小川通

小川通

[1] 小川通 (おがわどおり)

Webページ

[2] 小川通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E9%80%9A

小川通(おがわどおり)は京都市内の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は錦小路通まで。 南の延長線上を東中筋通(ひがしなかすじどおり、別名天使突抜通、てんしのつきぬけどおり)が走る。 平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。 一条以北に昭和後期まで流れていた小川(こかわ)にちなむ。

[3] 小川通, , http://www.uchiyama.info/kyoto/matiya/matiya/ogawa/

1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り。一条通以北に西側に堀川に流れ込む小川(こがわ)が流れていたことから小川通と呼ばれるようになった。室町時代には将軍足利義尚の小川御所があったことから小川の川沿いは開けていたことだろう。

堀川通と紫明通の合流地点辺りから小川通に入り一路南下する。左右に妙覚寺、大応寺、本法寺の寺を見る。

<妙覚寺>(上左画像)

妙覚寺は日蓮宗京都十六本山の一つで、妙顕寺・立本寺とともに三具足山といわれ、北龍華と呼ばれている。開山は日像聖人だが、永和4年(1378)に龍華院日実聖人が四条大宮の妙覚の地に創建した。後に二条衣棚に移り、再び豊臣秀吉の命により現在の地に移転した。

この大門は、当時の記録によると聚楽第の裏門であったと伝えている。本瓦葺・切妻造の薬医門で本柱筋にのる大きな板蟇股には外側に上巻渦、内側には上下二段に大きな下巻の渦文をつけている。この板蟇股の内部には人が隠れるぐらいの空間があるのも、この大門の特色で、左右にくぐり戸を配し、長い袖塀を持つ姿は、聚楽第の遺構にふさわしい堂々たるものです。

<大応寺>(上右画像)

金剛山と号し、臨済宗相国寺派に属する。この地は9世紀初期、壇林皇后によって悲田院(病人・貧窮者・孤児の救済施設)が建てられ、文明2年(1470)後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬されたところでもある。応仁の乱後、久しく荒廃していたが、天正14年(1586)に虚応和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一宇を建立したのが当寺の起こりである。

堂宇は度々火災にあい、現在の建物は文化5年(1808)以降の再建である。本堂内には、本尊として釈迦如来を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀る。

境内にある織部稲荷社は当時の鎮守社で、17世紀初頭の織部流茶道の祖、古田織部正が伏見稲荷から勧請したものという。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の信仰が篤い。2月・8月・11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行われる。本堂背後には後花園天皇の火葬塚がある。

<本法寺>(下2枚画像)

叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起こりという。

はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1

[4] 京都風光*小川通, , http://everkyoto.web.fc2.com/report81.html

小川通

百々橋の礎石遺構。ここに百々橋が架けられていた。長さは7.3m、幅3.7m。百々橋が石橋になったのは近代、1907年の改築の際という。1963年小川の下水道整備の際に埋め立てられた。その後、10年ほど室町小学校に置かれる。1975年に竹林公園(西京区)に移されている。

本法寺(ほんぽうじ)仁王門、日蓮宗本山叡昌山本法寺。開祖は室町時代、1436年、本阿弥清信が日親上人を開祖に請じて創建されたという。「鍋冠り上人」といわれた日親は、二度にわたり投獄された。激しい拷問に耐えて、法華弘通につとめた。寺は、もともとは四条高倉にあり、その後この地に移転した。現在の堂右は江戸時代後期に再建された。

本阿弥家の菩提寺。本阿弥家光悦とゆかりが深く、光悦の作庭による「巴の庭」、書画・什器、筆の扁額や長谷川等伯の「仏涅槃図」などがつとに知られている。

なお、かつての「小川」(こかわ)は寺の門前を流れており、今は水はないが、当時の石橋はそのままに残されている。

裏千家家元の茶室(今日庵)の表門、兜門とも呼ばれる。非公開。

少庵と宗旦は、当初現在の不審庵の地に住む。少庵は宗旦に「不審庵」を譲ったのち、江戸時代、「今日庵」(1646)を建て隠居してこの地に住んだ。さらに、宗旦の建てた利休茶室の復元「又隠」(1653)に再び隠居している。

露地内にはわずか二畳(正しくは一畳台目という一回り小さな畳)の茶室・今日庵のほか、多くの茶室がある。今日庵もまた利休茶室の復元であり、極限の狭さが具現されている。

千家家系

利休-少庵-宗旦-�A次男・宗守(武者小路千家) �B三男・宗左(表千家) �C四男・宗室(裏千家)

小川通()周辺には、本法寺などの寺院、裏千家家元の茶室(今日庵)などの屋敷が点在している。、

◆歴史年表 室町時代のこの地は、足利将軍家邸宅花の御所(室町御所)に近く、幕府関連の屋敷や寺院などが建てられ、政治の中枢となっていた。また、「人形寺」として知られている宝鏡寺は、足利義政・日野富子夫妻の小川御所跡とされている。

中期以降は、小川の東側に幕府管領細川氏の家臣屋敷、西側の堀川周辺には、同じく山名氏の家臣の屋敷が多くあった。このため、応仁・文明の乱(1467-1477)の乱では一帯が戦場となり、焼失している。

11世紀、一条小川付近には革聖行円の開いた行

[5] 洛中の失われた小河川, , http://agua.jpn.org/yodo/katura/old.html

失われた洛中の小河川

京都市街にはけっこうな数の小川が流れていたが、現在ほとんどが暗渠となり、微妙な高低差のあった谷地も平らに均され、いまや水辺を偲ぶよすがとて無い。山城原野を流れた川の多くは、平安京造営時に大なり小なり改変を受けているので尚更跡を追いにくい。

失われた川たちは例えば、南流していた今出川、中川、西洞院川、小川、東西方向に流れていた四条川などが挙げられる。

■ 今出川

今出川は鴨川からの分流とも、雲ヶ畑からの水ともいう。

寺町通を流れたものと相国寺付近を流れたものがあるという。

かつては六条あたりまで南下する流れであったという。

左の写真は相国寺境内にある溝。不自然に境内を曲折しているので、もしかしたら川跡なのかも知れない。

また、相国寺の北の宅地には妙に曲がりくねった路地があり、旧河道の可能性があるが確たることは皆目わからない。

■ 中川

京極大路から下の今出川を称したものという。京極川の謂もあるが古くは中川といった。

用途は貴族邸内の園地に引き込むものや灌漑用水と思われる。

源氏物語の「空蝉」のくだりで、光源氏が方違えに訪れる下級貴族の家が中川から庭に水を引き込んでいる様子が描かれている。

■ 小川 ( こかわ )

堀川通の堀川紫明交差点の東から元本能寺あたりまで通じる「小川通」に名を残す、堀川に注いでいた川。寺之内付近には明瞭な川跡が残っているが、流水は全く見られない。下の写真、左は本法寺門前の橋で、河床には木が植わっている。右写真は報恩寺門前の橋で、家々の背割や墓地脇に涸れ川が残っている。宝鏡寺脇で小川に架かっていた「百々橋」は昭和38年の埋め立ての際取り払われ、西京ニュータウンの竹林公園に復元されている。橋の礎石は室町小学校にも残っている。左写真は宝鏡寺塀際に残された礎石。小川は、昭和初期には蛍飛び交う流れだったという。地表流は失われたが水脈は残っていて、井戸水は現在も茶を点てるのに珍重される。

■ 西洞院川

堀川通の東、小川通と新町通の間にある南北の小路・西洞院通に明治中期まであったという。市電開通にあたって暗渠化されたもので、現在は下水溝となっている。

もちろん、これ以前にも平安京造営にあたっての改変を受けているものと思われる。

*このほかにも、東洞院川、室町川、大宮川など都の造営にあたって消滅した小川が多数あると伝わ

[6] 百々橋の礎石, , http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/muromachi-s/dodobasi.htm

烏丸通から,室町小学校へ入った所に,方形の石が置いてあります。

この石は、その昔,小川通寺の内に架かっていた百々橋の橋脚を支えていた礎石です。

礎石の傍には,この礎石の由来が次のように書かれています。

百々橋の礎石

1378年に足利義満がこの地に幕府(花御所を開いた室町時代,室町は政 治・文化の中心地でした。「小川通寺の内」の東西の通りを古くから百々の

辻といい,この辻を南北に流れる小川(こかわ)に百々橋(どどばし)がかかっていました。

橋の規模は,長さ四間一分(7.5メートル),幅二間二分(4メートル)。

この小橋が歴史に名をとどめることになったのは,応仁元年(1467年)5月,山名宗全と細川勝元の覇権争いから,対立する多くの守護大名が西軍と東軍にわかれて結集し,この橋をはさんで数度にわたって大きな合戦(応仁の乱)をしたことによります。

この小さな橋には,戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれています。

小川は昭和38年頃から埋め立てられ,百々橋も解体されました。百々橋の保存を願う地域の方々のご尽力により,百々橋の橋材は,一時,本校に保管されました。

その後,橋脚を支える四基の礎石の内,一基を現地に遺構として遺し,一基は室町小学校で保存,残りの二基は他の橋材とともに洛西ニュータウンの竹林公園に移され,昭和55年に竹林公園内に復元されました。 京都市立室町小学校 」

[7] 西陣 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%99%A3

この項目では、京都市上京区の地域について記述しています。パチンコ関連の企業については「西陣 (企業)」を、京都の先染め織物については「西陣織」をご覧ください。

歴史[編集]

京都では5世紀から織物作りが行なわれており、平安時代には現在の西陣の南側に位置する黒門上長者町付近に織物職人が集っていたとされる[2]。平安時代後半には「大舎人の綾」「大宮の絹」などと呼ばれる織物が作られ、また独自の重厚な織物は寺社の装飾に使用された[2]。「西陣」の名は、応仁の乱(1467年-1477年)の際に西軍総大将である山名宗全らが堀川よりも西のこの土地に陣を構えたことに由来する[3][4]。応仁の乱後には各地に離散していた織物職人が京都に戻り、西陣と呼ばれるようになったこの地で織物作りを再開した[2]。

今出川通の大宮通と堀川通の間に西陣の史跡がある。西陣は日本で初めて映画館ができた場所である。今宮神社の今宮祭は西陣の祭礼として知られている。2008年(平成20年)度の西陣織製品の出荷額は約818億円であり、465の業者が存在する[1]。織機数は計4,783台(力織機が約3,600台、手機などが約1,200台)であり、直接または間接的に西陣織業に従事する人々は約30,000人である[1]。

西陣の範囲[編集]

寛永15年(1638年)頃までは西陣組と呼ばれていた町組があり、その後は上西陣組(古町83組)と下西陣組(古町80組)に引き継がれた[5]。これらの組と他地域との境界は複雑に入り組んでいるが、おおむねの範囲は、西限が七本松通、南限が一条通、東限が小川通、北限が上京区・北区の区境である。

享保2年(1717年)頃にまとめられた『京都御役所向大概覚書』では、西陣の範囲を「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通 町数百六拾八町」としており、堀川通・七本松通・北大路通・一条通(または中立売通)に囲まれた範囲だったことが確認できる[5]。

京都の元学区における西陣学区も複雑に入り組んだ形をしているが、おおむねの範囲は、西限が浄福寺通、南限が五辻通、東限が堀川通、北限が寺之内通である[4]。京都市による西陣学区の案内では「歴史的な西陣の概念は、ほぼ南北は中立売通から鞍馬口通まで、東西は室町通から千本通まで、一辺が約1kmのほぼ正方形の範囲」と

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933250832

メモ