決して地上へと現れることもない、廃止されたダムの堤体を通って、左岸間近へと我々は移動した。
だが、ここから通常の汀線である湖岸の斜面までは、泥の沼地をおおよそ20mほど歩かねばならない。
一見して、そのうちの手前側10mほどは表面にひび割れもなく、足を踏み入れればどうなるのかは、もう体がよく分かっている。
体験したものにしか分からないことだと思うが、深い泥というのは、本当に危険なものであり、水ならば泳げば進むことも出来るだろうが、泥はそうも行かない。
実は、時として水没以上に難地であったりもするのだ。
写真でも、僅か2歩分だけ泥に進入した痕跡があるが、これは私が早まって進入し、危うく再び帰れなくなるところだった名残だ。
だが、くじ氏が指さす方向に、活路はあった!
これが、答えだ!
とは言っても、意味が分からないだろうから、補足説明。
最後尾のHAMAMI氏が通っている場所が、唯一通れるコースである。
そこは、コンクリの堤体の縁になっており、このときはちょうど汀線でもあった。
この縁の部分だけが、僅かに波で泥が流され、辛うじて定規一本分程度のコンクリが見えていた。
あとは、両足でしっかりと泥を切り崩しながら、足場を広げつつ歩くことで、此岸までのルートを確保できた。
言うまでもないが、泥のぬめったコンクリ上を滑り落ちれば、即 底の見えぬ湖にドボン!
かなり、恐かった。
恐かったが、全員無事にここを突破し、見事左岸に辿り着いた。
左岸の斜面。
通常は水面下になっている部分には、なにやら橋台のようなものが瓦礫に半ば埋もれていた。
この斜面の上部には、国道107号線が通っており、賑やかな道の駅も間近だ。
これらコンクリートや石垣の構造物が何であるかは、推測の域を出ないが、大荒沢ダムの関連施設であった可能性の他に、旧平和街道の遺構である可能性も捨てきれない。
確かに当時は、後の国道となる平和街道が、この左岸を通っていた。
やや左岸上流側から見た大荒沢ダムと、管理事務所跡と思われる建物(右)。
昭和初期としては規模の大きな発電用ダムだったが、“日本のTVA”とまで呼ばれた湯田ダム国策の前ではあえなく水没し、僅か20年と少しの寿命を終えてしまった。
これら失われた土地での体験が、私の和賀への愛着をより一層深くした事は間違