大仏公園

大仏公園

[1] 大仏公園, 石川城, 大仏ヶ鼻城

Webページ

[2] 石川城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%9F%8E

石川城(いしかわじょう)は青森県弘前市に築かれていた城。 別名、大仏ヶ鼻城。周辺の館とあわせて石川十三楯(大仏ヶ鼻城、岡館、猿楽館、月館、坊館、八幡館、寺館、高田館、茂兵衛殿館、寺山館、孫兵衛館、小山館、新館)と呼ばれ、この13の城館の総称として石川城といわれた。

[3] 隧道レポート 大仏公園 謎の穴, , http://yamaiga.com/tunnel/isikawa/main.html

津軽地方の雄都・弘前。

都市機能が集中する弘前城周辺を除いては、豊かな緑が満ちている。

その西側は岩木山のなだらかな裾野で名物の林檎畑が連なり、東側は平川の沖積地帯で旨い米がとれる。

この平川は秋田県と接する十和田外輪山の清流を集め流れているが、平川が大鰐の温泉街を通り抜け弘前平野へと流れ出すその場所に、弘前市で二番目に大きな面積をもつ大仏公園はある。

この大仏公園には1つの都市伝説じみた話が伝わっている。

公園は城跡に造られており、その地底には城主が抜け穴として掘った地下道があるのだという。一説には弘前城にまで繋がっていると。

私のもとにもこれまで、この抜け穴に関する情報が複数の方から寄せられていた。

しかし何れも、都市伝説の域を出ない情報と言わざるを得なかった。

が、つい先日、弘前在住の「一児のパパ」さんから送られてきた情報は、一歩以上進んだものだった。

なんと、彼はいまから25年ほどまえ、実際にその穴へ探険と称して潜り、しかも公園の地下を通り抜けて別の場所に出たというのだ。

やはり、公園には戦国時代の地下道が存在したのか。

更に調べていくと、この大仏公園という場所は、確かに城跡だった。

石川城、別名は大仏ヶ鼻城といい、はじめ建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。

戦国の世、津軽地方の覇権を巡る激しい争乱があり、やがて南部家がその居城とした。(天文2年、1533年)

しかしなお平穏は訪れず、元亀2年(1571年)、大浦為信(後の津軽氏)に攻められ落城、ときの城主南部高信は自刃して果てたそうだ。

津軽氏は弘前城を築城し本拠としたため、そのままこの石川城は廃城となったという。

そして今日に至る。

もし現存を確認できれば、或いは山行が史上最古の隧道となるやもしれぬ物件。

私と細田氏は現地へ飛んだ。

秋田方面からこの地へ向かってきた我々は、大仏公園となった石川城趾の南東端より接近することとなった。

右の航空写真のように、大仏公園は平川と奥羽本線の堀割に囲まれた範囲にあるが、元々の石川城は石川十三楯とも呼ばれていた通り、かなり広い範囲に城塞機能が点在していたらしい。

その中の中心的な場所で大仏ヶ鼻城とも呼ばれていたのが、後に大仏公園となったこの丘である。

市道を北上しながら大仏公園の入口である北面へ向かっていた我々は、車窓に思いが

[7] 石川城趾 & 大仏公園(石川三十三観音・謎の洞窟・紫陽花公園) - 大きな勿忘草 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10/7325310.html

中央の大きな窪地が舘趾、平川を望む東は物見台、南には土塁、標高97.4mの西の頂が本丸趾で本丸の下に二の丸、三の丸があります(推測)。

[8] 大仏公園 - 気ままな日記〜弘前にて〜, , http://blog.goo.ne.jp/sohmah147/e/676a0dd4bafb9ee3af8769edb67b0aca

いつも鉄道写真のために訪れる大仏公園

弘南大鰐線の石川駅から歩いて10分程度のところにあり、車でのアクセスもよいので撮り鉄の間では有名なポイントとなっている

こうして歩いてみると、起伏に富んでいろんな草木があり、野鳥もいてなかなか味わい深い公園だ

東側からは弘前市南部と平川市を一望できる

今朝久しぶりに訪れた

休日の朝で、当然撮影に来ている方が数名はいるだろうと思っていたがなんど私一人であった

やや霞んでいるが、黄金色に色づいてきた稲穂と「あけぼの」をまったりと撮影できた

[9] 大仏公園の洞窟が弘前城まで続いている?【いつ・もの・こと弘前版】 - YouTube, , http://www.youtube.com/watch?v=pYvlA4imPP0

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[10] 大仏ヶ鼻城 / 帝國博物学協会 陸奥國, , http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/mutsu/daibutsu.html

大仏ヶ鼻城は、建武元(1334)年曽我道性により築城されたとされる。その範囲は、現在の最高所を中心とした位置で、石川館と呼ばれた。

石川館と八幡館・茶臼館・乳井壬館・猿楽館・月舘・坊ノ館・寺館・高田館・茂兵衛殿館・寺山館・孫兵衛殿館・小川館の12館を併せて、石川13楯と呼ばれ、この総称が石川城であったようだ。

天文2(1533)年、南部氏中興の祖南部信直の父、南部高信が津軽に侵攻し、津軽郡代として石川館に入城した。高信は石川館を整備拡張し、大仏ヶ鼻城と称した。

元亀2(1571)年、津軽支配を目指す大浦為信がこの城に居城する南部高信を攻め、城は落城、高信は自刃した。

為信は、守将として板垣兵部将兼を入れたが、慶長5(1600)年、為信関ヶ原に出陣中に謀叛を起こして敗れた。(この頃には石川城と呼ばれていたようだ)

津軽氏が弘前に築城すると、石川城は廃城となった。

城址は弘前市のはずれに位置しており、大仏公園として整備されている。

道路沿いの入口から入ると、広いグラウンドのような公園が広がっており、その奥に階段状に郭が連なっている。

正面を登りきると、櫓台状の平坦面がある。ここから、大浦為信の拠点となった堀越城址を遠望する事ができる。

そこから右手に進むと石川城址碑の立つ平場があり、ここが常の本丸かと想定される。

更に右手に進むと登り道があり、登りきったところにも平場が見られる。ここが往時の詰の丸のような存在(戦闘時の本丸)であったと想定され、この下に腰郭が階段状に連なっている。

履歴

[12] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933269189

メモ