大谷地

大谷地

[1] 十和田湖八甲田山連絡道路大谷地

Webページ

[2] 道路レポート, , http://yamaiga.com/road/hakkouda/main2.html

御鼻部側から進入し、約5km。

最初のピークを過ぎてから一気に廃道化が進んだものの、比較的順調に最初の湿原に着いた。

アクシデントといえば、詳細地図をどこかで紛失したことぐらいだった。

南八甲田ならではの景観が、間もなく私の眼前に出現する。

ルート上の地名は、『 昭文社山と高原地図4 十和田湖・八甲田 』を参考にしています。

このレポでは、地図を用意しています。

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袖ヶ谷地 地図で確認

実は、辿り着いたときには、ここが袖ヶ谷地だとは思わなかった。

既にこのときは手許から失われていた山岳地図ではあったが、出発前にほぼ暗記するほど読んでいたから、この袖ヶ谷地を境にして、前谷地、大谷地と、徐々に規模を大きくしながら湿原が順に出現することを知っていた。

だが、樹林帯を突破した私が見たのは期待していた湿原の景色ではなく、チシマザサの原とそこに島のように点在するアオモリトドマツたちによる景観だった。

残された僅かな地肌の見えるスペース、すなわち旧道敷きから左右に踏み跡があるのを見つけた。

踏み跡はすぐにチシマザサの樹海に消えたが、地面にはしっかりと踏跡が感じられる。

意を決して胸までの笹藪を掻き分けること、僅か5m。

そこには、別世界が広がっていた。

湿原…ではない。

やや乾いており、草原といった方がしっくり来るだろう。

しかし、この晴れ晴れとした景色を目の当たりにしたときの爽快感といえば、これまでの苦労が一瞬にして吹っ飛んだ。

そして、心の心底から、来て良かったと確信できた。

この湿原は、御鼻部側からは最も近いものだが、旧道からはほんの数メートル笹藪で隠蔽されているために、立入禁止のロープなどもなく、極めて天然性が高いように見えた。

本当に、なんて気持ちの良い場所なんだろう。

もう、道(=藪)に戻りたくないよー。

などといっているうちにも時間は過ぎるので、潔くチャリに戻り、再びこぎ始める。

実は道の両脇にあった踏み跡は、いずれも湿原(草原?)に続いていた。

つまり、旧道は湿原の隙間を貫いているのだ。

或いは、湿原の中央に道を通したために、乾いた車道脇のみ、笹などが覆い茂るようになってしまったのだろうか。

進むにつれ、私はそう考えるようになるのだっ

[6] 余市町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E5%B8%82%E7%94%BA

略史 [ 編集 ]

町内には フゴッペ洞窟 をはじめとする 縄文時代 から 続縄文時代 の遺跡が多く、古くから アイヌ の人々が定住する地だったものと思われる。江戸時代初期に松前藩の商場知行制・場所請負制が敷かれると、良港として使用できた現在の余市町域には、和人によるアイヌ交易の拠点として「上ヨイチ場所(運上屋)」「下ヨイチ場所(運上屋)」の二つが置かれた。

この「ヨイチ」という地名については、余市川を指すアイヌ語地名「イオチi-ot-i(それ< マムシ >・群棲する・もの(川流域))」を起源とし、アイヌ語地名では二重母音を忌避する性質があることから、アイヌ語では「イヨチi-y-ot-i」と、「y音」を添加したが、後に和人の入り込みに伴い、「イヨチ」が「ヨイチ」へと言い習わされるようになり、それに漢字が充てられて、「余市」という現在の表記になったと考えられる。一説には蛇のように曲がりくねった川とする郷土史家もおり、河口付近は往時は蛇行していたと言われている。また、アイヌ語は文字を持たないので、種々余市の表記過程が、地方郷土史家によって説明されているが、推測の域をでない。アイヌ語は二重母音を嫌うとあるが、この現象は言語学的には多くの言語に共通するところであり、日本語もその範疇に入り、二重母音の長音化や開合音の統一化、母音の欠落、子音の挿入等もあり、一概に決定することは困難であり危険を伴うものであることも、語源学同様注意しなければならない。

なお、現存する「 旧下ヨイチ運上家 」(国の 重要文化財 及び 史跡 )は、日本唯一の運上屋遺構である。

江戸中期以降は、近海を回遊する ニシン の中心的漁場として発展した。しかし漁獲数は明治・大正をピークに減り続けた。

1869年 (明治2年) - 開拓使余市詰役員が派遣される(浜中出張所)。余市町の開基。

1871年 (明治4年) - 農業開拓が始まる。

1900年 (明治33年) 7月1日 - 11町村が合併して余市町となり、一級町村制を実施した。

1902年 (明治35年) - 北海道鉄道 株式会社により鉄道が敷設され、 余市駅 が設置される。

1907年 (明治40年) - 余市 - 小樽間の電話が開通する。

1920年 (大正9年) - 人口16,809人。道内有数の港町だったことがうかがわれる。

1933年 (昭和8年

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933297808

メモ