立川市

立川市

[1] 立川市

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[2] 柴崎分水(立川分水)(1)分水地点〜昭和記念公園まで : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/14689959/

柴崎分水(立川用水)は、玉川上水から数多く引かれた灌漑・生活用の分水のひとつで、1737年、現在の立川駅南西側にあたる、柴崎村の飲用と水田用の用水として開鑿された水路だ。昭島市と立川市の境界にあたる、松中橋から分水され、立川市の南端で多摩川の支流根川に合流するまで、本流の全長は約8kmほど。上流部では立川分水とも呼ばれていたようだ。 最上流部以外の区間は地図の記載もなく、間に昭和記念公園が挟まることから、もはや水が止められていたり、埋め立てられているものだと思っていたのだが、認識を改めたのが、namaさんの「暗渠さんぽ」での昭和記念公園の記事。 残堀川に沿って流れる立川用水の暗渠と「半渠(namaさん命名)」が紹介され、いまだに水が通っていることに驚いた。そして、先日矢川の失われた源流部を辿った際に、偶然遭遇した柴崎分水の末端にも勢いよく水が流れていた。これはつまり、全区間、現役で水が流されているということなのではないかと、俄然興味がわき全区間を辿ってみたところ、実際に分水地点から最後まで水流が途切れることはなく、開渠と暗渠が入り混じったり、迷路のように入り組んだり、中央線を水路橋で越えたりと、実に見所が多く辿り甲斐のある水路だった。そんなわけで、今回から、数回にわけて紹介してみうようと思う。 まずはgooglemapより全体図(組み込みリンクができないので、画面コピーで)

googlemapにプロットした地図はこちらを。 ‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾ 柴崎分水は西武拝島線の西武立川駅から南東に300mほどの地点にある「松中橋」で玉川上水から分水されている。分水地点には2つ水門が並んでいるが、左側は砂川分水で、右側が柴崎分水の水門だ。

[5] 東京 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC

概要 [編集]

2012年現在、国際連合の統計によると、東京は世界最大のメガシティと評価されており、川崎、横浜などとともに世界最大の人口を有する都市圏を形成している[1]。都市単位の経済規模(GDP)ではニューヨークをしのぎ、世界最大である[2]。2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、ニューヨーク、ロンドン、パリに次ぐ世界第4位の都市と評価された[3]。

地名の由来 [編集]

「東京」の地名は、1868年9月(明治元年(慶応4年)7月)に出された江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書により、江戸の町奉行支配地域を管轄する東京府が設置されたことに始まる。「東京」の意味合いとしては、「京」が首都を意味することから「東の都」だとする見方や、西の京都に対して「東の京都」だとする見方もある。しかし、「東京都」という名称は1943年(昭和18年)に東京府と東京市の合併によって新たに作られたものであり、「東の京都」という意味合いは無く、上述のように解釈できるのは単なる偶然である。

江戸は東京と称することになったが、読み方については根拠となるような法令が出たわけでもなかった。「とうきやう」(呉音)が正規に使われたが、明治20年代頃までは「とうけい」(漢音)も混在して用いられることも少なくなかった。日刊新聞の発達により人々が情報を共有する機会が広がり、第1期国定国語教科書で「東京」の振り仮名が「トーキョー」と表記され(棒引き仮名遣い)、混在はなくなった。一方、昭和初期までは「東亰」という表記も混用されていた[4]。この「亰」という文字は「京」の俗字である。「亰」を使ったのは、中国の東京(Dongjing、ドンジン)との混同を防ぐためともいわれるが、後に同じ字となった。

江戸を東京と改称するという構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』に既に現われており、大久保利通はこれに影響を受けて江戸を東京とする建言をしたという[5][6]。

1889年(明治22年)5月1日には、東京15区を東京府から分立して東京市とした。東京市は1923年(大正12年)の関東大震災によって人口が増加した周辺の町村を合併し、市域は最終的には現在の東京都区部とほぼ同地域となった。1938年(昭和1

[6] 多摩ニュータウン - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3

戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されることになった[5]。しかし民間主導の無計画な開発は劣悪なスプロール化をもたらすことになる。当時は民間による違法な宅地造成が56%を占める状況で、このような乱開発を防止するとともに居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として1965年(昭和40年)に多摩ニュータウンが計画された[6]。

計画決定の当初段階では、開発主体者が全区域の土地を全面買収する新住宅市街地開発事業で進められることになっていたが、1966年(昭和41年)、既存住民らの請願により土地区画整理事業区域が設けられた。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらすこととなった。

多摩ニュータウンの最初の入居としては、別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」が計画に組み入れられる形で、多摩ニュータウンの「諏訪・永山地区」として1971年(昭和46年)に入居が始められた[7]。この地区を中心にオイルショックまでの3年間で約8千5百戸余りもの画一的な住宅が供給され、その後種々の問題を引き起こすことになる[8]。当時はまだ鉄道は開通しておらず、住民は多摩市北部の聖蹟桜ヶ丘駅などへバスやタクシーでの移動を強いられていた[9]。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄・小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、多摩ニュータウン内の開発益を得る余地も少ないことから、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためである[10]。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年(昭和49年)6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年(昭和50年)に小田急多摩センター駅まで開通した。

1974年(昭和49年)のオイルショックでは社会情勢が大

[7] アイドルのメンバーが「青海」と「青梅」を間違えて公演に間に合わない事態に!「マジで間違える人いたのか」「年2回くらい見る光景」 - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/1031606

メンバーのMEIが、青海と青梅をまちがえて、今、八王子にいます。

急いで向かっていますが❶回目のステージは間に合いません。

楽しみにしてくださっていた方、申し訳ございません。

YUKINAとKAHOで頑張りますので、応援よろしくお願い致します。

[8] 多摩の古城: 伝鎌倉街道 - (九道の辻~鎌倉橋)②, , http://tama-oldcastle.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/04/post_acff.html

交通:西武国分寺線小川駅から徒歩5分又はたかの台駅から徒歩15分

所在地:小平市小川東町~津田町~上水本町付近 地図

小平市内を通る鎌倉街道は、九道の辻から現在のブリジストン工場内を通り、小川東町から津田町へと直線で抜けていたと推測されます。この部分は現在も道筋が残されています。(耕地区画により若干道が食い違っている部分があり)小平市により鎌倉街道の説明板や標柱も建てられていて、判り易くなっています。久米川宿(東村山)から恋ヶ窪までの間、当時は無人の荒野であったと考えられ、水も容易には得られず旅人はひどく難儀したことでしょう。現代の風景からは想像も出来ませんが。。)だだっ広い荒野であったため、江戸初期(寛永年間)から小平市一帯は徳川将軍家・ 尾張徳川家の鷹狩場に指定され、現在も幕張り(鷹狩の際の陣場)や鷹の街道などの呼び名が残されています。一面荒野の小平市(小川村)の開発が始まったのは、玉川上水・野火止用水が完成した後の明暦2年(1656)小川九朗兵衛(武蔵村山の岸村出身。玉川上水より分水を願い出て許可される。祖先は小田原北条氏の家人で武蔵七党のうち西党小川氏の末裔。鷹場の鳥見役も務める。)により開墾が開始され、青梅街道の宿場が作られた事に始まります。(この時、最初に開墾を始めた地が石塔ヶ窪と伝わる。江戸末期までこの地に秩父青石の大きな石碑が在ったことに由来する。現在もわずかに低地となっている。)新編武蔵風土記稿の小川村の項に”村内古街道あり道幅二間許・・・”とあります。

津田町に出た鎌倉街道は、玉川上水を鎌倉橋(昭和52年に架けられた)を渡り、上水本町へと入ります。その後は五日市街道にぶつかり、住宅地となり道は途切れてしまいます。五日市街道に交差する少し手前辺りを二ツ塚と呼び、道の左右に一対の塚があり鎌倉街道の一里塚であったと伝えられています。(塚は昭和の初め頃まで存在していたという。但し、鎌倉街道に一里塚が存在したかどうかは疑問。)鎌倉街道の道筋が再び現れるのは、府中街道西武国分寺線の踏切(東恋ヶ窪)手前になります。

玉川上水(鎌倉橋)

[9] 江東区 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%8C%BA

昼夜間人口[編集]

2005年に夜間人口(居住者)は420,827人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は490,708人で昼は夜の1.166倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行126,127ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)

地理[編集]

河川

隣接する自治体

中央区、港区、墨田区、品川区、大田区、江戸川区

※ 隣接する自治体とはすべて陸続きでもある。

地勢[編集]

かつて地下水の汲み上げにより地盤沈下したことで、区の大部分がゼロメートル地帯となっている。また、運河と橋が多く、区では“水彩都市”と呼んでいる。道路と水路が連なって作られており、住宅地のそばを船が行き交うことも多い。区内には東京都から副都心に指定されている臨海副都心と錦糸町・亀戸副都心があり、二つの副都心を包括している。この事もあり、区内には観光客や会社員も多くやって来る。

臨海副都心は品川区・港区にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めており、近年[いつ?]急速に開発が進められた新興開発地域であり、街の景観は非常に近代的である。 錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大繁華街で、古くから下町として栄えた。1990年代後半から、東京の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には埋立地が多く、ゴミ埋立て「東京ゴミ戦争」で有名な夢の島や青海、有明などは観光地区としても賑わっている。 また、臨海部にある湾岸地域は港区、江戸川区と海岸線を連ねてつながっており、台場や東京ディズニーリゾートへの交通の便が良い。なお、東日本大震災の際に、一部液状化した地区もあり、団地が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ地区もあるが、2013年現在、簡易な補修または放置されている場所もある。

面積は39.94km²だが、この数字には大田区と帰属係争中の中央防波堤地区は含んでいない。

自然環境[編集]

区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は大規模な公園が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられ、東

[10] 吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/

町田市は神奈川県だと勘違いする人もいるが、東京都だ。東急田園都市線「すずかけ台」駅の近くに境界を示す看板があった。看板の手前は神奈川県横浜市緑区

大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。

[11] 多摩 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9

多摩(たま)は、本来は、多摩郡が範囲とする地域である。

おおよそ、現代で言う多摩地域(東京都のうち区部・離島以外)を中心とするが、若干広く、区部の一部(中野区全域・杉並区全域・世田谷区の一部)を含む。また、中世までの多摩郡を基準とした場合は神奈川県川崎市多摩区の一部をも含み、区名にそれが残っている。

表記[編集]

異字表記として多磨があり、現在では府中市多磨町(旧多磨村)としてのみ使われる。これは、旧多磨村発足時、多くの住民が多摩村を希望したが、既に南多摩郡多摩村があったため多磨村にしたといわれる。

また、世田谷区玉川の「玉」も同源である。

語源[編集]

『和名類聚鈔』に「太婆」の注釈が記されていること、多摩川の上流部(現在は奥多摩湖で分断されている)に丹波山村を水源とする丹波川(たばがわ)があることなどから、古くはタバであったとする説がある。また、『安閑紀』にある多氷が、多末の誤記で、多摩のことだともいう。これらの説は江戸時代の『新編武蔵風土記稿』で言及された。

タマ(あるいはタバ)自体の語源ははっきりせず、

タマ(リ)。水が多く溜まる地の意味。

田間。

峠を意味する「タワ」、あるいはウラル・アルタイ説でその古形とされる「ダバ」。大菩薩峠から流れる川の意。

魂。

など諸説がある。

なお一説に(有力な説ではない)、埼玉(さいたま、古くは、さきたま)は、多摩の先(さき)にあるからサキタマだという。

また、魏志倭人伝に見られる「投馬国」との関連を言及されることもある。

多摩を冠する地名[編集]

地形[編集]

多摩丘陵

多摩川

奥多摩

多摩湖

多摩平(日野市)

行政区画[編集]

多摩地域(多摩地区)

多摩郡(令制国の武蔵国多摩郡)

西多摩郡

東多摩郡(1896年南豊島郡と合併し消滅)

北多摩郡(1970年消滅)

南多摩郡(1971年消滅)

多摩市 - 旧南多摩郡多摩町

川崎市多摩区 - 中心部の稲田がかつて多摩郡内だった。

その他[編集]

多磨霊園(府中市)

玉川地域(世田谷区)

多摩ニュータウン

多摩田園都市

ナンバープレート[編集]

東京都多摩市・稲城市・武蔵野市・三鷹市・調布市・府中市・小金井市・国分寺市・国立市・小平市・西東京市・東村山市・立川市・町田市・昭島市・狛江市・東久留米市・清瀬市・武蔵村山市に所在する自動車のナンバープレートに、国土交通省運輸局記号として

[12] 小笠原村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

地理[編集]

東京都本庁から小笠原村本庁である父島までは、約1,000 km離れている。

山: 父島の最高峰は名前の無い山(326m・中央山ではない)、母島の最高峰は乳房山(463 m)

河川

八ッ瀬川

歴史[編集]

「小笠原諸島#歴史」および「小笠原支庁#歴史」も参照

1940年(昭和15年)4月1日 - 普通町村制の適用により、東京府小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される[3]。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。(東京府廃止)

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約により、5村は日本国政府の行政から分離され廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止[4]

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、東京都小笠原村となる[5]。小笠原総合事務所(国の機関)[5]、東京都小笠原支庁および小笠原村役場の行政機関設置。

1979年(昭和54年)

4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

4月23日 - 村政確立(それより前は東京都小笠原支庁長が小笠原村長職務執行者であった)

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

小笠原村村域の変遷(年表)

月日

現小笠原村村域に関連する行政区域変遷

[13] 玉川上水 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両[2]が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある[3]。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。

この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された[4]。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという[5]。

庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。

なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い[6]。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。

給水地域[編集]

玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。

玉川上水 (中略)今、此上水、流末広大にして四谷・麹町より御本城へ入、西南は赤坂・西の久保・愛宕下・増上寺の辺、これ松平豊後守屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は外桜田・西丸下・大名小路一円、虎御門外、数寄

[14] 八丈町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E7%94%BA

歴史[編集]

年表[編集]

1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制が施行され、八丈支庁の八丈島に大賀郷村・三根村・樫立村・中之郷村・末吉村が設置される。

1947年(昭和22年)5月3日 - 地方自治法が施行され、八丈小島に鳥打村・宇津木村が設置される

1954年(昭和29年)10月1日 - 三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併し、八丈村となる。

1955年(昭和30年)4月1日 - 八丈村は大賀郷村・宇津木村を編入。

同日、八丈村は町制施行し八丈町となる。

1966年(昭和41年)3月 - 八丈小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」が提出される。6月に八丈町議会が請願を採択。

1967年(昭和42年)9月 - 八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。

1968年(昭和43年)10月 - 土地買収に関する住民との協議が成立。

1969年(昭和44年)6月 - 八丈小島全島民の移住が完了(全島民撤退時の島の人口は旧宇津木村9戸31人、旧鳥打村15戸60人)。「全国初の全島民完全移住」として注目された。

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

八丈町町域の変遷(年表)

月日

現八丈町町域に関連する行政区域変遷

[15] 漁村の名残り「浦安」 (1) 当代島の船溜まり - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/post_385/

東京23区唯一という人工ではない自然の島「妙見島」を訪れたついでに、県境を跨いで浦安駅まで歩く事にした。

浦安橋を跨いで妙見島から対岸にすぐ都県境が現れる。此処から先はもう千葉県なのである。

かつて東京都と千葉県の境にある葛西や浦安といった町は鉄道も通っていない陸の孤島で、そこに住む人々はアサリや海苔などを養殖して生計を立てていた純朴な漁村だった。

戦後の高度経済成長期に入る中で旧江戸川流域で「黒い水事件」(江戸川漁業被害)と呼ばれる工場排水による深刻な環境汚染に見まわれ、その後は東西線開通後に急速に宅地化が進む中で、もはや漁業で生計を建てる事を諦め漁業権が放棄されるように至ってからも、旧江戸川沿いには漁村の名残りをそのまま留めるかのような船着場の風景が続いている。

浦安橋の上から見える旧江戸川沿いには、かつての漁港としてではなく屋形船や釣り船を経営する船宿の船溜まりが延々と続く。

これが東京・大手町駅から快速電車に乗ってたったの15分で見られる光景だなんて、毎朝寿司詰め電車に乗って都心へ通う痛勤千葉都民の皆さんも気づいているのでしょうか。

しかし橋を降りて歩道の階段に入ると途端に不法投棄が目立つ。一瞬異様な光景だ。

我々は捨てられたゴミの中に見てはいけないものを見てしまった。

人糞が落ちているのだ。しかも下痢便。

リアル浦安鉄筋家族である。

「WELCOME TO CHIBA」

ウエルカムとか言いながらとんでもないものに出迎えられてしまった。浦安橋東詰のカオスっぷりに早くもクラクラ。

浦安橋の東側は当代島一丁目になる。ここまで来ると浦安駅にはかなり至近であるものの街の雰囲気はかなり煤けている。人糞が落ちているかと思ったら目の前は打ち捨てられた廃屋。どうにもこうにも荒んでいる。

挙句の果てにはタクシーの運転手へ向けた注意書きが貼られている始末。

「タクシーの運転手の方 立小便 タバコ・ゴミのポイ捨て 通報させてもらいます」

…この殺伐っぷりは一体なんなのだ。

浦安橋を過ぎた後も廃墟になった民家や潰れた韓国系スナックなどなかなか香ばしい物件が散在しておりなんとも言えない気分にさせてくれる。そして、またしても不法投棄が…

県境や市町村境はゴミ捨てのルールが違っている等の理由で不法投棄が多かったりするものだ。

しかし程なくして浦安駅前メト

[24] 春日井市出川町の前平ちびっ子広場で地面陥没-直径5m深さ2m | 日刊時事ニュース, , http://www.xanthous.jp/2015/03/17/kasugai-city-ground-subsidence/

愛知県春日井市出川町の前平ちびっ子広場でブランコの真下の地面が一部陥没してるのが発見された。市が調査したところ、同広場の中央にあるブランコ近くの地面が最大で深さ約 2m、直径約5m にわたっり陥没、ブランコの支柱が傾いていたという。市によるとこの付近では昭和 30 年代にかけて、石炭の一種「 亜炭 」が採掘されていたといい、市が今回の陥没事故との関連を詳しく調査する方針。

春日井市の公園で陥没

愛知県春日井市にある公園で、直径約5メートル、深さ1メートル余りに渡って地面が陥没しているのが見つかりました。

春日井市によりますとこの地域では以前、石炭の一種「亜炭」が採掘されていて市では公園を、立ち入り禁止にした上で関連を調査しています。

陥没が見つかった公園は春日井市出川町の前平ちびっ子広場です。

公園を管理する春日井市によりますと、15日午前8時半ごろ春日井市役所に「公園の一部が陥没している」と電話があり市で調査したところ陥没が見つかったということです。

公園は広さが約480平方メートルで、ブランコが設置されている場所などが直径約5メートル、深さ1メートルあまりに渡って陥没しているということです。

市では15日午前11時から公園を立ち入り禁止にしていてけが人はいないということです。

市によりますと、この地域では昭和30年代にかけて、石炭の一種「亜炭」が採掘されていたということで、市が陥没との関連を調査しています。

公園の近くに住む80歳の女性は「陥没した場所で昭和30年代、穴がある場所から、亜炭が掘り出されていました。いつ自分たちの家も崩れるか分からないので怖いです」と話しています。

引用元:NHK NEWS WEB – 春日井市の公園で陥没

愛知県春日井市出川町

直径5m深さ2m、ブランコの真下が陥没 愛知の公園

愛知県春日井市出川町の公園「前平(まえひら)ちびっ子広場」で、地面の一部が陥没しているのが見つかった。直径5メートル、深さは最大2メートル。管理をしている市は広場の入り口を閉鎖し、穴の周囲を柵で囲った。

市によると、公園の近くに住む人から15日朝、通報があった。陥没したのは広さ488平方メートルの広場の中央部で、ブランコの真下付近。けが人はいないという。一帯は戦前、亜炭鉱の採掘区域だったとみられ、市は17日から原因の調査を始めた。

引用元:朝

[25] 立川断層帯 活断層痕跡見つからない区間も NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150516/k10010081611000.html

東京から埼玉県にかけてのびる活断層「立川断層帯」について、東京大学などのグループが調査した結果、活断層であることを示す、地層がずれ動いた痕跡が見つからない区間があったほか、比較的新しい時代に起きた地震ですでにずれ動いたとみられる区間があることが分かりました。今後、国の被害想定などの見直しにつながる可能性もあります。

その結果、今回の調査では、「名栗断層」と「立川断層」の南部では、活断層であることを示す、地層がずれ動いた痕跡などは見つからなかったということです。また、残る長さ15キロ前後の「立川断層」の北部は、活断層の痕跡はみつかったものの、数百年前と、比較的新しい時代に起きた地震ですでにずれ動いていたとみられるということです。 研究グループによりますと、今回の調査結果から、「立川断層帯」はこれまでより長さが短くなり、近い将来に地震が起きる確率が低くなる可能性があるということです。グループではこうした内容を16日、東京・立川市で開かれる報告会で説明するとともに、近く報告書にまとめることにしています。今後、国の被害想定などの見直しにつながる可能性もあり、政府の地震調査委員会などで議論が行われる見通しです。

[26] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[27] 私設雑誌アーカイブ「大宅文庫」の危機【前編】 « マガジン航[kɔː], , http://magazine-k.jp/2015/08/27/crisis-of-oya-bunko-01/

「知らなかった、大宅文庫が経営の危機にあることを」――。

8月8日、このような一文から始まる書き込みをFacebookにアップした。すると瞬く間に「拡散」され、5日後には「いいね!」が497人、「シェア」が276件。Facebookと連動させているTwitterのほうは、「リツイート」が674件、「お気に入り」が272件……。正直、驚いた。こんなに話題になるとは思ってもいなかった。その一方で、「みんな本当に大宅文庫に関心があるの?」と訝る気持ちも生まれてきた。

公益財団法人・大宅壮一文庫 (以下、大宅文庫)は、東京都世田谷八幡山にある雑誌専門の私設図書館だ。その名の通り、ノンフィクション作家で評論家の大宅壮一(1900〜1970年)が蒐集した膨大な雑誌資料が元になっている。大宅壮一といえば「一億総白痴化 」や「駅弁大学」「男の顔は履歴書である」といった名言・語録でも知られているが、「本は読むものではなく引くものだ」という言葉も残している。事実、大宅の文筆活動は大量の資料に支えられており、終戦後まもなく意識的に本や雑誌を蒐集するようになったという。それらの資料は同業者や門下生にも開放され、没後の1971年、雑誌専門の私設図書館としてオープンした。

現在、大宅文庫が収蔵する雑誌は、約1万種類、約76万冊。これほど大量の雑誌をアーカイブし、一般公開している私設図書館は、国内では例がない。これに匹敵するのは、国立国会図書館と東京都立多摩図書館くらいだろう。

このような専門性を持った図書館なので、利用者はもっぱら放送・出版などのマスコミ関係者か、論文を執筆する大学生や研究者である。出版業界で20年近く糊口を凌いできた筆者も、これまでに何度も大宅文庫に出向き、資料を検索しては閲覧を申し込み、山積みにした雑誌のページを繰っては記事をコピーしてきた。○○さんのあの単行本も、△△さんのあの単行本も、「大宅文庫でコピーした記事から生まれた」と言っても過言ではない。

市区町村の公立図書館、あるいは大学図書館でも、雑誌のバックナンバーを保管しているところは少ない。長くても2〜3年、早いものでは1年も経たずに廃棄されてしまう。収蔵スペースに限りがあることもさることながら、古くなった雑誌を閲覧したいという需要があまりないからだろう。そのため、大宅文庫の利用者は、先に記したような特殊な雑誌資料を

[28] 北浦和駐輪場 (さいたま市浦和区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/kitaurawa-churinjo/

京浜東北線に乗ってひたすら大宮方面に向かうと、大宮の3つ手前、浦和の次のところに「北浦和」という駅があり、このへんに来るとかつてのテレビ番組・タモリのボキャブラ天国にあった山本リンダの替え歌ネタで「浦和は7つの駅がある」というのを脊髄反射的に思い出してしまう困ったレトロ脳なのだが、今は埼玉高速鉄道の浦和美園駅もあるので浦和には8つの駅があるんだな…と、のっけから話が脱線してしまったが、いずれにしても地元民でなければあまり来ない場所であるには違いない。 そんな北浦和駅で降りると東西双方に商店街があり殊の外栄えている街である事に気付く。駅前は雑多な繁華街的風情だが、西川口や蕨のようなどこか危険でアレな香りがする事もないし、変な外国人がたむろしている事もない。文教都市浦和ですからね。 北浦和駅東口から少し歩いた所に「栄通り」というちょっとした飲み屋小路がある。かなり場末感のきつい佇まいだが、駅からバスターミナルが入居するビルの間を抜ける通勤客が頻繁に通行するので人通りは一応ながら激しい場所だ。 そんな飲み屋小路に昼間から行列ができている中華料理店「娘々北浦和店」。地元民のパワーフードでしょうか。店の前に浦和レッズの旗やポスターが掲げられているあたりがサッカー王国浦和のお土地柄である。 この栄通り沿いにやたら気になる駐輪場を発見した。そりゃ駅前だし駐輪場の一つくらいあるだろうと気にも留めずに素通りしてしまいそうになるが、どこかしらその佇まいに違和感を感じた。「北浦和駐輪場」という単刀直入過ぎるネーミング。うーん… 入口の横にある「更新の受付」と掲示された看板、それを囲っているどこかで見た事のありそうな独特な形状のごついフレームが一体何なのか、思い出すのにさほど時間は必要としなかった。これは…元キャバレーではないのだろうか。 24時間管理された駐輪場で、1階下段は月額3000円だが、1階上段と2階は月額2500円で契約する事が出来るという月極駐輪場、兎角気になってしょうがないのが、どう見ても元キャバレーにしか見えない2階部分である。古風な筆字と、「静」「負」の旧字体が際立つ手書きの警告文もじわじわくる。この勢いだとオーナーはかなりのご高齢ではないだろうか。 2階へ続く階段を見上げると、足下こそは駐輪場らしく自転車を押して上げ下げできるようスロープが設置された階段に変わっている

[29] 調布飛行場 (東京都調布市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/chofu-airport/

2015年7月26日、東京都調布市の調布飛行場から離陸した小型飛行機が富士見町一丁目の住宅地に墜落、飛行機の乗員と巻き添えを食らった民家の住民を含めて3人が死亡、5人が負傷する事故が発生。それ以来連日マスコミ報道が続いていて、事故直後の報道ヘリの上空からの映像で焼け焦げた被害者の遺体がそのまま映っていた件やら何やらでネット上でも騒ぎになっている訳だが、果たして現場はどんな状況になっているか気になったので調布飛行場及び事故現場周辺の様子を見てきた。 墜落事故の渦中にある調布飛行場があるのは、調布市の西北側一帯。厳密には三鷹市と府中市にも跨っていて、最寄りに鉄道駅がないので、京王線調布駅もしくはJR中央線武蔵境駅からバスかタクシーで来る事になる。飛行場の周辺に広がる「武蔵野の森公園」北側の丘の上から滑走路が見渡せる。 東京近郊で空港と聞くとどうしても羽田空港や成田空港をイメージしがちだが、この調布飛行場は東京都が運営する小型機専用のコミューター空港である。輸送需要が限られる伊豆諸島行きの定期便が発着していて、伊豆大島・新島・神津島・三宅島の四島に定期便が就航している他、個人や会社所有の自家用機24機が運航されている。今回墜落事故を起こしたのはこの自家用機のうちの1機である。 調布飛行場の歴史は戦時中にまで遡り、昭和13(1938)年に計画され、3年後の昭和16(1941)年4月30日に竣工。当初は「東京調布飛行場」の名称で、専ら陸軍の戦闘機の発着に使われていた。飛行場ターミナル手前の道すがらに空港の竣工当時に建造され当初の正面入口に置かれたごつい石造りの門柱が未だに残っている。 調布飛行場という場所が第二次大戦当時に日本本土の貴重な防空拠点だった事を示す生き証人のような存在があり、それが武蔵野の森公園北側の一角に二ヶ所残されている掩体壕。敵機である米軍のB-29を迎え撃つ為に「飛行第244戦隊」の下で首都圏に配備されていた三式戦闘機「飛燕」を格納するために作られたもの。大沢一号掩体壕は開口部が塞がれて、戦闘機のイラストが描かれている上にフェンスで仕切られて立ち入り不能な状態。 同じく大沢二号掩体壕。戦時中はこのような掩体壕が約60基造られたと案内板には書かれている。撃墜されたB-29の機体が調布市街地に落ちたり、当然ながら米軍による機銃掃射や焼夷弾などによる攻撃対象にな

[30] 信濃町 | 2007~2009年 (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/shinanomachi/

2007年夏、初めての信濃町 東京の地理に詳しい知人の話で「一度信濃町と言う所に行ってみろ、凄いから」という強いお勧めを受けて、2007年の真夏の暑い中、新宿から総武線各駅電車に乗って信濃町駅を目指した。 新宿御苑、神宮外苑、赤坂御用地など、皇室関係の敷地が数多くあるお陰で首都のど真ん中にありながら広大な緑地と自然環境が残ったエリアが存在するのは、東京に来て驚く事の一つである。そんな絶好のロケーションの土地が、とある新興宗教団体によって次々買い占められているという話を聞いたのは、もうかなり昔の事だ。 公称1000万人、日本最大の新興宗教団体「創価学会」の本拠地がここ信濃町にある。一体どんな場所だろうという好奇心だけでやってきたのだ。 信濃町駅の改札を降りた、駅の構内からして既に教団関係の広告ばかりでありヤバイ。 「信濃町饅頭・信濃町しぐれ 三色味」と書かれた饅頭屋は和風とは似ても似付かぬ鮮やかな青黄赤の極彩色大勝利カラーに包まれていて非常に香ばしい。信濃町限定の代表的な土産物だ。 赤色には梅、黄色には栗、青色にはずんだ餡が使われているのだそうだが、この青はどう見ても正常な食品の色には見えないぞ。 学会員ではない人でも、神宮球場や、この慶応義塾大学病院は足を運ぶ機会があるだろう。この病院は過去に前総理大臣安倍晋三氏が運ばれたり首を吊った松岡利勝農水大臣が運ばれたりするなど、政府要人などの大物が利用している。 他にも、謎の死を遂げたZARDの坂井泉水氏が転落した螺旋スロープもある。この件も事故だったのか自殺だったのか結局謎のままだ。 だが、それよりも信濃町と言えばやっぱり青黄赤の大勝利カラーである。町中至るところに大勝利カラー。ここはルーマニア領ですか? しかも、このステッカーをよく見ればわかるが、信濃町商店振興会のものだ。商店街からして既にSGIの配下にあるということなのだろう。いやはやたまげました。 信濃町から四谷三丁目までを南北に抜ける外苑東通り。ここにも創価専門仏壇店や書店などの関連店舗がズラリと軒を連ねる。 本当は一歩裏通りに入っていくと凄まじい密度で創価関連施設が密集しまくっているのだが、今回は写真なしです。ヘタレですみません。 ちなみに、この界隈では普通にカメラを持ってうろつくだけでも謎の警備員に尾行されたり、「何か御用ですか」とさりげなく尋問されたりする

[31] 信濃町 | 2007~2009年 (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/shinanomachi/2/

2009年、再びの信濃町 またしても信濃町にやってきてしまった。別にこの宗教団体に対して悪意はないし単純に一宗教団体の存在だけで作られる街の日常に興味があるだけだ、という事を口実に一年半ぶりに再びこの街を訪れた。 久方ぶりに信濃町駅を降りて、慶応義塾大学病院に向かう横断歩道の前にふと目をやれば凄まじい電波文が書かれたビラがべったり貼り付けられるのを見て唖然とした。 信濃町周辺に漂うスピリチュアルパワーが電波を呼び寄せたのかよくわからないが、これだけの文章を吐き出した張本人は一体何者なのか。 やけにソッチ方面にうるさい主張を放つ電波ビラ。性の乱れに危惧を抱く気持ちは一理あるが、渋谷道玄坂や六本木や歌舞伎町辺りは既に何十年も前から ソドムとゴモラ 状態である。性的マイノリティは罪であり許さないらしい。うーん、怖いよう。 よほどニューハーフが嫌いなのか知らんが、 はるな愛 の名前まで出して非難轟々の始末。既に半分以上がビリビリに破けていて読めなかった。どなたかこの電波文の詳細を知る方、連絡下さい。 のっけから強烈な電波浴を受けて頭がくらくらしてきたので近所の本屋に逃げ込む事にしよう。博文堂書店とあるが見た目は普通の本屋だよな?そうだよな? だが中に入るとそこにはプレジデント大作先生を称える「聖書」の数々が… そうかそうか、ここが信濃町だという事を忘れていた。 それ以外は普通の本屋なんだが… しかし変わった事にこの本屋は地下への連絡通路もあって、そちらは学会関連の仏壇やら仏具がぎっしり並べられた店がある。 白百合バージョンの某子猫など、キャラクターグッズも豊富。ちなみに白百合とは紛れも無く学会婦人部のシンボルフラワーである。 何故こんなものがあるのか、少し調べてみたら サイゾーの記事 が引っかかった。学会と関係があるのかどうかサンリオに問い合わせてみたらしいが、うちは関係ないし小売店におろした先どうなってるかわかんねえよ、という結論で終わっている。 青と黄色と赤がチカチカしすぎて落ち着かないのでさっさと店を後にした。 本屋の横手にあるショーウインドウを見ても、やはりプレジデント大作先生の本が大々的に宣伝されていた。他にネタがないのかよw 頭が痛い時は甘いものが効く。ならば和菓子でも一つ食べて…と思ったら、この店も見事に三色の帯が飾られている。店の雰囲気に全然マッチしていない

[34] 万世橋の電波自販機コーナー (東京都千代田区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/akihabara-mad-vending-machine/

最近当取材班が気になっているのが「個性的な自販機コーナー」ジャンルの物件。田舎にあるオートレストランのレトロ自販機コーナーも近年減少する一方だが、打って変わってこちらはド都心もいいところの東京都千代田区神田須田町、秋葉原駅の南側、万世橋を渡った先にある「肉の万世ビル」真裏の自販機コーナー。かなり電波キツすぎて酷いとネット上でも随分評判になっているので見に来た。 まずどういう自販機コーナーなのかというのは言葉で説明するより画像を見てもらえれば判断できるだろう。まあ自販機コーナーらしく店の外面に沢山の自販機が設置されているのだが、ちょっとおかしい事に気づかないだろうか。 自販機に売られているものが飲み物だけではないのだ。何故か唐突にアロマキャンドル、その隣にはミートソース缶が陳列されている。「その灯火暮らし」とか書かれていてのっけから意味がわからない。 さらには自販機まるまる一個チップスターしか置いていないものまであってどの購買層に訴求しているのか定まらない所が怖い。 チップスターばかりと思いきやソーラー充電式ライトやオイルライターといった品々を無理矢理挟み込んでくる不意打ち的な商品構成。「男の決め道具」と言われましてもね…他にも栄養ドリンクが何種類か置いてあったり、乳ボーロやラムネや金平糖といった古めかしい駄菓子も売られている。 ちなみにチップスター自販機の隣にはポップコーン自販機まであって、この怪しげな自販機コーナーでありつける食糧の類は殊の外多いようである。秋葉原から近いと言っても基本オフィス街だし、本当にどの客層を狙っているのかが分からない。 ポップコーン自販機も販売されているものはバター風味にいちごミルク風味、そしてカレー風味と3つの味が楽しめる。だが店主のお勧めはカレーらしく「みんな大好きカレー」とテプラを貼り付けてアピール。誰が買っているのか不明なのに何故かポップコーン自販機は店内にもう一台、合計二台据え付けられている。 食い物や日用品に留まらず、秋葉原という場所柄なのかして鉄道模型やトミカなども自販機で販売されている謎っぷり。売れているんですかこれ… 肉の万世ビルの裏手に面した路地にずらりと並ぶ自販機群。右端には証明写真機も設置。建物自体かなり古ぼけていて薄っぺらいのが特徴である。二階部分には人が住んでいたりするのだろうか…元々は「高見裏地店」という個人

[35] 万世橋の電波自販機コーナー (東京都千代田区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/akihabara-mad-vending-machine/2/

<1ページ目を読む これだけでも既にこの場所のカオスっぷりが伝わっているだろうが、この万世橋の自販機コーナーの磁場を狂わせているのは自販機本体やその周囲に大量に掲げられた看板やテプラによる案内や注意書き、謎の文言の数々である。 まず自販機コーナーの主からの警告文が色々と香ばしい。かなりお客を信じていないようで、建物内煙草禁止といった事から色々と注意書きの文言が黄色いテプラでベタベタ自販機本体に貼り付けられている。「喫煙禁止、吸い殻を捨てるのも禁止」なのだが、違反者には「5250円を支払っていただきます」と随分具体的な罰金の金額が提示されているのだ。5000円に消費税5%って事か。しかし2014年4月からの新消費税率8%には対応していない模様。 ゴミ箱の蓋にまでしつこく黄色テプラで威嚇しまくる自販機コーナーの主。「人が燃えたら弁済できますか」などと物騒な事まで言われるがこのボロい建物自体がかなり火災の原因となりそうな気がしなくもない。文言通り、隣接するのは人が住むマンションである。 建物外面にびっしり自販機が並んでいるのでうっかりしていると気づかないが、この建物の中にも自販機が沢山用意されている。でも入口が分かりづらい。 どうやらここが入口のようですね。「おでん缶中華そば缶販売中」との事です。秋葉原という土地柄だけにチチブデンキ前に次ぐアキバのおでん缶自販機二番目の名所を目指しているのかも知れませんが、こうして見ている間に他の客が寄り付く様子が全くありません。その電波な佇まいのせいか、人目に付きにくい場所にあるからか原因は定かではないが。 さて中に入ってきました。自販機で遮られているせいで内部はかなり薄暗く、屋内の蛍光灯はほぼ自販機に備え付けられているものだけである。頭上には建物を支える木材の柱や梁が剥き出しになっていて防災上如何なものかと疑問が残る。 かなり雑然とした空間で、人がすれ違うのもようやくの通路だけ確保されて、後は同じように様々な自販機が詰め込まれている屋内。これが西成だったらワンカップ酒やビールやおつまみになるんですが、ここはアルコール類は一切置いていませんね。 果たしてアキバ名物らしいおでん缶の自販機はどこへ…と思ったらこれ…小汚くベタベタと注意書きがびっしり書き連ねられたテプラが大量に貼り付けられて商品が見えなくなっているこの自販機がそうだったらしい

[37] 百人町区営アパート (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/hyakunincho-kuei-apartment/

不法占拠バタヤ住民を住ませて半世紀、JR大久保駅近くにある「百人町区営アパート」の怪 2015/6/12 新宿区

新宿のお隣、最近元気が無くなってきたらしいコリアタウン新大久保の現状は先日お伝えしたばかりだが、またしてもこの街に残る胡散臭い話題を聞きつけてしまった。 JR大久保駅から線路沿いの道を職安通り方向に進むと現れる、三軒棟続きの二階建て長屋の存在…通りがかる人々は誰もがそこを何も無かったかのように通り過ごすが、実はこの場所にとんでもない「戦後史」が隠れ潜んでいた… この建物、地図上で見ると「百人町区営アパート」と記されている。それにしても全く生活感は感じさせないのだが、これが「住民」が存在する新宿区営のれっきとした区営住宅という事になる。何故こんなものが大久保駅近くのこの場所にあるのだろうか。 二階部分が住居、一階部分は事務所や作業所といった使われ方をしている様子だが、落書きされまくっているわ、どうにも荒れ果てている。外壁に蔦が絡まって余計に不気味さを増しているあたりが、かつての大久保の暗黒街ぶりを思わせる。 この区営住宅が特殊な存在である事は、二階へ上がる階段の手前の壁に据え付けられた住民の郵便ポストを見れば分かる。殆どどれも在日コリアンの苗字ばかりである。さすが大久保と言いますか、やっぱりガチなコリアタウンなんですね… 二階に上がると建物の裏側が廊下になっており各世帯の玄関口もこちら側にある。しかしこの陰鬱っぷり…JR中央総武線の線路の土手に阻まれ、昼間でもろくに日光が当たらず薄暗い廊下である。ベランダもなく洗濯物を干す場所は事実上ここしかない。生活環境としてはかなりアレな部類に入る。 この「百人町区営アパート」をネット上で調べると、とある 区民オンブズマンのブログ記事 に行き当たった。そこにはこの建物の正式名称が 「新宿区立百人町作業宿泊所」 である事と、月々の「使用料」という名目の家賃が2300円~6600円と極めて激安である事が記されている。大久保の賃貸相場で外国人でも借りられるような風呂なしボロアパートでも5万円台は見なければならないのに、このアパートの住民は特権的だ。 さらにその成立経緯についても、昭和39(1964)年の東京五輪開催を前にしたスラムクリアランスの一環で、職安通りを挟んだ南側にある「新宿都税事務所」(旧西新宿保健センター)の敷地

[38] 大久保公園 - DEEP案内不動産部, , http://e.deepannai.info/okubo-park/

度重なる浄化作戦が進められ見た目には観光客も闊歩する健全な繁華街となっている歌舞伎町も、まだまだ暗黒面とも言える場所はそこかしこに残っている。歌舞伎町の旧コマ劇場を過ぎたところにある「東京都健康プラザハイジア」裏手の「新宿区立大久保公園」を見ると、公園の外周部分が全てフェンスで覆われている。夜間早朝は立ち入る事ができず、午前9時から午後7時(冬季は夜6時)までゲートが開放されて出入り可能になっていて、定期的にイベント会場にもなるので、もはや公園と呼べるべき場所ではなく、多目的スペースと言った方が近い。

何故大久保公園がこうなったかというと、以前この場所は立ちんぼや違法なホニャララを販売する裏稼業の連中が集まる曰くつきのスポットとしてあまりに有名になってしまったせいだ。浄化作戦の一環でフェンスで覆われてしまい、夜間は一切出入り禁止。未だに大久保公園とハイジアの間の道や周辺で「客待ち」をしているババアの姿を目にする。周囲には歴史を感じさせる連れ込み旅館やラブホテルが密集しており、現代においても街の役目は変わっていない。ハイジアの前の道には「座り込み・立ち止まり禁止」の張り紙と共にロープが張られていて、立ち止まる事すら許されないのかと突っ込みたくもなる。

ちなみにこの大久保公園向かいに「公益社団法人日本駆け込み寺」の事務所があり、DV・家出・ストーカー被害者の相談サポートをしている傍ら、刑務所から出所後、社会復帰に困っている元受刑者及び元暴力団員の就職サポートを兼ねた飲食店「新宿駆け込み餃子」を近くで経営している。

[39] 豊洲 (東京都江東区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/chinese-in-toyosu/

【東京=トンキン】アイヤー!タワマンバブルに湧く江東区「豊洲」で中国人が急増している件

2016/7/1

2016/7/1

江東区

少子高齢化を基に容赦なく進む日本の人口減少社会、その反面どんどん外国人人口が増えまくっているのが今の東京都である。そんな中で先日、 「23区ではどこの国籍の人口が多いのか?」 というタイトルの記事が出てきた。この記事では6月27日に東京都が公表した 「東京都の人口(推計)」の概要 に基いて、23区の中で外国人人口が増加した区、特に中国人が増加した区をグラフや地図上にプロットするなどして可視化したデータを掲載している。

記事では外国人人口の割合を国別に円グラフでまとめているがその中でも「中国」が42%(台湾・香港も含む)で見るからにダントツなのだが、そんな中国人が多い区を上位4区で新宿、江戸川、江東、豊島と挙げているのだ。新宿区は極東最大のエスニックタウン新大久保があるし豊島区は東京最大のチャイナタウン池袋があるのでまだ分かる。しかし気になるのが東京東側の江戸川区と江東区だ。

江戸川区も江東区もJR総武線及び地下鉄東西線沿線が軒並み大陸系の本格大衆中華料理屋と怪しいマッサージ屋に中国小姐が夜な夜な「オニイサンマッサージキモチイイヨ」と片言で客引きする光景が当たり前になっているアレな街ばかりなのだが、とりわけ街並みがドラスティックに変貌を続けているのが江東区豊洲・東雲・有明といったタワマン建設ラッシュに湧く湾岸エリアである。

元々は工場地帯の埋立地だったのに今では富裕層がこぞって集まる街に

元々、豊洲・東雲・有明一帯は関東大震災後の瓦礫処理の際に埋め立てられた土地で環境汚染や公害といった悪しきレッテルが付きまとっていた工場や倉庫街でしかなかったが、都心に程近い故に再開発によって高級タワーマンションが続々建てられて富裕層が続々と入居し、特に豊洲地域は子供の人口も急増した為に2007年に豊洲北小学校、2015年に豊洲西小学校が相次いで増設される羽目になっている。

5年前の東日本大震災の記憶も薄れ、地震がひと度起きて停電でもすればエレベーターが止まって日常生活もままならなくなるような埋立地のマンションをポンポンと億単位も払って買ってしまうお目出度い人々がそれほどまでに大勢居るのかという驚きもあるのだが、富裕層と貧困層の二極化がそれだけ進んでいる

[40] 枝川コリアタウン (東京都江東区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/edagawa-koreatown/

凄まじい勢いで再開発の進み、首都圏の住みたい街ランキング(笑)上位にも加わる「豊洲」なのだが、有楽町線の豊洲駅から少し北東に歩くと見える豊洲運河を渡ると、そこは枝川一丁目というエリア。

ここは戦前の1940年に当時の東京市が幻のオリンピックを誘致するため、会場確保の名目で江東区内に住んでいた在日朝鮮人約千人をこの地に集団移住させた場所である、と言われている。

豊洲駅から枝川一丁目に入ると、大きな都営住宅の建物が現れる。

枝川一丁目交差点をはじめ周辺道路はコンテナ車など大型車の通行も多く決して良い住環境とは言えない。

たまたま訪れた日には、団地の入口の公園に盆踊りの櫓が組まれていた。

再開発著しい豊洲とは一転して、運河の向こうの枝川一丁目は静けさを残す古い住宅街だ。

都営住宅の多さを見るとやはりこの地域が港湾労働者と工場労働者が住むダウンタウンであるということがよくわかる。

白山湯という銭湯が一軒だけ、営業を続けているようだ。

小さな島のようになっている枝川一丁目地区の西側は都営アパート群と倉庫街、東側は低層住宅地と工場群が目立つ。団地は高齢化が進んでおり、介護施設が併設されている箇所もある。

商店街というような洒落たものは枝川一丁目には存在せず、肉屋だけが辛うじて営業を続けている小さな市場など数店舗が残っているのみ。

割と最近にできたと思われる焼肉屋が一軒。寂れた地区ではあるがやはり数世代に渡る歴史を持つコリアタウンだけあって焼肉屋の数だけは結構多いのだ。しかしよく見ると店の前に変な張り紙がしているぞ。

そういえばさっきからプーンと臭い匂いが店の前を漂っていて気になっていたのだが、実のところは隣のアパートの大家が飼育するペットの悪臭だと、店主が主張している張り紙だった。

「この悪臭の発生源は、当店ではありません」と必死の書き込み。まあ、八百屋とかならまだしも扱っているものが肉なので誤解を受けるのも無理はない。

で、隣の「赤い階段のアパート」はこれまた物凄く新しいわけだが、最近豊洲地区の発展の煽りを受けて隣接する枝川一丁目も新しくマンションやアパートが増えだしている。しかし隣人トラブルの火種になっていたりして宜しくありませんな。

地区東側の枝川橋からこの地区に渡ってくると、交差点の角に韓国物産専門の「コリア物産」の店舗があり、コリアタウンであることが分かる。この店の

[41] 東峰、三里塚…成田空港周辺を巡り、そして砂川に思いを馳せる - 日毎に敵と懶惰に戦う, , http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20160910/1473433200

9月10日土曜日、 青春18きっぷ 有効期限最終日。そして手元には1回分の余り。どこに行こうか迷った末、成田に向かうことにする。行きたいところがあるのだ

横浜から6時32分に乗った 快速エアポート 成田は、2時間15分かけて空港第2ビル駅へ。ここから歩いてある場所に向かうつもりなのだけれど、案内版はどれも空港の空港としての案内であって、空港の外に向かう道案内は何もない。とは言え、成田であるからそこらじゅうに駅員も職員も警察官も山のようにいるわけで、道を聞けばいいではないかと思うだろうけれど、なんというか、ものすごーく聞きにくい場所なのである

ひとまず地下から1階に出て、方向的には北だろう…と北に向かえば、そうか、第2ターミナルから北には、 LCC 向けの第3ターミナルが出来たのだった。ひとまずはそちらに向かってみよう。

第3ターミナルは第2ターミナルから600m以上。無料送迎バスもあるみたいだけれど、とりあえず歩いてみる。なるべく金をかけずに作りました、ということが、ありありとうかがえる、長い長い通路が通じている。そして

暑さ対策に設置された、ヒマワリのレプリカから水蒸気を噴霧する機械が、 マッポ ー感を存分に醸し出している。それにしても、遠い…

ようやくたどり着いた第3ターミナルは、あまりお金を掛けないけれど小奇麗に作ってみました…みたいな遠慮がちなものではなく、このたてものはおかねをかけていません!!!と全力で叫んでているような、とても潔い建物だった

でも、ま、フードコートはリーズナブルそうだし、 LCC 向けの割り切りとしては良かったんじゃないでしょうか

春秋航空 ショップもあったぞ。メイン商材は チーバくん だったけど

さて、本日の目的地はここではない。とにかく空港の敷地から出たいのである。第3ターミナルの入口まで引き返して、見回してみると、外に向かえそうな緑の通路が

たくさんの警察車両に囲まれながらずんずん進めば…

やった、脱獄できた!ちゃんと歩いて出られるんですね、良かった。空港から一歩出ると、いきなり神社があるあたり、良い感じです

この神社を横目に、空港の北辺に沿って、ほんとうにチープな造りの第3ターミナルを眺めつつ進めば

東横イン が見えてきて、増築工事中の 東横イン の前から、さらに田舎っぽい道に迷い込む

こんな道をどんどん進むとですね、おっ、おお

[42] 「所沢と多摩」で30代が急減した深刻な事情 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準, , http://toyokeizai.net/articles/-/149342?page=2

三浦 展

:カルチャースタディーズ研究所主宰

三浦 展 Atsushi Miura

カルチャースタディーズ研究所主宰

1958年生まれ。1982年に一橋大学社会学部卒。パルコに入社し、マーケティング誌『アクロス』編集室。90年に三菱総合研究所入社。99年に「カルチャースタディーズ研究所」を設立。消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。 著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、『第四の消費』『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『格差固定』などがある。

[43] 無電柱化の前に撮っておきたい「電線のある風景」(1) - 路地ウラ観光案内, , http://rojiurawatch.hatenablog.com/entry/2016/12/03/223230

小池都知事が進める東京都の「無電柱化」は、先進国の都市として安全な街づくりを考えれば当然の提案なのかなぁと思います。

でも、でも・・・(笑)

懐かしい風景が目の前でどんどん変わっていくのがさみしくて、

せめて写真に撮っておこうと、日々撮り歩いております*

今回は、東京に限らず電線の似合う風景を載せたいと思います。

***

多すぎる電線(杉並区)

角の煙草屋にからみつく(杉並区)

呑兵衛をつなげる( 小伝馬町 )

商店街をはしる( 西荻 デパート)

縦横無尽( 立川市 )

近代建築を囲む電線(村林ビル)

旧街道の路地( 都留市 )

Y字路の電線には努力が見られる(中野)

広い道路にも電線( 秩父市 )

鐘と電線( 秩父市 )

松が先か、電線が先か( 武蔵野市 )

うさぎとパンダと電線(世田谷区)

好きな風景がこんな風にプリントされてると、いつでも懐かしい気分にひたれますね。

[44] 【首都圏最後のフロンティア】「八潮市」がNIMBYでヤクザな街からニュータウンへ脱皮する時 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio-newtown/

【首都圏最後のフロンティア】「八潮市」がNIMBYでヤクザな街からニュータウンへ脱皮する時

2017/4/6

2017/4/6

八潮市

東京都心からたったの15キロ、足立区に隣接し、2005年に開通したつくばエクスプレス線で秋葉原から最短17分で来ることができる「埼玉県八潮市」…21世紀に入り初めて鉄道が開通したこの街は、これまで工場や産業廃棄物処理業者が乱立する工業地帯として発展してきた反面、住宅地として発展することもなく、足立区に隣接するお土地柄だけあって暴力団構成員やDQNなどガラの悪い人種が大量に流入し、治安の悪さでも頭角を現していた街でもあった。

前回この街を訪れた のは2010年、それから6年以上が経過して少しは駅前の風景も変わったのだろうかと気になって再度八潮の地に降り立ったんですが、以前より心なしか駅の利用者も増えた気がする。

つくばエクスプレス線開業直後の2005年には約7万5千人だった八潮市の人口も今では約8万7千人(2017年4月時点)に増えている。駅前ロータリーから見える周囲の街並みもマンションや商業施設が以前よりも明らかに多くなっている。まあ当然っちゃ当然なんですが、やはり沿線住民の人気は千葉県内に集まり、快速が通過する埼玉県区間は超絶不人気なのだ。

八潮駅開業の翌年2006年にオープンした駅前商業施設「フレスポ八潮」も健在である。これまで工場地帯と農村しか無かった八潮に初めて誕生した大型商業施設であり、近隣から車でやってくる現地民と、これまで他の街でたまるしかなかった中高生や不良DQNの姿で活気に満ちている。

ここの駐輪場で2010年11月に近くの オウム真理教(現・アレフ)八潮大瀬施設 に暮らす出家信者だった元妻を刺殺した男が逮捕された事件があったことはよく覚えていますよ、ええ。

八潮駅南口には何も無かったが今では商業施設が次々と誕生している

以前は原っぱしか無かったはずの駅南口ロータリー付近も続々と商業施設が出来ている。駅を出た真正面にある「BiVi八潮」は2013年11月オープン。まだ真新しい印象を受ける。郵便局やサイゼリヤやら学習塾、クリニックなどがちょこちょこ入居しているこじんまりしたモールである。出来て間もないせいか空きテナント多めですね。

そんなモールよりも圧倒的に大規模なのがパチンコ・パチスロ総台数1000台と大型立体駐

[45] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

東京23区最強のDQNスラム地帯とかねてから評判の高い「足立区」に隣接する埼玉県八潮市は、近年つくばエクスプレスの開業でベッドタウンとしての開発がいよいよ始まろうとしている東京近郊最後のフロンティア。

つくばエクスプレスの区間快速で秋葉原からわずか17分、さらに首都高三郷線が通じている為にクルマでも電車でも交通の便が良くなった。当取材班は、この一見何にもなさそうな東埼玉の辺境地帯である八潮の街を訪れた。駅だけはやたら立派であるが周囲は殆ど宅地化されておらず、だだっ広い印象を受ける。

八潮駅を出ると、駅の南側にはひたすら原っぱが広がっている。これからマンションが続々建設されて、さぞかし近代的な街が生まれるに違いない。つくばエクスプレス沿線の駅前はどこもこんな感じでフロンティア感が凄まじい。

八潮駅南口ロータリー。実はここから亀有行きのバスが出ていたりする。北関東の田舎にでも来たかのような印象を受ける駅前のスカスカっぷりにあんぐりしてしまうが、車があると足立区や葛飾区は目と鼻の先。首都圏ってまだまだ土地が余ってるんですね。

足立区に接する八潮は、膨張する首都東京から溢れ出た「人」ではなく「工場」を受け入れて成長してきた街である。人口8万2千人という街の規模に対して工場数はさいたま市・川口市に次ぐ県内第三位。八潮にある工場の多くが狭い都心を離れて広い土地を求めて移転してきた。

23区に隣接しているとは思えない広大な田園地帯に、都心から移転、または退けられた工場や建設資材・残土置き場、産廃業者、葬儀式場、ラブホテルなどが点在する特異な風景が見られる場所、それが八潮だ。

この土地には不動産用語的に言う所の「嫌悪施設」が寄せ集められている。江戸時代の浅草・南千住小塚原よろしく東京の鬼門とされる右上部分にそうした施設が集まってしまうという土地の因縁は平成の世となった今でも受け継がれているようである。

中小企業の工場や事務所と思しき建物を見ても、殆どが工事関係の業者や塗装業といったガテン系職種のものであることが分かる。周りに何もないので余計に目立って見える。

ちなみに東京各所にいる塗装や土木など色んな現場作業の車両を見てみると

[46] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - Page 2 of 3 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/2/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

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すっかりニュータウン臭くオシャレに変貌したつくばエクスプレス八潮駅前の風景を抜けると、その先には田園地帯に建設資材置き場が散在する、どこか殺伐とした独特の街並みが広がっている。現場作業のトラックや工事車両などはこの場所から東京都心に出て仕事をしているのだろうか、巨大なユンボのアームがいくつも錆びた鉄のフェンスから頭を覗かせている。土建屋と工場だらけの街、それが八潮である。

八潮駅から少し離れた首都高三郷線沿いに建つ、何の変哲もない3階建ての貸し倉庫。

ここがどうやらオウム施設として使われているらしい。

首都高の高架に沿って走る下道も大型車が引っ切り無しに通り抜けるような場所で排ガスだらけ、周りは工場地帯、住む環境としてはよろしいはずもないのだが、こんな場所をわざわざ選ばなければならない程、彼らは生活の場に不自由している訳だ。

見れば分かるが、ここは本来は工場関係の貸し倉庫として使われる為に建てられたはずのもの。そこにわざわざ生活の場を作り上げているのである。殆ど窓もなく、辛うじて見える窓はことごとく目張りがされていて中の様子を伺う事が出来ない。凄まじい住環境だ。

だがそこに人が暮らしている形跡は確かにある。住人の自転車置き場が建物横にあるのだ。元夫に刺されて亡くなった被害者女性もこの場所で生活していたことであろう。

一体この建物の中でどれだけの人間がどんな日常が繰り広げられているのか。迫害されながらもオウムの残党として暮らす方がマシだという日常は我々平凡な人間には理解出来る世界ではない。

そして当然のごとく貸し倉庫の周囲には地域住民による抗議の立て看板がずらりと並んでいて一目に見て異様さが伝わる。

「ここにオウムの巣があります」 だなんて書かれているので事情を知らないよそ者でも一発で事態が分かってしまう訳だ。 「出て行け出て行け出て行け」 と三連呼されたりして凄まじい嫌われっぷりだ。それでも信者達は「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」とこの場所に居座り続けているようだ。

オウムの教団施設はここ八潮市大瀬の貸し倉庫の他、足立区辺縁部の環境の劣悪な工業地帯に何箇所か点在していて、今も活動を続けて

履歴

[48] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567265909410

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