豊川市

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[1] 豊川市

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[2] 愛知県道368号豊川蒲郡線 灰野坂, , http://yamaiga.com/road/apr368/main3.html

2014/4/8 15:16

感動の(?)デリニエータとの遭遇地点のすぐ先で、道は谷底の広い地平へと降り立った。

ここまで峠からは約400mの距離で、この間に標高も40mほど下って、海抜90m付近である。

道はここで左へカーブして沢沿いに進むようだが、後にしようとしている右側の地平には、明らかに休耕田と分かる野原が広がっていた。

陽当たりのよい部分にもほとんど草木が侵入していないので、放棄されてからあまり年数を経ていないかもしれない。

そこにはっきりとした道も見当たらないが、オフロードバイクのような轍が入り込んでいた。これは御津側に入ってから初めて見る轍だ。

また、休耕田の向かいには鬱蒼とした杉の植林地が広がっているが、その林床には、屋敷割のような段差が工作されていた。

地理院地図を見ると、この峠直下の水源地一帯は、東西にやや扁平な小盆地を形成している。

盆地内に人家らしいものはほとんど描かれていないが、北側の宮路山山麓を中心に妙に密な道路網が描かれているほか、寺と神社がある。

広い休耕田や、整地された植林地の存在と合わせて考えれば、ここにはかつて、それなりの規模を持った集落があったと見て間違いないだろう。

【馬頭観音の解説板】 に、「 この灰野坂は、江戸時代には 灰野村 と御油宿の往来が、はげしい道であった 」と書かれていたが、現在の地図をいくら眺めても「灰野」という地名は見つからない。代わりに、この一帯の広い範囲は「御津町金野」の大字を持っているようだが、地図から消えた「灰野」という名の村が、この地に栄えていたのかも知れない。

そんな想像は、石仏が佇む静かな峠路の姿とよく重なりあい、私の心を楽しませた。

もっとも、これは行き会ったりばったりに近い探索であり、県道の先を追いかけることに夢中の私は、敢えて集落跡と思われる一帯に踏み込むこともしなかったし、なんら確証を得ることもなかったのであるが、帰宅後に多少追加の調べをしたので、「灰野」という峠名ともなった地名の正体は、最後に説明したい。

小盆地を後に前進を再開すると、路肩と水路を隔てる石垣が現れた。

路上にもいくらか轍がついている。

水路の向かいは休耕田のように見えるが、取り囲むように獣よけのフェンスが設置されており、完全に放棄されているわけではなさそうだ。 アヤメとか植えてある?

この先

[4] 愛知県道368号豊川蒲郡線 灰野坂, , http://yamaiga.com/road/apr368/main.html

ドナドナ… ドナドナー…… (涙)

当サイト初となる愛知県道のレポートは、レッカー移動される先代愛車“ワルクード”の姿という、衝撃的なシーンから始まる。 (この年の秋に本当にお別れしたわけだが…)

平成26(2014)年4月に自身初となる三河地方の探索へ出かけた私は、そこで当初の計画を大幅に上回る時間を過ごした。

原因は、ワルクードの突然の故障である。

初日の探索が終わり、新城市内の夜道を移動している最中、突然クラッチペダルが作動しなくなったのである。

自走不能に陥った私は、JAFに救援を要請したが、その場では原因が不明で、応急修理も不可能だったため、豊川市内へのレッカー移動となった。

この夜の私は、急遽豊川IC近くのビジネスホテルに宿泊し、翌朝一番で修理工場へ車を運んだ。それが写真の場面だ。

この段階では、故障の原因も、無事に治るのかも、それに何日を要するのかも全く分からず、非常に不安な気持ちのまま、全く土地鑑のない所に放り出された形であった。私にとって、初の三河がこうも厳しい探索地になろうとは。

旅先に車を残したまま一度帰宅することも考えたが、せっかくならば、この時間もオブローダーとして有効に活用したいと思った。

とりあえず2〜3日で修理が終わることを願いつつ、またそれを前提として、前夜に泊ったホテルを根城に(普段は車中泊である)、豊川周辺で探索をしながら過ごすことに決した。

幸い、探索のための道具は全て揃っている。

しかし、計画にない探索を急遽行うにも、用意したネタがない。

そこで地図と睨めっこして、地図上に見えている分かりやすい地雷…じゃなくてネタである、いくつかの不通県道に注目した。

困ったときは不通県道に行くのが、私の探索処世術(笑)。

今回紹介する愛知県道368号豊川蒲郡線は、そのような事情から臨時に探索を行った不通県道のひとつである。

ドナドナを見送った4月8日に、いつになく心の中に不安をたくさん抱えた状況で行った探索だ。

なお、この故障は結局、クラッチペダルに繋がっているケーブルが断裂していたという単純な原因であった。

そして部品の入手には2日を要したため、私は計画よりも2日長く豊川に滞在して探索を行った。

秋田から東京へと転居した私が、たった2日間だが、根城をもって道路探索へ出撃した“第3の地”豊川の道を、ご覧いた

[5] 飯田線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E7%B7%9A

概要[編集]

開業・ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。長野県の上諏訪駅から愛知県の豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約6時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。1983年までは旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。

もともと直結した4社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅はほぼ開通時の沿線集落ごとに設けられている。このため駅間距離が旧国鉄の地方路線としてはとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある[1]。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また地方鉄道の簡易な規格で建設されたことから速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40‰で、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)が廃止された現在ではJR最急勾配である。

豊橋駅 - 豊川駅間はIC乗車カード「TOICA」の利用エリアに含まれている[2]。

路線データ[編集]

管轄・路線距離(営業キロ):

東海旅客鉄道(第一種鉄道事業者):

豊橋駅 - 辰野駅間 195.7km

日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者):

豊橋駅 - 豊川駅間 (8.7km)

元善光寺駅 - 辰野駅間 (61.9km)

軌間:1067mm

駅数:94駅(起終点駅含む)

飯田線所属駅に限定した場合、起終点駅(豊橋駅は東海道本線、辰野駅は中央本線支線の所属[3])が除外され、92駅となる。

複線区間:

複線:豊橋駅 - 豊川駅間(豊橋駅 - 平井信号場間は名鉄名古屋本線と共用。詳細は後述)

単線:豊川駅 - 辰野駅間

電化区間:全線電化(直流1500V)

閉塞方式:自動閉塞式(特殊)(豊川駅 - 辰野駅間)

保安装置:ATS-PT(豊橋駅 - 平井信号場間はM式ATSを併設)

最高速度:85km/h

運転指令所:東海総合指令所

全線がJR東海東海鉄

[6] 姫街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%A1%97%E9%81%93

江戸時代後期になり、幕藩体制が衰えて お蔭参り などの機会に女性が比較的監視の緩い脇道を通り抜ける機会が増えた頃から、本坂道は 姫街道 と呼ばれるようになった。呼称の由来は、東海道の本道である新居(今切)の、関所での取り調べ、舟での渡海、もしくは「今切」の語の縁起が悪いことを嫌って利用した女性が多かった、古くからある道という意味の「ひね」街道が転訛した、本道を男、脇道を女と見なした、など諸説ある。

明治維新政府によって全国の関所と、東海道の宿駅伝馬所が廃止されると、姫街道は街道としての使命を終え、その後は地域の生活路として利用されるようになった。明治以降に新たに敷設された新姫街道は、引佐峠を南に迂回して浜名湖岸を通り、本坂峠越えは廃されて 本坂トンネル を通過するようになった。旧姫街道は廃道となったり、新旧姫街道が重なる区間では幅員の拡張工事が行なわれ、気賀から三方原追分にかけて道の両側にあった松並木の片側が取り払われた。

歴史 [ 編集 ]

古代 [ 編集 ]

静岡県西部から愛知県東部にかけて、本坂峠を越えて浜名湖の北側、三ケ日を通る経路は、先史時代から存在しており、周辺には縄文・弥生時代の史跡も数多い。 上代 には、 天竜川 の下流は 磐田の海 と呼ばれる湖で、東側に 大乃浦 という湖もあったため、この道は 東海道 の本道として利用され、 二見の道 と呼ばれていた。磐田海や大乃浦の水が引いた後、東海道が浜名湖南岸を通るようになり往来が盛んになると、二見の道はさびれていき、裏街道としての役割を担うようになった。この頃の 宿駅 には、「板築(ほんづき)駅」(現在の浜松市三ヶ日町本坂ないし日比沢周辺)や、「猪鼻(いのはな)駅」( 猪鼻湖 の瀬戸または 新居 )があった。

中世 [ 編集 ]

中世には、地震などで浜名湖の南岸が通行不能となったときに利用されていたことが知られている。

近世 [ 編集 ]

近世になって、16世紀初めに浜名湖南岸に 今切口 ができ、渡船が必要となったことが 本坂越 の往来が再び盛んになる契機となった。戦国時代には 徳川家康 の 堀川城 攻めや、遠州に攻め込んだ 武田信玄 の軍勢と徳川軍との 三方ヶ原の戦い などの際に軍勢が街道を行き交い、交通の要衝として関所が設けられた。天正年間には 本多作左衛門 によって新宿が設けられ、街道として整備された

[7] 飛島村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E5%B3%B6%E6%9D%91

歴史[編集]

沿革[編集]

1889年10月1日 - 海西郡飛島新田、政成新田、服岡新田が合併して飛島村が発足

1906年7月1日 - 同郡宝地村の一部(大宝、八島、重宝)を編入

1913年4月4日 - 海西郡が海部郡に

1971年 - 名古屋港西部臨海地帯の西2区・4区を編入

行政[編集]

村長:久野時男(2000年4月10日~ 3期目)

市町村合併[編集]

2002年6月に、弥富町(現在は弥富市)、蟹江町、十四山村(弥富市に編入)とともに「海部南部ブロック市町村合併研究会」を設置し、2町2村による合併へ向けて話し合いに入ったが、2003年2月に行われた住民アンケートで合併反対が74%を占めた事から、同年5月、法定協議会への参加を見送ることを決定した。飛島村は上記のように財政状況に恵まれており、合併によって住民サービスが低下することを懸念したためと見られている。 愛知県としては周辺自治体との合併の検討を促す[1]としているものの、合併新法に基づく合併推進構想の策定などの具体的な動きはなされていない。

なお、隣接していた十四山村が弥富町との合併問題を巡って紛糾した際には合併反対派から、2村だけの合併ならば飛島村も行政水準を落とさずにやっていける[2]として、飛島村との合併を期待する主張がなされるなど、事態の推移に少なからず影響を与えている。

教育[編集]

飛島村立小中一貫教育校飛島学園

飛島中学校

中学2年時に、村の費用全額負担でアメリカ合衆国サンフランシスコへの1週間の研修旅行が行われる。

飛島小学校

福祉[編集]

子供の医療費について、中学校卒業まで無料。

住民が出産し、1年以上村内に在住した場合と、子供が小学校、中学校にそれぞれ入学した場合、村から10万円の祝金が支給される。

90歳になると20万円、95歳になると50万円、100歳になると100万円が支給される。

一人暮らしの老人に乳酸菌飲料を無料支給するなど、高齢者への無料サービスも多い。

交通[編集]

村内には鉄道はなく、飛島公共交通バスが公共交通の手段となっている。村役場への最寄り駅は近鉄名古屋線の近鉄蟹江駅。臨海部の最寄り駅はあおなみ線の稲永駅、名古屋市営地下鉄名港線の築地口駅など。

道路[編集]

伊勢湾岸自動車道:飛島IC

国道23号

国道302号

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事[編集]

名港

[8] 海部郡 (愛知県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%83%A8%E9%83%A1_%28%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%29

日本 > 愛知県 > 海部郡

海部郡(あまぐん・あまのこおり)は愛知県の名古屋市の西に位置する郡である。人口71,981人、面積40.22km²、人口密度1,790人/km²。(2013年12月1日、推計人口)

属する町村[編集]

大治町(おおはるちょう)

蟹江町(かにえちょう)

飛島村(とびしまむら)

歴史[編集]

平安時代後期、おそらく11世紀中頃までに、東西に分割され海東郡と海西郡になった。[要出典]1913年(大正2年)7月1日に海東郡と海西郡が合併して海部郡となった。海東郡役所の置かれた津島町は両郡における生活の中心地であり、海西郡の住民にとっても海西郡役所のおかれた弥富町より便が良かったため、郡制施行以来長年の懸案だった。もっとも1921年(大正10年)には郡制そのものが廃止され、郡役所も1926年(大正15年)に廃された。

1918年(大正7年)の現在人口は126,284名であり、そのうち、マラリア患者数は2,352名であった[1]。

2005年3月時点では全国で一番人口の多い郡だったが、愛西市の誕生により福岡県糟屋郡に次いで2位に、弥富市の誕生で愛知県知多郡に次いで3位となった(現在はあま市の誕生で28位)。

沿革[編集]

1913年(大正2年)7月1日 - 海東郡と海西郡が合併し、海部郡が成立(3町16村)

1919年(大正8年)10月 - 甚目寺村の一部が西春日井郡清洲町に編入

1924年(大正13年)4月1日 - 佐織村の一部が津島町に編入

1932年(昭和7年)8月1日 - 甚目寺村が町制施行、甚目寺町に(4町15村)

1939年(昭和14年)11月3日 - 佐織村が町制施行、佐織町に(5町14村)

1943年(昭和18年)1月1日 - 甚目寺町の一部が西春日井郡清洲町に編入

1944年(昭和19年)2月11日 - 富田村が町制施行、富田町に(6町13村)

1947年(昭和22年)3月1日 - 津島町が市制施行、津島市に(5町13村)

1949年(昭和24年)6月1日 - 南陽村が町制施行、南陽町に(6町12村)

1955年(昭和30年)1月1日 - 神守村が津島市に編入(6町11村)

1955年(昭和30年)4月1日(7町8村)

佐屋村と市江村の一部が合併し町制施行、佐屋町に

弥富町、鍋田村、市江村の一部が合併し、新たな弥富町に

1955年

[9] 足神神社(浜松市), , http://hamajinja.info/ashigamijinja.html

足神神社は、静岡県浜松市天竜区水窪奥領家に鎮座する足の神様をお祭りする神社。諸国行脚していた鎌倉の北条時頼が、痛めた足を癒した守屋辰次郎の亡くなった後、時頼の命で村民がこの祠を建てました。足神神社が建て祀られた時代は1250年代と古く、その神社から沸きでる水は足に効くと評判で現在でも毎日汲みに来る人が多数います。

静岡県と長野県の県境に位置する小さい神社で、浜松市中区から神社までおおよそ1時間半〜2時間ほどかかります。今回、朝一から神社に行ってきました。朝一番ということで途中のきれいな景色もあわせてご覧ください。

秋葉街道を長野県側に向けてひたすら走っていくと、40分ほどで民家はまばらになり山道に変わってきます。

神社があるところに近づくに連れて道幅が狭まり蛇のようにくねって、更にダンプカーがやたらと多く全く気が抜けないドライブとなります。乗り物に弱い方は絶対に酔い止めを忘れないほうがよいでしょう。天竜区に入ると殆どコンビニを見かけないのでトイレもお忘れなく。運転している本人ですら酔ってしまいました。

浜松市から運転を始めて2時間程で、足神神社付近に到着。

近くに民家はありますが周りは山しかありません。でも、とてものどかな場所です。

さて、ここから足神神社探しが始まります。車のナビで足神神社付近まではこれましたが、ナビは「付近」までしか表示してくれず後は自力で探すしかありません。結局付近と表示されていた場所から更に1キロ進んだ青崩峠の下で足神神社を発見しました。

坂道に神社はあるため、ジープみたいな車で行くとよいと思います。さすがにセダンだと非力過ぎて坂道を登るのも大変で、駐車場らしき広場も神社前にありますが、ここも勾配が急なので気をつけないといけません。

車から降りて、周りをちょっと散策します。車を降りて直ぐに感じたのですが威圧?とも違う、何か圧される感じがします。

朝7時を少し回ったところでしたが、バンタイプの車が2台ほど見え、ちょっとのぞいて見ると後部座席はすべてポリタンク!神社の脇で水を汲んでいたお父さんにお話を聞くと、体によく効く水で毎週1回は水を汲みに来ているそうです。水場には空のペットボトルが無造作に何本も置かれていますので、お水を持って帰る事もできますができるならペットボトル持参を強くお勧めします。私も汲んで帰りましたが甘くて美味しいお水です。ちなみ

履歴

[11] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567381831230

メモ