東北本線の前身「日本鉄道線」時代の隧道である有壁隧道は、大正13年には、大沢田トンネルを経由するルートに切り替えられた。
以来、有壁隧道は、現在線とは最大で2kmほども離れた山中に、その痕跡をとどめている。
廃止後、今年で81年目(築115年!)となる隧道だが、
我々のような廃線趣味の者が、この地をネットやその他のメディアで取り上げるようになった十年ほど前の時点で、既に内部に著しい崩壊が認められ、通り抜けは出来ない状況にあったとされる。
特に、有壁側の坑口(南口)は、農業用溜め池の奥に半ば水没した状況で口を開けるという、隧道の存在状況としては末期的な悪条件となっている事が知られている。
当山行がでも、昨年春に一ノ関側坑口から、その内部の大崩落閉塞地点までをレポートしているが、時間的な都合の他、徒手空拳では接近できないだろうという事前情報を鑑みて、有壁側の坑門の探索は行わなかった。
そして、山行が水軍の長である細田氏の参戦をもって、遂に、挑戦の日を迎えることとなった。
それが、今回お伝えするレポートである。
果たして、山行がは失われた隧道に辿り着くことが出来たのだろうか・・・。
東北本線清水原駅から一ノ関駅付近までの、現在線にして9700mの区間は、大正13年まで約7000mの鉄路で結ばれていた。
一般的には、線形改善や、トンネルが長大化するなどの改良により、区間延長は短くなる傾向があるが、この区間は稀なケースで、当初の路線に比べて、現在線は2km以上も遠回りしていることになる。
短絡性に優れた旧線が廃止された最大の原因は、有壁隧道をサミットとする峠の勾配が、最大16.7‰と、かなりきつかったためだ。
廃止された当時では、まだ開通後35年ほどしか経過しておらず、隧道などの設備の老朽化とは考えにくいだろう。
旧線跡を清水原駅付近から辿ることは、たやすい。
隧道直前まで、旧線跡を利用した車道が通じており、自動車で接近することも出来る。
浄水場のような場所を過ぎると、未舗装のあぜ道となり、次第に勾配は増す。
それと共に、両脇の丘陵も接近してきて、いよいよ県境の低いがハッキリと存在感のある稜線が眼前に現れる。
ちなみに、清水原駅は岩手県西磐井郡花泉町、現在線にある有壁駅は宮城県栗原郡金成町、そして大沢田トンネルで県境をくぐると、次の一ノ関駅は