白浜町

白浜町

[1] 白浜町

Webページ

[2] 道路レポート 和歌山県道213号 白浜久木線, , http://yamaiga.com/road/wpr213/main8.html

今回の探索を通じて印象に残ったもののワン・ツーを挙げるとすれば、序盤に登場しその後の異様な展開の走りとなった 【通告の看板】 と、終盤に登場して見事に有終の美を与えてくれた “隧道” (右写真)であろう。

そんなわけだから、帰宅後に行った机上調査においても、現地探索では竣工年はおろか名称さえ明らかにならなかった“隧道”について重点的に調べた。

この項でその成果を紹介する。

古いトンネルについて調べたいとき、大抵私が最初にあたってみるのは、 『道路トンネル大鑑』 (昭和43(1968)年/土木界通信社)巻末の「隧道リスト」である。もはやお馴染みだろう。

『大鑑』は、現在では廃止されてしまった多くのトンネルが現役で頑張っていた昭和40年頃の資料という点で、比肩するもののない優れた資料なのであるが、大きな弱点がある。

それは、都道府県道以上のトンネルしか記録していないということだ。

“久木の隧道”(仮称)は、現在でこそ県道に指定されているが、果たして昭和40年当時にも県道であったのだろうかという疑問(不安)があった。

さて実際に『大鑑』の「隧道リスト」を開いてみる。

右図は和歌山県の部の一部である。このような型式でトンネルの各種データが並んでいる。

図中の一番左が路線名欄であるが、案の定、「白浜久木線」の名は見られなかった。

考えられるのは、昭和40年当時はこの県道が存在しなかったか、隧道が存在しなかったかということだが、前者の方が遙かに可能性は高いだろう。

早くもこの資料では手詰まりになったかと思われた。

実際、ここで一旦“隧道”についての調査をストップし、成果を本編後段で紹介するが、庄川越という道全体の歴史調査を進めることになった。

だが、その過程のなかで幸運にも私は、ふたたび『大鑑』に戻ってくる事が出来たのだった。

庄川越の歴史調査の結果、 昭和40年当時この道が、一般県道「三尾川紀伊富田停車場線」に認定されていた ことが判明したのである。

ピコーン! この路線名ならば、『大鑑』に載っていたぞ!

右図の赤線のところだ!! →

路線名: 三尾川紀伊富田停車場線 トンネル名: 〃 個所名: 日置川町久木 延長: 3.9m 車道幅員: 2.1m 限界高: 2.7m 竣工年度: (空 欄) 素掘,

[4] 古座川町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%BA%A7%E5%B7%9D%E7%94%BA

歴史 [ 編集 ]

当町山間部では温暖かつ湿潤な気候のため、古来より良質の材木を産しており古座川材と称された。この古座川材を古座川沿いの村々が古座川に流し、これを下流の高池や西向、古座といった場所で受け取り、下流の町が栄えることとなった。

江戸時代末期ごろの古座川流域は、材木材よりも備長炭の材料としてのウバメ樫を使った上質な炭づくりが大変盛んに行われており、江戸や上方の台所燃料として大変好評で、下流の高池にある佐藤家はこれをほぼ独占供給していた。現在でいえば東京ガス大阪ガスを支配するようなものであり、耕地面積が少なく、年貢米が納められずに投獄される地主がいるほどの貧しい地域にあっては異色の豊かさだった。現在の古座川町役場は佐藤家跡に建てられている。

町名は町内を流れる 古座川 にちなんで命名された。

沿革 [ 編集 ]

1956年 ( 昭和 31年) 3月31日 - 高池町 ・ 明神村 ・ 小川村 ・ 三尾川村 ・ 七川村 が合併して発足。

行政 [ 編集 ]

現在の町長は武田丈夫。 2008年 6月15日の町長選挙で初当選し、 2012年 に再選した。

経済 [ 編集 ]

2005年の国勢調査によると

第一次産業就業人数は162名、

第二次産業就業人数は196名、

第三次産業就業人数は927名

である。

産業 [ 編集 ]

山間部では古座川材を産すなど林業が盛んで、海岸に近い高池などでは木材加工も盛んである。特産品として「ユズ」があげられ、柚子酢のほかジュースやジャムなどに加工されている。

日本郵政グループ [ 編集 ]

集配郵便局

明神郵便局(明神)

三尾川郵便局(三尾川)

無集配郵便局

高池郵便局(高池)

西川郵便局(西川)

簡易郵便局

佐田(さだ)簡易郵便局(佐田)

小川(こがわ)簡易郵便局(小川)

平井簡易郵便局(平井)

簡易郵便局を除く各郵便局にゆうちょ銀行のATMが設置されており、明神郵便局ではホリデーサービスを実施(2011年6月現在)。

※古座川町内の郵便番号は以下のとおり。

「 649-41xx 」 = 東部地域(高池、宇津木、池野山、月野瀬、楠、樫山)。 串本郵便局 (東牟婁郡 串本町 串本)の管轄。

「 649-42xx 」 = 中部地域(明神・小川地区など)。明神郵便局の管轄。

「 649-44xx 」「 649-45xx 」 = 西部地域

[5] ☆ 岩門 ☆|癒しの和歌山, , http://ameblo.jp/968-910/entry-10683051288.html

12:55ごろ

「石門」バス停です。

ここにもクジラの絵が描かれています。(‐^▽^‐)

バス停のそばに岩門(せきもん)があります。

麻巳子たちは 燈明崎

からこの岩門を見にやってきました。

坂を下った漁港そばで、国道240号線沿いになのですぐ分かりました。

岩門(せきもん)の説明板がありました。

『古来、和田の岩屋とか和田の岩門(せきもん)と呼ばれていた。

紀伊風土続風土記には「和田の岩穴 村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。内に入れば村居に適せり。和田氏住居せし所といふ。」

と記載されている。(和田氏とは、太地古式捕鯨の創始者のこと。)

和田氏は、この石門の内側に4,5千坪もある屋敷をもち、のちにここを和田の東屋敷と呼んだ。』

鎌倉時代の武将・朝比奈三郎が北條氏に鎌倉を追われた後、この岩門の内側に居を構えたと伝えられているそうです。

また、和田家の通用口だったようですが、現在は屋敷は無く、この向こうには住宅が密集していました。

岩門は素彫りのトンネルかと思ったら、風化作用で自然にできた岩穴なんですって。\(゜□゜)/

内部は崩落防止のために、今はコンクリートで補強されています。

[6] 道路レポート 和歌山県道213号 白浜久木線, , http://yamaiga.com/road/wpr213/main.html

【位置(マピオン)】

和歌山県道213号白浜久木線 は、紀伊半島の南部、白浜温泉で有名な白浜町の山間部にある、全長約11kmの一般県道である。

同町内の庄川(しゃがわ)地区と久木(ひさぎ)地区を山越えで結んでおり、峠は 庄川越 という。

(峠の東側の日置川流域は平成18(2006)年まで日置川町に属していたが、合併によって白浜町の一部となった)

しかしこの庄川越の県道だが、市販されている道路地図帳を見ると、全線のうち県道の色が塗られているのは起点側の3kmほどだけで、全線の4分の3近い区間は、無着色の破線や細線で辛うじて描かれているだけである。いわゆる“不通県道”として表現されている。

右の画像は、最新の地理院地図である。

ここでは県道の全線がちゃんと県道の色(黄色)で塗り分けられている。

そして、その道の描かれ方をよく見てみると――

――起点の「庄川口」から3km地点の「出合」集落までは、「1車線の道路」の記号で描かれている。ここまでは市販の道路地図帳でも県道である。

その先は、「軽車道」の記号である細線がひょろひょろと伸びて、そのまま峠を越えて旧日置川町側まで達している。

だが、「出合」から約5km(峠から1.5km)の地点で記号は「徒歩道」に変わり、終点の「久木橋」手前まで約2kmが、地図上の道として最も脆弱な表現をされている。

最後は0.5kmほど「軽車道」の区間を通って、ゴールである。

地図に描かれた道は全体的に等高線に対し従順で、いかにも車道っぽく見えた。

オブローダーとしての勘が働く。

約2kmの「徒歩道」区間の存在が不安ではあるが、 自転車で完抜出来たら、なかなかに楽しめそうだ。

そんなわけで探索に行ってみた。

探索日は、今からほぼ1年前の平成28(2016)年1月9日である。

進行方向は、起点から終点だ。

2016/1/9 6:52 【現在地(マピオン)】

今回の探索、目標とする走破の距離が結構大きいうえに事前情報もほとんど無い状態だったので、時間に最も余裕を持てる朝一からの探索とした。

現在地は、夜明け直後の紀勢本線は紀伊富田(きいとんだ)駅だ。

いまは輪行袋に入った自転車と共に、普通列車を降りたところである。

これから自転車に乗り換えて県道213号の起点を目指す。

出発進行!

7:22 【現在地】

途中のコ

[7] 熊野神社 (碓氷峠), , http://www.genbu.net/data/kouzuke/kumano_title.htm

随神門をくぐると社殿のある境内。 右手の群馬側には当社・群馬県熊野神社の拝殿(神楽殿)があり、 左手の長野県側には長野県熊野皇大神社の拝殿がある。

また、正面には三棟並んだ社殿があり、 中央が群馬(上州)と長野(信州)にまたがった本宮。 右手の上州側には新宮、左手の信州側には那智宮が鎮座。 中門の手前に、左手に「熊野皇大神社」、右手に「熊野神社」と記された 社号標が建っている。

長野側の那智宮を熊野皇大神社が、 群馬側の新宮を当社・熊野神社が、中央の本宮を共同で管理しているのだろう。

社伝によると、第十二代景行天皇の頃、 日本武尊の東夷征伐凱旋の途中、武蔵、上野を経て坂本にさしかかった時、 荒ぶる山神が白鹿に化けて日本武尊を苦しめんと姿を現したが 蒜(ネギやノビルなどの植物)を白鹿の目に打付けて殺してしまった。

ところが、たちまち濃霧が発生して何も見えなくなり、道に迷われてしまった。 そこに一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、 日本武尊の御前に落とし前導するように飛んで行くので 八咫烏について行くと、無事に碓氷峠に到着した。 日本武尊は、熊野神霊の加護に感謝し、 この碓氷の嶺に熊野大神を勧請したのが当社の起源。 景行天皇四十年十月のことであるという。

碓氷の嶺に立った日本武尊は、雲海から海を連想され走水で入水された 弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたという。

当社の鎮座する碓氷峠は中山道の要所にあり、 皇室公卿方をはじめ参勤交代の諸大名や一般通行の諸人なども当社に参拝した 道中の安全と家業の繁栄を祈願したという。 往昔には、新田義貞によって広大な神領を寄進され 西は信濃国長倉村鳥居原に、 東は上野国碓氷郡新堀村鳥居坂に大鳥居があったという。

「碓氷」という地名は、万葉集の「上野国歌」にあり 群馬県側(上野国)の方が有名で、日本武尊が苦労して登ったのも群馬側。 碓氷峠の熊野権現は、本来は上野国の神だったのかもしれない。

だが、「上野国神名帳」碓水郡に当社の名前はなく、 『明治神社志料』熊野神社の項には、 元は長倉神社、長倉山熊野権現とも称していたとあって、 信濃国の式内社・長倉神社であると記されている。

思うに、峠の上に鎮座しているため冬季の参拝が不便となり、 また、碓氷峠の東側(群馬側)が寂れ、西側麓、長野県の軽井沢町が

[8] 千葉県 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C

概要[編集]

関東地方の南東部に位置する県で、三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾・太平洋)や河川(利根川・江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は房総丘陵などの丘陵地帯だが、最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。標高329mの鋸山や鹿野山など、観光地化されているところもある。

千葉県は律令制以来の『房総三国』である上総国・安房国の全土と、下総国の一部から成り立っている。「下総国」のうち、猿島郡・結城郡・豊田郡・岡田郡の4郡と相馬郡・葛飾郡2郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡のさらにまた一部は東京都と埼玉県に編入されている。

1873年(明治6年)6月15日に、北西部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。その後、1875年(明治8年)5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に、江戸川以西の区域を埼玉県に移管した。その後、1899年(明治32年)に香取郡のうち利根川以北・横利根川以西の区域が茨城県稲敷郡に編入され、現在の県域がほぼ確定した。

都道府県人口・都道府県人口密度・都道府県昼間人口[1]はいずれも全国6位。面積は全国28位(南関東1都3県では最大)である。

平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京都に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。県北西部の人口は稠密であるが、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでいる。また、一部の市町は過疎地域に指定されている。浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として市原市の石油化学コンビナートや、千葉市と君津市にある製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。2008年度の県内総生産は19兆6889億円であり、世界の過半数の国の国内総生産より大きな規模を有している[2]。

地理・自然[編集]

千葉県の県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと、南西諸島以外の日本列島は半径1000km圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大

[9] 大多喜ダム建設事業について(河川総合開発事業)/千葉県, , http://www.pref.chiba.lg.jp/gyoukaku/jouhoukoukai/shingikai/gyouseikaikaku/iinkai/32-1siryou1.html

2.流域の概要

(1)流域の概要

沢山川及び西部田川は、千葉県の南部、夷隅郡に位置し伊藤大山(標高245メートル)に源を発して南東に流下し、激しく蛇行を繰り返しながら中流部で進路を東に変え西部田付近で夷隅川に合流する流域面積6.0キロ平方メートル,流路延長約2.5キロメートルの小河川である。

なお、夷隅川は千葉県内の最大の流域面積299.4キロ平方メートルを有しており、勝浦市、大多喜町、夷隅町、御宿町、大原町、岬町の1市5町を流域としている。

夷隅川流域は、海岸性の気候を示すとともに県内でも多雨地帯に属し、台風期の豪雨により災害が多く発生している。過去の豪雨の記録としては、昭和36年6月28日に日雨量230ミリメートル、昭和45年6月30日~7月2日にかけての「関東地方南部の集中豪雨」では、351ミリメートルの日雨量を記録した。

流域の年平均降水量は2,000ミリメートル、年平均気温は15℃である。

沢山川の水利用は古くからかんがい用水に利用されており、下流部には水田が広く分布している。

また、夷隅川水系ではかんがい用水として71の水利権があり、約3,300ヘクタールのかんがい用水として高度に利用されている。

(2)夷隅川の主な既往の災害実績

発生年月日

降水量

被害状況

[10] ミニレポ第207回 日置大橋と日置小橋, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_207.html

【周辺図(マピオン)】

今回紹介するのは、旅先で偶然出会った古橋である。

場所は和歌山県南部の白浜町、数年前までは日置川町と呼ばれていた辺りだ。

ここにはその名の通り、日置川という大きな川が流れているんだが、そいつは南紀の三大河川の末弟であるらしく“日置三郎”なんて呼ばれたりもするらしい(ちなみに兄弟は“熊野太郎”と“古座次郎”だそうだ)。

そしてそんな見所のありそうな“日置三郎”の最も河口に近いところに架かっているのが、今回紹介する2本の橋。

これまた、名前からしていかにも分かり易い兄弟橋の “日置小橋”と“日置大橋” なのである。

大きな川を、2本の橋を渡り継いで攻略するって、なんか浪漫を感じるぜ。

右図は、今回の探索地点を示した最新の地形図である。

これを見れば一目瞭然だが、日置川の河口近くを2本の橋で渡るというのは、このように川の真ん中に浮かんだ大きな中洲を中継点にして渡っていくということだったのである。

だいだい、川の中洲なんていうものは不安定なもので、洪水の度に位置が変わってしまったりするから、“橋休め”には余り役に立たないというのが定説だと思うのだが、調べてみるとこの日置川河口の「中芝」と呼ばれる中洲は、記録が残る江戸時代からずっと存在し続けているという、もし中洲界に長者番付なんてあったら西の関脇くらいにはノミネートされそうな奴なのである。

とまあ、少し話しが脱線したが、この中洲を挟んで南側(左岸側)が日置小橋、上流側が日置大橋と呼ばれている。

そして、これが本稿の真のポイント。

日置小橋も日置大橋も、それぞれ1本だけじゃないんですよ!!

なんと、良く並んで2本ずつ架かっていたりする。

しかも、片方は国道で片方は県道という太っ腹ぶり(?)である。

それでは現地の景色を見てもらいましょう。「現在地」の所から、いざ自転車に乗ってスタート!

2015/7/26 15:11

日置兄弟橋の弟分にあたる日置小橋は、小橋なんて呼ぶのが申し訳なくなるような立派なトラス橋であった。

形式としては下路の曲弦ワーレントラスで、曲弦というところに、そこはかとない年代を感じる。

でも、そんな老朽橋という感じもしないしっかりとした橋である。

そいつが2径間並んで、日置川に浮かぶ大きな中洲の左岸側水路を跨いでいた。

そしてこの日置小橋に対して、やや斜行しなが

[11] ミニレポ第207回 日置大橋と日置小橋, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_207_2.html

まずは「前編」の積み残しの解決から。

現地でうっかりチェックし忘れてしまった、現国道の2本の橋の名前を含む、日置川を渡る新旧国道に関わる5本全ての橋の名前が、読者さまからの情報提供により右図の通り判明した。

情報提供者は国土交通省近畿地方整備局の資料「橋梁長寿命化修繕計画(平成24年)」から橋名を拾ってくださったそうなので、正確性は保証できる。

私が現地で名前を調べ忘れた2橋は、現国道の新日置小橋と日置橋という名前であった。

新日置小橋は全く以て直截なネーミングで、私が仮称したものと変わらないが、中洲に架かっている避溢橋の「日置橋」という名は予想外だった。

これはぶっちゃけ、橋名を考えるのめんどくさくなったのかな?って疑ってしまうくらいのシンプルさだ。まあ、中洲の中とはいえ確かに地名としては白浜町日置に架かる橋なのだが。

といった胸の支えも取れたところで、いよいよ旧道の日置大橋… こわれた橋 …にロック・オン!!

2015/7/26 15:22 【現在地】

衝撃の告白、「この橋は、こわれています」を前にした私は、顔がほころぶのを禁じ得なかった。

もちろん、この橋に愛着を持って大切に使ってきた人々から見れば、私の反応は不謹慎でしか無いだろうが、それでも私は道路の様々な姿を見たいと願う者。

健康な姿だけではない、病んだ姿も、死したる姿も愛したい。最後まで楽しみたい。

「 わたらないでください 」という赤文字の警告板に強制力を付与すべく、橋の前にはコーンからU字パイプから反射ポールからAバリケードから仮設バリケードまで、様々な封鎖物が互いの場所を取り合うようにひしめき合っているくせに、なぜかその全て片手落ちでどこか壊れているという、なんともカオスな状況になっている。

だから、歩行者や自転車程度であれば、何かを乗り越える手間も無く「するーっ」と脇をスルーできてしまうのだから、ユルユルにもほどがある。

カオスな橋前空間をすり抜けると、まずはこんな看板が私を出迎えた。

この橋は幅員が狭く駐車

すると駐車違反になりま

す。駐車しないで下さい。

白浜警察署・日置川町

ここに書かれている内容は、普通ならば「駐車禁止」の道路標識1本で足りそうなことである。それを敢えてこうして、車のドライバーは読みそうも無い看板にしているのは、ちょっと普通のことでは無い。

でも

履歴

[12] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567291593128

メモ