中央構造線

中央構造線

[1] 中央構造線

Webページ

[2] 隧道レポート 草木トンネル (旧三遠南信自動車道), , http://yamaiga.com/tunnel/kusagi/main7.html

前回の動画の最後に急停止した私が、見つけたものは何だったか。

↓↓↓

↓↓↓

2011/3/3 7:22

自転車の急ブレーキをかけて狭い避難坑内でUターンをし、脇目に「なにか」を見た場所へと戻ってみた。

するとその場所の側壁には、黒い小さな穴が、ぽっかりと口を開けていた。

3Dグラフィックスの“テクスチャ欠け”のように見える、おおよそ50cm四方の穴。

本坑のある側である。

これまでこんなモノは無かったと思うが、なぜここに来て急に現れたのか?

ドキドキしながら、さらに穴の前へと近付いてみる。

地球のお肉、登場。

私に地質学の知識があれば、トンネル内に思いがけず現れたこの地肌に、もっと気の利いた解説を与えられただろう。

しかし、何か学術的な意味をもって指標的に残された露頭だろうという想像は、間違っていないだろう。

このトンネルが貫通する日本最大の大断層「中央構造線」に関する、“人工露頭”なのではないだろうか。

露頭を観察してみる。

赤茶けた岩盤は乾いていて一見緻密そうだが、実際は脆く、その表面は砂のようにこぼれ落ちて堆積している。

これが、断層地帯のトンネルでたびたび技術者たちを苦しめる、「破砕帯」というものなのかも知れない。

前の話に戻るが、草木トンネルを「中央構造線とトンネル技術の資料館」(←妄想です)として転用するにあたっては、この露頭の存在が素晴らしい資源になるだろう。地中400mもの深度にある岩の表面など、普通の生活をしていて目にする機会はないし、ましてここが“日本の国土の成り立ちに重要な意味を占める中央構造線”となれば、「ジオパーク」として利用しない手はない。この周辺のコンクリートの巻き立てを最新の強化ガラスと取り替えて、一定の長さの露頭が見られるようになると、さらに面白そうだ。

ガラスばりの素堀隧道なんて、ワクワクする。(全て妄想です)

小さな穴の正体は、人工的な露頭だった。

そして、発見はさらに続いた。

露頭から少しだけ進むと、今度は反対側の壁に…

さらに大きな “穴” が現れたのだ!

地中400mの奥地で分岐する、第三の横坑…!

今までの本坑との連絡横坑とは、明らかに様相が異なっている。

第一には向きが違う。この横坑は、本坑の方を向いていない!

鋭角に後方右側へ向けて分岐していた。

そして、サイズも避難坑よりさらにひとまわり小さく、特

[8] 中央構造線断層帯 西端は大分まで到達 地震調査委 | NHKニュース, , https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171219/k10011263751000.html?utm_int=detail_contents_news-related_001

国内最大の断層帯「中央構造線断層帯」について、政府の地震調査委員会は、これまで四国沖と考えられていた西の端が大分県まで達しているとする新たな評価を公表しました。全長はおよそ440キロとなり、全体が同時に動いた場合、四国や九州北部、近畿などの広い範囲が震度6弱以上の激しい揺れに襲われると想定されています。

国内最大の断層帯、「中央構造線断層帯」は、これまで近畿から四国北部を通って四国の西の伊予灘に達し、全長はおよそ360キロと考えられてきました。 しかし、最新の研究で、伊予灘の海底にある活断層と大分県の別府湾から由布市にかけてのびる活断層がほぼつながっていることがわかり政府の地震調査委員会は「中央構造線断層帯」の西の端が大分県まで達しているという新たな評価をまとめ、19日公表しました。

この結果、全長はおよそ440キロとなったほか、全体を10の区間に分けて評価した結果、それぞれの区間で起きる地震のマグニチュードは、「6.8程度」から最大で「8.0程度もしくはそれ以上」と想定されました。 このうち愛媛県内を通るおよそ40キロの区間は、地震発生の危険度を4段階で示す「発生確率のランク」が最も高い「Sランク」となっています。 さらに断層帯全体が同時に動くことも否定できないとしていて、この場合、マグニチュードは「8.0程度もしくはそれ以上」で、四国や九州北部、近畿、それに中国地方などの広い範囲が震度6弱以上の激しい揺れに襲われるほか、断層に近い大阪と奈良、和歌山、徳島、香川、愛媛、それに大分などの一部の地域では、震度7となるおそれがあると予測しています。 地震調査委員会の委員長で東京大学地震研究所の平田直教授は「内陸の浅いところで起きるため揺れで大きな被害が出る可能性がある。建物の耐震化など事前の備えを十分に進めてほしい」と話しています。

今回の評価で、「中央構造線断層帯」には、奈良県にある断層帯の東端から、順に1から10の番号がふられ、今回追加された西端の大分県まで続いています。 <Sランク> この10の区間を「発生確率のランク」が高い順に見ていきますと、最も高い「Sランク」と評価されたのは、愛媛県にある「区間8」の「石鎚山脈北縁西部」で長さはおよそ40キロあり、全体がずれ動いた場合、最大でマグニチュード7.5程度の地震が発生すると想定されています。 今後30年以内の発生確

[9] 青崩峠 後編 <峠と旅>, , http://www.geocities.jp/wellon2/tohge/tohge2/aokuzure2/aokuzure2.htm

青崩峠 (撮影 2000.

5. 4)

峠越しに長野県側を望む

長野県側には写真中央から始まる狭い坂をまず下って行く

その先には中央構造線によって形作られた直線的な谷が北へ真っ直ぐ伸びていた

長野県南信濃村の国道152号を青崩峠に向かって南下してくると、ひとつのきついヘアピンカーブを左に曲がる。その先道は東面の山をクネクネ登って行ってしまい、青崩峠には行き着かない。地図によると、ここから国道ではなくなっている。ヒョー越(兵越峠)を通って静岡県へ越えるヒョー林道ということになる。

漫然と走っているとそんな事とはつゆと気付かない。しかしよく見るとヘアピンの途中から小さな橋を渡って南へ分岐している狭い道がある。実はこれが本線である国道の続きなのである。この付近では国道といっても、1.5車線くらいしかない道路だ。それが更に狭くなって分岐しているのだ。

1991年の4月にオートバイで静岡県側よりヒョー越を越えてやって来たことがある。行き止まり国道というのがまだ珍しく思えていた頃だ。ヘアピンから細々分岐する道を眺めて、これがその行き止まり国道かと写真を撮った。何でも青崩とかいう恐ろしそうな名前の峠の手前で、行き止まりになるらしい。道がなくなるところ、しかも国道が途切れるところなんて、とても想像できなかった。入り込もうかとも思ったが、見れば如何にも怖そうな道だし、時間もないので諦めることにした。

オートバイと違い、車なら鉄の鎧を着ているので怖くはない。まあ、それ程気にしている訳ではないが、やはり車の方が安心していられる。青崩峠の行き止まり国道に入ったのは、ジムニーを購入してからとなった。

分岐で写真を撮っていると、一台のワゴン車が止まった。行き止まり国道に向いた私のジムニーを見て、気にして止まったようだ。道を確認しているらしい。しかし直ぐにヒョー越へ向けて走り去っていった。

大抵の人にとっては道は通過するものであり、行き止まりになる道などには用がないのが普通である。単に行き止まりまでの往復をして何が楽しいのか、である。

しかし、私は非常に楽しい。しかもその先に峠があるとなっては、行かずにはおられない。どこの有名観光地にも引けを取らない価値があるのである。この「峠と旅」をご覧の方は、多分そういう変わり者である。行き止まりがどうなっているか、行って自分の目で見たくてしょうがないのだ。

[10] 飯田線 第6水窪川橋りょう(S字橋、渡らずの鉄橋), , http://www.d4.dion.ne.jp/~m_mori/kyouryoutikeimisakubo.html

JR東海 飯田線 第6水窪川橋梁 (城西‐向市場駅間)

静岡県浜松市佐久間

橋長 400.7m(22.3m×10連、34.0m×5連)

構成 デッキガーダ 15連

総重量 570.735t

開通 昭和三十年(1955) 十一月十一日

総工費 76,031,907円

「第2節 地質

水窪を中心とする地域は、我が国において地質構造の縮図であるといわれ、複雑多岐を極めている。特に水窪線の経過地の大部分は結晶片岩地帯を通過しており、また峯、大原の2大ずい道は大断層に接近している。

(中略)

(この)地域にはニの著しい断層線が存在し、この断層線を境として、地質は大別して三の地域に分けられる。すなわち水窪より北条(ほうじ)峠経て佐久間、中部天竜を通る著しい断層線があり、これは中央構造線と呼ばれる大構造線に沿うものである。

(中略)

更に水窪川のやや東寄り山腹を通る南北の断層線を境として、東側は古生層に属する水成岩で、珪岩、砂岩、粘板岩である。

第2章 向皆外ずい道の崩壊と代替線

第1節 概要

向皆外ずい道は、水窪川左岸の山端を貫く、延長45mの被りの薄いずい道である。豊橋方坑口より23mのアーチを畳築したとき、たまたま第12,14号台風が連続して襲来し、地表が崩れ、これにつれ、ずい道もまた一部崩壊した。この地山の移動は大規模なもので、既定の線路を建設することは、ほとんど不可能なため、線路を変更して第6水窪川橋りょう 400.7mを新設した。」

「飯田線 中部天竜 大嵐間線路付替工事誌」より

編纂 飯田線工事事務所 昭和31年8月1日発行

飯田線の車窓風景の中で楽しみの一つがこの第6水窪川橋りょうです。下り列車に乗ると城西駅を過ぎたところからその橋りょうは始まり、鉄橋を渡るレールの響きが狭い谷あいに轟きます。列車は対岸の右岸に渡るのかと思ってるうちに、また踵を返しもとの左岸に戻ります。通称「渡らずの鉄橋」とも、その形から「S字橋」とも呼ばれています。この橋は最初から計画されたものではありませんでした。水窪川の左岸をそのま

[11] 熊本の活断層, , http://www.yotsuba-eng.com/katudansou.html

活断層とは、最近の地質時代に繰り返し活動していて、将来また活動すると考えられる断層です。「最近の地質時代」とは、地質時代の最も新しい区切りである「第4紀」をいい、概ね200万年前から現在までのことです。

まず、活断層の代表格に茨城県から熊本県へ日本列島を縦断する大断層の 中央構造線 があります。

九州の中央構造線 は九州中央部では、阿蘇山の下にかくれています。大分県(臼杵)から熊本県(八代)をとおり、甑島(こしきじま)と薩摩半島の間をとおると考えられています。大分・熊本構造線が中央構造線の延長という考え方もあります。

活断層としての中央構造線

現在の日本列島の地殻変動は、およそ200万年前に始まりました。

中央構造線の古傷を利用して、多くの活断層が生じています。

それらを 中央構造線活断層系 と言っています。

その活動のようすは、 地域(区間)ごとに大きなちがい があります。

熊本県内には1889(明治22)年に熊本地震を起こした 立田山断層 をはじめ 布田川・日奈久断層 などの活断層があります。「自分の命は自分で守る」が防災の鉄則。いざという時に備えて万全を期したいものです。

熊本県内の主な断層の位置は概ね次の通りです。

布田川断層 【 断層全長23.5km (北甘木断層含む) 】

(長陽村立野〜西原村大切畑〜布田〜益城町杉堂〜嘉島町北甘木)

日奈久断層

(甲佐町付近〜田浦町(御立岬付近)〜八代海南部(御所浦島の東側約五キロの沖合)

立田山断層

(立田山〜花岡山〜独鈷山〜城山等)

地震調査委が断層評価 ― 熊本市で 震度6強 の揺れも

国内の主な断層帯の活動状況の調査や将来発生する地震の危険度を評価している政府の地震調査委員会は、2003年7月31日、熊本県長陽村から八代海南部まで延びる「 布田川・日奈久断層帯 」で地震が起きた場合、熊本市などで最大震度6強以上の強い揺れが予想される、との評価結果をまとめました。

同断層帯は全長約101km。北東部〜中部〜南西部からなる。動く可能性の少ない北東部を除き、地震発生の可能性が高いグループに属する甲佐町から田浦町までの中部が単独で動いた場合を2パターンと、田浦町以南の南西部も同時に動いた場合を評価しました。

●中部単独の場合、地震の規模はマグニチュード(M)7.5程度で、北寄りで断層

[12] ニコイの滝見橋(廃橋): 林道・ダム・鉱山の勝手な記録, , http://netishim.seesaa.net/article/380359641.html

早朝6時。 ニコイ大滝の麓に居ます。 幻の大滝を求めてやってきました。 求めていたのはこの風景。 なんとか滝の全景を見られぬものかと・・・ それで、なんとか見れたのがこの風景 なのです。 それなりの苦労もしたので、自分としては大満足 で居たのですが、この前突然友人から電話が かかってきました。 「あんた、大滝行っときながら、トンネル行ってない なんてことないやろな?」 それは当然行ったのですが、でもその前に私は、 自分がブログをやってることを誰にも言ってない ので、「何のこと?」・・でシラを切り通しました。 でも考えてみれば、勝手な無責任記録系のお馬鹿さん サイトとしては、投稿してないのもおかしいので、少し 載せておきたいと思います。 ニコイに関しては高山に住んでいる山登りの後輩から 20数年前に教えてもらって一緒に登ったことがあるので、 二回目です。 その時もここから入りました。看板が今も残っている ことに感動しました。 こちらは下と違って今も利用されているのでしょう。 一応山道が整備されています。 一旦下っていく感じ。 数分も経たずに水平歩道のようになります。 山奥にこの風景は、どこであれ気分を高揚させて くれます。それが廃となるとなお一層です。 結構感動してます。 これで霧がかかっていたら・・・ とか 夜の月明かりの下に照らされていたら・・・ など、 さらなるあやしい廃橋のそんな姿を誰かにリクエスト しておきたいですね。 真向にきました。 茶色の橋ではなく、錆びているようです。塗装は 白だったのでしょう。 ちょっと渡ってみます。 さすがは滝見の橋です。大迫力の位置で 滝を見ることができます。 難点としては近すぎて全景が見れないこと ですが、これだけの迫力が有れば観光には いいですね。 もったいないことです。でもここが観光地 だったら、私は絶対来ない気がします。 いや、そんなことないか・・・洞窟あるし・・・ 写真ではわかりづらいですが、橋は結構な 長さが有ります。 そしてまた、いい具合に揺れています。 山奥感・廃感・高度感、そして不安感に加えて 独りで来るボッチ感が気分を盛り上げてくれます。 早朝の廃橋。 なかなかのハマリでした。

[20] 飯田線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E7%B7%9A

概要[編集]

開業・ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。長野県の上諏訪駅から愛知県の豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約6時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。1983年までは旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。

もともと直結した4社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅はほぼ開通時の沿線集落ごとに設けられている。このため駅間距離が旧国鉄の地方路線としてはとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある[1]。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また地方鉄道の簡易な規格で建設されたことから速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40‰で、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)が廃止された現在ではJR最急勾配である。

豊橋駅 - 豊川駅間はIC乗車カード「TOICA」の利用エリアに含まれている[2]。

路線データ[編集]

管轄・路線距離(営業キロ):

東海旅客鉄道(第一種鉄道事業者):

豊橋駅 - 辰野駅間 195.7km

日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者):

豊橋駅 - 豊川駅間 (8.7km)

元善光寺駅 - 辰野駅間 (61.9km)

軌間:1067mm

駅数:94駅(起終点駅含む)

飯田線所属駅に限定した場合、起終点駅(豊橋駅は東海道本線、辰野駅は中央本線支線の所属[3])が除外され、92駅となる。

複線区間:

複線:豊橋駅 - 豊川駅間(豊橋駅 - 平井信号場間は名鉄名古屋本線と共用。詳細は後述)

単線:豊川駅 - 辰野駅間

電化区間:全線電化(直流1500V)

閉塞方式:自動閉塞式(特殊)(豊川駅 - 辰野駅間)

保安装置:ATS-PT(豊橋駅 - 平井信号場間はM式ATSを併設)

最高速度:85km/h

運転指令所:東海総合指令所

全線がJR東海東海鉄

[21] 三遠南信自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%A0%E5%8D%97%E4%BF%A1%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93

三遠南信自動車道(さんえんなんしんじどうしゃどう)は、長野県飯田市の中央自動車道・飯田山本インターチェンジ (IC) から愛知県を経由して静岡県浜松市北区の新東名高速道路・浜松いなさジャンクション (JCT) に至る、総延長約100kmの高規格幹線道路である。

国道474号の自動車専用道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路))に指定されている。

概要[編集]

中央構造線や赤石山脈(南アルプス)を中心とした険しい山岳地帯を通る。特に静岡県浜松市天竜区水窪町と長野県飯田市南信濃の県境を結ぶ青崩峠は、地盤が脆弱でありながら地下水位が高く出水しやすいため、青崩トンネルの掘削は三遠南信道全体の工事の中でも最難関とされている。

国道474号[編集]

一般国道の路線を指定する政令および一般国道の指定区間を指定する政令に基づく国道474号の概要は以下の通り。

起点 : 長野県飯田市山本3643番1号(飯田山本IC)

終点 : 静岡県浜松市北区引佐町東黒田字桑田263番3(浜松いなさJCT)

重要な経過地 : 長野県下伊那郡上村(現飯田市)、静岡県磐田郡水窪町佐久間町(現浜松市)、愛知県北設楽郡東栄町、同県南設楽郡鳳来町(現新城市)

指定区間 : 長野県飯田市山本3762番2-長野県飯田市上村138番14、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家5564番1-同区水窪町奥領家5012番、同区佐久間町川合787番2-同市北区引佐町東黒田字桑田263番3[1]

通過市町村[編集]

一般国道の路線を指定する政令はいわゆる平成の大合併以前の市町村名で記述されており、合併にあわせた改正などは行われていない。合併により上村は飯田市の一部に、水窪町および佐久間町は浜松市天竜区の一部に、鳳来町は新城市の一部に、引佐町は浜松市北区の一部になっているため、現在の市町村名による通過市町村は以下のとおりである。

長野県

飯田市 - 下伊那郡喬木村 - 飯田市 -

静岡県

浜松市(天竜区 - 北区) -

愛知県

北設楽郡東栄町 - 新城市 -

静岡県

浜松市(北区)

当面の整備方針[編集]

飯喬道路[編集]

長野県飯田市の中央自動車道から分岐し同市内を横断し長野県下伊那郡喬木村まで至る、現在建設中の自動車専用道路である。

基本計画・整備計画

起点 : 長野県飯田市山本(飯田山本IC)

[22] 三遠南信自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B4%A9%E5%B3%A0%E9%81%93%E8%B7%AF

三遠南信自動車道(さんえんなんしんじどうしゃどう)は、長野県飯田市の中央自動車道・飯田山本インターチェンジ (IC) から愛知県を経由して静岡県浜松市北区の新東名高速道路・浜松いなさジャンクション (JCT) に至る、総延長約100kmの高規格幹線道路である。

国道474号の自動車専用道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路))に指定されている。

概要[編集]

中央構造線や赤石山脈(南アルプス)を中心とした険しい山岳地帯を通る。特に静岡県浜松市天竜区水窪町と長野県飯田市南信濃の県境を結ぶ青崩峠は、地盤が脆弱でありながら地下水位が高く出水しやすいため、青崩トンネルの掘削は三遠南信道全体の工事の中でも最難関とされている。

国道474号[編集]

一般国道の路線を指定する政令および一般国道の指定区間を指定する政令に基づく国道474号の概要は以下の通り。

起点 : 長野県飯田市山本3643番1号(飯田山本IC)

終点 : 静岡県浜松市北区引佐町東黒田字桑田263番3(浜松いなさJCT)

重要な経過地 : 長野県下伊那郡上村(現飯田市)、静岡県磐田郡水窪町佐久間町(現浜松市)、愛知県北設楽郡東栄町、同県南設楽郡鳳来町(現新城市)

指定区間 : 長野県飯田市山本3762番2-長野県飯田市上村138番14、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家5564番1-同区水窪町奥領家5012番、同区佐久間町川合787番2-同市北区引佐町東黒田字桑田263番3[1]

通過市町村[編集]

一般国道の路線を指定する政令はいわゆる平成の大合併以前の市町村名で記述されており、合併にあわせた改正などは行われていない。合併により上村は飯田市の一部に、水窪町および佐久間町は浜松市天竜区の一部に、鳳来町は新城市の一部に、引佐町は浜松市北区の一部になっているため、現在の市町村名による通過市町村は以下のとおりである。

長野県

飯田市 - 下伊那郡喬木村 - 飯田市 -

静岡県

浜松市(天竜区 - 北区) -

愛知県

北設楽郡東栄町 - 新城市 -

静岡県

浜松市(北区)

当面の整備方針[編集]

飯喬道路[編集]

長野県飯田市の中央自動車道から分岐し同市内を横断し長野県下伊那郡喬木村まで至る、現在建設中の自動車専用道路である。

基本計画・整備計画

起点 : 長野県飯田市山本(飯田山本IC)

[23] 三遠南信自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93474%E5%8F%B7

三遠南信自動車道(さんえんなんしんじどうしゃどう)は、長野県飯田市の中央自動車道・飯田山本インターチェンジ (IC) から愛知県を経由して静岡県浜松市北区の新東名高速道路・浜松いなさジャンクション (JCT) に至る、総延長約100kmの高規格幹線道路である。

国道474号の自動車専用道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路))に指定されている。

概要[編集]

中央構造線や赤石山脈(南アルプス)を中心とした険しい山岳地帯を通る。特に静岡県浜松市天竜区水窪町と長野県飯田市南信濃の県境を結ぶ青崩峠は、地盤が脆弱でありながら地下水位が高く出水しやすいため、青崩トンネルの掘削は三遠南信道全体の工事の中でも最難関とされている。

国道474号[編集]

一般国道の路線を指定する政令および一般国道の指定区間を指定する政令に基づく国道474号の概要は以下の通り。

起点 : 長野県飯田市山本3643番1号(飯田山本IC)

終点 : 静岡県浜松市北区引佐町東黒田字桑田263番3(浜松いなさJCT)

重要な経過地 : 長野県下伊那郡上村(現飯田市)、静岡県磐田郡水窪町佐久間町(現浜松市)、愛知県北設楽郡東栄町、同県南設楽郡鳳来町(現新城市)

指定区間 : 長野県飯田市山本3762番2-長野県飯田市上村138番14、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家5564番1-同区水窪町奥領家5012番、同区佐久間町川合787番2-同市北区引佐町東黒田字桑田263番3[1]

通過市町村[編集]

一般国道の路線を指定する政令はいわゆる平成の大合併以前の市町村名で記述されており、合併にあわせた改正などは行われていない。合併により上村は飯田市の一部に、水窪町および佐久間町は浜松市天竜区の一部に、鳳来町は新城市の一部に、引佐町は浜松市北区の一部になっているため、現在の市町村名による通過市町村は以下のとおりである。

長野県

飯田市 - 下伊那郡喬木村 - 飯田市 -

静岡県

浜松市(天竜区 - 北区) -

愛知県

北設楽郡東栄町 - 新城市 -

静岡県

浜松市(北区)

当面の整備方針[編集]

飯喬道路[編集]

長野県飯田市の中央自動車道から分岐し同市内を横断し長野県下伊那郡喬木村まで至る、現在建設中の自動車専用道路である。

基本計画・整備計画

起点 : 長野県飯田市山本(飯田山本IC)

[24] 出かけよう!北遠へ-ふるさと散歩道: 青崩峠トンネル着工へ 三遠南信道の静岡・長野県境 13年度にも, , http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2012/12/13-8e47.html

三遠南信自動車道の一部として浜松市天竜区水窪町と長野県飯田市(旧南信濃村)を結ぶ青崩峠道路計画で、国土交通省中部地方整備局は、早ければ2013年度にも県境のトンネル掘削に着手する。事業化から30年を経て“本丸”の工事にこぎ着けようとしている形だが、開通のめどは依然立っていない。

飯田国道事務所によると、長野県側では11年度に工事用進入路の開設に着手。静岡県側では来年1月から「本線工事」に入り、国道152号からトンネル出入り口までの740メートル間で既存道路を拡張したり、橋の基礎部分を造ったりする。

さらにトンネル本体の着工に向けて地質などを確かめるため、調査坑の工事費用を13年度予算案に盛り込みたい考えだ。

青崩峠道路は、県境の青崩峠(1,082メートル)の152号不通区間解消を目的に1983(昭和58)年に事業化、87年に三遠南信道の一部に位置づけられた。公共事業費の縮減を求められる中、国交省は計画延長13.1キロのうち、トンネル部分4.9キロを含む5.9キロを「当面整備区間」として、480億円を投じて片側1車線の自動車専用道路を優先的に整備する方針を打ち出した。

現状でも152号と平行する市道に迂回すれば県境を越えられるが、この市道は狭く曲がりくねっている上、冬季は積雪や凍結もある。浜松市道路課の担当者は「トンネルは計画の肝の部分。完成すれば長野県側との行き来が大幅に改善される」と早期完成の必要性を強調している。

青崩峠道路計画をめぐっては、国が94年に水窪町の青崩峠東側に草木トンネル(1,311メートル)を開通させた後、ルートを見直して草木トンネルの活用を撤回。結局、自動車専用道路として180億円を投じた草木トンネルを一般道路に格下げした経緯がある。

峠付近は中央構造線が南北に走り、断層活動による破砕帯などで東側は地盤が弱く、西側は相対的に強いとされる。国交省はこうした問題を草木トンネル開通後に明らかにし、地元住民らを交えた「懇談会」などでルートを協議。05年に西側を通る現行計画をまとめた。

国交省によると、青崩峠道路ができれば浜松市と旧信濃村の間の所要時間は約40分短縮されるといい、災害対策や地域活性化の面でも「効果が高く合理的な計画」と強調。ただ、水窪町で20年前より4割以上減るなど県境部の中山間地人口がしぼむ中、1日2,700台という計画交通量の適否など

[25] 2003年夏季活動・茶臼山・鳳来寺方面, , http://www2.hamajima.co.jp/~tenjin/album/snail/0308/sn0308.htm

2003年夏季活動 茶臼山・鳳来寺方面 2003/08/7-8

今年の夏季夏季宿泊活動は、愛知県を通る中央構造線に近い茶臼山・鳳来寺方面をたずねました。2泊3日で、阿寺や豊橋にも向かう計画でしたが、強い台風10号の襲来で、日程を短縮せざるを得なくなりました。まことに残念。少年団21年の歴史始まって以来のことです。地震、雷、台風・・・毎年いろいろありますね。まあ、それもいい自然体験かな。

[26] 飛騨山脈 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%B1%B1%E8%84%88

飛騨山脈南部鳥瞰写真。常念岳、大天井岳などの常念山脈があるため、上高地の奥側にある飛騨山脈主稜線上の穂高岳などは松本盆地からはほとんど見えない。

飛騨山脈(ひださんみゃく)は、富山県、岐阜県、長野県に跨って連なる山脈である。一部新潟県の部分もある。

現在では通称北アルプスであり、木曽山脈、赤石山脈を合わせ日本アルプスと呼ばれる。なお、日本アルプスという呼び名は、イギリス人鉱山技師ウィリアム・ゴーランド(ガウランド)による命名である。

山脈の主要部分は、中部山岳国立公園に指定されている[1]。山脈の最高峰は、標高3,190mの奥穂高岳で、富士山と北岳に次いで日本で3番目に高い山である。

[編集] 地質学的見地

飛騨山脈は、地殻へのマグマの貫入による隆起とマグマの熱によって地殻の厚み減少が起こり、そこに応力が集中し挫屈し隆起した。活動の初期では圧縮圧力が少なくその後、東西から大きな圧力を受け、褶曲により盛り上がってできた山脈である。位置的には、フォッサマグナ西端の外側で、造山運動前にあった岩石は西南日本を形成する古い地層である。山脈が出来たのは、第三紀で、活動期は2つに分けられる。最初の隆起活動は250万年前から150万年前に活発で、次の活動期は80万年前以降である。

250万年前から現在までのマグマ総噴出量は、1000km3 以上。250万年前から150万年前の活動では、成層火山の玄武岩質単成火山群による大規模火砕流堆積物により、約900km3 。150万年前から80万年前の火成活動の低調な時期には、岩脈・花崗岩類の貫入があった。80万年前から現在までに、成層火山の中規模火砕流堆積物により約240km3[2]。

また、飛騨山脈は、かつて乗鞍火山帯に属すると言われたほど火山が多い。反面、中央アルプス・南アルプスには火山はひとつもない。

なお、現在の火山学・地質学では、地名(山名)を使った○○火山帯という呼称は用いず、太平洋プレートあるいはフィリピン海プレートがユーラシアプレート・北アメリカプレートに沈み込むことにより火山が生ずるという理論に基づき、沈み込み帯のユーラシア大陸側に東日本火山帯と西日本火山帯の火山フロントが帯状に存在するという考え方である。

飛騨山脈は、太平洋プレートが北アメリカプレートの下、さらにその先のユーラシアプレートの下に潜り込むことによりその力で形

[27] 沼島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E5%B3%B6

沼島(ぬしま)は、淡路島の南4.6kmの紀伊水道北西部に浮かぶ兵庫県南あわじ市に属する島。面積2.71km²、周囲9.53km[1]、 最高地点は117.2m。瀬戸内海国立公園の一部。人口520人(2012年11月末現在)[2]。

概要[編集]

勾玉形の島で北西側の真ん中に漁業中心の集落と沼島漁港があり、対岸の南あわじ市灘土生の土生(はぶ)港[注 1]、 洲本市の洲本港との間を定期船で結ばれている。江戸時代末期に漁業や海運業で最も栄え、1955年(昭和30年)頃までは人口2,500人ほどを擁していたが、その後は人口流出が著しい[4]。

中央構造線の南側に位置するため、淡路島とは異なり全島が三波川変成帯の結晶片岩によって構成され、南岸の海食崖には緑・白・黒など様々な縞模様が現れている。また珍しい同心円状の鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)も見られる[注 2]。 崖下に磯が発達していることから磯釣りの名所でもある。

^ 正式名称は灘漁港[3]。

^ 1994年発見。世界でもこことフランスの2か所でしか見られない。日本の地質百選に選定されている[5]。

国産み神話[編集]

淡路島は、『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では淡路洲と書かれていて、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の産んだものとされる。

この「記紀」によると伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかきまわしてその矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。このおのころ島の所在地については諸説紛々としていて、そもそも架空の島であると言う説、淡路島北端の淡路市にある絵島、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社のある丘、あるいは淡路島全体であるという説もある。しかし南あわじ市には古くからおのころ島の地名があり、二神を祭る「おのころ神社」が存在するため沼島とする説もある[6]。

詳細は「国産み」を参照

[28] オノコロ島最有力候補地「沼島」, , http://www.awajishima-kanko.jp/kuniumishinwa/pickup-points/main_html/p13_nushima1.html

沼島の地図を作っていて、あらためて「勾玉」みたいな形だなあ....

お腹の中にいる子供の格好ににているなあ....じっと見ていると、そんな思いがムクムと頭をもたげてきた。

ここがいちばん淤能碁呂島(おのころじま)にふさわしい!そんな風に思えてきた。

[29] 国道152号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93152%E5%8F%B7

概要[編集]

杖突街道および秋葉街道を踏襲している。路線上の2箇所に不通区間(下記参照)があるほか、山岳地帯では幅員の狭い区間が多く、ホイールベース5m超の大型車では本道を用いた長野県と静岡県の往来は不可能である。このため、静岡・長野県境の山岳地帯では、本道に併走する形で三遠南信自動車道の整備が進められている。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点 : 上田市(大屋交差点=国道18号・長野県道176号下原大屋停車場線交点)

終点 : 浜松市(東区、北島交差点=国道1号交点、静岡県道65号浜松環状線終点)

重要な経過地:長野県小県郡丸子町[注釈 2]、同郡長門町[注釈 3]、茅野市、同県上伊那郡高遠町[注釈 4]、同県下伊那郡上村[注釈 5]、同郡南信濃村[注釈 5]、静岡県磐田郡水窪町[注釈 6]、同郡佐久間町[注釈 6]、天竜市[注釈 6]、浜北市[注釈 7]

路線延長:259.6 km(実延長251.5 km、現道240.4 km)[2][注釈 8]

長野県区間:172.5 km(実延長168.0 km、現道161.5 km)

静岡県区間:0.1 km(実延長0.1 km、現道なし)

浜松市区間:87.1 km(実延長83.4 km、現道78.8 km)

指定区間:なし[3]

歴史[編集]

道路法(昭和27年法律第180号)に基づく二級国道として初回指定された路線のひとつである。国道指定当初は、長野県飯田市から愛知県北設楽郡三輪村[注釈 9]まで二級国道151号と重複し、同村からは現在の愛知県道9号天竜東栄線および静岡県道9号天竜東栄線を経て静岡県磐田郡二俣町[注釈 10]の鹿島橋交差点に至り、同交差点からはバイパス化を除けば現在と同等の経路によって終点の浜松市に至る路線として指定された。1969年(昭和44年)公布の政令により、翌1970年(昭和45年)4月1日に経路が変更されて、飯田市から長野県下伊那郡上村[注釈 5]を経由し、同村からは青崩峠を経由して終点の浜松市に至る路線となった[4]。1975年(昭和50年)に施行された国道256号の経路変更に伴って飯田市から上村にかけてが同国道と重複区間となり[5]、1993年(平成5年)に起点から一部区間(飯田市 - 長野県下伊那郡上村)を

[30] 足神神社 - 浜松市と近郊のパワースポット(まとめ), , https://sites.google.com/site/powmaphama/hamamatsu-power-spot/ashigami
[31] 青崩峠 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B4%A9%E5%B3%A0

青崩峠(あおくずれとうげ)は静岡県浜松市天竜区と長野県飯田市の間にある標高1,082mの峠である。峠付近の地質構造は、中央構造線による破砕帯となっており、山腹に広がるむき出しになった青い岩盤から峠の名が付けられた。静岡県側・長野県側ともに、国道152号の端点から林道、遊歩道(かつての塩の道)を歩いて峠にたどり着くことができる。武田信玄による1572年の徳川領侵攻において、軍兵の一部が通過したことで知られている。

国道152号の点線国道区間で未通区域となっている。1987年より三遠南信自動車道の一部としても位置づけられたが、地形の急峻さと地盤が脆弱なために道路(青崩峠道路)を通すことが出来ず、2013年現在も未だ開通のめどが立っていない、最大の難所とされる。青崩峠の迂回のために兵越峠直下を通過するルートが選択され、草木トンネルが建設されたが、兵越峠の地盤が脆弱なことが判明し、結局地盤のやや硬い青崩峠西側を通るルートに変更された経緯がある。大型以外の車両は草木トンネルを通って隣接する兵越林道を使用することにより迂回が可能。

関連項目[編集]

兵越峠

青崩峠道路

国道152号

国道474号

草木トンネル

日本の峠一覧

[32] 小辺路 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%BE%BA%E8%B7%AF

小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく[1]。そのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである[2]。(→#自然誌参照)

近世以前の小辺路は紀伊山地山中の住人の生活道路であり、20世紀になって山中に自動車の通行できる道路が開通してからも、おおよそ昭和30年代までは使用され続けていた。そうした生活道路が、熊野と高野山を結ぶ参詣道として利用されるようになったのは近世以後のことであり、小辺路の名も近世初期に初出する。小辺路を通行しての熊野ないし高野山への参詣記録は近世以降のものが大半を占め、近世以前の記録もいくつか確認されているが少数である。(→#歴史参照)

高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。(→#小辺路の峠参照)

古人のなかには全ルートをわずか2日で踏破したという記録もある[3] が、現在では2泊3日または3泊4日の行程とするのが一般的である[4]。日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている[5] 他は交通至難であることも手伝って歩く人も少なく、静謐な雰囲気が保たれている。また、高野山から大股にかけてなど著しい破壊の見られる区間(後述)も若干あるものの、良好な状態の古道がまとまって残されている[6] 点も評価されている。

ただ、全ルートの踏破には1000メートル級の峠3つを越えなければならず、一度山道に入ると長時間にわたって集落と行き合うことがないため、本格的な登山の準備が必要で、冬季には積雪が見られるため、不用意なアプローチは危険と言われている[7]。

歴史[編集]

開創[編集]

高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』[8] としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額

[33] 糸魚川静岡構造線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E9%9D%99%E5%B2%A1%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%B7%9A

国の天然記念物 新倉の糸魚川-静岡構造線

画像の中央、崖の右上から左下に斜めに走るラインが構造線の露頭である。

山梨県南巨摩郡早川町新倉(あらくら、地図)

1918年に、東北帝国大学(現東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克(1878年〜1969年)によって提唱された。

しばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」である。

特徴[編集]

(ここでは自然地理的な特徴について述べる。人文地理的な特徴は「中部地方#地域性」を参照すること。)

糸魚川静岡構造線に沿って日本アルプスが造られており、飛騨山脈や赤石山脈の高山が沿線に連なり、天険を形成する。生態系は、糸静線を境にして大きく異なり、東半分を東北日本、西半分を西南日本という。糸静線沿線の主な山や高地には、白馬岳、乗鞍岳、上高地、赤石岳、身延山などが連なる。

日本海側の東西境界線は新潟県と富山県の境に位置する親不知であり、内陸側の東西境界線は諏訪湖である。太平洋側については、静岡市付近ではあるが詳細ははっきりしておらず、安倍川の他、薩埵峠付近や大崩海岸付近などともされる。

北部フォッサマグナ[編集]

日本海が形成された時期の新第三期中新世後期までは東西方向に引っ張られる力が作用し大きな陥没地帯が形成されていたが、中新世末期以降は力の方向が逆転し圧縮方向に変化した。その為、隆起と沈降を示す地形が交互に現れている。隆起地形としては、上水内丘陵地帯(主に妙高火山群の山々)と中央隆起帯(長野県中部から群馬県にかけての地域で志賀高原、八ヶ岳などとその周辺)があり、隆起地形の間には逆断層の長野盆地西縁断層系があり地震活動が活発である[1]。なお、最北部の西頚城山地での活動は終了しており変動地形学的に見ると活断層ではない[2]とする見解もある。

北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[3]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[4]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[5]。

糸静線上の松本盆地から長野盆地に向か

[34] 廃線レポート 千頭森林鉄道 [総扉ページ], , http://yamaiga.com/rail/senzu/main.html

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。

このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。

ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。

それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。

大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。

そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。

千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来な

[35] 飯田線各駅停車【城西駅】, , http://www.green.dti.ne.jp/iida/kt/s35siro.html

相月から水窪にかけて、電車は国道152号線と並行して北上して行きます。この城西は国道に面した駅で、駅周辺にも意外と民家が多く見られます。もともと交換駅であったため駅員が配置されていましたが、1984(昭和59)年2月24日の南部CTC化と共に無人化されました。しかし今昔を通して花の美しい駅で、とりわけ春の桜とツツジがきれいです。

さて城西といえば飯田線名物と呼ばれる「S字橋」こと第六水窪川橋梁の話が欠かせません。

この橋は「渡らずの鉄橋」とも呼ばれる全長400.7mの飯田線最長の橋梁で、水窪川に沿って掘削中だったトンネルが、中央構造線の断層による地殻変動で工事を進める傍らで次々と崩壊したため、危険回避の為にトンネル掘削をあきらめ、水窪川の上を橋梁で迂回する形で竣工にこぎつけた苦心の賜物だったのです。掘削途中で放棄されたトンネルは地殻変動で完全に崩れ去り、落石覆いの一部が残るのみです。鉄橋の写真を撮りに訪れる鉄道ファンは昔から多く、駅無人化前はファンの作品が待合の中に飾られていました。

駅前を通る国道のやや相月寄りには、地元の特産品を売る売店が建てられ、地元の人やドライブ客の人気を集めています。

※2005(平成17)年6月30日まで駅所在地は「静岡県 磐田郡

佐久間町」でしたが、2005(平成17)年7月1日の静岡県西部12市町村の広域合併により浜松市、さらに2007(平成19)年4月1日の政令指定都市移行により浜松市 天竜区 佐久間町となりました。

●S字橋撮影地:駅前の国道を水窪方向へ徒歩約5分

【駅写真撮影:2002/09/08】

[36] 廃線レポート 飯田線旧線 旧第一久頭合隧道, , http://yamaiga.com/rail/iida_misakubo/main.html

あの夕暮れまで続いた激戦のあと、佐久間駅に降り立った私は手負いのチャリを車に収め、空腹を満たすべく移動を開始した。

佐久間にはおそらくコンビニというモノはなく、閉店間際の小さなマーケットで買い込んだ魚肉ソーセージと塩焼き鳥の缶詰をおかずに、車に積んであるガスコンロで作ったカップラを主食にするという、侘びしい夕餉をとった。

それから午後8時頃までに車で水窪付近へ移動してから、翌朝の探索を考えて飯田線の向市場駅前を車泊場所に定めた。

上の写真は、その向市場駅だ。

今度は右の地図を見てもらいたい。

JR飯田線は、国鉄時代の昭和30年に大規模な路線付け替えを経験している。

電源開発株式会社による佐久間ダム建設によるもので、中部天竜〜大嵐間の13.3kmを水窪川沿いに迂回する新線(17.3km)へ切り替えたのだ。

そうして生まれた現在の”水窪新線”だが、こちらにも部分的な旧線があることは、巨大な水没旧線に較べてあまり知られていない。

それは、城西(しろにし)〜向市場(むかいちば)間にある、

・第一久頭合(くずごう)隧道

・第六水窪川橋梁(向皆外(むかがいと)隧道)

の2箇所である。

この新線全体の工事はダム着工翌年の昭和28年8月に始まり、ダム完成前年の30年11月に完成した。

国策であるダム工事に関わる路線の付け替えは、国鉄の威信をかけての突貫工事とならざるを得なかった。

右図にカーソルをあわせると「地質図」に切り替わる。

それを見て頂ければお分かりの通り、新線は「中央構造線」と「天竜川断層」という2本の巨大な断層帯に挟まれた地域に敷設されている。

一般に断層地帯の地質は劣化していることが多く、土木工事には不適である。

それゆえに新線工事は、想定外の苦難を数多く乗り越えねばならなかった。

2つの“新線の旧線”もまた、それと無関係ではない。

それでは、まず「第一久頭合隧道」を紹介しよう。

事前情報となったのは、『鉄道廃線跡を歩く�[

』巻末の資料「全国線路変更区間一覧」だ。

個人的にこの資料は、旧線ファンにとってバイブル的な価値のあるモノだと思う。これのためだけに�[号は買う価値があると思う。

「全国線路変更区間一覧」の「飯田線」の部には10の「付け替え」が記録されているが、その4番目を次に引用しよう。

[37] 浜松・佐久間Atti-koti:原田橋落橋現場。, , http://puppu.hamazo.tv/e5903118.html

三遠南信自動車道の建設で変わりゆく佐久間。

街のようす、 川の表情、 季節の風景・自然の営み、

佐久間の人々の姿、 まちかどスナップ……。

佐久間に限らず、 周辺 「あっちこち (Atti−koti)」 に足を運んで、

主に写真で紹介しています。

パソコンでご覧の方は、写真をクリックすると拡大します。 携帯でご覧の方、 パソコンでもアクセスしてみてくださいませ。

[38] 五色浜, , http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/goshikihama.htm

波打ち際に敷き詰められた色とりどりの小石。夏には海水浴場としてにぎわう洲本市の五色浜には、近くの地層から洗い出されたチャートや結晶片岩などの小石が波に打ち寄せられ、並んでいます。

小石の色は、白・赤・茶・黒・灰色などで、それに緑や黄も交じっています。波をかぶって小石がぬれると、それぞれの色が透明感をまして鮮やかになり、宝石のようにまぶしく陽の光をはね返します。

車窓に播磨灘を見ながら、淡路島の西岸を車で走り、五色浜に着きました。淡路交通バス停「五色浜」の近くから、浜へ下りることができます。

訪れたときは、潮が満ちていたために、砂浜の幅はそう広くありませんでした。浜辺では、連休中の観光でしょうか、いくつかの家族連れが遊んでいました。

砂の上には、丸い小石がいく筋かの帯をつくって並んでいます。小石は大きさが2cm以下のものが多く、大きくても10cmまでです。大きなものは、護岸の下に集中していました。海の中にも、小石の並んだ帯が見えるので、潮が引くともう少し小石の風景が広がるのかもしれません。

小石の種類は、結晶片岩とチャートが多く、砂岩や泥岩などの堆積岩、花崗岩などの深成岩もそれらに交じっています。また、安山岩や緑色岩、凝灰岩も見られてなかなか多彩です。

これらの小石は、この海岸の裏手に広がる地層中から礫が波に洗い出されたものです。今は、護岸によって波による洗い出しが少なくなっていると思われます。波の寄せる海辺にきれいな小石の広がるこの風景を、いつまでも大切にしたいですね。

五色浜の海岸から上がり、道路を渡って少し北に歩くと、大きな露頭があります。採土場として削り取られた崖のようですが、ここで五色浜の小石のみなもとが観察できます。

ここで見られるのは礫岩の地層で、含まれる礫の量や大きさの違いによって層理が見られます。礫の大きさは、最大で15cm程度、どれも角が丸くなっています(円礫〜亜円礫)。礫の種類は、チャートが多く、結晶片岩や砂岩などがこれに続きます。結晶片岩の礫は平たい形をしているので、露頭の表面からぴゅっと飛び出しています。

礫の周りの基質は、褐色の砂岩です。固結度が弱く、ハンマーの先で引っかくとボロボロと崩れます。このような地層に波が打ち寄せると、地層がどんどん崩れて、その中から礫が洗い出されます。

この地層は、大阪層群五色浜累層(新第三紀

[39] 出かけよう!北遠へ-ふるさと散歩道: 隠された「征」の字―十二所神社の鳥居, , http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2015/09/post-6e83.html

阿多古川沿い、西藤平(にしふじだいら)落合の十二所神社が鎮座するのは、90数段の石段を登った上。石段の途中には、「明治三十七年四月」に建てられた石鳥居があります。鳥居の柱には、右に「征露」、左に「紀念」の文字が刻まれていたのですが・・・。

歴史を振り返ってみると、日露戦争が始まったのは、明治37年(1904)2月8日、終戦は翌38年(1905)9月5日。鳥居が建てられた明治37年(1904)4月は、第二次旅順口閉塞作戦に失敗し、遼東半島への上陸を開始する間です。

当時の状況からすれば、「征露紀念」ではなく「征露祈念」の時期。この文字が刻まれたのは、日露戦争終結後であった可能性が見えて来ます。

さらに、「征露」の「征」の字が消されたのは、おそらく、胃腸薬「征露丸」の表示が「正露丸」へと変更されたのと同じ理由。戦後のロシアへの配慮からではないでしょうか?

【関連記事】見付天神拝殿前の「願かけ牛」の欠けた1字

[40] 出かけよう!北遠へ-ふるさと散歩道: 見付天神拝殿前の「願かけ牛」の欠けた1字, , http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2014/02/1-8d2d.html

磐田の見付天神の正式な名称は「矢奈比賣神社」。主祭神は矢奈比賣命(やなひめのみこと)ですが、霊犬悉平太郎を祀る神社としても有名。もちろん、菅原道真公も祀られていますので、「見付のお天神様」とも呼ばれ、正月には受験合格の祈願をする受験生で賑わいます。

拝殿前には、雄雌1対の「願かけ牛」が狛犬のように置かれ、向かって右側の雄牛の台座には「念紀○征」の文字が浮き彫りにされています。さて、この「念紀○征」の文字の意味は?

もちろん、文字は右から左へと読みましたから「征○紀念」。そして、1文字欠けたその「○」の中に入るはずの文字は「露」。つまり、「征露紀念」と刻まれていたはずです。

この「願かけ牛」が奉納されたのは「明治丗八年」。前年、明治37年(1904)2月には日露戦争が始まりました。そして、対露戦勝を願い、「明治」の他に「征露」の年号が使用されたのが、明治37年と38年の両年。この牛は「明治丗八年=征露二年」に奉納されたようです。

「ロシア」を意味する「露」の文字が削り落とされたのは、いつのことだったのでしょう?軍の装備品だった「征露丸」が「正露丸」に改められたのと同じ指導が、ここでも行われたのでしょうか?

開催中のソチオリンピックに因み、「ロシア」に関連する話題ですが、ちょっと過激だったでしょうか?

なお、この文字は「正三位男爵 赤松則良書」。明治26年(1893)からは、見付に住んでいました。

【関連記事】隠された「征」の字―十二所神社の鳥居

[41] 道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間, , http://yamaiga.com/road/r256_kami/main.html

国道256号は、岐阜県岐阜市を起点に、長野県飯田市に至る、実延長約221kmの一般国道であるが、最新の「道路統計年報2017」によると、この路線には長野県内に 全長12.3kmの 【自動車交通不能区間】 供用中の道路のうち、幅員、曲線半径、こう配その他道路の状況により最大積載量4トンの普通貨物自動車が通行できない区間をいう。 があることになっている。

酷道ファンにはよく知られた事実だが、飯田市内にある小川路峠は現在も自動車が通れない。これが上記した自動車交通不能区間の正体である。

ついでに小川路峠の説明を、『角川日本地名辞典 長野県』に行ってもらおう。

小川路峠 (おがわじとうげ)

飯田市と下伊那郡上村との境にある峠。標高1,494m。飯田の町と静岡県の秋葉神社とを結ぶ秋葉街道が,小川路峠・青崩峠を越えて通じ,江戸期から秋葉参りや善光寺参りの人々でにぎわった。伊那谷から遠山郷への最短ルートで,明治10年頃から峠道の改修が進み,牛馬などによる物資の流通も盛んになった。しかし上下5里(約20km)の難路で五里峠とも呼ばれ,遠山郷へ赴任する教員や警察官が職をやめたくなることから辞職峠の異名をとるほどであった。大正12年,下伊那郡喬木(たかぎ)村の小川と上村の程野の間に竜東索道が設けられ,昭和7年,現在のJR飯田線が平岡まで開通してから,峠の交通量は減少。現在,国道152号になってはいるが,峠は通行不能。同43年,喬木村と上村の上町とを結ぶ赤石林道が開通した。同62年,長大トンネルで越える新国道の工事が始められた。

上記内容は少し古いのでいくらか更新すると、「現在国道152号になっている」は、国道256号に変わっている(平成5(1993)年から)し、「喬木村と上村の上町を結ぶ赤石林道」は、長野県道251号になっている。そして、「長大トンネルで越える新国道の工事が始められた」も、国道474号でもある自動車専用道路「三遠南信自動車道」上の矢筈トンネル(平成6(1994)年開通)として結実している。あと、上村という村名も、平成17(2005)年に飯田市と合併したことで消えて、現在は飯田市上村になっている。

標高1494m、全長20kmもの険しい峠道であった、未だに自動車の通えぬ小川路峠。

ついに「山行が」も、全国有数の酷道である小川路峠に挑むのか! そんな風に期待して下さっ

履歴

[42] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567385333155

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