国道339号

国道339号

[1] 国道339号

Webページ

[2] ミニレポ第210回 三厩港 国道交点, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_210.html

【周辺図(マピオン)】

我が国の国道の中には、海上区間を有する路線(海上国道)がいくつかある。

海上区間とは、国道の路線の途中にある文字通り海上の区間で、かつ架橋されていないものをいう。

もちろん車で走行する事は出来ないので、渡船施設と一体となって交通路としての機能を発揮することが期待されている(或いは将来の架橋を目論んでいる)のであるが、本州と北海道の間には3本の国道が海上国道として存在する。

そのうちの1本は国道280号で、起点の青森県青森市からおおよそ65km走った外ヶ浜町に本州側の陸路の終点があり、そこからおおよそ35kmの海上区間を経て、北海道の福島町に上陸。道内では全線が国道228号ほかの国道と重複しつつ、おおよそ70kmで函館市の終点に到達する。バイパスを除けば約135kmの陸路と、38kmの海路からなる国道である。

(ちなみに残りの2本の海上国道は国道279号と338号で、共に青森県大間町と北海道函館市の間が海上区間(重複)である。)

そして、津軽半島の外ヶ浜町で国道280号の本州区間は終わるのだが、この後を継ぐように津軽半島の残りを半周するのが、国道339号である。

こちらは国道の中でも特に酷道好きの人には、おそらく最も有名な路線番号である。“階段国道”といえば、おそらく西日本にお住まいの方も聞いたことくらいはあるだろう。

今回のレポートは、外ヶ浜町にある国道280号と339号の交差点である。

交差点なんて何が面白いのかと思われるかも知れないが、これがなかなかに印象的な風景なので、ぜひ紹介したい。

2014/11/11 10;53

これが国道280号と339号の交差点に立つおにぎり!

普段目にするものよりも高い支柱に取り付けられた、2枚の色が違うおにぎり。

上段は国道339号、下段は国道280号。

色が違うだけでなく、文字の配置や字体も微妙に違っている。

同じ道路標識ではあるのだが、製造・設置された時期が異なるものと思われる。

ちなみに、国道339号の路線指定は昭和50年で、国道280号はそれよりも古い昭和45年である。

そしてこの2枚のおにぎりに特段の哀愁を帯びさせているのが、それぞれの下に取り付けられた、色褪せきった補助標識である。

国道339号には右向きの矢印、国道280号には左向きの矢印が見て取れる。

これらの標

[3] ミニレポ第227回 国道339号旧道 龍浜〜袰内間, , http://yamaiga.com/mini/227/main.html

ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。

文豪太宰治が、昭和19(1944)年に発表した小説『津軽』の中で、路の果てる地として印象的に描いた 龍飛(たっぴ)崎 。

日本海と津軽海峡を分かつ陸地の尖峰として北海道を間近に望むこの岬には、今でこそ国道339号が東西に通じているが、同国道が指定された昭和50(1975)年当時には、三厩(みんまや)側からしか訪れられない、かりそめの終点だった。ここから小泊(こどまり)へ通じる約24kmの「 龍泊ライン 」が開通し、津軽半島の周回が可能になった記念すべき年は、昭和57(1982)年である。さほど昔のことではない。

ところで、地形的には文句なく津軽半島の突端にあり、半島の東西海岸線を分かつ存在である龍飛崎だが、人文的な意味の境界線といえる市町村境は、そこから少し外れた位置に敷かれている。

具体的には、東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)と北津軽郡中泊町(旧小泊村)の町界線は、岬の突端から1.5kmほど日本海の海岸線を南下した辺りにある。

とまあ、それだけならば古い為政者たちによる群雄割拠の結果かと思うくらいで、わざわざ訪れることはなかったかもしれない。私を強く惹きつけたのは、この町界線から僅かに小泊側へ入った位置にぽつんと描かれた小さな集落だった。私はこの集落の存在を前から密かに気にしていた。

現在の地理院地図には道沿いに4軒の家屋が描かれ、小さな文字で 袰内 という地名が注記されている。

「袰」の字が見慣れないが、調べてみると「ほろ」と読む字だそうであるから、地名の読みは「ホロナイ」だろう。思わずカタカナでそう書きたくなるくらいアイヌ語由来っぽい。「袰」は「母衣」と分かち書きされることもあるようで、こうなると御母衣湖(岐阜県)の名が思い浮かぶ。また、「保呂」や「幌」とも書かれるようで、それぞれ保呂羽山(秋田県)札幌(北海道)などの地名に心当たりがある。

袰内が珍しい漢字を使った地名であることは、惹かれた理由の一つだが、最大の理由ではない。

袰内は旧小泊村では最も北にある集落だ。

だが、

[4] 青函トンネル袰内工事用道路, , http://yamaiga.com/road/horonai/main.html

※このレポートは、「 ミニレポート227回 」の続編ですので、先にそちらを一読されることをおすすめします。

【周辺地図(マピオン)】

青函トンネル については、いまさら説明は不要だろう。

本州と北海道を結ぶ全長53.85kmの鉄道用の海底トンネル(海底部分は23.3km)で、昭和63年の開業当初は世界最長の鉄道トンネルであり、現在もなお世界第2位の地位にある。

まさに我が国が誇る土木構造物の一つといって良いだろう。

青函トンネルの建設着工が昭和36年で、開業は昭和63年だから、その工期は27年間にも及んだ。この間は本州と北海道の地上にそれぞれ1ヶ所ずつの建設基地が設けられ、本州側のそれは龍飛崎の突端近い、現在の「道の駅みんまや」および「青函トンネル記念館」の位置にあった。工期中に延べ1400万人の作業員が働き、その多くが建設基地の周辺に作られていた宿舎で暮らしたことから、当時の三厩村は今(外ヶ浜町)とは比べものにならないほどの人口を有し、財政的にも県内トップの充実ぶりを誇った。

そんな時代が確かにあった。

私が国道339号の旧道を探る目的で、その末端の袰内(ほろない)集落を自転車で訪れたのは、2014年11月11日の午後だった。

無事にその目的を果たしたので、マイカーを残してきた三厩駅付近へ戻ることにしたのだが、出来れば通ったことのない道を多く利用したい。

そんな気軽な理由から白羽の矢を立てたのが、右の地図に「 青函トンネル工事用道路 」と注記した道だ。

この道は最新の地理院地図にもちゃんとした(?)二本線で描かれていた。

ただし、その表記は途中でぷつりと切れていて行き止まりのようなのだが、その終点付近はとても平坦な地形として描かれており、これはおそらく青函トンネルのズリ捨て場だったのではないかと考えた。

ならば道はなくても無理矢理に国道339号の「ウィンドパーク」辺りへ抜けられるのではないかという、……まあ私にありがちな、少し無理のある打算をした。

なお、これは思いつきからの行動だったので、この道についてら事前の情報を持っていなかった。

ここが青函トンネルの工事用道路だということについても、確信があったわけではなかった。

だから当然、 そこが 廃道 だということも、知らなかったんだぜ…。

2014/11/11 14:36 《現在地》

写真

[6] 隧道レポート 七影隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/sitikage/main1.html

私が七影隧道の存在(現存するかという話ではなく)を知ったのは、今年の2月20日だった。

その日、シェイキチさんのサイトで初めて、七影隧道は紹介されたのである。

さらに、30年くらい前までは片方の坑口が残っていたという情報も。

氏が語る、七影隧道の失われた現在へと結びつく、僅かな断片。

それらをモニタ越しに掻き集めるように見つめながら、私は、訪問する機会をずっと伺っていた。

狙いは、晩秋、もしくは早春。とにかく薮の薄い時期。

氏の現地レポによれば、夏場は一帯が相当の激藪になっているようで、隧道の捜索は困難だと感じていたからだ。

そして、連日のように東北の高山から初雪の便りが届くようになった11月最初の連休、懐かしい顔ぶれが久々に揃った。

今回の合同調査に参加したメンバーは、右の写真の4人に私を加えた5人。

左から順に、ミリンダ細田氏、くじ氏、謎の自衛官氏、紅一点のトリ氏である。

この写真を撮ったのは中泊町小泊港の埠頭で、ここは小泊磯松連絡林道の起点だった所だ。

現在は近代的な港湾となっているが、今もその一角には大量のヒバ材を積み上げたままの貯木場があって、当時の面影を残す。

我々はここで昼食を摂った。

そしていよいよ、この日の最大の目的、七影隧道の合同捜索へと出発したのである。

レポートの前に、日本有数の規模を誇った津軽森林鉄道網の中での、この連絡林道の位置関係を整理しておこうと思う。

津軽半島の脊梁を中山峠越え(六郎隧道)で攻略した津軽森林鉄道の本線は、山を下って今泉に達すると南北に分かれる。

南下して喜良市(きらいち)を目指すのが本線で、北へ分かれ十三湖北岸を通り海岸沿いの磯松へ達するのが磯松林道(支線)である。

磯松林道は磯松から内陸へ進むが、その途中で更に分岐し、沢伝いに峰越して小泊林道と繋ぐのが連絡林道である。

小泊林道は小泊で終点だが、さらに北へと世にも珍しい海沿いの林鉄が続いている。

このうち、磯松林道と小泊林道は明治39年に軌道として供用されており、明治42年に全線が開通した津軽森林鉄道本線と同時期に建設が進められていた。

これらは県内もとい、日本最古の森林鉄道である。

連絡林道の起源も、序章で述べたとおり大変古いもので、県内最初の林道として明治32年に開設されたという(牛馬道?)。

やがて、七影隧道を掘ることで

[7] 隧道レポート 今別の松陰くぐり, , http://yamaiga.com/tunnel/shouin/main2.html

2014/11/12 6:12 【現在地】

“松陰くぐり”は、長さが5mにも満たない、隧道としては極めて小規模のものであった。

その一方は海岸に沿っているが、他方の出口はほとんど海面の方を向いていて、外へ出た直後に“明かり”の岩場伝いに右折する事で、やっと大泊側の海岸線を辿る事が出来る。

この道路としての機能から考えれば奇妙で不条理な線形も、元来は天然の海蝕洞であったものを隧道として流用した可能性を感じさせた。

写真は“くぐり”を抜けて“右折”した直後目の前に広がった、大泊側の海岸線である。

これから進む海岸線の望遠写真。

一番奥に見える波除けブロックの所は、もう大泊集落である。

そこに至るまでは、岩場が海岸に迫っており、道らしい道は無い。

波に濡れた礫海岸を歩くよりない。

ただ、岩場の下部に片洞門を思わせるような凹みがあるのは、人工的なものなのか、自然の波の作用なのか。

おそらくは後者であろうが、“くぐり”に人手が加わっていた以上、こっちもその可能性はある。

大泊側から見る“くぐり”の姿。

こちらから見ると、坑口は明らかに海の方を向いているのが分かるだろう。

それだけに、素掘隧道同様の加工された壁面が、より奇妙に見えるのである。

あれは道なのか、海なのか……。

何度見ても、奇妙だ。

6:16 【現在地】

100〜150mほど海岸を歩くと、崖の上の旧国道が急速に降りてきて、その路肩にある巨大な護岸擁壁が、あろう事か海岸線を先へ進む事を否定してしまっていた。

残念だが、松前街道の散歩はここまでである。

ただしこの先の風景は、皆さまにお見せしよう。

これは前日の日中、大泊集落を通ったときに撮影した写真である。 →

道は旧国道で、目の前に見えるのが大泊集落。

左に見える波除けブロックの列は、上の写真に見えるそれの、続きである。

なるほど、旧国道が松前街道を利用している事が頷ける、大泊集落の風景であった。

さて、帰ろう。

帰りは動画を撮りながら、“くぐり”をくぐってみた。

ここが今から200年後に“ヨッキくぐり”と呼ばれていたら、どうしよう〜。

ワルクードに戻って、探索終了!

ここからは、お楽しみの“解説編”と行きたいところだが、私自身、まだ納得の行く“答え”には辿り着けていない。

先に結論を申し上げるが、“松陰くぐり”の誕生や改良の全容は判明してい

[8] 弘前国道維持出張所 吉田松陰, , http://www.thr.mlit.go.jp/aomori/syutu/hirokoku/hirokoku_rekisi/yoshidasyouin/yoshidasyouin.html

高杉晋作をはじめ明治維新に活躍した多くの弟子を育て、数え30歳で刑場の露と消えた長州の志士・吉田松陰。

江戸に留学中、ロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく、脱藩覚悟で東北へ旅立った。嘉永4年(1851)の旧暦12月、弱冠22歳の時である。

翌年3月、彼は熊本藩士宮部鼎蔵とともに津軽半島に達した。『東北遊日記』に「真に好風景なり」と書かれているのは、中里の十三湖岸の景色のことだ。

3月5日、2人は小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入る。当時津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じて道をつくっていなかった。谷間をのぼり、

膝まで水に漬かりながらあちら側、こちら側と沢を幾度も越えてようやく算用師峠の頂上に至る。嶺を下ると、2、3尺も雪が残っており、雪の中を歩き、さら

に雪解け水が大流となっている川を何度も渡って、「困苦太甚し」という苦行の末に、やっと三厩の海岸に出たという。

昭和43年、「松陰先生足跡踏破の会」(代表・漆畑直松氏)が発足した。当時は松陰が歩いた頃と同じような道なき道で、会は広く青少年に呼びかけてこの

道を辿る行事を行った。一方、道の整備を県に陳情し、現在は「みちのく松陰道」と名付けられた12キロのハイキングコースとして、整備されている。踏破の

会はその後「青森県歴史の道整備促進協議会」に発展し、活動している。会長の塚本恭一氏(中里町長)は、「命を捨ててまでも国を想うという松陰ゆかりの道

を、多くの人に知ってほしい」と語る。

緑深い算用師峠。ブナやヒバなどの木もれ日がさす小道には、ガクアジサイや深山特有のサンカヨウなどの野草が生い茂り、虫の音が響いていた。

(協力…漆畑直松氏)

●松陰は弘前からこの地へ入り、平舘から舟で青森方面に向かった。

●みちのく松陰道へは、青森市から車で約1時間10分(国道280号経由)。五所川原市から車で約1時間30分(国道339号→県道鰺ケ沢蟹田線→県道今別蟹田線経由)

若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。小泊から算用師峠を越え

て三厩の海岸に出るが、その途中詩作している。「去年今日発巴城(去年の今日巴城を発し)…」で始まる詩文は、昭和41年竜飛崎に建立された「吉田松陰詩

碑」に刻まれている。

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567310824523

メモ