日本海夕日ライン

日本海夕日ライン

[1] 日本海夕日ライン (にほんかいゆうひらいん)

Webページ

[2] 日本海夕日ライン - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%A4%95%E6%97%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

日本海夕日ライン(にほんかいゆうひライン)は、新潟県の海岸線に沿って走る道路の愛称である。

[3] 国道345号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93345%E5%8F%B7

[編集] 概要

ほぼ全線にわたって国道7号と並行している。新潟県内の区間は国道7号から海岸寄り、山形県内の区間は内陸寄りを並行している。また、新潟県新潟市から同県村上市にかけて日本海東北自動車道が、新潟県村上市から山形県鶴岡市にかけてJR羽越本線がそれぞれ並行している。

新潟市から聖籠町の区間は新潟西港、新潟空港、新潟東港などの重要な港湾施設付近を通過する。聖籠町以北は日本海沿いのルートとなり、特に村上市内の区間は日本百景に指定されている笹川流れを通る。この笹川流れ周辺の区間は国道昇格前の1968年までに自動車通行可能の道路として全線開通した[1]が、1980年代までは集落内の生活道路や、断崖絶壁で海岸沿いの非常に狭縊な幅員が続く未改良区間が多数存在していた。このため、国道昇格後の1980年代以降、特に自動車の通過が困難であったトンネルを中心に順次改良され、現在は概ね2車線で整備されている。結果、この区間では非常に多くのバイパス道路が建設され、多数の区間が国道指定当初のルートから変更されている(#バイパス道路を参照)。

山形県内ではルートが内陸寄りとなる。このうち、鶴岡市内の区間は一部大型車通行不能の狭隘な区間があり、冬季は通行止めとなる。

[編集] 路線データ

一般国道の路線を指定する政令[2][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:新潟市(新潟市中央区万代三丁目2453番4:東港線十字路 = 国道7号等交点)

終点:山形県飽海郡遊佐町(女鹿交差点=国道7号交点)

重要な経過地:豊栄市(横土居)、新潟県北蒲原郡中条町[注釈 2]、村上市(瀬波)、同県岩船郡山北町[注釈 3]、山形県西田川郡温海町[注釈 4]、鶴岡市、同県東田川郡立川町[注釈 5]、同県飽海郡八幡町[注釈 6]

路線延長:220.3km(実延長155.0km)[3][注釈 7]

新潟市区間:20.5km(実延長なし)

新潟県区間:82.8km(実延長49.7km)

山形県区間:117.0km(実延長105.3km)

指定区間:国道7号と重複する区間[4]

[編集] 歴史

[編集] 年表

1975年(昭和50年)4月1日

一般国道345号(村上市 - 山形県飽海郡遊佐町)として指定施行[5]。

1982年(昭和57年)4月1日

起点側を延伸し、一般国道345号(新潟市 - 山形県飽

[4] ルートレポート, , http://yamaiga.com/road/sasagawa/fainal.html

< おわり >

道の駅「笹川流れ」が、国道345号線沿いに建つのは、地名的には笹川ではなく、その南の桑川である。

この桑川は、山北町最南端の集落であり、村上市に接している。

村上市に入ると、海岸線と山地との隙間が少し広がり、それまでは山々に阻まれ断続的にしか現れなかった集落が、長さを持った帯のようになってくる。

国道も集落内を避たバイパスが続き、景色的には、やや単調になる。

しかし、大半の運転者(これは山チャリストに限らない)は、ホッとするだろう。

それほどまでに、この笹川流れに至までの15km余りの道のりは、険しく、神経を使うものであった。

無論私にしても、やっと目指す村上市に入ったという安堵感が大きかった。

すでに、前夜遅く出発した私のサイクルコンピューターの走行距離は200kmを越えていたし、睡魔と疲労の混ぜ合わさった独特の苦痛が、全身を包み始めていた。

余談だが、この感覚、私の場合はどうも200km前後から表れ始める、なんと言うか…。

山チャリから離れていると、無性に味わいたくなる…そんな麻薬のような感覚なのだ。

実際は、もうチャリを放り出し、その場で眠りに付きたいと思うような苦痛なのだが…。

たぶん、私のの体力ゲージ点滅のシグナルなのだろう。

新潟県山北町 桑川

道の駅「笹川流れ」である。

沿線は「日本海夕日ライン」と愛称されており、この道の駅には、本日の日没時間の案内板があった。

残念ながら、今日は曇りであったが。

そもそも、夕暮れまでこんな場所にいるわけにも行かないのであるが。

休憩もそこそこに、再び南下を始める。

桑川には小学校もあり、これまでの中では大きめの集落。

その南の端、これまで何度も繰り返された景色だ。

海と山が一つの崖に収束し、そこに穿たれたトンネル。

ここから先の鳥越は、村上市に踏み込む前の最後の難関といってよい。

とは言っても、現道は一本のトンネルでこの岬を貫く。鳥越トンネルである。

おなじみ『山形の廃道』さんの隧道リストによれば…、 …この部分に該当する隧道は記されていない。

昭和42年当時、この隧道を用いなければ攻略できそうもない崖を、どうやって道は貫いていたのだろうか?

旧道の痕跡は発見できず、これは謎である。

[5] 親不知 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5

概要[編集]

飛騨山脈(北アルプス)の日本海側の端に当たる。新潟県糸魚川市、JR北陸本線の青海駅から市振駅の間に位置する。断崖は飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生まれたものである。

親不知駅がある歌(うた)の集落を中心に、西の市振(いちぶり)地区までが親不知、東の勝山(かつやま)地区までが子不知(こしらず)と呼ばれており、併せて親不知子不知とも呼ばれる。市振から勝山までは約15km程の距離である。

越後国と越中国の間を往来する旅人は、この断崖を海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきた。

難工事の末に国道8号と北陸自動車道が開通し、当地における3代に亙る道路の変遷を見ることができる。北陸自動車道は親不知IC付近を海上高架橋により通過しており、難所におけるルート選定の苦労を偲ぶことができる。一方で、高速道から海岸美を堪能することもでき、景勝地となっている。

親不知から南には飛騨山脈が延びているが、親不知近辺は雷鳥の飛来地としても有名である。親不知・飛騨山脈を挟んで西側に位置する富山県と、飛騨山脈で富山県と向かい合う長野県が、県の鳥を雷鳥としている。

親不知と同様の断崖は、太平洋側にも存在し、静岡市清水区の由比地区にある薩埵峠と、静岡市と焼津市の境界に位置する大崩海岸がそれに当たる。旧由比町の薩埵峠を通過する国道1号と東名高速道路も難工事の末に開通しており、この付近の東名高速道路も海上を通っている。

名称の由来[編集]

「親不知」の名称の由来は幾つの説がある。一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、とされている[1]。また、以下のような伝承もある。

壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。このことを聞きつけた奥方は、京都から越後国を目指して、この難所に差し掛かった。しかし、難所を越える際に、連れていた子供が波にさらわれてしまった。その時、次の歌を詠んだ。

親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになった[1]。

これらの伝承を基にしたものに、合唱曲『親しらず子しらず』(山本和夫作詞、岩河三郎作曲)がある[2]。

ギャラリー[編集]

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933257505

メモ