岩上隧道

岩上隧道

[1] 岩上隧道

Webページ

[2] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/kuzumaki/main.html

大正の終わり頃、岩手県の馬淵川(まべちがわ)流域に、北上山地を縦断する遠大な鉄道計画があった。

それは、現在の岩泉町門(かど)地区にあった小川鉱山の経営者達が企図したもので、東北鉄道鉱業線と言った。

計画によればその経路は、小川鉱山から北西の国境峠を越え、その先は葛巻町内を馬淵川に沿って北西に進路を取り続け、最後は一戸町の小鳥谷(こずや)で東北本線に接続するもの。

また、小川鉱山は終点ではなく、さらに岩泉町内を東進し太平洋岸の小本(おもと)にあった茂師港までも計画されていたし、さらには現在のJR岩泉線の経路を通って茂市(もいち)へと進む支線まで予定されていたと言うから、一鉱山が計画した路線としては甚だ大がかりなものであった。

土地勘のない方には地名だけ羅列されてもちんぷんかんぷんだと思うので大ざっぱに言えば、今述べた路線を全て建設すれば、総延長は120kmを超える。

さらに、この長大な鉄道計画は絵空事で終わらず、大正15年11月4日には小鳥谷駅にて盛大な起工式が催されている。

第一期工事として小鳥谷〜門の50キロあまりが着工され、昭和4年には、最も工事が進捗していた小鳥谷〜葛巻の24km中、約10kmほどの路盤工事が終わっていたという。

しかし、現在この鉄道は存在しないし、開業したという記録もない。

昭和4年からまもなく資金繰りに行き詰まりはじめ、その後の増資計画も不調に終わり、工事は凍結。

さらに、鉱石搬出の手段として茂市までの索道が完工すると同時に、正式に鉄道計画は破棄されたのだった。

県土横断鉄道の夢は破れ、沿線となるはずだった各地に、微かな痕跡だけが残された。

(以上、「いちのへの駅」 ならびに、「全国鉄道廃線跡を歩く�]」(JTBキャンブックス刊)参照)

いくつか、開通した隧道もあったらしい!

前出の「鉄道廃線跡を歩く�]」によれば、小鳥谷〜葛巻〜門の間には、いくつかの隧道が実際に掘られていたらしい。

その現状を把握するべく、私が初めてこの地を訪れたのは、2005年4月のある日のことであった。

そして、第一次探索として葛巻から馬淵川沿いの未成線跡を捜索しながら、小鳥谷まで走り抜けた。

しかし、工事凍結から76年を経過した遺構は極めて不鮮明な箇所が多く、そもそも、全線が実際に建設されていたわけでもないために、県道をチャリで走り

[4] ◆東北鉄道鉱業線(岩手県), , http://www.cafe-dragoon.net/trip/rosen/tohokukougyoutetsudo_line/index.html

(概要)

明治期から大正期にかけて、日本の工業化は急速に進み、燃料としての石炭の需要は急速に伸びていった。そこで東北鉄道鉱業(株)は自社が所有する岩手県下閉伊郡小川村大字門(現在の岩泉町)にあった小川炭鉱から産出する石炭を運搬することを目的に、さらに沿線の豊富な森林資源の運搬、また鉄道空白地帯であったこの地で旅客営業を行うことも視野に入れた鉄道建設計画を立ち上げました。

折しも1922(大正11)年の改正鉄道敷設法別表に「小鳥谷より葛巻を経て袰野付近に至る鉄道及び落合付近より分岐して茂市に至る鉄道」が予定線として示されてから鉄道敷設の気運が高まり、1922(大正11)年5月30日には小鳥谷〜小本間の鉄道建設が認可(鉄道免許交付)され、1926(大正15)年11月4日には現在のIGRいわて銀河鉄道線小鳥谷駅にて盛大な起工式が行われ、その様子は写真として残されています。

計画の第一期として小鳥谷〜小川村(現在の葛巻町)間の約53kmの工事が建設費660万円を見込んで着工されました。1929(昭和4)年当時には小鳥谷〜葛巻間の約24kmの40%程が完了していたものの、一会社で工事が困難な山岳地帯の鉄道敷設工事は容易ではなく、関東大震災や世界恐慌の影響を受け、資金難に陥り工事は中止。その後、別会社が引き継いだが、鉄鋼界の不景気で計画は終わった。最終的には1941(昭和16)年7月23日に小鳥谷〜門間の鉄道免許が取消された。背景には現在の岩泉線(当時は小本線)が着工して石炭の輸送路が確保されたことが影響していると思われます。

路線は計画では小川炭鉱近くの門(かど)から馬淵川に沿って北西に進み、葛巻町を経て一戸町小鳥谷地区にて東北本線に接続する136kmの路線、また門から東へ進み太平洋側の小本を経由し、そこで南進して茂師港(もしこう)に到達する約40kmの路線、合計約200km弱の本線に加え、さらには落合で分岐して茂市に至る、現在の岩泉線にほぼ一致する支線が約30kmという、当時の東北地方では最大の私鉄計画でした。

この路線は長らく忘れ去られていましたが、近年「鉄道廃線跡を歩く(10) 」によってその存在が知られるようになりました。

また地元一戸町で2011年5月1日〜15日にかけて「幻の鉄道計画90周年展〜東北鉄道鉱業線〜」が開催され、展示会では、鉄道敷設免許申請

[5] 隧道レポート 干俣鉱石輸送鉄道の未成隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/naganohara/main3.html

2013/4/25 11:24 【現在地】

坑口は素掘で、釣鐘形の断面をした単線の鉄道用らしい姿である。

サイズは案外に大きいという印象を持ったが、これはあくまで主観的なものでしかなく、少し前に人が身を潜らせる事が出来ない極小断面の水路隧道を見ていたせいもあるだろう。

現在の吾妻線のトンネルよりは明らかに小さく、私が見慣れたものと比較するならば、一般的な林鉄用の隧道(つまり軌間762mm程度のもの)と同じではないかと感じた。

数字で表現すれば、高さが3.5〜4m、幅が2.5m前後といったところ。

そして坑口を塞ぐようなコンクリートの壁が設けられているが、これは鉄道に使われるという未来が失われた後に、何らかの転用が行われた事を示していた。

人が出入りするための扉が嵌められていたであろう下部の穴と、明かり採りか換気用の窓であっただろう上部の穴のほか、天端近くに何かパイプを通していたような小孔がある。

また、壁そのものの下を潜るように地面が掘られていて、そこには水路が通じていた。

上の写真にも写っているが、坑口前の地面にコンクリートの標柱が立っていた。

左はその3面の写真である(残り1面は確か無地)。

これが意味する所についてだが、一番左が「電電公社」のマークが刻まれている。つまり電信線関係の標柱である。

中央は「一・〇米」という意味だろうか。地中1mの位置に電信線が埋設されている(た)?

右は「昭34.8」とあり、標柱の設置年に関する表記と思われる。

いずれにせよ、未成線の路盤はいつの時期からか水路に加えて電信線の用地としても使われていたようである。

こうしたことが、現場を深い藪から遠ざけているのだろう。

四角い入り口に身を屈め、いよいよ洞内へ。

思わず息を呑む。

洞内に異様な光景が展開していたのだ。

ざわざわと忙しない音を立てる水の流れは、思いのほか深く洞床を削ったあと、

坑口から10mも行かないうちに、隧道の右側の側壁の下へと消えていた。

このことがまず意外であった。未成隧道の全体が水路に転用された訳ではない事を知った。

屈んでも私は入れない小さな横穴に勢いよく吸い込まれていく用水。

この先の出口は、地上から確認済みである【この穴】に違いないが、

どのくらいの距離を隔てているのかは、穴の先に光も見えず不明である。

いつ、どのよう

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933322312

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