雫石川

雫石川

[1] 雫石川

Webページ

[2] 随想アイヌ語地名考 38-41, , http://www.st.rim.or.jp/~success/oh/ainu41-.html

No.38 ◎ 玉山村のアィヌ語地名

…好摩(こうま)…

「こうま」の地名由来を和語の範囲の中で解釈しようとしても無理があるようです。

やはり、この地名も、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名として考えるべきであると思います。

「こうま」は、=アィヌ語の「ク・オマ・ナィ(ku・oma・nay)」または「ク・オマ・イ(ku・oma・i)」の後略の「ク・オマ(ku・oma)」が語源であり、その意味は、

=「仕掛け弓・そこにある・沢」か、または、

=「仕掛け弓・そこにある・所」になります。

…渋民(しぶたみ)…

「しぶたみ」も、アィヌ語を語源に持つ古地名であり、次のような解釈があると思います。

1.「しぶたみ」の語源は、=アィヌ語の「スプ・タ・アン・ムィ(sup・ta・an・muy)」→「スプタムムィ(suptammuy)」で、その意味は、

=「渦流・そこに・ある・淵」になります。

2.「しぶたみ」は、=アィヌ語の「スプン・タ・アン・ムィ(supun・ta・an・muy)」→「スプンタムムィ(supuntammuy)」の転訛で、その意味は、

=「ウグイ・そこに・いる・淵」にもなります。

…宇登(うとう)…

「宇登」については宮守村の「宇洞」と同義だと思いますのでそちらの方をご参照ください。

…夏間木(なつまぎ)…

「なつまぎ」も次のようなアィヌ語系の古地名だと思います。

「なつまぎ」の語源は、=アィヌ語の「ヌッ・マク・キム(nut・mak・kim)」→「ヌッマキム(nutmakim)」で、その意味は、

=「静かな流れの・後ろ・山」になります。

…沢目(さわめ)…

「さわめ」は、和語の「沢前」の転訛だろうという見方もありますが、これは和語というよりも、次のようなアィヌ語から転訛した古地名と見た方がより納得のいく解釈になるようです。

「さわめ」の語源は、=アィヌ語の「サ・ワ・アン・メム(sa・wa・an・mem)」→「サワムメム(sawammem)」で、その意味は、

=「前・に・ある・泉池」になります。

…芋田(いもた)…

「いもた」も、和語地名として説明しようとするのは無理があるようで、次のようなアィヌ語系の古地名として受け止めたいと思います。

「いもた」の語源は、=アィヌ語の「イ・モ・オタ(i・mo・ota)」→「イモタ(imota)」で、その意味は、

=「(聖なる)それ

[3] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[4] 滝沢市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E5%B8%82

歴史[編集]

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、南岩手郡滝沢村・鵜飼村・大沢村・篠木村・大釜村の区域をもって滝沢村が発足。

1897年(明治30年)4月1日 - 所属郡が岩手郡に変更。

1965年(昭和40年)10月25日 - 村章・村歌・滝沢音頭を制定[1][2][3][4]。

1989年(平成元年)4月1日 - 村制100周年。

1990年(平成2年)8月17日 - 村民憲章を制定[5]。

2014年(平成26年)1月1日 - 滝沢村が市制施行して滝沢市となる。

単独市制移行に向けての経緯[編集]

2013年12月1日の時点で岩手県内13市15町5村のうち7番目に人口が多く、市に昇格可能なだけの人口には早くから到達していたものの、長らく「村」にとどまっていた。これは、峠を挟んで巣子地区(旧・滝沢村周辺)と鵜飼地区(旧・鵜飼村周辺)に世帯・商業地が分散してしまっているため、村内にはっきりとした市街地の集積がないことや、村民の多くは隣接する盛岡市に通勤・通学し、普段の買い物に関しても盛岡にほぼ依存しており、盛岡市のベッドタウンとしての位置づけが強いことなど、人口以外の「市となる条件(地方自治法 第八条第一項)」を満たしていないためであった。

さらに、市となる条件を満たしていないという直接的な理由のほかにも、「村」という言葉に人が抱く「のどかで豊かな美しい場所」というイメージのブランド性を維持するためという、戦略上の理由もあった[6]。

中核市指定を目指していた盛岡市との合併案も持ち上がり、盛岡市では合併協議会も設立されたが、滝沢村民による強い反対により実現しなかった。なお盛岡市は2006年(平成18年)、岩手郡玉山村を編入合併して人口30万人を達成し、2008年(平成20年)4月に中核市に指定されている。

滝沢村単独で市制施行することについては、1997年(平成9年)に当時の村長だった柳村純一が意欲を示したものの、その時は結局実現に至らなかった。しかし、全国の人口5万人以上の町村は大半が単独市制に移行している[7]ことや、2009年(平成21年)度の村民アンケートで盛岡市との合併に反対する意見が63.5%と、2007年(平成19年)度調査より2.2ポイント上昇していることなどを背景に、2011年(平成23年)から市制移行に向けた動きが再び始ま

[5] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://www.yamaiga.com/rail/hasiba/main2.html

エターナル・ターミナル、橋場。

小粒ながら、当サイトでも人気の高いコンテンツのひとつであり、実は私も前のレポートを公開後、新たな発見を求めて何度か再訪を繰りかえしてきた。

なかでも、転車台の発見こそは、その最大の目的であった。

転車台(ターンテーブル)とは、地上に設置される回転する円盤状の装置であり、ここに車両を乗せることで、その場にいながら進行方向を変更することが出来る。鉄道の蒸気機関車は、車輪を逆回転させて走行すると、本来の性能を発揮出来ない。そのため、終着駅など、運転の方向を頻繁に反転させる箇所には、転車台を設けることが多かった。

転車台こそは、蒸気機関車時代の終着駅におけるもっとも象徴的な存在といえ、橋場線の終点である橋場駅にも設置されていたと考えられるが、これまで構内配線図などは発見されておらず、その規模や位置も不明のままだった。

この図は、これまで想像されていた橋場駅の構内の配線である。

橋場駅は基本的には1番線と2番線の相対式ホームを持つ駅であるが、2番線の北側も路盤と同じ高さの広い空き地になっており、このまま島式ホームとして3番線を設けることが可能である(実際に敷かれていたかは不明)。また1番線ホームの終点側(大曲側)には、終点側に開口した頭端式のホームが存在し、貨物用ホームとして利用されていたと考えられている。

転車台は発見されていないが、ホームの終点側に広大な空き地が存在することから、そこにあったものと想像した。

そしてこれが、この構内配線における、実際の列車の取り回しの想像図(アニメーション)だ。

転車台がこの位置に存在していれば、1番線と2番線に敷設されたレールを用いて、無理無駄なく列車の進行方向を変えることが出来る。

(貨物ホームについては検討を省略した)

だが、3つのホームはほぼ完全な形で現存するにもかかわらず、“コンクリートに周囲を囲まれた円形の窪地”という、特徴的な遺構を残すはずの転車台については、想像された位置をいくら捜索しても、発見することが出来なかった。

さらに、現地の安栖(あずまい)集落での聞き取り調査において、「人力で動かした転車台が(図の位置に)あったが、いまは埋め戻されて跡形も無い」という証言が1件発生したことで、捜索を中止した。

橋場駅の転車台問題は、「現存せず」という判断で終了したかに思われたが、この膠着した状

[6] 君の知らない旧国道 - 6日目その1 [雫石〜橋場], , http://ccsf.jp/~mwe/tour/20100731/6-1.html

遂に自転車人生初めての『6日目』に突入しました。今日こそは絶対に秋田へ辿り着くぞっ。現在地は岩手郡雫石町, 既に秋田県と接しているんですから。

しかし, ある意味, これからが今回の旅の本番と言っても過言ではありません。秋田へ走るのも3年目, 今年この経路を選んだ理由は, 間違いなくこの先にあるのです。さあ, まずは山へ到ること。そして山を登ること……

いつものように早朝から身支度を整え, 一宿のお礼を言って05:40に出発します。勿論, 朝食抜き。……この先, 最短距離で雫石市街を抜けようとすると, コンビニも何も全く無いんですよ。それは流石にまずい(8年前の青森3日目どころの話ではない)ので, 一旦R46雫石バイパスへ向かいました。こちらにはコンビニが2軒あることを確認しています。

で, 辿り着いたのはサンクス雫石バイパス店。ありがたやありがたや。

ここまでの走行記録(笑)……走行時間0.03.54, 走行距離1.08km, 平均速度16.9km/h, 最高速度38.2km/h(街道→雫石町役場), 総走行距離9,305.6km。

朝ごパンです。……失敗でした。茹で卵が, 堅茹ででした。私, 堅茹で卵って駄目なんですよ……口の中が粉塗れになる感触がひたすら気持ち悪くて。同じ理由で小豆餡が駄目なので和菓子が苦手だったりもします。しかし食べ残すのは矜持が赦さないので, 無理矢理にでも食べます。

更に栄養ドリンクと, 水分・凍結水分を買い込んで, 06:10改めて出発。

[7] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://yamaiga.com/rail/hasiba/main2.html

エターナル・ターミナル、橋場。

小粒ながら、当サイトでも人気の高いコンテンツのひとつであり、実は私も 前のレポート を公開後、新たな発見を求めて何度か再訪を繰りかえしてきた。

なかでも、 転車台 の発見こそは、その最大の目的であった。

転車台(ターンテーブル)とは、地上に設置される回転する円盤状の装置であり、ここに車両を乗せることで、その場にいながら進行方向を変更することが出来る。鉄道の蒸気機関車は、車輪を逆回転させて走行すると、本来の性能を発揮出来ない。そのため、終着駅など、運転の方向を頻繁に反転させる箇所には、転車台を設けることが多かった。

転車台こそは、蒸気機関車時代の終着駅におけるもっとも象徴的な存在といえ、橋場線の終点である橋場駅にも設置されていたと考えられるが、これまで構内配線図などは発見されておらず、その規模や位置も不明のままだった。

この図は、 これまで想像されていた橋場駅の構内の配線 である。

橋場駅は基本的には1番線と2番線の相対式ホームを持つ駅であるが、2番線の北側も路盤と同じ高さの広い空き地になっており、このまま島式ホームとして3番線を設けることが可能である(実際に敷かれていたかは不明)。また1番線ホームの終点側(大曲側)には、終点側に開口した頭端式のホームが存在し、貨物用ホームとして利用されていたと考えられている。

転車台は発見されていないが、ホームの終点側に広大な空き地が存在することから、そこにあったものと想像した。

そしてこれが、この構内配線における、実際の列車の取り回しの想像図(アニメーション)だ。

転車台がこの位置に存在していれば、1番線と2番線に敷設されたレールを用いて、無理無駄なく列車の進行方向を変えることが出来る。

(貨物ホームについては検討を省略した)

だが、3つのホームはほぼ完全な形で現存するにもかかわらず、“コンクリートに周囲を囲まれた円形の窪地”という、特徴的な遺構を残すはずの転車台については、想像された位置をいくら捜索しても、発見することが出来なかった。

さらに、現地の安栖(あずまい)集落での聞き取り調査において、「人力で動かした転車台が(図の位置に)あったが、いまは埋め戻されて跡形も無い」という証言が1件発生したことで、捜索を中止した。

橋場駅の転車台問題は、「現存せず」という判断で終了したかに思われたが、こ

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