秋葉神社

秋葉神社

[1] 秋葉神社 (あきばじんじゃ)

35.7166666666667 139.785833333333

Webページ

[2] 秋葉神社 (台東区) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA%29

秋葉神社(あきばじんじゃ)とは、東京都台東区にある神社である。

[3] @nifty:デイリーポータルZ:「秋葉原」とはどんな町か, , http://portal.nifty.com/2008/03/21/a/

世界有数の電気街とも言われる秋葉原。電気製品の小売店が他にはない密度で集まっている、東京の中でも独特の個性がある街だ。

休日の混雑ぶりもすごい。その個性ゆえ、外国人からは観光&買い物スポットとして人気があるらしい。

そんな賑わいを見せる街、秋葉原。しかし、「秋葉原」をある意味で正確に訪れてみると、一般的なイメージとは全く違った表情の町であることがわかる。

それはちょっとした盲点であった。そういうわけで、「秋葉原」に行ってきてみました。

(小野法師丸)

●まずは秋葉原の由来から

電気店の密集地帯として知られる秋葉原。日本でも他に類を見ない街だろうが、それは世界レベルでも知られているらしい。そう言えば外国人観光客を対象にしたような店先の店舗もある。

[4] 国道418号線を走ってみる・その6 (長野県阿南町→天龍村→遠山郷) - きたへふ(Cチーム)のブログ, , http://blog.goo.ne.jp/cars-kitahefu/e/64665ace1443115fe51c85d8c6d9b1e3

きたへふ(Cチーム)のブログ

ファミスタとは特に関係ありません。タブレット・スマホをご利用の方は、できればPCモードで御覧ください。

【記事作成日:2017/11/13、現地訪問日:2016/10/23】

このエントリでは国道418号線走行記の その5(長野県平谷村→売木村→阿南町) の続きとして、長野県阿南町から天龍村そして飯田市(旧南信濃村)の遠山郷に至る最終区間について記載しています。その他の区間については、下記リンクを参照ください。

・ その1(福井県大野市→岐阜県旧根尾村)

・ その2(旧根尾村樽見→八百津町)

・ その3(八百津町→恵那市)

・ その4(岐阜県恵那市→長野県平谷村)

・ その5(長野県平谷村→売木村→阿南町)

・ その6(長野県阿南町→天龍村→遠山郷) …このページ

1. 阿南町→天龍村(平岡)まで

この区間の地図 ( google mapのデータ )

2016/9/3の朝より岐阜県の樽見(現本巣市、旧根尾村)より国道418号線単独区間走行の旅を行っていたブログ主ですが、長野県阿南町の道の駅 信州新野千石平まで来たところで日没サスペンデッドとなってしまいました。

道の駅 信州新野千石平 (2016/9/3訪問時)

そして約1ヶ月半後の2016/10/23、ブログ主は横浜の自宅を夜明け前に出発し、中央道+国道151号で飯田市側から南に下って道の駅 信州新野千石平に再びやって来ましたのでありました(9:00頃到着)。そして30分ほど休憩して、国道418号線を巡る旅は再開となります。

01-国道151号線から右に入ります (道の駅は写真の左後ろ側)

道の駅までの道中(特に中央道)では完全防寒装備をしていたにも関わらず寒さに震えていたブログ主ですが、ここから先はふつーの装備で出発します。

道の駅からは一旦来た道(国道151号)を飯田市街地側に200m程戻って、右側に分岐する国道418号線の方に進んで行きます。

02-この先大型車両通行不可

右の方に「この先 おきよめの湯から 大型車両(ホイルベース5m以上) 通り抜け出来ません 」との警告看板が出ています。

03-天竜まで17km、南信濃まで28km

田んぼと町工場の横道のようなところを抜けていきます。南信濃が国道418号の終点なので、あと一息な感じがありま

[5] 小富士山&鉢伏山(高知市) : 茶凡遊山記, , https://chabon.exblog.jp/27613383/

高知市の東部、介良(けら)地区に、「介良三山」と呼ばれる山々がある。 国道55号線南国バイパスをはさんで、北から「高天ヶ原山」「小富士山」「鉢伏山」と並ぶ三山のうち、「小富士山」と「鉢伏山」を歩いてみた。 史跡が多く、植生も豊かで実に楽しかったが、へろへろになって下山してから、「朝峯神社」で目にしたものは・・。

[6] アキバの道路は、どうして渋滞知らずなのか | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準, , http://toyokeizai.net/articles/-/98479?page=2

秋葉原駅では下ろした荷物を船に積み替え、水路を通じて神田川に出し、東京各地に流通させていた。JR東日本の広報担当者によると、秋葉原駅の駅長室には現在でも秋葉神社の「分社」が残る。非公開だが、神棚のような形をしているとのことだ。上野駅から北東にしばらく歩いた一角にも、秋葉原駅が整備された際に移ってきたとされる「秋葉神社」がある。

次の節目は1923年の関東大震災で、江戸時代から神田川の南にあった巨大な青果市場が壊滅したことだった。市場はその後復興したものの、「延焼防止目的で東西方向に整備された靖国通りに分断される形になったのに伴い、1928年に秋葉原駅の西北に移転した」(高木氏)。その際、市場の東に昭和通りが整備され、現在の秋葉原の道路網の原型が出来上がった。

青果市場は1990年に大田区に移転するまで、秋葉原に存在し続けた。跡地には現在、UDXなどの巨大ビルが建つ。一方、戦後のGHQによる指導でラジオや電子部品の露天商が規制されたことから秋葉原駅のガード下に店が集まるようになり、電気街へと発展した。

千代田区議の小林氏は、「青果市場があった当時、中央通りの片側3車線のうち歩道寄りの1車線は常にトラックに占領されていた」と盛況ぶりを振り返る。「市場が無くなって、その分のスペースが空いた」ことが、渋滞が起きない要因だという。

目配りしやすい体制

万世橋署の伊東課長は、同署の取締り体制も効果を挙げていると語る。「交通課約25人のうち、駐車違反に携わる人員はたった4人だが、警視庁が契約するみなし公務員である駐車監視員は2人1組で7〜8組が常に動いている」。一方で、同署の管内は約1.5平方キロと都内の警察署では2番目に狭いため、目配りも効きやすい。「よく秋葉原に来る人にとっては、駐車違反できないイメージが強い」ことが抑止力になっているわけだ。

両氏は町会の結束力の強さも指摘する。「どこどこ1丁目という単位ではなく、江戸時代以来の小さな地域単位で町会がある。町会長は先祖代々の住居を貸しビルに改装して最上階に住んでいる例が多い。ビルオーナーであるため税務署の法人会で先輩後輩であり、区や警察との連携も非常によく取れている」(伊東氏)、「駐車違反があったら、すぐ警察に苦情が行く」(小林氏)現状が、交通整理や防犯に寄与しているのだ。

[7] 秋葉原 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F

概要[編集]

第二次世界大戦後の日本において、高度経済成長とともに多様な電子機器や部品(ハードウェア)およびソフトウェアを取り扱う店舗が建ち並ぶ世界有数の電気街として発展した。世界的な観光地の顔も有する。秋葉(あきば)・アキバ・AKIBAの略称で呼ばれる。

当初はジャンク品の商店とそこから発展した家電量販店が中心の電気街だったが、高度経済成長を経て音楽ブームを背景としてレコードやCDを取り扱う専門店が軒を連ね、その後は電子ゲームブームの到来とともにゲームショップが繁盛した。この電子ゲームブームが本格化すると仮想空間を嗜好する需要に着眼したホビーショップやアニメショップも建ち並ぶようになった。近年では都市再開発により秋葉原駅を中心に多くの複合ビルが建設され、訪れる年齢・客層も様々になっている。

地理[編集]

秋葉原と呼称される区域の明確な定義はないが、東京都が策定した都心等拠点地区における秋葉原地区の範囲は、東は昭和通り、西は昌平橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通りに囲まれた区域、すなわち東京都千代田区外神田一丁目・外神田三丁目・外神田四丁目・神田佐久間町一丁目・神田花岡町・神田相生町・神田練塀町・神田松永町・台東区秋葉原を指す[1]。秋葉原電気街とサブカルチャー関連の店舗は主にJR秋葉原駅周辺および中央通りの万世橋北詰から東京メトロ銀座線末広町駅のある外神田五丁目交差点までを中心に広がっている。

JR秋葉原駅には東西に総武線、南北に山手線・京浜東北線(東北本線)が通り、東京メトロ日比谷線秋葉原駅やつくばエクスプレス秋葉原駅とも接続するターミナル駅として多くの人に利用されている。住居表示では電気街口前が外神田一丁目、その北の中央通り東側が外神田四丁目、西側が外神田三丁目となっている。

秋葉原電気街の外側は主にオフィス街だが、古くから建っている民家も見ることができる。前述のように鉄道各線の駅が近く、都心の一等地として地価・家賃ともに高価になる傾向がある。

歴史[編集]

前史[編集]

現在でいう秋葉原にあたる地域は、徳川家康入国後、神田川が現在の流路を通るように開削されると、川沿いに材木商が集まり、神田佐久間町が起立したほか、大部分は大名屋敷・旗本屋敷などで占められた。しかし、江戸の人口が拡大するにつれ、大名や旗本は大火等を契機に次々に郊外へ移転し、跡地にはより中心の町民が

[8] ご由緒 / 赤城神社 - 東京都新宿区神楽坂, , http://www.akagi-jinja.jp/akagi/goyuisho/

「岩筒雄命」 ( いわつつおのみこと ) 「岩筒雄命」(いわつつおのみこと)は伊邪那岐命のお子神である火の神、迦具土神よりお生まれになった神様で、千葉県香取神宮の御祭神、「経津主神」(ふつぬしのかみ)の御親神に当たらせ給い、智、仁、勇のすぐれたお力をお持ちになり、殖産興業、厄難消除、学問芸術の神又特に火防の神として高い御神徳を発揚せられます。

※合殿 赤城姫命(あかぎひめのみこと) 一説に赤城姫命(あかぎひめのみこと)は大胡氏の息女ともいわれていて、旧別当は天台宗東叡山寛永寺末、赤輝山円明院当覚寺(江戸名所図会には東覚寺と記載)で同寺の本地仏は乗馬姿の地蔵尊でありました。 かつての神仏混淆の頃、赤城大明神の御神影であると称して当覚寺から氏子中へ頒布したことがあるので、今なお折々氏子中の旧家に散見されるため、当社の祭神である「岩筒雄命」(いわつつおのみこと)とはかかわりはないが、合殿とされています。

【御鎮座地 お祀りしている場所】

東京都新宿区赤城元町一番十号

【御社号 社の名前】

赤城神社 昔は赤城大明神といわれていましたが、明治維新のときに今の御社号に改めました。

【例祭日】

9月19日(毎年)

【氏子地域】

赤城元町、赤城下町、神楽坂六丁目、横寺町、箪笥町、細工町、北町、中町、南町、払方町、二十騎町、南山伏町、北山伏町、市ヶ谷山伏町、南榎町、弁天町、東榎町、榎町、早稲田町、早稲田鶴巻町、山吹町、東山吹町、中里町、天神町、天神東町、矢来町、矢来東町、矢来南町、築地町、改代町、牛込水道町、西五軒町

【御由緒】

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の創祀に際して、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。

その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

天和3年(1683年)、徳川幕府は江戸大社の列に加え牛込の総鎮守と崇めました。「日枝神社」「神田明神」と共に、「江戸の三社」と称され、この三社による祭礼の

[9] 城外防御の拠点, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/jyougai-kyoten.html

さて探索を始めます。広い地域ですが狭い路を行ったり来たり、自転車が大活躍です。幾つもの資料や本を読み、穴の空くほどに地図を眺め、又本を読む。じっと地図を読んでいると本を誤解していたことにも気が付きます。 一先ずは高尾街道を宮の前まで行って、北西に進み城山川の流れを見るように月夜峰と呼ばれた台地に登ると城山川を挟んで北側にも台地状の尾根が続き敵の軍勢が城を目指して進む様子を、狼煙を上げて城に伝える施設だったのでしょうか。攻撃は夜中に行軍が開始され、霧も濃かったようで機能しなかったのでしょうか。現在の元八王子一丁目から三丁目までが旧城下に当たり、 現在の八王子市街地は、その後家康が関東に入府した後に旧城下の復興を断念し、新たに八王子を開発させた地域です。 北部武蔵から八王子を目指すとすれば、拝島辺りに集結し体制を整えてから進軍したのでしょうか。南下して多摩川を渡り、更に淺川を渡って水無瀬橋を渡ればここからが当時の城下と為ります。 東を水無瀬橋、南西を初沢城、北西を浄福寺城とする三角形にほぼ囲まれた地域を中心に探索してみましたので、地図を参照してください。

龍泉寺砦

水無瀬橋の上から上流よりやや西の方角をを眺めると、直ぐ近くに迫っている高台に、こんもりと見えるのが龍泉寺です。

砦といわれても狼煙台などが置かれていたか?防御ができる程の人数が詰められるような広さも無いところですが、この尾根がずっと西まで続いていて幾つかの狼煙台か連絡用の施設があったと見られていて、台地に登ると谷筋を行く道の情景が手に取るように眺めることができます。

七面堂砦

龍泉寺砦と同じように北の尾根状台地の東の先端にあり、南側と北側に夫々谷筋に、城へ続く道を見下ろす事が出来る位置にあります。同じように狼煙台等を設けてあったと考えられ、見下ろせば直ぐ下は四谷に置かれた前田の本陣に近く、初期に戦闘が開始されるよりも早く、敵の軍勢を見定める事も出きずに逃げさってしまったのではないかと、頼りなさにそう思います。

[10] 八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。

その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。

で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。

搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。

本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅

集合

[11] アキバの道路は、どうして渋滞知らずなのか | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準, , http://toyokeizai.net/articles/-/98479

秋葉原と聞いて何を連想するだろうか。電気街、メイド喫茶に加え、近年ではAKB48や中国人の「爆買い」かもしれない。ただ、この街自体をよく眺めていると面白いことに気づく。店に人が溢れているのとは裏腹に、メインストリートである中央通りでは全く渋滞が起こらず、非常にスムーズに車が流れているのだ。

「渋滞になったのを見たことがない」。この地で生まれ育った千代田区議会議員で、街の世話役でもある小林たかや氏は、中央通りについてこう語る。「大型バスに乗って電化製品の爆買いに押し寄せる中国人の勢いは現在も鈍っておらず、アニメ関連グッズを目指してやってくる欧米人も相変わらず多い」にもかかわらずだ。

謎を説く最初のカギは道路網にある。中央通りと並行して南北に走る大きな2つの通り(昌平橋通り、昭和通り)や、東西を貫く蔵前橋通りなどが、観光客を下ろして迎えに行くまでの間、大型バスにとって絶好の待機場所になっているのだ。

ともに片側3車線である中央通りと昭和通りの間隔は、JRの線路を挟んで300メートル程度。地元の万世橋警察署の伊東英樹交通課長も、「片側3車線の通りが、たったこれだけの距離で並走している例は珍しい。街自体を見ても、パトカーが入っていけない道がない」と語る。

かつては将軍様の墓参道

中央通りは銀座や日本橋も通っているが、秋葉原の南辺りから特に道幅が広くなって上野まで続く。千代田区立日比谷図書文化館の高木知己・学芸員によると、これは「江戸時代に将軍が、徳川家菩提寺の上野寛永寺に参詣する『お成り道』だった」ことと関係している。

高木氏によれば、秋葉原の周辺は明治維新の翌1869年の大火事で焼け野原となった。その後、現在のJR秋葉原駅を中心とする地域には原っぱが残り、その中心に「鎮火社」という神社が置かれた。火事の延焼防止でこうした「火除(ひよ)け地」を設けるのは江戸時代からの習慣だった。

当時の関東・東海地方では火除けの神として静岡県に総本山がある秋葉大権現が有名だったことから、庶民の間でこの鎮火社が秋葉神社と呼ばれるようになった。このため、東北地方からの物資を東京に運び込む貨物専用駅が1890年にこの地に置かれた際、「秋葉原」の名がついた。

[12] 道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間, , http://yamaiga.com/road/r256_kami/main.html

国道256号は、岐阜県岐阜市を起点に、長野県飯田市に至る、実延長約221kmの一般国道であるが、最新の「道路統計年報2017」によると、この路線には長野県内に 全長12.3kmの 【自動車交通不能区間】 供用中の道路のうち、幅員、曲線半径、こう配その他道路の状況により最大積載量4トンの普通貨物自動車が通行できない区間をいう。 があることになっている。

酷道ファンにはよく知られた事実だが、飯田市内にある小川路峠は現在も自動車が通れない。これが上記した自動車交通不能区間の正体である。

ついでに小川路峠の説明を、『角川日本地名辞典 長野県』に行ってもらおう。

小川路峠 (おがわじとうげ)

飯田市と下伊那郡上村との境にある峠。標高1,494m。飯田の町と静岡県の秋葉神社とを結ぶ秋葉街道が,小川路峠・青崩峠を越えて通じ,江戸期から秋葉参りや善光寺参りの人々でにぎわった。伊那谷から遠山郷への最短ルートで,明治10年頃から峠道の改修が進み,牛馬などによる物資の流通も盛んになった。しかし上下5里(約20km)の難路で五里峠とも呼ばれ,遠山郷へ赴任する教員や警察官が職をやめたくなることから辞職峠の異名をとるほどであった。大正12年,下伊那郡喬木(たかぎ)村の小川と上村の程野の間に竜東索道が設けられ,昭和7年,現在のJR飯田線が平岡まで開通してから,峠の交通量は減少。現在,国道152号になってはいるが,峠は通行不能。同43年,喬木村と上村の上町とを結ぶ赤石林道が開通した。同62年,長大トンネルで越える新国道の工事が始められた。

上記内容は少し古いのでいくらか更新すると、「現在国道152号になっている」は、国道256号に変わっている(平成5(1993)年から)し、「喬木村と上村の上町を結ぶ赤石林道」は、長野県道251号になっている。そして、「長大トンネルで越える新国道の工事が始められた」も、国道474号でもある自動車専用道路「三遠南信自動車道」上の矢筈トンネル(平成6(1994)年開通)として結実している。あと、上村という村名も、平成17(2005)年に飯田市と合併したことで消えて、現在は飯田市上村になっている。

標高1494m、全長20kmもの険しい峠道であった、未だに自動車の通えぬ小川路峠。

ついに「山行が」も、全国有数の酷道である小川路峠に挑むのか! そんな風に期待して下さっ

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933345151

メモ