伏見港公園

伏見港公園

[1] 伏見港公園 (ふしみこうこうえん)

Webページ

[2] 伏見港 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E6%B8%AF

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

[3] 伏見港 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E6%B8%AF

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は宇治川の治水および流路の大幅な変更を目的として、一般に「太閤堤」と呼ばれる槇島堤や小倉堤の建設をはじめとする大規模な工事を前田利家らに命じて行ったほか、宇治橋の撤去および巨椋池を介した交通の要衝であった岡谷津[1]・与等(淀)津の役割の否定、さらに小倉堤の上に新設した大和街道と城下を直結する位置に肥後橋[2]を設けたことにより、陸上および河川の交通を伏見城下に集中させた。伏見には、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。[3]

江戸時代には角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削し京都と伏見が結ばれたことから、港の役割はさらに増した。幕府の伝馬所(問屋場)も置かれ、参勤交代の大名が立ち寄るために本陣や大名屋敷も置かれていた。幕末期には坂本龍馬が伏見港の船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名である。

明治時代に入り、琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると疏水とも接続し新たな水運のルートが拓かれたほか、宇治川も新たに開削されたことから琵琶湖への大型船の就航が可能となり[4]、大阪や琵琶湖へ蒸気船(外輪船)が就航した。また、日本初の電車である京都電気鉄道伏見線(後の京都市電伏見線)が港と京都市内を結ぶために建設された。1929年、宇治川の堤防が整備され宇治川と濠川に水位差が生じたため三栖閘門が建設されている。

蒸気船による水運は京都市と大阪市などを結ぶ鉄道が開通したあとも運賃が低廉だったことなどから一定の需要があったが、大峯ダム[5]の建設や京阪本線の開通による淀川(宇治川)での水運の衰退とともに港も衰退した[6]。第二次世界大戦後はほとんど使用されず放置されていたが1967年、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定され事業化されたことにより港湾機能を喪失した(但し、法制上は引き続き地方港湾としての港格が残っている[7][8])。現在は、公園内に港湾施設の復元模型があるほか、濠川から三栖閘門の周辺は遊歩道が整備され観光用の十石舟が運航している。※観光船については、伏見十石舟を参照。

周辺には京橋・表町・柿ノ木浜・金井戸・北浜・西浜・

[4] 京都駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%A7%85

日本有数の観光都市である京都市の玄関となる駅であり、東海道新幹線の全列車が停車するほか、JRには北陸・山陰・関西空港・南紀方面、近鉄には奈良・橿原神宮・伊勢志摩など、各地を結ぶ特急列車が発着する。JRについては在来線特急の発着種類が日本一多い駅である(後述)。観光客はもちろん、京都市内あるいは各線乗換利用の通勤通学客も多く、1日平均の乗降人員が各社合計で63万人を超える日本でも有数のターミナル駅である。第1回近畿の駅百選に選定された。

乗り入れ路線[編集]

以下の合計4社局が乗り入れている。

JR西日本 : 在来線各線 - アーバンネットワークエリアに属し、合計5方面の列車が発着する。東海道本線と山陰本線には同社による独自の路線愛称が付けられている。

東海道本線 - 当駅の所属線となっている[1]。滋賀県方面は「琵琶湖線」、大阪方面は「JR京都線」の愛称で案内されている。

1駅隣の山科駅から分岐する湖西線の列車もすべて当駅へ直通している。

山陰本線 - 当駅が起点。園部駅まで「嵯峨野線」の愛称で案内されている。

奈良線 - 正式な起点は反対側の木津駅だが、列車運行上は当駅が起点となっている。

JR東海 : 東海道新幹線 - 全種別全列車が停車する。

近畿日本鉄道 : 京都線 - 当駅が起点。当駅と奈良とを結ぶ路線であり、JR西日本の奈良線と競合関係にある。

京都市交通局 : 京都市営地下鉄烏丸線 - 駅番号として「K11」が付与されている。

JR西日本・JR東海の駅は特定都区市内制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。

当駅は、地上の駅に近鉄京都線が発着し、地下の駅に近鉄から京都市営烏丸線へ直通する列車が停車するため、地上と地下に同じ事業者・同じ路線の車両が停車する。

JR線、地下鉄線、近鉄線を区別するために、近鉄線は「近鉄京都駅」、地下鉄線は「地下鉄京都駅(烏丸線京都駅)」と呼ばれることが多い。

乗車カード対応[編集]

JR西日本の駅はICOCA、近鉄と地下鉄の駅はPiTaPaおよびスルッとKANSAI対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。JR東海の東海道新幹線の駅では、乗客が上記のカードのみを利用して自動改札機を利用することはできないが、新幹線の磁気乗車券や、EX-ICカードを在来線用

[5] 産業技術遺産探訪〜三栖閘門、三栖閘門資料館、三栖洗堰, , http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2004/misu-koumon/misu-koumon.htm

宇治川展望スポット

「三栖閘門・後扉室」の塔に登って、宇治川の景色や伏見の町などを見ることができます。

三栖閘門巻上機モニュメント

三栖閘門・後扉室側の旧・巻上機

巻上機は閘門のゲートを上下に動かす装置です。この「三栖閘門巻上機モニュメント」は、「三栖閘門」の「後扉室」側(現在の宇治川展望スポット)で実際に使われていた巻上機をモニュメントとして設置したものです。

「三栖閘門巻上機モニュメント」の案内板には、「三栖閘門」の1929(昭和4)年の竣工時に閘室の壁として使用されていた鋼矢板が再利用されています。

三栖閘門資料館

(旧・三栖閘門操作室)

旧・三栖閘門操作室を復元した資料館です。三栖閘門の役割や港町として発達してきた伏見の歴史などを紹介しています。

三栖閘門・閘室の1/60模型

三栖閘門は、濠川側の前扉室、宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されています。

濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。バイパス水路から閘室の水が汲み出され、水位が宇治川と同じになります。後扉室が開き、船が宇治川に進みます。

宇治川から濠川へ入るときは、バイパス水路から水を汲み入れ、閘室の水位を濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。

三十石船は、多くの物資を乗せて伏見・大阪間を行き来し、上りは1日または1晩を費やしましたが、下りは半日で料金も半額であったということです。年月とともに淀川の水運は三十石船から蒸気船へと移り、大阪と京都が鉄道で結ばれた後も、淀川は物資輸送の

として賑わっていました。三栖閘門は、大阪と京都を結ぶ水運に重要な役割を果たしていたのです。

「内務省」の紋が刻まれた「旧・三栖閘門操作室」の鬼瓦

三栖洗堰

閘室は船が航行していた当時の風景を再現し、船着場として利用しています。

観光用に「十石船」が往来していました。

淀川三十石の由来

淀川三十石船は、桃山時代初期(412年前)から淀川を上下していた客船または荷物船のことです。伏見京橋から大坂天満八軒家まで運行していました。当時客船は870隻、そのうち、三十石船は177隻でした。長さ56尺(17m)、幅8尺5寸(2.5m)で、お客は35名程度、船頭4名、上りは1日1夜、下りは半日で運航していた当時最大の交通機関でした。上りは綱を利用

[6] 京都観光Navi:三栖閘門と伏見みなと広場, , http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000116

内容概要

桜などの緑いっぱいの「伏見みなと広場」、伏見の町並みを見渡せる「宇治川展望スポット」、三栖閘門の歴史を解説する多くの資料が展示された「三栖閘門資料館」などがあり、通称「伏見のパナマ運河」はダイナミックに皆様をお迎えします。

[7] 竹田街道, , http://www.geocities.jp/ikoi98/kyouto/takedakaidou.html

竹田街道は、江戸時代に開かれた京と伏見をつなぐ街道の一つで、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた。同じく京と伏見を結ぶ伏見街道の西方にあって、伏見街道が名所旧跡に富んだ観光ルートであったのに対し、竹田街道はもっぱら牛車による物資の輸送を目的とした産業道路であった。

「口」とは出入り口としての土塁の切れ目である。豊臣秀吉が京に聚楽第を建ててその権力の頂点にあったとき、京都を土塁と堀でぐるりと囲った。土塁は御土居(おどい)とよばれ洛中、洛外の境界をなした。現在の京都駅付近の御土居は七条高倉から高倉通りを南下し、塩小路と八条通りの中間付近で西に折れ、油小路を南下して九条通りで再び西に延びていた。この前半の部分、七条高倉からセンチュリーホテルの南側にかけて逆L字形のいびつな形をした東塩小路向畑町がある。この区画が御土居の築かれた場所であろう。東塩小路向畑町の西端、現在の京都駅ビルに接する所に御土居の竹田口があった。その南北の通りを東洞院という。

現在の竹田街道(府道115号)はJR京都駅の南側、東洞院八条の竹田街道八条交差点から始まっている。京都駅が現在地より北寄りの塩小路通り近くにあったころ、竹田街道は八条からそのまま東洞院通りを上がって塩小路交差点に通じていた。ここが近代の竹田街道起点である。明治28年(1895)ここから我国最初の電気鉄道(後の京都市電)が伏見に向けて出発した。交差点の南西角に京都市電発祥の地の石碑が建っている。

南に向かって歩き出す。すぐに駅ビルに隣接する建物にぶつかる。JR忘れ物センターがある。このあたりが御土居の竹田口があった場所だ。線路に沿って高倉通りにでて、陸橋を迂回して竹田街道八条交差点にでる。

九条大石橋交差点を東にはいった陶化小学校の正門内に、竹田街道に敷かていた車石が残されている。伏見港と京との物資輸送を担う牛車がぬかるみで立ち往生しないように、わだちを削った敷石で街道に牛車専用レーンを設けた。鉄道線路のように厳格でなくとも、牛車の車輪幅は一定だったということか。分厚い石で、これを延々6kmも並べるのはさぞかし大変な工事であったろう。

隣に立つ「石敢当」(せきかんとう)と刻まれた常夜燈は安政元年(1854)建立のもので、鴨川に架かる勧進橋に建っていたものである。

竹田街道札辻交差点にさしか

履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933293078

メモ