大江戸線

大江戸線

[1] 大江戸線

Webページ

[2] 都営地下鉄路線図の大江戸線を丸く表現したひと - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/170303198938_1.htm

都営地下鉄の駅や電車内に掲示してある、大江戸線が楕円で描かれたあの路線図は、東京にお住まいの方であればご覧になったことがあるひとも多いと思う。

今回、その路線図をデザインしたひとに、話をききに行った。

[3] 新宿駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85

概要[編集]

東京の副都心・新宿に位置するターミナル駅である。1885年(明治18年)に日本鉄道により現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。4年後の1889年(明治22年)には南豊島郡淀橋町となる。開業時から新宿を副都心にする計画が発表されるまでは当駅周辺はまだ街の外れであり利用客は少ないものだったが、大正期に入り次第に市街地が拡大するにつれ、多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、1931年には私鉄や国鉄などを合わせた利用者数で日本一になった[1]。そして、1966年(昭和41年)には国鉄(現 JR)新宿駅も国鉄池袋駅を抜いて乗車人員数日本一になっている[2]。同年の当駅の乗車人員数は41万69人で、池袋駅の41万67人をわずか2人上回っての日本一だった。 さらに1960年代から当駅西側一帯で進められた新宿副都心計画によって、70年代には多くの超高層ビルが建てられ利用者の増加に拍車がかかった。

現在ではJR・私鉄・地下鉄の多くの路線が周辺地域のベッドタウンとを結んでおり、多くのビジネス客が利用する。また、当駅周辺は日本最大の繁華街・歓楽街となっており、昼夜を問わず人の流れが絶えることはない。JRの駅を中心に東・西・南口、周辺の各地下鉄駅、商業施設などが通路や地下街などで広範囲に連絡している。

一日平均乗降者数は約326万人(2011年)[3]と世界一(ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿駅まで含めると約343万人(2011年)ほどになり、この数字は横浜市の人口に匹敵する。

乗り入れ路線[編集]

JR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局の5社局が乗り入れるターミナル駅である。以下のうち、京王線と小田急小田原線は当駅を起点としている。

JR東日本

JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は山手線と中央本線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、山手線を当駅の所属線としている。一方、当駅に乗り入れている運転系統は以下のように多岐にわたっている。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および東京山手線内に属する。

(線路名称上の)山手線では、電車線を走行する環状線としての山手線電車のほか、山手貨物線を走行する埼京線と湘南新宿ラインが全列車停車

[4] 構造に欠陥がある駅wwwwwwwwww:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4856388.html

1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/04/13(月) 10:13:48.77 ID:6syUqxmV0.net

[6] 山手線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E7%B7%9A

山手線(やまのてせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が運営する鉄道路線である。

「山手線」には、次の4つの意味合いがある。旅客案内および運行管理上は2.が多用される。

路線名称としての「山手線」:東京都港区の品川駅を起点に、渋谷駅・新宿駅・池袋駅を経由して北区の田端駅を結ぶ全長20.6kmの鉄道路線(幹線)の名称[1]。東海道本線の支線。鉄道要覧に記載された山手線の区間でもある。

全線複々線であるが、このうちの埼京線電車、湘南新宿ラインの列車や特急列車、貨物列車の走る路線を通称「山手貨物線」と呼ぶ。

運転系統としての「山手線」:上記 1. に東海道本線の一部および東北本線の一部区間を合わせて東京都区内で環状運転を行う近距離電車の運転系統。実際には同運転系統のみが使用する専用の線路があり、それを「山手線」と呼ぶ。

マルスのシステム上の経路表示における「山手線」:上記1.から、代々木駅 - 新宿駅間を除外し、田端駅 - 日暮里駅間を含む(代々木駅 - 新宿駅間は「中央東線」と表示される)。

運賃計算上の「東京山手線内」:東京駅からの営業キロ程が100km超200km以内の範囲に所在する駅に発着する乗車券(または1km超200km以内の範囲に所在する駅に発着する一部の特別企画乗車券)に表示されることがある運賃計算上の名称。上記2.の区間に加え、環状線内側にある中央本線神田駅 - 代々木駅間および総武本線秋葉原駅 - 御茶ノ水駅間を含む。また、この区間内相互の近距離運賃は区間外よりも低額に設定されている。

以降、本項において特記のない場合は、2. の運転系統としての山手線を指すものとする。

概要

山手線は、日本の首都である東京の都心部で環状運転を行い、多くの駅において、都心から各方面へと伸びるJR(在来線・新幹線)や私鉄各社の放射路線、および都心部を走る地下鉄各線に接続している。1周の長さは34.5km、1周の所要時間は最速59分、平均64分である。ラインカラーは1963年登場の103系電車の車体の色に使用されたウグイス色(■、国鉄黄緑6号)であり[2]、以降登場したステンレス車両の帯の色や旅客案内(路線図・サインシステムなど)にも使用されている。

山手線は、日本の文明開化期に日本鉄道(私鉄)が当時国内有数の貿易港であった横浜港と関東地方内陸部の各地(埼玉県、群馬県、栃

[7] 都営地下鉄三田線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E4%B8%89%E7%94%B0%E7%B7%9A

三田線 (みたせん)は、 東京都 品川区 の 目黒駅 から 板橋区 の 西高島平駅 までを結ぶ、 東京都交通局 が運営する 鉄道路線 ( 都営地下鉄 )。『 鉄道要覧 』には 6号線三田線 と記載されている [1] 。開業当初は「都営6号線」と称した(後述)。

路線名の由来は名称制定時の終着駅である 三田 (みた)から。車体・路線図・乗り換え案内で使用される ラインカラー は「ブルー」(青): 、路線記号は I [2] 。

概要 [ 編集 ]

東京特別区部の南部から都心部の日比谷・大手町を経由し、北西部の板橋区まで、おおむね南北を弓なりに(西に向いた逆C字型)走る路線である。目黒駅で 東急目黒線 と 相互直通運転 を行っている(詳細は #運転 を参照)。

この路線は 高島平駅 側より開業したが、起点は目黒駅( 2000年 9月26日 - )である。 ワンマン運転 を実施しており、保安装置として 日立製作所 製の ホームゲートシステム [3] を全駅に装備する( #駅設備 を参照)。

収支状況は、 2004年 度決算で純損益が約16億2,131万6,000円の赤字 [4] 、 2005年 度決算で約14億8,247万4,000円の黒字 [5] 、 2006年 度決算で約21億6,957万6,000円の黒字 [6] で、着実に改善している。

路線データ [ 編集 ]

路線距離( 営業キロ ):26.5km

目黒 - 白金高輪間2.3km(第二種)、白金高輪 - 西高島平間24.2km

軌間 :1067mm

駅数:27駅(起終点駅含む)

複線区間:全線

電化区間:全線(直流1500V 架空電車線方式 )

地上区間:志村坂上 - 西高島平間

閉塞方式 :車内信号閉塞式

保安装置: CS - ATC

列車無線 方式: 空間波無線 (SR) 方式

漏洩同軸ケーブル (LCX) を使用したものである。

最高運転速度:75km/h

表定速度 :31.1km/h

全線所要時分:52分10秒

車両基地 : 志村車両検修場

目黒 - 白金高輪間 (2.3km) は 東京地下鉄 (東京メトロ) 南北線 と線路(施設)を共用しており、東京地下鉄が 第一種鉄道事業者 、東京都交通局が 第二種鉄道事業者 となっている。このため、運賃計算方式に特例がある。 東京メトロ南北線#運賃計算の特例 を参照

[8] 江東区 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%8C%BA

昼夜間人口[編集]

2005年に夜間人口(居住者)は420,827人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は490,708人で昼は夜の1.166倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行126,127ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)

地理[編集]

河川

隣接する自治体

中央区、港区、墨田区、品川区、大田区、江戸川区

※ 隣接する自治体とはすべて陸続きでもある。

地勢[編集]

かつて地下水の汲み上げにより地盤沈下したことで、区の大部分がゼロメートル地帯となっている。また、運河と橋が多く、区では“水彩都市”と呼んでいる。道路と水路が連なって作られており、住宅地のそばを船が行き交うことも多い。区内には東京都から副都心に指定されている臨海副都心と錦糸町・亀戸副都心があり、二つの副都心を包括している。この事もあり、区内には観光客や会社員も多くやって来る。

臨海副都心は品川区・港区にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めており、近年[いつ?]急速に開発が進められた新興開発地域であり、街の景観は非常に近代的である。 錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大繁華街で、古くから下町として栄えた。1990年代後半から、東京の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には埋立地が多く、ゴミ埋立て「東京ゴミ戦争」で有名な夢の島や青海、有明などは観光地区としても賑わっている。 また、臨海部にある湾岸地域は港区、江戸川区と海岸線を連ねてつながっており、台場や東京ディズニーリゾートへの交通の便が良い。なお、東日本大震災の際に、一部液状化した地区もあり、団地が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ地区もあるが、2013年現在、簡易な補修または放置されている場所もある。

面積は39.94km²だが、この数字には大田区と帰属係争中の中央防波堤地区は含んでいない。

自然環境[編集]

区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は大規模な公園が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられ、東

[9] 浜松町駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E7%94%BA%E9%A7%85

浜松町駅 (はままつちょうえき)は、 東京都 港区 にある、 東日本旅客鉄道 (JR東日本)・ 東京モノレール の 駅 である。ただし、東京モノレールでは、 モノレール浜松町駅 (モノレールはままつちょうえき)が正式な駅名である。

所在地は、JR東日本が 海岸 一丁目、東京モノレールが 浜松町 二丁目となっている。

乗り入れ路線 [ 編集 ]

JR東日本の各線(後述)と、東京モノレールの 東京モノレール羽田空港線 が乗り入れている。

JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は 東海道本線 1路線のみである(詳細は路線記事および 鉄道路線の名称 参照)が、当駅には 電車線 を走る 京浜東北線 電車および 山手線 電車のみが停車し、旅客案内では「東海道(本)線」とは案内されていない。また、当駅はJRの 特定都区市内 制度における「 東京都区内 」および「 東京山手線内 」に属する。このほか、 東京貨物ターミナル駅 方面への東海道本線支線( 東海道貨物線 )の起点駅となっているが、現在、当駅 - 東京貨物ターミナル駅間は休止中である。

歴史 [ 編集 ]

当駅付近では 日本の鉄道開業 当時から列車の運行が行われていたが、この時点ではまだ当駅は開設されていなかった。開設されるのは、市街高架線の部分開通に伴って 国有鉄道 東海道本線の 品川 - 烏森 (後の新橋駅)間が開通する1909年(明治42年)12月16日のことであった。鉄道開業当初の新橋駅は後に貨物駅となる 汐留駅 で、また東京から北へ鉄道網を伸ばしていた 日本鉄道 のターミナル駅は 上野駅 となっていたが、この間を結ぶ鉄道がなく、連絡が課題となっていた。このため、この間を連絡する高架鉄道の建設が行われることになった。この際に当駅付近で旧線から分岐する形で高架橋を建設した。この時点では旧新橋駅が東海道本線の起点で、当駅は東海道本線支線上の駅であった。開業時点では山手線の電車のみが停車する駅で、島式プラットホーム1面2線が設置され、プラットホームの長さは約93.6 m あった。すぐ東側には竹芝や芝浦など 東京港 の桟橋があり、 伊豆七島 へ向かう航路などへの連絡駅でもあった [1] [2] 。

1914年(大正3年)12月20日に 東京駅 が開業し、これに合わせて東京駅を起点とする市街高架線が東海道本線となり、

[10] 新宿駅の立体模型ですっきりする - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/161122198124_1.htm

新宿駅西口の地下イベントコーナーで新宿駅の1/100立体模型を展示中である。

地下道がどうつながっているか、出口どうしがどれぐらい離れていたのかがよく分かる。

クリアしたあとのダンジョンを眺めているような楽しさである。自分が歩いた軌跡の答え合わせだ。

ここはこうなっていたのかー、とか言ったりして。

最高に面白かったので昨日見てきてすぐに記事を書いた。

[11] 富士山に登山鉄道構想 過去には山頂までの計画も :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK24033_V20C13A7000000/

世界文化遺産に登録された富士山で、5合目までの登山鉄道構想が持ち上がっている。河口湖から延びる有料道路を、鉄道に衣替えするという。山梨県の観光団体が打ち出した構想で、富士急行も乗り出している。富士山では過去にも山頂までのケーブルカーなど多くの計画があったが、実現には至らなかった。今回はどうか。富士登山鉄道の歴史と未来を展望する。

[12] 富士山に登山鉄道構想 過去には山頂までの計画も :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK24033_V20C13A7000000/?df=2

にわかに脚光を浴びる登山鉄道構想。実は、半世紀前に富士急行は山頂までケーブルカーを走らせる計画を練っていた。どんな計画だったのか。

同社の社史「富士山麓史」に経緯が詳しく載っていた。それによると、1963年(昭和38年)9月、「富士山地下鋼索鉄道」として関係省庁に建設申請を行った。なんと、地下にトンネルを掘って頂上まで走る構想だったのだ。

[15] 京浜東北線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%B5%9C%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%B7%9A

京浜東北線 (けいひんとうほくせん)は、 埼玉県 さいたま市 大宮区 の 大宮駅 から、 東京都 千代田区 の 東京駅 を経由して 神奈川県 横浜市 西区 の 横浜駅 を結ぶ 東日本旅客鉄道 (JR東日本)が運行する 電車線 の 運転系統の通称 である。大宮駅 - 東京駅間は 東北本線 の、東京駅 - 横浜駅間は 東海道本線 の一部である。

運行形態は横浜駅 - 磯子駅 - 大船駅 間の 根岸線 と一体であり、合わせて 京浜東北・根岸線 と呼ばれる場合もある。以降、必要に応じて根岸線区間も含めた大宮駅 - 大船駅間の状況について記す。

概要

京浜東北線は、 東京 の 電車特定区間 内の運転系統( E電 )の一つであり、東京の 都心 を南北に縦貫し、北は 埼玉県 さいたま市 、南は 神奈川県 横浜市 ・ 鎌倉市 まで結んでいる。 ラインカラー は スカイブルー ( ■ )で、車両の車体帯の色や駅施設などにおける案内に使用されている。

1914年 (大正3年) 12月20日 の 東京駅 開業と同時に「 京浜線 」として 東海道本線 東京駅 - 高島町駅 (現存せず)間で開始された電車運転が起源であり、その後北は 東北本線 大宮駅、南は 根岸線 大船駅まで運行区間が延伸されて 1973年 (昭和48年)に現在の運行形態となった。 2014年 には運行100周年を迎えた。

「京浜東北線」の名称は、その運行区間である東 京 と横 浜 間を結ぶことに拠る『京浜』と、東北本線の 電車線 であることに拠る「東北」からなる(名称の経緯は「 #歴史 」節も参照)が、これは旅客案内上の通称であり、正式な線路名称は東京駅 - 横浜駅 間が東海道本線、東京駅 - 大宮駅 間が東北本線、横浜駅 - 大船駅間が根岸線である。一般的には運営事業者(JR東日本)はもとより、 国土交通省 や関係する各鉄道事業者、 マスメディア などが『京浜東北線』の名称を使用するため、この名称が定着している。

長い間東京の中心部を南北に縦断し埼玉県域と神奈川県域を結ぶ唯一の鉄道運行系統であったが、 2001年 の 湘南新宿ライン 運行開始、東京都心の地下鉄線と郊外の鉄道各線との直通運転実施 [注 1] 、さらに 2015年 に東北本線と東海道本線間の中距離電車の相互直通運転( 上野東京ライン )が開始されたこと [1

[16] 麻布十番 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E5%B8%83%E5%8D%81%E7%95%AA

麻布十番(あざぶじゅうばん)は、東京都港区の町名。麻布十番一丁目から麻布十番四丁目までがある。人口は、5,365人[1]。郵便番号は、106-0045。

概要[編集]

町域の大部分は古川に続く低地であり、高級住宅地が多い麻布にあって下町の風情をたたえる。町域には大規模なビルや商業施設は少なく、雑居ビルや商店に庶民的な住宅地が混在する地域となっている。

「麻布十番」の町名は1962年(昭和37年)に成立したもので、それまでの麻布新綱町、麻布綱代町、麻布坂下町、麻布永坂町、麻布日ヶ窪町、麻布宮下町、麻布宮村町、麻布一本松町、麻布山元町、麻布新広尾町の各一部が統合された[2]。「十番」の名称は、十番組屋敷、十番橋など、江戸時代の町名だった里俗称を復活したものである[2]。

一の橋から仙台坂にかけては商店街となっており、かつて商店街の西端には1949年(昭和24年)に開湯した温泉銭湯・麻布十番温泉があった。麻布十番付近にはながく鉄道の駅がなく、1km以上離れたところにある最寄り駅・六本木駅からも高低差があるために「陸の孤島」とも呼ばれていた。ただし鉄道では極めて不便であったが、広い道路に面しバスの便は良く多くのバス路線がここをと通っていた。一方、1984年(昭和59年)12月には鳥居坂下にディスコ、マハラジャが開店、タクシーや自動車で訪れる必要がある立地がバブル期には逆に人気となった。

2000年(平成12年)になると麻布十番駅が完成して地下鉄・南北線と大江戸線が相次いで開通、さらに2003年(平成15年)には隣接する六本木6丁目に複合施設 『六本木ヒルズ』が開業するなど、麻布十番を取り巻く環境は一変した。

歴史[編集]

古くは、麻布村に属する低湿地帯であった。江戸時代、仙台藩の江戸屋敷は今の韓国大使館から二の橋にかかての広大な土地を持っていたが、低地側の湿気の多さがどうにも出来ずに困り果て、高台側はそのまま藩邸として使い、低地側半分を幕府に返上したほどである。幕府はその土地には低給の役人に住まわせたが彼らも苦労が多かったようである。しかし河川改修などによって干拓、開拓が進み、明治時代には、神楽坂と並ぶ繁華街に発展した。地名は、早くから通称として定着していた。

1962年(昭和37年)、麻布地区の町名が再編され、それまでの麻布網代町、麻布坂下町の各全域と、麻布宮下町、麻布新

[17] 迷宮・渋谷駅の構造を模型で展示 通勤経路を一目で :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1302L_U3A810C1000000/

9つの路線が乗り入れ、地下5階から地上3階まである渋谷駅。そんな複雑な「迷宮」渋谷駅の構造を模型でチェック――。東京・渋谷でユニークな展示が行われている。

田村准教授らが制作した100分の1スケールの渋谷駅。右上が井の頭線、その下側に見える広場がスクランブル交差点。左上がJR埼京線で、その手前が山手線。左手前がヒカリエ方面となる

渋谷マークシティWEST4階にある「クリエーションスクエアしぶや」で開催中の「渋谷駅体得展」では、渋谷駅の100分の1スケールの模型「渋谷駅2013」を展示している。制作したのは渋谷駅のスペシャリストとして知られる昭和女子大学環境デザイン学科の田村圭介准教授と同大学の田村研究室だ。

[18] 迷宮・渋谷駅の構造を模型で展示 通勤経路を一目で :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1302L_U3A810C1000000/?df=2

地下鉄副都心線・東横線ホームから延びるエスカレーターは、幅が狭く行列が起こりやすい。模型をみると、乗り換えのボトルネックになっていることがよく分かる

[19] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/

葛西臨海公園から東京ディズニーリゾートを望む。右手にシンデレラ城がちらりと見える。左手の舞浜大橋より下流は境界線が定まっていない

東京都の地図を眺めていたら、隣県との境界線が切れている場所があった。国土地理院に聞いてみると、境界が決まっていない場所だという。実は東京都は千葉県、埼玉県との間で、境界を巡る「紛争地」を抱えている。なぜ境界が定まらないのか。東京都の「領土問題」を追った。

[20] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=2&dg=1

1970年代後半から80年代前半にかけて、東京ガスのパイプラインを巡って境界が問題となった。どこを境界とするかによって、固定資産税などの税収が変わってくるからだ。

何年も協議したが両者とも持論を譲らない。結局、1983年(昭和58年)、当時の自治相(現・総務相)の裁定で、双方の主張する境界線のちょうど真ん中を暫定的に境界と定めて税収を配分することになった。この暫定措置が、その後30年も続いている。

2010年には羽田空港の拡張で再び境界線問題が浮上した。滑走路そのものは東京都側にあったが、海面下の構造物の一部が千葉県の主張するラインを越えてしまった。このときも行政区域の確定には至らず、双方が確認書を交わしたという。

東京都は「今後も問題が生じた場合は個別に協議して解決する」方針。個別事例で起きた問題は、行政上の境界問題とは切り離すという。千葉県も同様だ。ひとまず行政上の境界は棚上げするという姿勢だが、その都度協議を重ねるより、根本原因である行政上の境界を解決した方が早いのではないか。お互い歩み寄る余地はないのだろうか。

[21] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=3&dg=1

江戸川区の主張するラインだと江戸川水門の右手にある土地が江戸川区の飛び地になる。市川市は旧江戸川の中心が境界と主張している(国土地理院の電子国土地図、緑のラインが都県境)

江戸川区と隣の千葉県市川市の境界線は、もともと江戸川の真ん中を走っていた。放水路の開削後は旧江戸川に境界が引き継がれたが、水門を造る際、旧江戸川の流れを西寄りに変えたことでそれまでの境界線が陸地上になってしまった。地続きの市川市か、川を挟んだ江戸川区か。この土地の帰属が、いまなおはっきりしていないのだ。

[22] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=4&dg=1

小合溜(正式には小合溜井)ができたのは8代将軍吉宗の時代。江戸の水害を防ぐために造られた。協議の過程で葛飾側は「このときから既にこちら側の領土だったと古文書に書いてある」と主張したという。

江戸時代から、葛飾側と三郷側は水害を巡る争いが絶えなかったという。小合溜は葛飾側からすれば防波堤だが、三郷側からすれば、流れてほしい水をわざわざせき止めてしまう邪魔な存在。洪水時は決壊してくれた方が三郷側にとっては助かる側面もあった。

[23] 吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/

町田市は神奈川県だと勘違いする人もいるが、東京都だ。東急田園都市線「すずかけ台」駅の近くに境界を示す看板があった。看板の手前は神奈川県横浜市緑区

大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。

[24] 吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=2

移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」には、神奈川県知事も不便を感じている、という記述があった(国立公文書館所蔵)

[27] 芝公園|公園へ行こう!, , http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index001.html

基本情報

所在地

港区芝公園一・二・三・四丁目

交通

JR「浜松町」下車 徒歩12分

都営地下鉄三田線「芝公園」(I05)下車 徒歩2分、「御成門」(I06)下車 徒歩2分、

都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」(A09・E20)下車 徒歩5分、

都営地下鉄大江戸線「赤羽橋」(E21)下車 徒歩2分

お問い合わせ

TEL 3431-4359

芝公園サービスセンター

〒105-0011

港区芝公園4-10-17

[28] -都立公園・庭園案内-, , http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kouen/kouenannai/park/shiba.html

【所在地】

港区芝公園一・二・三・四丁目

【問合先】

03-3431-4359 芝公園管理所(サービスセンター)[〒105-0011 港区芝公園4-10-17]

【交通】

JR 「浜松町」下車 徒歩12分

都営地下鉄三田線 「芝公園」(I05)下車 徒歩2分、「御成門」(I06)下車 徒歩2分

都営地下鉄浅草線・大江戸線 「大門」(A09・E20)下車 徒歩5分

都営地下鉄大江戸線 「赤羽橋」(E21)下車 徒歩5分

【概要】

日本で最も古い公園の一つとして、明治6年の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で最初の公園として指定され、以後の公園造成のさきがけとなりました。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後の政教分離によって境内の部分が除かれ、環状の公園になりました。

園内には、歴史の古い公園らしく、クスノキ、ケヤキ、イチョウなどの大木がところどころにあります。

[29] 新幹線、目前で消えた「東北―東海道」直通計画 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2903Y_Z20C14A1000000/

「新幹線の謎と不思議」(東京堂出版)、「JR崩壊」(角川書店)などの著書がある鉄道ジャーナリストの梅原淳さんは、東京駅の歴史をひもとく。 「1971年に東北新幹線が計画された際、在来線の12~15番線を転用することにしました。ところが75年の山陽新幹線開業で、新大阪駅で相互乗り入れする東海道新幹線の需要も増え、当初東北用としていた14・15番線を東海道に回したのです」

16・17番線ホームは在来線の転用ではなく、18・19番線ホームとともに64年の東海道新幹線開業にあわせて造られた。もともと東京駅止まりなのでカーブする必要はない。 これに対して14・15番線は東北新幹線用に在来線ホームを北側に延ばして造った。その先に延びてくる東北新幹線の線路につなげるには、ホームの一部を曲げるしかなかったのだ。 ところで話はそれるが、14・15番線は東北新幹線用に改修されるまで長らく在来線(東海道本線)が使っていた。さらに歴史をさかのぼると、そもそも新幹線のために確保された場所だった。 その名も弾丸列車。東海道新幹線のベースとなった戦前の計画だ。東京から大阪を経て下関を結び、その先は朝鮮半島、中国大陸までもつなぐ構想だったという。日本坂トンネルなど一部は工事が行われ、東海道新幹線でも使われた。ルートも多くは踏襲された(日本国有鉄道東京幹線工事局編「東海道新幹線工事誌」)。

[30] 増上寺 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E5%AF%BA

歴史[編集]

空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。

風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。

また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。なおテレビドラマ水戸黄門・第17部においては、この一件が水戸光圀の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。

また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。

明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。

太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。

東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。

なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭

[31] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[32] 新橋駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%A9%8B%E9%A7%85

新橋駅 (しんばしえき)は、 東京都 港区 にある、 東日本旅客鉄道 (JR東日本)・ 東京地下鉄 (東京メトロ)・ 東京都交通局 ( 都営地下鉄 )・ ゆりかもめ の 駅 である。

所在地は、ゆりかもめの駅が 東新橋 一丁目、その他の駅が 新橋 二丁目となっている。

乗り入れ路線 [ 編集 ]

当駅には以下の4社・局の路線が乗り入れている。なお、地下鉄各線とゆりかもめの駅には 駅番号 が付されているため、それも併せて記す。

JR東日本 : 各線(後述)

東京メトロ : 銀座線 - 駅番号「 G 08 」。

東京都交通局(都営地下鉄) : 浅草線 - 駅番号「 A 10 」。

ゆりかもめ : 東京臨海新交通臨海線 - 当駅が起点。駅番号「 U-01 」。

JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は 東海道本線 1路線のみである(詳細は路線記事および「 鉄道路線の名称 」参照)が、運転系統としては以下の4系統が停車し、それぞれ専用の線路が割り当てられている。旅客案内でも以下の系統名で案内されている。

東海道線 : 列車線を走行する東海道本線の 中距離電車

京浜東北線 : 電車線を走行する東海道本線・ 東北本線 の近距離電車

山手線 : 電車線を走行する 環状路線

横須賀線 : 地下線を走行。 大船駅 まで東海道本線( 品鶴線 経由)、同駅より線路名称上の横須賀線に入る

また、 特定都区市内 制度における「 東京都区内 」および「 東京山手線内 」に属する。

歴史 [ 編集 ]

JR東日本 [ 編集 ]

1872年 10月14日 ( 明治 5年 9月12日 )、当駅 - 横浜駅 (現・ 桜木町駅 )間に日本初の鉄道が正式開業する際に起点駅として開設された( 日本の鉄道開業 を参照)。なお、1872年 6月12日 (明治5年 5月7日 )に品川駅 - 横浜駅間は仮開業していた [1] 。

その後、 1889年 (明治22年) 7月1日 には 東海道本線 が 神戸駅 まで全通し、国土の重要幹線に於ける東京側の ターミナル駅 として、 東京駅 の開業まで重要な役目を担うこととなった。 1900年 (明治33年)に 大和田建樹 が作詞した「 鉄道唱歌 」では、 「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」 と歌われた。

現在の駅は2

[33] 悲劇の都営三田線 大手町駅が「大手町」にない理由 |エンタメ!|NIKKEI STYLE, , http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2301E_T20C14A4000000?channel=DF280120166608&style=1

東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。 ■千代田線との場所取り合戦に敗れる まずは各駅の住所を見てみよう。 東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手

東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。 ■千代田線との場所取り合戦に敗れる まずは各駅の住所を見てみよう。 東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手町1―6―1」、東西線は「大手町2―1―1」だ。これに対して三田線は「丸の内1―3―1先」。三田線だけは、道路を挟んで丸の内側に位置しているのだ。 ちなみにこの住所、メトロは駅事務所の位置、都営地下鉄はホームの中心地点に最も近い出口付近の住所だという。出口が道路上の場合、住所がないため最後に「先」が付く。

乗り換え距離も長い。ホーム上の表示を確認したところ、丸ノ内線から三田線に乗り換える場合、最大595メートルも離れている。これは東京の地下鉄で、同じ駅名間の乗り換えとしては最も長い。 なぜ、三田線大手町駅だけ「丸の内」なのか。一駅だけ離れているのか。「今だから話せる都営地下鉄の秘密」(洋泉社)の著者で、東京都交通局で40年間、地下鉄に関わってきた篠原力さんに裏話を聞いた。 「実は、東京都としては三田線の大手町駅をもっと北側に造りたかったんです。でも千代田線との場所取り合戦に敗れてしまった」

履歴

[34] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567288442872

メモ