青ヶ島村

青ヶ島村

[1] 青ヶ島村

Webページ

[2] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main10.html

私が青ヶ島で過ごしたたった1日の最初と最後を共にしたのが、島の玄関口として不動の地位にある青宝トンネルの旧道であったことは、偶然ではなかったが、出来すぎているとも思う。

そして、一周約9km、わずか約6km 2 の島中のたかだか1.3kmに過ぎない道で、ここまで多くの文字数を費やして語りたくなるほどの“探索”があろうとは、「青ヶ島は凄い」と聞いていた私の想像をも越えていた。

本稿は、今回探索した旧道 “残所越(のこじょごえ)”の歴史解説編 を主とするが、同時に青ヶ島全体の道路整備の歴史についても概観を述べたい。

そうしないことには、小さな島内において代替路があまり存在しない道の存在意義を上手く説明することができないためである。

また、島内の陸上交通は島外との海上交通と不可分の問題であり、すなわち港や航路や新造船の整備とも深く関わる問題であるばかりでなく、島民の生活のほぼ全方位にも関わる事柄であるが、それら全てを結びつけて概説的に述べるのは私の手に余る。ゆえに島内道路整備に絞って解説しつつ、それ以外は特に関わりが深い事柄のみ最低限触れるに留める。

主な参考資料

伊豆諸島東京移管百年史 (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)

黒潮に生きる東京・伊豆諸島 (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)

青ヶ島の生活と文化 (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)

青ヶ島島史 (青ヶ島村/昭和55年刊)

I 明治〜戦前 島の三大拠点を結ぶ道の整備

右図は青ヶ島を描いた最も古い5万分の1地形図である 明治45(1912)年版 で、チェンジ後の地図は 昭和10(1935)年版 である。

いずれの地図にも島内各地を結ぶ“道”が描かれているが、その多くは破線の徒歩道(小径)であり、これらの時期は車馬が往来するような道路網は存在しなかったことが分かる。

本土では明治時代に馬車や人力車や鉄道といった“車両交通”が登場し、陸上交通は革新されたが、この小さな島に普及することはなく、物資の移送には人背や牛背に頼るという近世以前からの状態が長く長く続いていたのであった。

しかし、それは無理のない話であったろう。

明治27年に初めて公設の定期航路が開設された(東京から小笠原諸島に向う大型定期便線の寄港という形で)当初の便数は、わずかに年2便で、ほかに民間船や島が用意した便船での不定期の往来はあっ

[3] 道路レポート 青ヶ島大千代港攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/oochiyo/main11.html

主な参考資料

伊豆諸島東京移管百年史 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)

黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)

青ヶ島の生活と文化 (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)

青ヶ島島史 (青ヶ島村/昭和55年刊)

I 大正時代 =大千代浦への最初の築港計画と顛末=

絶海の孤島を地で行く青ヶ島に、人が住み始めた正確な時期は定かではない。しかし、文献にその暮らしぶりが現われる近世には、島の北部にあって集落に最も近い海岸である 神子ノ浦 が、もっぱら港として使われていたようだ。明治45年の地形図にも、港の記号はこの一箇所にのみ書かれている。もっとも、この当時に運行されていた本土間の定期便はわずか年3回という有様で、当時の内地人のほとんどが、伊豆大島や八丈島の存在は知っていても、青ヶ島のことは知らなかったし、生涯訪れることなどない場所だっただろう。

港とは名ばかりの、地形としてはただの荒磯に過ぎなかった神子ノ浦に替って、小さくとも接岸設備を有する(それも昭和40年代までは艀専用の小さなものだったが) 三宝港 が、島の南西端に東京府の事業として最初の完成を見たのは、昭和9(1934)年であった。敢えて集落から遠く離れた不便な場所が選ばれたのは、そこに三宝鼻(大三宝、小三宝)という大岩が海岸線に突き出していて、島では貴重な小湾という天与の地形があったことからだった。

昭和10年の地形図では、港の記号は神子ノ浦から三宝港に移動しているのが見て取れる。以来、三宝港は島の港として唯一無二の存在として重要視され、今日に至るまで想像を絶するレベルの増強を受け続けている。その成果として、苦難の艀作業から脱却し、今や500トンクラスの中型客船が直接接岸できる、訪問者の多くが「城塞」をイメージするような島内最大の人工物となった。

我らが 大千代港 は、この三宝港に次ぐ第2の港(神子ノ浦も入れれば3代目)として計画・実行されたものであるが、大千代浦に港を作ろうという計画の萌芽は相当に古い。少なくとも文献上に築港計画が現われる順序としては三宝港とほぼ同時期であり、しかも実際に工事が行われたことが伝わっている。

島の東側の大千代浦築港の当時の書類は現在不明であるが、大正5年9月ごろに築造をはじめた ことは次の記録によって証し得る。青ヶ島西沢営業所から村役場

[6] 小笠原村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

地理[編集]

東京都本庁から小笠原村本庁である父島までは、約1,000 km離れている。

山: 父島の最高峰は名前の無い山(326m・中央山ではない)、母島の最高峰は乳房山(463 m)

河川

八ッ瀬川

歴史[編集]

「小笠原諸島#歴史」および「小笠原支庁#歴史」も参照

1940年(昭和15年)4月1日 - 普通町村制の適用により、東京府小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される[3]。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。(東京府廃止)

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約により、5村は日本国政府の行政から分離され廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止[4]

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、東京都小笠原村となる[5]。小笠原総合事務所(国の機関)[5]、東京都小笠原支庁および小笠原村役場の行政機関設置。

1979年(昭和54年)

4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

4月23日 - 村政確立(それより前は東京都小笠原支庁長が小笠原村長職務執行者であった)

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

小笠原村村域の変遷(年表)

月日

現小笠原村村域に関連する行政区域変遷

[7] 八丈町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E7%94%BA

歴史[編集]

年表[編集]

1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制が施行され、八丈支庁の八丈島に大賀郷村・三根村・樫立村・中之郷村・末吉村が設置される。

1947年(昭和22年)5月3日 - 地方自治法が施行され、八丈小島に鳥打村・宇津木村が設置される

1954年(昭和29年)10月1日 - 三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併し、八丈村となる。

1955年(昭和30年)4月1日 - 八丈村は大賀郷村・宇津木村を編入。

同日、八丈村は町制施行し八丈町となる。

1966年(昭和41年)3月 - 八丈小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」が提出される。6月に八丈町議会が請願を採択。

1967年(昭和42年)9月 - 八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。

1968年(昭和43年)10月 - 土地買収に関する住民との協議が成立。

1969年(昭和44年)6月 - 八丈小島全島民の移住が完了(全島民撤退時の島の人口は旧宇津木村9戸31人、旧鳥打村15戸60人)。「全国初の全島民完全移住」として注目された。

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

八丈町町域の変遷(年表)

月日

現八丈町町域に関連する行政区域変遷

[8] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main.html

ついに行ったった、 青ヶ島 あおがしま !!

青ヶ島は、東京都心から南へ遙か360km、黒潮の絶海に浮かぶ、伊豆諸島における最南の有人島である。

緯度的にも長崎市より南であり、私の訪問地における南極を圧倒的に更新する存在。

私は初めての島旅を同じ伊豆諸島の新島と神津島に得た2013年当時から、この地の訪問を夢見ていた。

これまでに行った全ての島旅は、ある意味において、この離島ビギナー向けではない島へ挑むためのトレーニングであった。そんな大仰な気構えさえ持つほどに、青ヶ島は私にとって“高嶺の花”だと思える存在だった。

それは旅人として、あるいは、オブローダーとしてもである。

このわずか約6km 2 (河口湖と同程度)、外周9kmの小さな島には、土木を愛するものを惹きつける魅力がある。

私はそのことを、この島を体験した幸運な数人の情報提供者によって、ここ10年ほどの間に何度か唆された。

そのために、私はいつか自転車と一緒にこの島へ渡ってみたいと思うようになった。

私が初めて行きたいと思った島は、実はこの青ヶ島である。

多くの特徴に彩られたこの島の一般的なプロフィールについては、既に多数の情報が巷にあるから、ここでは簡単に箇条書きで触れるに留める。詳しく知りたい方は、別途この島の名前を検索すると良い。でも、敢えて知らないまま読み進めるのも一興かもしれない。

《 青ヶ島についての “ごく一般的な” 情報 》

都心から南へ約360km離れた太平洋上に浮かぶ、面積約6km 2 、外周約9kmの小さな島。

最寄りの島は八丈島だが、約64km離れている、文字通りの絶海の孤島。伊豆諸島では最南端の有人島。

東京都青ヶ島村を一島のみで構成しており、人口は約170人。同村は日本で最も人口の少ない自治体。

世界的にも珍しい二重のカルデラを持つ小型の火山島で、固有の生物や植物もある。

江戸時代の天明5(1785)年(今から230年ほど前)に最後の大噴火があり、多くの住民が焼死。生き残った人々は八丈島に避難し、以後数十年無人となった。

島には旅客船が発着する港と、ヘリポートがあり、海路と空路で訪問が可能。本土からの直通便はなく、船もヘリも八丈島との往復である。

有人島としては、日本でも有数の訪問が難しい島として知られる。(後述)

さて、私にとって青ヶ島訪問の最初にして最大の関門と

[9] 八丈島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6

[編集] 歴史

考古学的には縄文時代から人が住んでいて、勾玉が出土している[要出典]。

律令制度においては東海道駿河国を派遣している。

平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている[要出典]が、八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。

秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された(実際には「徳川の臣に下る」ことを条件とした赦免が用意されていたが、五大老まで務めた秀家がこれに甘んじることはなかった)[要出典]。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したが、数年後に島へ戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守っている。

最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されている。また、吉村昭の『漂流』は、18世紀末、漂着した無人島での十数年の自給生活を経て自力で船を建造し生還した船乗り達の実録だが、彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島であり、五ヶ村四千戸が地役人を中心に統治され本土との連絡も緊密な様子が終盤に描写されている。

太平洋戦争の際には、連合軍の南方からの侵攻に備えるべく、小笠原諸島が陥落した際の次なる防衛拠点とされていた。また東日本では唯一の回天基地も造られた。結局八丈島での戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などにその跡が残っている。

戦後の八丈島は観光産業が発達し、1960年代にはその温和な気候から日本のハワイとの異名をとり、首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かったが、海外旅行の制限が廃止され、本物のハワイが身近になった1970年代以降観光客の入込数は減少傾向にある。ただし現在でも観光が島にとって重要産業であることに変わりない。

[編集] 方言

詳細は「八丈方言」を参照

上代東国方言の名残を残している独自の八丈方言を使用している。八丈島の方言

[10] 父島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E5%B3%B6

[編集] 概要

小笠原諸島最大の島であり、周囲の兄島、弟島などの島とともに父島列島を形成する。一度も大陸と陸続きになったことがない海洋島で、多くの固有種が存在する。島全体が小笠原国立公園に指定されている。東京都小笠原村の中心的機能を担う島であり、小笠原村役場はこの島に所在する。集落は島の北西部の大村地区が中心。島の西側に西に開けた二見湾があり、湾の北部に二見港がある。

1920年代から陸軍によって砲台などの軍施設が建設され、太平洋戦争の頃には更に増強が進み父島要塞となった。現在でも夜明山や衝立山などには軍施設・塹壕・砲台の跡、高射砲などの残骸が残っている。現在では、海上自衛隊の父島基地や宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小笠原追跡基地、国土地理院のVLBI観測局などが設置されている。

面積:23.80km²

人口:約2,000人

[11] 南鳥島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%B3%A5%E5%B3%B6

約20万年前 - 隆起して島となる。

1864年(元治元年) - アメリカの船(ハワイ王国の宣教師船という説もある)モーニングスター号が来訪。マーカス島と命名する。

1879年(明治12年) - 日本人が訪れる。

1896年(明治29年)6月30日 - 水谷新六が到達、母島より46人が移住し、集落に「水谷」と命名。

1898年(明治31年)7月24日 - 「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される。

1902年(明治35年) - アメリカが領有を試みてハワイから軍艦を出航させるが、それを察知した日本も軍艦を派遣し、先に上陸して牽制。島で小競り合いが起こったが、最終的には和解して日本領が確定。

1933年(昭和8年) - 全島民が撤収、無人島になる。

1935年(昭和10年) - 海軍気象観測所開設。

1942年(昭和17年)3月4日 - 太平洋戦争中、ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍の第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受けた。その後も1943年(昭和18年)8月31日など何度も空襲を受けた。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。

1945年(昭和20年) - 日本を占領下に置いた連合国軍の一国であるアメリカ軍が占領。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ条約によって、アメリカの正式軍政下に入る。

1968年(昭和43年)6月26日 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が編成される。

1993年(平成5年) - ロランC局(南鳥島ロランC局)を管理していたアメリカ沿岸警備隊が撤収。海上保安庁が管理を引き継ぐ。

2006年(平成18年)9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。

2009年(平成21年)11月1日 - 環境省が鳥獣保護区に指定。

2009年(平成21年)12月1日 - ロランC局(南鳥島ロランC局)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。

2010年(平成22年)5月18日 - 南鳥島などの離島の保全を目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院を全会一致で通過。5月26日、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き6月24日施行。

2011年(平成23年)3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁

[12] 小笠原諸島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6

日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。春 - 初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[2]。

気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所(2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[3]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかった[4]。ただし、小笠原諸島周辺海域は現在でも地方海上予報区[5]の区域外であり、海上警報も発表されない。

[編集] 自然

詳細は「小笠原諸島の自然」を参照

1972年(昭和47年)10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。1980年(昭和55年)3月31日に国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。

2011年には世界遺産に登録された。その範囲は小笠原諸島の自然#世界遺産を参照のこと。

「小笠原村#名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」も参照

[編集] 歴史

[編集] 年表

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[6]。

北硫黄島には先史時代のものとみられる石野遺跡がある[7]。

[13] 江東区 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%8C%BA

昼夜間人口[編集]

2005年に夜間人口(居住者)は420,827人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は490,708人で昼は夜の1.166倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行126,127ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)

地理[編集]

河川

隣接する自治体

中央区、港区、墨田区、品川区、大田区、江戸川区

※ 隣接する自治体とはすべて陸続きでもある。

地勢[編集]

かつて地下水の汲み上げにより地盤沈下したことで、区の大部分がゼロメートル地帯となっている。また、運河と橋が多く、区では“水彩都市”と呼んでいる。道路と水路が連なって作られており、住宅地のそばを船が行き交うことも多い。区内には東京都から副都心に指定されている臨海副都心と錦糸町・亀戸副都心があり、二つの副都心を包括している。この事もあり、区内には観光客や会社員も多くやって来る。

臨海副都心は品川区・港区にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めており、近年[いつ?]急速に開発が進められた新興開発地域であり、街の景観は非常に近代的である。 錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大繁華街で、古くから下町として栄えた。1990年代後半から、東京の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には埋立地が多く、ゴミ埋立て「東京ゴミ戦争」で有名な夢の島や青海、有明などは観光地区としても賑わっている。 また、臨海部にある湾岸地域は港区、江戸川区と海岸線を連ねてつながっており、台場や東京ディズニーリゾートへの交通の便が良い。なお、東日本大震災の際に、一部液状化した地区もあり、団地が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ地区もあるが、2013年現在、簡易な補修または放置されている場所もある。

面積は39.94km²だが、この数字には大田区と帰属係争中の中央防波堤地区は含んでいない。

自然環境[編集]

区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は大規模な公園が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられ、東

[14] 沖ノ鳥島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、東京都小笠原村に属する、太平洋上に浮かぶ日本最南端の島(サンゴ礁)である。満潮時に沈まないのは東小島(ひがしこじま)、北小島(きたこじま)と呼ばれる2つの小島で、大部分は海面下にある。

日本は「海洋法に関する国際連合条約」(国連海洋法条約)発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」(平成8年法律第74号)に基づき、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)を設定しているが、2003年以降、中華人民共和国(中国)及び大韓民国(韓国)の2か国から日本の主張に対する異議が申し立てられている(詳細は#地位に関する論争を参照)。

地理[編集]

東京から1,740km、硫黄島から720km、フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島である。北回帰線の南に位置するため熱帯に属する。

干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現すが、満潮時には礁池内の東小島と北小島の2つの小島を除いて水没する。なお第二次世界大戦の前の調査では最大2.8mの北露岩を含めて6つの露岩が満潮時にも姿を現していたが、現在では北小島(北露岩から改称)と東小島(東露岩から改称)の2つのみである。1933年の記録では高さ2.25mの南露岩が記されているが、1938年に流失が確認されている。1968年に日本へ管轄権が返還された後も1982年以前は4つとされていた。

この島は過去100年あたり1cmという、地盤の沈下が極めて小さいことでも知られ、地球温暖化などに伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。ただし近年のGPS調査によると、沈降こそ無いものの、N70°W5.0cm/年(1年間に進む距離が、真北から西へ70度回った方向に5cm)で西北西に移動している事が確認されている[2]。

沖ノ鳥島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20℃程あり、海洋温度差発電にふさわしい条件が揃っている。

北小島[編集]

東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩。北緯20度25分31秒東経136度4分11秒に位置する。面積7.86m²。海抜は第二次世界大戦以前の海図では2.8mと記載されていたが

[15] 西之島新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6%E6%96%B0%E5%B3%B6

西之島新島(にしのしましんとう)は、1973年に小笠原諸島で形成された陸地(島)。西之島隣接海域で発生した火山の噴火によって形成された。当時は「新島ブーム」とマスコミに報道され、大きな話題となった。後に西之島と接合し、ひとつの島となった。行政区画は、東京都小笠原村。

なお、このように既存の領海内に自然現象で新たに島が出現した場合は、国際法上自動的に領海の所属国に帰属し、「先占(実効支配)」の必要性はない。西之島新島の場合も自動的に日本の領土として認定されている。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山は海底から計測すると4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年に西之島火山が噴火し、西之島新島が形成された。その後、西之島(旧島)と接合したため、陸地としての実態は西之島と一体である。現在、「西之島新島」および「新島」と特に呼ぶ場合は、この時の噴火により形成された陸地の範囲(旧島を除く範囲)を指すことが多い。

1999年時点での新島部分の面積は0.25km²、最高標高は15.2mである。また、旧島部分を含めた西之島全体の面積は0.29km²、最高標高は25mである。

島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。島には雑草やコケ類が生えている。火山噴火が終息後、漂着した種子からグンバイヒルガオが繁殖、セグロアジサシやカツオドリが飛来するなど動植物も確認されている。周辺は好漁場となっているが、座礁事故も起こっている。

歴史[編集]

1973年(昭和48年) - 4月に変色水が確認された。同年5月30日西之島の東方600mで海底火山の噴火があり、同年9月11日に新島が出現、同年12月21日に「西之島新島」と命名された。

1974年(昭和49年) - 3月には新島と旧島が接続。馬蹄形の形状となる。東海大学の調査隊が上陸。

1975年(昭和50年) - 新属新種のニシノシマホウキガニが発見されたが、その後、島内では絶滅した(他海域で再発見)。

1982年(昭和57年) - このころには湾口が閉じて湾が湖になり、釣鐘型の形状となる。

参考文献[編集]

青木斌・小坂丈予編 『海底火山の謎:西之島踏査記』 東海大学出

[16] 西之島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6

西之島(にしのしま)は、小笠原諸島の島(無人島)。1973年に付近の海底火山が噴火し、新島(西之島新島)が誕生、後に西之島と接合し、一体化した陸地となった。そのため、現在の「西之島」の呼称は、西之島新島とあわせた陸地全体を指す。行政区画は、東京都小笠原村。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山体は海底から計測すると比高4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年から1974年にかけての噴火により新島ができるまでの西之島(旧島)は、面積0.07km²、東西650m、南北200mの細長い島だった。現在は、噴火とその後の侵食と堆積によって新島と一体化。1970年代は、新島と旧島に挟まれた「コ」の字型の湾をもつ島だったが、堆積作用によって、1982年には湾口が閉じて完全に一体化。円形の島になった。なお、1999年時点での新島部分の面積は、0.25km²。

現在は新島と旧島は完全に一体化している。島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。

自然[編集]

西之島は海洋島であり、噴火後まだ時間が経過していないため、植物相は貧弱でスベリヒユ、オヒシバ、イヌビエ、グンバイヒルガオ、ハマゴウ及びツルナの6種しか確認されていない[1]。これらの多くは、種子の海流散布を行う植物である。アカオネッタイチョウやアオツラカツオドリ、オオアジサシ、オーストンウミツバメ、カツオドリ、オナガミズナギドリ、セグロアジサシなどの12種類の鳥類の生息、そのうち9種類の繁殖が確認されている[1]。その他にはアリやクモ、カニの生息が確認されている[1]。このため、2008年8月1日に国指定西之島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定されている(面積29ha、全域が特別保護地区)。

歴史[編集]

西之島に井戸水はない上に農耕にも適さないため、遭難船の漂着者を除いて、人が居住していた記録はない。ただし、西之島に産出しない半深成岩でできた、石の面に見える長さ23cmの石が、東海大学の調査隊によって採取されている[2]。

約1000万年前 - 火山活動により島が誕生。

1702年 - スペインの帆船ロザリオ号が発見し、「ロザリオ島」と命名。

1801年 -

[17] 硫黄島 (東京都) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmの島である。行政区分上は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200km に位置する。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、硫黄島は周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成している。

現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。

硫黄島は太平洋戦争の激戦地(硫黄島の戦い)として知られ、旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許される。

地形[編集]

父島からは300 km、本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。島の大半は標高100 m前後の台地状の比較的なだらかな地形であるが、島の最南端に位置する最高所(標高169 m)の摺鉢山(パイプ山)は、その名の通り「すり鉢」を伏せたような形状をしている。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で温泉(硫黄泉)が湧き出し、噴出する硫黄ガス(二酸化硫黄等)により、硫黄独特の臭いが立ち込めている。数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物が堆積し、それが隆起して誕生した島であり、過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25 cmもの速度で、現在も急速な隆起活動が続いている。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島であったが、この急速な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている。

火山噴火予知連絡会は宇宙航空研究開発機構との共同により、陸域観測技術衛星「だいち」の合成開口レーダーを用いた硫黄島観測データ(2006年11月11日と12月27日分)を解析した[1]。それによれば、11月11日観測時と比べて島が20 cm隆起[注 1]しており、硫黄島南東部にて数cmの隆起が確認された[1][注 2]。

硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島があり、この三島で火山列島(硫黄列島)を構成する。三島とも同じ造りの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。

島名について[編集]

島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。

硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう

[18] 硫黄島村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E6%9D%91

硫黄島村(いおうじまむら)とは、東京都小笠原支庁管内、硫黄島にかつて存在した村である。現在は小笠原村の一部。なお、島の呼び名は2007年に「いおうとう」に変更されている。

地理[編集]

詳細は硫黄島の項を参照。現在は海上自衛隊管理の航空基地が設置され、全域がその基地の敷地とされているため、旧島民らの慰霊や基地施設の工事などの例外を除き、一般民間人および自衛隊員以外の公務員が島に立ち入ることは原則禁止されている。

歴史[編集]

詳細は「硫黄島 (東京都)」を参照

沿革[編集]

1923年(大正12年)10月1日 - 小笠原諸島、青ヶ島への町村制の施行に伴い発足。[1][2]

1943年(昭和18年) - 東京都制を施行。

1944年(昭和19年)7月1日、7月12日、7月14日 - 3度にわたり島民の疎開が行われる。軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が島を離れ、島民が生活を営んだ村の歴史は幕を閉じる。

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年)4月28日 - サンフランシスコ講和条約により日本国政府の行政から分離され、硫黄島村廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ、引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い、各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に、小笠原支庁の旧5村が合併し、東京都小笠原村となる[3]。

変遷表

1940年

以前

昭和15年

4月1日

昭和27年

4月28日

昭和30年

4月1日

現在

[19] 鵜渡根島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B8%A1%E6%A0%B9%E5%B3%B6

経緯 - 北緯34度28分21秒、東経139度17分38秒

面積 - 0.4km²

外周 - 3.3km

標高 - 210m

その他の情報[編集]

かつてはニホンアシカの生息地の一つだった。

この島周辺には大きなサメが住み着いている。

御蔵島から利島に移り住んだミナミハンドウイルカが当島周辺や式根島、新島等にも住み着いている。

この島は今では無人島であるが、明治時代には養蚕を営む人が住んでいたので、島には今も神社があり、そこに祭られている神鵜渡根后明神がこの島の由来にもなっている。

本島には磯場が点在し大型の、尾長メジナ、イシダイ、イシガキダイ、モロコ、カンパチ、ヒラマサ、マグロ、カジキ、イサキ、シマアジなどが釣れ、釣り人が渡船を使ってしばしば上陸する。しかしこの周辺の海域は時化やすく、年に50回くらいしか渡礁できない。

[20] 新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6

気候は年間を通じてやや温暖。常夏と言うことは無いが、東京よりは暖かく、降雪することはめったに無い。また、外洋に面しているため風が強い日が多く、特に冬は「西ん風」と呼ばれる強い西風が毎日のように吹く。

東京からわずか160km南に位置するものの、空気は非常に清浄で、星空や海の美しさは、首都圏とは比べ物にならない。

歴史・文化[編集]

縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。

江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。

また流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。

長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。

かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいる、と言ういくつもの逸話が村にある。

今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ご

[21] 若郷村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E9%83%B7%E6%9D%91

地理[編集]

現在の新島村の北部に位置する。

村域のほとんどは山がちな地形である。

村は太平洋に面している。

歴史[編集]

沿革[編集]

1923年(大正12年)10月1日 - 伊豆諸島への島嶼町村制の施行に伴い、若郷村が単独で村制施行し若郷村が発足。大島島庁管轄。

1926年(大正15年) - 大島島庁が島庁廃止に伴い大島支庁に改組。

1940年(昭和15年)4月1日 - 伊豆諸島の島嶼町村制が普通町村制に移行。

1954年(昭和29年)11月1日 – 若郷村は新島本村に編入。同日若郷村廃止。

変遷表

1868年

以前

大正12年

10月1日

昭和29年

11月1日

平成4年

4月1日

現在

[22] 神津島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B4%A5%E5%B3%B6

本島は式根島とは10kmほどしか離れていない。伊豆諸島の有人島としては最も西にある。ひょうたん型をしており天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられる。

天上山には火口原があり、ここに、「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地がある。頂上が平坦で高度もあまり高くないにもかかわらず、本州では2000m級の高山に生育しているような高山植物も見られる山である。天上山は838年(承和5年)に大規模な噴火をしたことが『続日本後紀』の記録などから明らかになっている。

南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。島の他の地域には字滝川、字高処山のように字があるが、この地域には字も町名も指定されていない。

御蔵島や青ヶ島など伊豆諸島には断崖絶壁に囲まれた島が多い中、神津島は比較的平坦で砂浜海岸が多い。また近海を黒潮が流れており、観光事業は発足していないが、マッコウクジラなどの鯨類もいる。

歴史[編集]

本島は、840年(承和7年)に伊豆国賀茂郡上津嶋として名が現れる。

神津島では、砂糠崎(さぬかさき)や沢尻湾、ほか恩馳島で黒曜石が産出し、後期旧石器時代から石器の材料として採取され、大量に本州に送られた。その流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市の横針前久保遺跡にまで達し、半径約180kmまで拡がっていた。これは同時に旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもある。採掘は縄文時代まで続いた。

神話によれば伊豆の島々を造った神様が集まるところということから「神集島」の名が生まれ、それが転訛して神津島といわれる。古文書の中には「神集島」と書かれたものもある。

江戸時代初期、キリシタンの朝鮮人女性ジュリアおたあが流罪になり、神津島で没したという伝説があり、島内には墓所とされるものがある。また、ジュリア祭が毎年行われている。

関連項目[編集]

STARHORSEシリーズ - セガの競馬メダルゲーム。架空のGI競走「WORLD BREEDERS' CUP TURF」及び「WORLD BREEDERS' CUP」で開催される架空の競馬場 極東競馬場の舞台であると表現されている。

外部リンク[編集]

[23] 嫁島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%81%E5%B3%B6

嫁島(よめじま)は、東京都小笠原村に属する無人島。聟島列島の最南端の島で、父島列島から最も近い位置にあり、父島の北約50kmにある。面積0.81km²。小笠原国立公園に含まれている。季節的漁業者の停泊地として用いられている。

現在は無人島だが、戦前は住民が暮らしており、1907年の調査では人口6人、1918年の調査では人口20人を数えていた。住民が定住するまでは森林が分布していたと考えられているものの、定住やかつての住民が飼っていたヤギが野生化したことで植生破壊が行われていた。このため、東京都によって元来の環境を取り戻すため、ヤギの駆除が行われ、2001年に根絶が達成された[1]。現在はウドノキ林のような元来の植生の回復が図られている[2]。

植物種としてコゴメビエなどが存在する。海鳥類ではクロアシアホウドリが生息するほか、2013年にはコアホウドリの繁殖が確認されている[3]。2000年にはアホウドリが営巣し抱卵していることが確認されているが、その後は確認されていない[4]。

註[編集]

^ “ノヤギ”. 小笠原自然情報センター. 2014年3月19日閲覧。

^ “小笠原の自然環境の保全と再生に関する基本計画”. 環境省. p. 18 (2007年3月). 2014年3月19日閲覧。

^ “コアホウドリの新たな繁殖場所(小笠原諸島嫁島)の確認について”. 東京都 (2013年5月27日). 2014年3月19日閲覧。

^ “アホウドリの小笠原における営巣確認について”. 環境省 (2000年12月27日). 2014年3月19日閲覧。

[24] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[25] 中ノ鳥島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

中ノ鳥島 (なかのとりしま、 英 : Ganges Island )は、 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 座標 : 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 に存在したとされる 幻の島 。別名「 ガンジス島 」。また、近傍には「ガンジス礁」もあったとされる。

自然科学 の観点から見れば実在したとは考えられないが、 日本 の 領土 として正式に認定されていた時期がある点で、世界各地の「幻の島」「 伝説の島 」とは一線を画する。

海図 等では「中ノ鳥島」の表記が用いられたが、日本政府の発する 命令 ( 政令 ・ 省令 等)では「 中鳥島 」の表記が多く用いられた( 日本国憲法 下での 官報 掲載例は前者2件、後者27件)。

概歴 [ 編集 ]

1907年 ( 明治 40年)8月、 東京市 小石川区 諏訪町(現在の 東京都 文京区 後楽 )の 山田禎三郎 が、 東京府 小笠原島 から560 哩 の位置に 島嶼 を発見、上陸して 探検 、 測量 まで試みた。

東京府知事 阿部浩 から 内務大臣 原敬 に宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、 島 は外周1 里 25 町 (約6.67 km )、面積64万3700 坪 (約2.13 km² )、 サンゴ礁 と思われる 植生 もあった。また、島には 鳥の糞 が積もってできる 燐鉱石 で覆われており、これは当時、 火薬 原料や 肥料 として重要視されるものであった。

山田はこの島を開発するため日本による 領有 を訴え、翌 1908年 (明治41年)7月22日に 閣議決定 により「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入された [1] 。山田が発見した島は、海図の「ガンジスアイランド」に相当すると届けられたが、当時の 海軍省 水路部 が記した『日本水路誌』には 北緯30度47分 東経154度15分  /  北緯30.783度 東経154.250度 ) に「ガンジス島」があるとされ、「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」と所在が未確定ながら「帝国ノ版図ニ属スヘキハ論ナキ」と日本領に組み込むのは当然とされた。

しかし、中ノ鳥島はそれ以来再び発見すること

[26] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

履歴

[27] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567392739559

メモ