小石川

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[1] 小石川

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[2] 軍事工場の謎のトンネル(後編・消えた坂道、天神坂) | 東京坂道ゆるラン, , http://sakamichi.tokyo/?p=6059

後楽園駅前、礫川公園のトンネル跡。これは小石川税務署裏まで続いているのか? 前編 で考察した水戸藩江戸上屋敷とは関係あるのか?

後楽園駅前、礫川公園のトンネル跡。

前編・後楽園編はこちらから

どうも礫川公園の隧道入口のレンガは明治に比べ時代が新しいような気がします。

しかも税務署の方角を向いていません。

小石川税務署裏で露出したトンネルらしきもの。

古地図を見てもそうです。また、明治の当初、射撃場は地下では無かったようです。

古地図:明治13-19年(1880-86年)第一軍管地方2万分の1迅速測図原図より射撃場

古地図:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より射撃場

地面を掘り下げ、周りを土塁で囲ったような表記です。

夏目漱石先生の「こころ」にこんな記述があります。

散歩がてらに本郷台を西へ下りて 小石川の坂 を真直に伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が 砲兵工廠の土塀 で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。

西富坂

「小石川の坂」とは電車の通路と言っているので市電の通る「 西富坂 」のことです。西富坂から伝通院に向かって登っていくと、左手には砲兵工廠があり、土塀があったようです。レンガ塀ではなく土塀。弾丸がめり込みやすく流れ弾の反射を防げるということでしょうか。

西富坂

西富坂は、かつての射撃場に沿うように、かつての水戸上屋敷の敷地に沿うように、ここでカーブしています。

消滅してしまった江戸時代の 東富坂 と違い、西富坂は主要幹線道路となっています。

もう一つの射的場

明治期には文京区弥生にも射的場があり、そこは等高線を見る限り、かなり掘ったようで驚かされます。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より「東京共同射的会社。

砲兵工廠の射撃場は、弥生のこれとは違い、掘った土を積み上げ、ガードフェンスにしていたようです。

余談ですが、弥生、かつての射的場近くに 「弥生土器ゆかりの地」の碑 が立っています。

「弥生土器ゆかりの地」の碑

実は弥生式土器の出土地は正確に把握できておらず、東京大学校内だとか、向ヶ岡貝塚だとか、 異人坂 だとか、いま現在、碑のある場所だとか、意

[11] 神田川1985(4)谷端川合流点(JR水道橋駅前) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/13226330/

1985年8月に神田川を撮影した写真からの紹介シリーズ、忘れた頃にやって来た4回目は谷端川の合流部である。 今までの記事はコチラ ・神田川1985(1)桃園川合流地点 ・神田川1985(2)川の上の送電線 ・神田川1985(3)神田川最上流 谷端川(やばたがわ)はかつて豊島区から文京区にかけて流れていた川だ。豊島区要町2丁目の粟島神社に現存する弁天池などを水源とし、そこから千川上水の分水を併せていったん南下したのち、西武池袋線椎名町駅付近より北上、JR埼京線板橋駅付近で向きを南東に変え、山手線大塚駅を経由し、小石川を流れて水道橋で神田川に合流していた。下流部では小石川、礫川、西大下水、また千川上水の水を引いていたことからか千川とも呼ばれていた。

中・下流部は戦前に、上流部も1970年代までには全区間が暗渠化された。現在上流部は遊歩道に、中下流部は大塚三業通りや千川通りといった道路になっている。最下流部は現在雨水幹線「千川幹線」となっていて、幅4.2m深さ4.7mの矩形暗渠が東京ドームシティを横切っている。 1985年当時、水道橋駅北側の神田川北岸に、河岸が十数メートルほどだけ凹んだ形で、谷端川の合流部が開渠で残っていた。感潮域であるためか河口にも水があり、鯉が泳いでいるのが見える。

2009年現在、河口は船着場となってしまった。「神田市兵衛河岸防災船着場」の看板が掲げられ、浮き桟橋が設置されていて、河岸には階段がつくられている。向かいに見える水道橋駅の駅舎は窓の配置まで以前のままだ。

[14] 水路をゆく・第二運河 中島閘門ふたたび…1, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1610.html

(『 富岩運河で遊ぶ…9 』のつづき) ● 幅がぐっと広くなった閘門前の水域に入ると、「ふがん」は行き足を再び落し、待機の姿勢をとったようです。ぐんぐんと開いて、シルエットを縮めてゆく後扉室のマイタゲートの動き、滝のような滴を落とし、開くほどに視界を圧するローラーゲートの豪快さを動とすれば、まさに静の魅力を醸し出すゲートといえるでしょう。 いや、胸が高鳴ります! 前回の訪問から8年を経て、いよいよこの閘門を通ることができるんだ! ● 気づけば、操舵室の後ろにお客さんが集まって、時ならぬ人だかりが。後ろだけでなく、左の通路にも陣取り、スマホやカメラを構える人まで。ちなみに、我々以外はほとんが、外国からのお客さんでした。 巨大な水上の扉を前にして、高ぶる気持ちに国境はないことが感じられて、どこか嬉しくなるシーン。しかしこれを見ると、やっぱりオープン艇にしたほうが、遠来のお客さんにも喜ばれそうではあるなあ、と‥‥。 いやいや失礼、単なる個人的な好みを、他人をダシにして語ってはいけませんね。 ● ゲートが全開になると、管理橋の上に出てきていた係の方とおぼしき人影が、大きく手を振って、こちらに合図を送ってきました。同時に「ふがん」も、ゆるゆると前進を再開。お待ちかね、閘室へ進入であります。 係の方の合図でハッとしたのが、中島閘門、東京の水門ではおなじみ、信号のたぐいは備えられていないのですね。まあ、重文指定を受けていることもあり、原形を失うような追加設備は、なるべく避けられていると見てよいでしょう。 ● 鼻先に迫ってくる扉体を一枚、径間9.09m、扉高5.765mの威容。平成10年に新製された扉体だけに、痛みも見られず、塗り替えも定期的に行われているのか、実にきれいです。 「鋼製ゲート百選」(技報堂出版、平成12年)によれば、65年ぶりに新製更新された扉体は、竣工当時のままに復元することを旨とし、15000本に及ぶリベットによって組まれたのだとか。復元とはいっても、組み立ては溶接で行い、鋲頭のみをお飾りで添えるという方法もある中、このリベットは決して伊達などではないあたり、さすが重文といったところでしょうか。 ● 「ふがん」が閘室に納まったところで、早くも扉体は水面に渦を作りながら、閉まり始めました。今度は近いせいか、ロッドを駆動しているとおぼしき、モーターの唸りが聞こえてき

[30] 東京計器OB会のホームページ, , http://tkob.jp/wad/yom/wad_ren_11.html

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[31] 東京坂道ゆるラン | 坂の町・東京(主に文京区、新宿区、千代田区)を歴史ラン。古地図、古写真でタイムスリップ!走って探すお江戸の物語。, , http://sakamichi.tokyo/

頼朝伝説と堀部安兵衛の新宿区早稲田、太田道灌の面影橋、砦のような造りの寺社など、遠い昔の古鎌倉街道に想いを寄せて観てきましたが、ここ金乗院前も街道色の濃い地であり、深い歴史に彩られています。

古鎌倉街道を行く1(新宿区編)

古鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

宿坂(江戸名所図会より)。残念ながら観音堂は今はない。

宿坂

中世の頃、「 宿坂の関 」と呼ばれる所が、このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。

“宿坂の関”は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道より、やや東寄りに位置していたが、一応ここも鎌倉街道の名残りといえよう。

今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。

説明書きには「 現在のこの道より、やや東寄り 」と書いています。明治の地図で見ると、

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図。 ブルーライン が古鎌倉街道。

東側( 赤矢印 )に崖があり、そちらの方に蛇行していたのでしょう。

東の崖上から宿坂を見る。

江戸名所図絵を見ても坂はクネクネしています。宿坂西隣りの「のぞき坂」は上下通行車道としては都内ナンバーワンの急坂。

のぞき坂坂上より

同じ目白台地を登る宿坂も、かなり急なので少しカーブしながら登っていたということでしょう。

金乗院の裏門あたりに「 宿坂の関 」と茶屋があったと云います。

宿坂の関は関東お留の関の一つ。中世には、四ツ谷、三軒茶屋、品川、千住などにも関があったと伝えらています。

また今は無き 姿見橋 の由来になった刑場もこの辺りにあったと云いますが、江戸以前、後北条氏の頃の話で場所の特定もできず、今では単に言い伝えとして残るだけの怖い話です(姿見橋=罪人の後ろ姿を見送る)。

金乗院門前の読めない碑

金乗院門前のこの碑、「むせる」?

またまた出現した読めない崩し文字。ということでいつものように歴史のFBグループに質問するとなんと、「 はせ寺 」と読むとのこと。長谷寺?金乗院なのに長谷寺とはこれ如何に?

そうです。ここには太平洋戦争の戦災(昭和20年、1945年5月)にあった

履歴

[32] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567287500344

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