紙屋川

紙屋川

[1] 紙屋川

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[2] 京都市北区衣笠開キ町にある砂防ダムの中に作られた謎の不法占拠集落に迫る (全5ページ) - 大阪DEEP案内, , http://osakadeep.info/kyoto-kinugasa/

京都市北区、千本北大路交差点の近くまでやってきた。金閣寺から1キロほど東側にある地点だ。ただでさえ公共交通網がグダグダな京都の中でもかなり奥の方にあるので、基本的にバスで来る事になるがこれがまた面倒臭い。

実はこの周辺に平成日本ではにわかに信じられない「砂防ダムの中の集落」というのが存在していると聞いて、かねてから見てみたいと思っていたのだ。関西には戦後のドサクサで出来たバラック村が今でも数多く残っているが、砂防ダム内に家を建てちゃったという例は聞いた事がない。

千本北大路交差点を北側に歩いていくと佛教大学のキャンパスがある。この真裏が該当地点にあたるようだ。

佛教大学の脇から路地に入ると、そこは京都の外れにある「閑静な住宅街」でしかない。地名で言う所の京都市北区衣笠開キ町、鷹峯木ノ畑町の境目あたりになる。周囲には古い一軒家に混じって市営住宅なども多い。

路地を突き抜けると砂防ダムの縁に沿って民家が連なっている場所へ出る。ここまでは特に代わり映えのない普通の住宅地だ。

だが途中から景色が開けて、砂防ダムを囲んだ山間に家々が並んでいる風景が見えてくる。谷底に流れるのは天神川の上流部となる紙屋川。

視界が開けた崖っぷちの上に立つと、崖下一帯にてんでんばらばらの方向に家が建っているのが見られる。しかもどの家も結構古びていて建て増ししてあったり、随分フリーダムな状況。

さらに視点を変えて見ると、明らかに周囲とは隔絶された谷底に家がずらりと並んでいるのが分かるはずだ。中央を流れる紙屋川には住民が架けたと思しき鉄製の橋も見える。

雪のせいで見えづらいが崖下に沿って犬小屋だったり家庭菜園が好き勝手に置かれている。不安定な地盤に対して器用に足場が築かれていて物置スペースが作られていた。

崖下の民家は寒波による大雪をまともに被っていた。屋根はトタン葺きだろうか。京都の夏暑く冬寒い盆地の気候は、どうも好きになれない。

崖上から集落を見ていくと上流の突き当たりからようやく紙屋川の水面が見えてくる。結構な高さがある。しかしよく見ると対岸の斜面にまで廃屋と化した掘っ立て小屋がいくつか確認出来る。

改めて紙屋川上流側から砂防ダム下の集落を眺める。壮大な景色だ。

大きな地図で見る

この付近の街並みを航空写真で上から見ると明らかに異様さが伝わる。中央に紙屋川、その両側は家庭菜園、砂防ダムの縁に沿っ

[3] 天神川(紙屋川)開キ地区の不法占拠について/京都府ホームページ, , http://www.pref.kyoto.jp/sabo/1330927775154.html

天神川(紙屋川)開キ地区の不法占拠について

京都市北区衣笠の天神川(紙屋川)開キ地区は、一級河川天神川の上流にあり昭和28年に完成した砂防ダムの堆砂敷で河川区域でもある国有地になっており、ここに許可なく建物を建設することは河川法違反になります。しかしながら、このダムの建設後、住むところがなく困った方が、次第に集まり住み始めたものと思われます。

京都府としては、昭和30年代から建物の撤去などを指導してきたところですが、生活の基盤がないこと等から、居住者数は減少しているものの居住が続き、現在に至っています。(平成25年度の調査では28世帯54人、住居は46戸(うち空き家16戸))

また、最近の集中豪雨等により、ここ6年間で5回も浸水被害が発生している状況であり、もともと砂防ダム内であるため居住者の安全を確保できず、大雨時には増水や土石流の危険性があることを、お伝えしているところです。

京都府では、これまでも鴨川の陶化橋や桂川の新川地域といった大規模な河川敷における建物の対策に全力をあげ、これを解決してきたところですが、平成24年11月に、国、京都府、京都市の三者で構成する「河川敷地環境整備対策協議会」の部会を設置し、平成25年度には砂防課に「天神川環境整備担当課長」のポストを置き、「居住状況等調査」(聞き取り調査)と「測量調査」を実施し、また、平成26年度には2戸、平成27年度には7戸、平成28年度には4戸の空き家を撤去するとともに、毎週、現地訪問するなど粘り強く取組を進めているところです。

歴史的な経過や居住者の生活基盤の確保という課題もあるため、短期間での解決は困難な面もありますが、引き続き、居住者との意見交換を重ね、協議会の中で対策について協議・協力しながら、関係機関とも十分に連携し所要の対策を進めていくこととしています。

(平成27年1月30日公開、平成28年2月29日、平成29年1月20日一部修正)

[4] 京都市上京区役所:上京区の河川, , http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012365.html

平安京創設以前,賀茂川は現在の堀川通を南下し,四条から五条の間で高野川と合流していた,というのが従来の説であるが,最近の研究では,現在とほぼ同様,北部では東南方向に流れ,出町で高野川と合流後は南流していたとみられている。平安造都に当たり,大きな流路変更はなかったのである。もっとも堀川は,賀茂川の1支流であり,その川床を利用して堀川を造り,これを東堀川と名付けた。同時に,西堀川(現在の紙屋川)も掘った。東西両堀川の開削は,京都北部の山岳地帯で伐り出した,平安京造営に必要な材木の運搬が目的であり,この両河川に挟まれた地域に大極殿や大内裏が建設された。紙屋川が西堀川であったことは,上京区の南西端近くに堀川町が現存する事実などからも容易に理解される。 鴨川と紙屋川との間には,東京極川,小川,大宮川,耳敏川,西大宮川が流れていた。特に東京極川は,現在の上御霊神社の前を南下し,相国寺を経て今出川通で今出川となり,東に流れて寺町に達し,中川となって再び南下し,二条において東行し鴨川に合流した川で,河畔には貴族の邸宅や寺院などが建ち並び,まさに山紫水明に相応しい景観を誇っていた。

[6] 30世帯50人が砂防ダム内の国有地を60年間にわたり不法占拠し居住,住民の横着か?行政の怠慢か? - NAVER まとめ, , https://matome.naver.jp/odai/2142069864683818901

京都市北区衣笠開キ町の紙屋川に設けられた砂防ダム内の国有地を数十人の住民が不法占拠し,約60年にわたり住み続けている。住民の多くは在日韓国人や在日朝鮮人。大雨のたびに浸水する。住民の安全のために,河川管理者の京都府が立ち退きを求めて,やっと重い腰を上げた。現場は金閣寺の近く。

更新日: 2015年01月09日

[7] 「九条竹田街道」。 なぜ「大石橋」? - ちょっと気になる京都の風景, , http://blog.goo.ne.jp/asashio82/e/5fc2644765b6346a269b6b95a72d6118

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ここは竹田街道を九条から少し下ったところ。この竹田街道には昔 京都市電の伏見線が走っていました。そう思って見て頂くと このカーブ、何となく線路のカーブに見えてきませんでしょうか?

さて、「九条竹田街道」(竹田街道九条でもいいのですが、ここでは十条竹田街道に倣って"九条竹田街道"と書きます)。この交差点はずっと昔から「大石橋」と呼ばれてきました。

市電が走っていた時、九条線と伏見線が交差する その停留所名も「大石橋」でしたし、今の京都市バスの停留所名も「大石橋」です。

現在、この交差点の100mほど西に地下鉄「九条駅」があり、市バスは「次は大石橋、地下鉄九条駅です」と放送されます。

なぜここを「大石橋」というのか ず〜っと不思議なままなんですが、今回調べてみてもその由来は全くわかりませんでした。

竹田街道は車でよく通るのですが、この日はフラリと「大石橋」でバスを降り、細い路地を東に入ってみました。

その静かな路地にはいかにもレトロな銭湯が佇んでいました。

表通りの竹田街道にあってもよい位の立派な構えです。

まず、門をくぐって入るようになっていますが、中の唐破風屋根がまた渋いですね。

竹田街道から一つ東の細い裏通りを南に向いて…

あまり京都らしい雰囲気ではなく、何となくレトロな大阪って感じの街並みでした。

画面中央奥付近には何か気になる塔が…

その正体はキリスト教会の礼拝堂の尖塔でした。

さらに南へ歩くと、古い大きな農家が点在し このような土蔵も散見できました。

車でサッと通過するのと歩いてみるのでは、全く違った雰囲気を感じる事ができました。

履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567396435549

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