大荒沢堰堤

大荒沢堰堤

[1] 錦秋湖大荒沢堰堤, 大荒沢ダム

39.29851597019 140.877921581268

Webページ

[2] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main8.html

第二次和賀計画次なるターゲットは、大荒沢ダムの取水隧道である。

この隧道は、推定総延長3kmを越える極めて長大なものである。

ただし、道路用の隧道として利用された痕跡はなく、湯田ダムによって錦秋湖に沈んで廃止された大荒沢ダムと、下流の和賀発電所とを結ぶ発電水路である。

第一次和賀計画において、全くの手探り状態ではあったが、和賀発電所から中途の当楽(あてらく)沢にあるサージタンクまでの貫通に成功している。

その距離は、おおよそ1.2km。

今回の水位低減によって、遂に大荒沢ダムの位置が正確に判明したことにより、当楽サージタンクから大荒沢ダム取水口までの残りの延長は、少なくとも2km以上あろうということも分かった。

ただし、大荒沢ダム側の坑口は発見できなかったので、恐らくはなお水中に没しているものと思われる。

当楽より入洞し、どれほどの距離で閉塞しているのかを知ることが、今回の目標と言える。

転 戦

cham氏達と思われる人影が、遠く大荒沢(川)を挟んだ 地点 7枚目の写真のあたりに目撃された。

一人は深紅のツナギを見に纏い、もう一人は鮮やかな青だ。

異常に目立っている。

我々4人は、ちょうど引き返しにかかっていた最中だったこともあり、ペースを上げて彼らの元へと戻り始める。

写真は、南側から見た仙人隧道開口部。

そしてこれが、未知を秘めたる仙人隧道との別れとなった。

いきなり背中で申し訳ないが、この二人が助っ人である。

私にメールをくれたのが、青いcham氏。

その友人で県道マニアの、noko氏である。

我々は、 のデポ地に戻る途中ひとしきり歓談し、親睦を深めた。

思えばこのcham氏、第一次和賀計画のレポート中から並みならぬ詳細な机上調査を実施され、大変に貴重な情報の数々を私に提供してくださった、いわば今回の計画の立役者である。

前回目撃した水路隧道やサージタンク、発電所遺構などについても彼により正式な名称や緒元がもたらされたし、今回浮上する以前より、水没大荒沢ダムの存在を予言されていた。

お二人は、本日午前より現地入りし、我々が遠望に留めた大荒沢駅や、駅よりも横手側に位置する 旧北上線の遺構群 を探索されたとのこと。

お疲れ様である。

デポ地で車に分乗し、当楽沢のサージタンク前まで移動。

サージタンクへと至る道は、当楽林

[9] ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑, , http://yamaiga.com/mini/222/main.html

今回は、「 廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡 」 には、まだ続きがあった!

…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。

2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。

次に我々が目指した場所は、 大荒沢ダム跡 である。

大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。

大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。 (10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→ レポ )

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。

次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。

駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。

これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。

普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。

地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。

そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。

はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。

昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大

[10] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[11] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[12] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin/main2.html

足元に広がる一面の泥沼。

その異様な景観の主は、泥の中を一直線に横切る、鉄道とその駅の姿である。

重力式アーチダムとしては、現在でも国内第三位の規模を誇る湯田ダムは、昭和41年に完成している。

ダム堤を先頭に、和賀川流域の全長16kmに亘り水没域を生じさせ、移転を余儀なくされた世帯は622戸にも及んだ。

特に、ダム堤に最も近い位置にあったこの大荒沢集落では、集落全体が水没する状況となり、移転により集落は完全に消滅してしまった。

集落の中心部を通っていた国鉄北上線も移転の対象となったが、そこにあった大荒沢駅については、集落が消滅したために移転せず、昭和37年の現在線開通を待って廃止となった。

以来、ダムが通常運用上の最低水位となっても、決して湖上には現れない幻の廃駅として、40年余りの歳月を湖中に過ごしたのである。

地上へと現れた廃駅と、集落の確かな痕跡。

全ては厚い泥の底となり、土石流に呑み込まれ滅亡した遺跡のようでもある。

だが、それでも私は、万感の思いを持って、この景色を見る。

しばし、感動にむせび泣いた。

大げさでなく、夕暮れに輝くその景色は、私の心を揺さぶって、揺さぶって、

留まるところを知らぬ感激を、呼び起こしたのだ。

湖岸の高い位置に立ち、上流方向を見渡す。

大荒沢駅を出た鉄道路盤が、陸中大石駅(現在地に移転後に改名され「ゆだ錦秋湖駅」となる)へと向けて伸びている。

写真の奥の湖岸の斜面には、小さくスノーシェードの入り口が写っている。

通常の最低水位で地上に現れるのは、あのスノーシェードの辺りまでが限界である。

また、対岸には泥の扇状地。

むかし地理の授業か何かで習った気がするのだが、大河が注ぐ海底には、陸上に見られるような扇状地の規模を遙かに凌駕する、海底扇状地が、大陸棚まで続いているという。

対岸に見えている扇状地は、規模こそ大きくないが、やはり水中にあって醸成されてきた隠れた地形なのだと思うと、また感激してしまった。

そして、私は湖岸の広大な瓦礫の斜面に降り立った。

時刻は、16時21分。

もう夕日は背後の峠山に隠れ、その影が遠くダムサイトの近くまで伸びている。

写真奥左の白い崖の辺りがダムサイトである。

また、正面の崖の白い部分は、取水口である。

さらに、その右上の稜線がポコンと凹んだ場所が、古来

[13] 廃線レポート 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡, , http://yamaiga.com/rail/ooarasawa/main.html

10年ぶりの好機、来たる。

岩手県公式サイトに、「 仙人発電所及び和賀川発電所の定期点検等に伴う湯田ダム水位低下 」というお知らせが、平成26年8月4日に掲載された。

これによると、湯田ダムの水位を「通常低下させる最も低い水位」よりも更に約6.5m下げて 定期点検 を行うという。

またその期間は、平成26年9月21日〜平成26年11月30日で、それ以前の8月上旬から徐々に水位を下げていくらしい。

このお知らせを見た瞬間、私の目の前には土色に干上がった広大な土地が広がった。

そして大地の中央には、立派なホームを何面も横たえた巨大な駅の姿が見えた。

それは、今からちょうど10年前、間近に見ながら近付かず、そのまま水中へと見送ってしまった“幻の駅”。

その名は、 大荒沢。

あのときは水没した廃隧道が攻略目標であったとはいえ、探索の過程で間近に見えた廃駅へまるで近付かなかったのは、後の私に大きな心残りを与えた。

(※参考: 10年前のレポート その1 / 10年前のレポート その2 )

今から2年ほど前に突如当サイト初の完全机上レポート「 旧岩手県道 大荒沢停車場線 」を公開したのも、そんな忘れがたい心残りの現れだったし、二度と訪れる機会が無いことを覚悟してのことでもあった。

それが、まさかこんなに早く、再びまみえる機会が来ようとは……!

この機を逃せばまた10年待たねばならない。 此度の好機を見逃すな!!

というわけで、10年前は不参加だったミリンダ細田氏を誘って、9月14日に現地へ行ってきた。

計画上の最低水位に到達するのは9月21日からということだったが、そうなると(10年前のように)工事関係者の目を気にしなければならないかも知れないし、 ここ でリアルタイムの水位を調べたところ、前日13日時点の水位が標高210mになっていて、これは計画されている最低水位の208.5mと1.5mしか差がないことから、既に大荒沢駅は水上に出ていると判断できたことも大きかった。

そしてなにより、あと1週間が待ちきれなかったというのも正直な所である。

2014/9/14 7:14 【周辺地図(マピオン)】 / 【現在地】

10年前と全く同じスタート地点。

ここへ来たのも、またきっかり10年ぶり。

錦秋湖の南岸を走る峠山林道(一部砂利道)が “謎のトンネル” に

[15] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga/main4.html

山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、廃水廊から脱出するも、現在地不詳の状況にあり。

陽の元へ

地上である。

未知なる地中を進むこと25分余り、遂に脱出に成功した。

流石に嬉しい。

生還の喜びと安堵が全身を包む。

まだ背後の暗闇に二人の仲間が残っているというのに。

無論、彼らを忘れたわけではなかった。

私は、ここが何処なのかという手がかりさえつかめたら、すぐにでも彼らの元へと戻ろう。

今は「和賀計画」という踏破作戦の途上である。

この探索は脱線以外のなのものでもないのだ。

大急ぎ辺りの様子を覗う。

なにか、この地点が何処かを知る手がかりはないか。

しかし、地中ではどの方角へと進んでいたかも曖昧で、私が脱出したコンクリートドームの脇に一つの小屋が廃態を晒すのみで、場所の手かがりは薄い。

辺りに人家や、人の気配もない。

どうやら、和賀川の支沢のどれかの、林道の終点のようだ。

これまでに見たことはない景色だ。

ドームと廃屋の前には、車数台が停められるだけの広場になっており、その片隅には原型を失った石像が祀られていた。

狐か? カエルか?

しかし、注連縄や、お供え物の酒はそう古くないように見える。

少なくとも、水廊内部よりは最近に人が通った形跡がある。

二棟ある廃屋のうち、一つはドームに付属するプレハブで、もう一棟はその管理小屋らしい。

廃屋と思っていたが、鍵も掛かっており、内部にも荒れはない。

埃が相当に積もっているようではあるが、まだ使えそうだ。

ふと、玄関の足元にある袋を見ると、ジョージアオリジナルやファンタグレープ(これらが廃墟・廃道の定番ドリンクである)じゃない、つい最近までローソンの店頭にもあったようなジュース類が多数捨ててある。

とはいえ、これらは小屋の住人が捨てたものとも限らない。

釣り人などが、立ち寄った際に捨てたのかも。

いずれにしても、現在小屋は使われていないが、ここまで人の往来は続いているらしい事が分かる。

野外に向けられた大きな豆電球は、夜間も作業をしたことを意味するのか。

ドーム上の一部にはプレハブ小屋が乗っけられている。

どこから入るのかは分からないが、時間もなく、詳しくは調べなかった。

写真に写る手すりは、脇に流れる沢に設けられた堰に取り付けられたもので、ここを渡って対岸に

履歴

[17] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933352110

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