帰雲城 (かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、今の 岐阜県 大野郡 白川村 保木脇(ほきわき)にあった 日本の城 である。 内ヶ島氏 の居城であったが地震による山崩れで埋没した。
略史 [ 編集 ]
帰雲城は当地の有力武将である 内ヶ島氏 の居城であった。 寛正 年間( 1461年 - 1466年 )の 1462年 ころに 内ヶ島為氏 により築城された。
天正 13年 11月29日 ( 1586年 1月18日 )に 天正地震 が起き、 帰雲山 の山崩れで埋没。城内と城下を合わせ推定500人余りが埋没したとされる [1] 。当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と言われる [2] 。城主の 内ヶ島氏理 ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって 内ヶ島氏 は滅亡した。また、内ケ島氏の領内に金山があったことから、そのとき埋まったとされる 埋蔵金 伝説がある。
立地 [ 編集 ]
城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っているが、その場所が城跡であるとの確証は得られていない。
昭和30年代に保木脇集落ができ、採石業を営む建設会社の社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、帰雲山崩壊地を背景とする作業現場周辺を住民の協力を得て整備し、その霊を祀る観音像や神社などを建立し、公園化した [1] 。
願泉寺資料 [ 編集 ]
泉州 貝塚(現在の 大阪府 貝塚市 )にある 願泉寺 住職道喜(宇野主水)が 安土桃山時代 につけていた日記『 貝塚御座所日記 』に以下の記述がある。
天正十三年七月五日、未刻、大地震。
天正十三年十一月十一日、夜九ツ半地震。この頃「光るもの」みたるもの多し。
廿九日夜四ツ半過ぎ大地震、十余日止まず。 京都 三十三間堂 の六百体の仏像すべて倒る。 飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。地震に山をゆりくずし山河多くせかれて、内島の在所へ大洪水はせ入って、内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。他国へ行きたる四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。彼の在所はことごとく渕になりたる也 。
他、「越中国名跡志」という史料にも同様の記述がある。
関連書籍 [ 編集 ]
研究書 [ 編集 ]
岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 中世』(1969年発行)
岐阜県編集発行『岐