津軽地方の雄都・弘前。
都市機能が集中する弘前城周辺を除いては、豊かな緑が満ちている。
その西側は岩木山のなだらかな裾野で名物の林檎畑が連なり、東側は平川の沖積地帯で旨い米がとれる。
この平川は秋田県と接する十和田外輪山の清流を集め流れているが、平川が大鰐の温泉街を通り抜け弘前平野へと流れ出すその場所に、弘前市で二番目に大きな面積をもつ大仏公園はある。
この大仏公園には1つの都市伝説じみた話が伝わっている。
公園は城跡に造られており、その地底には城主が抜け穴として掘った地下道があるのだという。一説には弘前城にまで繋がっていると。
私のもとにもこれまで、この抜け穴に関する情報が複数の方から寄せられていた。
しかし何れも、都市伝説の域を出ない情報と言わざるを得なかった。
が、つい先日、弘前在住の「一児のパパ」さんから送られてきた情報は、一歩以上進んだものだった。
なんと、彼はいまから25年ほどまえ、実際にその穴へ探険と称して潜り、しかも公園の地下を通り抜けて別の場所に出たというのだ。
やはり、公園には戦国時代の地下道が存在したのか。
更に調べていくと、この大仏公園という場所は、確かに城跡だった。
石川城、別名は大仏ヶ鼻城といい、はじめ建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。
戦国の世、津軽地方の覇権を巡る激しい争乱があり、やがて南部家がその居城とした。(天文2年、1533年)
しかしなお平穏は訪れず、元亀2年(1571年)、大浦為信(後の津軽氏)に攻められ落城、ときの城主南部高信は自刃して果てたそうだ。
津軽氏は弘前城を築城し本拠としたため、そのままこの石川城は廃城となったという。
そして今日に至る。
もし現存を確認できれば、或いは山行が史上最古の隧道となるやもしれぬ物件。
私と細田氏は現地へ飛んだ。
秋田方面からこの地へ向かってきた我々は、大仏公園となった石川城趾の南東端より接近することとなった。
右の航空写真のように、大仏公園は平川と奥羽本線の堀割に囲まれた範囲にあるが、元々の石川城は石川十三楯とも呼ばれていた通り、かなり広い範囲に城塞機能が点在していたらしい。
その中の中心的な場所で大仏ヶ鼻城とも呼ばれていたのが、後に大仏公園となったこの丘である。
市道を北上しながら大仏公園の入口である北面へ向かっていた我々は、車窓に思いが