新宮市

新宮市

[1] 新宮市

Webページ

[2] 国道311号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93311%E5%8F%B7

概要[編集]

田辺市・尾鷲市間では国道425号が並行しているが、国道425号が狭路のため迂回路として利用される。海岸沿いを走る国道42号線と共に紀南地方の主要道路の一つであり、1999年(平成11年)の南紀熊野体験博開催に向けて道路整備、拡幅が行われた。

奈良県を僅かながら通過しているが、国道169号重複区間を含む奈良県域の道路管理は和歌山県東牟婁振興局新宮建設部が担っている。 阪和自動車道として高速道路が南紀田辺インターチェンジまで開通する以前までは大阪方面(和歌山市内)から紀伊半島南部や尾鷲方面に行く手段として、海岸線の国道42号は大型トラックや信号機、一般車輛の交通量が多い為に信号機が数機しか無い国道424号、国道168号を経てこの国道311号に突き当たり西に白浜温泉、東に尾鷲と走る事が可能なショートカットの道路として地元では有名であり、この道路を別名サンピンピンとも呼ばれている。 国道311号は熊野川付近の大日山トンネルの北側出口(緯度33.826043度 経度135.776487度)途切れ国道168号になる。また再び(緯度33.878050度 経度135.861120度)国道311号が現れ尾鷲方面に行く事が出来る。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:尾鷲市(大字南浦字矢ノ川長尾1980番2地先[2]:新矢ノ川橋西交差点=国道42号交点)

終点:和歌山県西牟婁郡上富田町(岩崎交差点=国道42号交点)

重要な経過地:熊野市、和歌山県東牟婁郡熊野川町[注釈 1]、同郡本宮町[注釈 2]、同県西牟婁郡中辺路町[注釈 2]

路線延長:160.6km(実延長129.7km)[3][注釈 3]

三重県区間:85.8km(実延長72.9km)

和歌山県区間:71.8km(実延長54.1km)

奈良県区間:3.1km(実延長2.7km)

指定区間:国道42号と重複する区間[4]

歴史[編集]

1970年(昭和45年)4月1日

一般国道311号(尾鷲市 - 和歌山県西牟婁郡上富田町)として指定。

路線状況[編集]

バイパス[編集]

曽根梶賀バイパス(三重県尾鷲市)

本宮バイパス(和歌山県田辺市本宮町)

中辺路バイパス(和歌山県田辺市中辺路町)

上富田バイパス(和歌山県西牟婁郡上富田町)

別名[編集]

熊野街道

[3] 日本唯一の飛び地の村で水上の県境をまたぐ - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160824197261_1.htm

日本で唯一村全部が飛び地となっている自治体、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡北山村。

県境マニアとしては、行かずにはおられない聖地のひとつでもある。

そんな北山村で、川の上にある県境をまたいできた。

[4] 池原ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%8E%9F%E3%83%80%E3%83%A0

池原ダム(いけはらダム)は奈良県吉野郡下北山村、一級河川・熊野川(新宮川)水系北山川に建設されたダムである。

電源開発(J-POWER)が管理する発電用ダムで、高さ110.0メートルのアーチ式コンクリートダム。アーチダムとしては国内最大の総貯水容量と湛水(たんすい)面積を誇り、日本における大規模なダムの一つである。下流にある七色ダムとの間で揚水発電を行い、最大35万キロワットの電力を生み出す。ダムによって形成される人造湖は池原貯水池(いけはらちょすいち)または池原湖(いけはらこ)と呼ばれ、ブラックバス釣りのメッカで日本における代表的なバス釣りスポットでもある。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが選定するダム湖百選の一つにも選ばれている。吉野熊野国立公園に指定されている。

沿革[編集]

熊野川総合開発計画[編集]

熊野川[1]は紀伊半島では紀の川に並ぶ大河川である。その流域面積の大半は紀伊山地内であり、かつ大台ヶ原を始めとして年間総降水量が平均で3,000ミリ、多いときには5,000ミリにも達する日本屈指の多雨地帯である。これに加え瀞峡など険阻な峡谷が形成されている。こうしたことから水量が極めて多い急流河川であり、水力発電には最適な河川であった。だが険しい山と谷によって交通の便が極めて悪く、開発の手がなかなか伸びない河川でもあった。

熊野川水系における河川開発計画は、1937年(昭和12年)に当時河川行政を管轄していた内務省が全国64河川を対象に河水統制事業の調査河川の一つに選ばれたことより始まる。東京帝国大学教授・内務省土木試験所長であった物部長穂が提唱した「治水と利水を統合した、水系一貫の河川開発」、すなわち河川総合開発事業が国策として推進されたことによるものである。熊野川は内務省大阪土木出張所が調査を行う河川として予備調査が開始されたが、その後の太平洋戦争によって調査は進捗しなかった。

戦後壊滅に陥った日本経済の回復と、治水事業放置による水害の頻発に頭を悩ませていた経済安定本部[2]は中断していた河川総合開発事業の再開を図り、1947年(昭和22年)に24河川を対象とした調査が行われた。この際熊野川は建設省[3]と農林省[4]が共同で調査を開始した。農林省については熊野川本流上流部を紀の川と連絡水路でつなぎ熊野川の水を紀の川へ分流させ

[5] 古座川町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%BA%A7%E5%B7%9D%E7%94%BA

歴史 [ 編集 ]

当町山間部では温暖かつ湿潤な気候のため、古来より良質の材木を産しており古座川材と称された。この古座川材を古座川沿いの村々が古座川に流し、これを下流の高池や西向、古座といった場所で受け取り、下流の町が栄えることとなった。

江戸時代末期ごろの古座川流域は、材木材よりも備長炭の材料としてのウバメ樫を使った上質な炭づくりが大変盛んに行われており、江戸や上方の台所燃料として大変好評で、下流の高池にある佐藤家はこれをほぼ独占供給していた。現在でいえば東京ガス大阪ガスを支配するようなものであり、耕地面積が少なく、年貢米が納められずに投獄される地主がいるほどの貧しい地域にあっては異色の豊かさだった。現在の古座川町役場は佐藤家跡に建てられている。

町名は町内を流れる 古座川 にちなんで命名された。

沿革 [ 編集 ]

1956年 ( 昭和 31年) 3月31日 - 高池町 ・ 明神村 ・ 小川村 ・ 三尾川村 ・ 七川村 が合併して発足。

行政 [ 編集 ]

現在の町長は武田丈夫。 2008年 6月15日の町長選挙で初当選し、 2012年 に再選した。

経済 [ 編集 ]

2005年の国勢調査によると

第一次産業就業人数は162名、

第二次産業就業人数は196名、

第三次産業就業人数は927名

である。

産業 [ 編集 ]

山間部では古座川材を産すなど林業が盛んで、海岸に近い高池などでは木材加工も盛んである。特産品として「ユズ」があげられ、柚子酢のほかジュースやジャムなどに加工されている。

日本郵政グループ [ 編集 ]

集配郵便局

明神郵便局(明神)

三尾川郵便局(三尾川)

無集配郵便局

高池郵便局(高池)

西川郵便局(西川)

簡易郵便局

佐田(さだ)簡易郵便局(佐田)

小川(こがわ)簡易郵便局(小川)

平井簡易郵便局(平井)

簡易郵便局を除く各郵便局にゆうちょ銀行のATMが設置されており、明神郵便局ではホリデーサービスを実施(2011年6月現在)。

※古座川町内の郵便番号は以下のとおり。

「 649-41xx 」 = 東部地域(高池、宇津木、池野山、月野瀬、楠、樫山)。 串本郵便局 (東牟婁郡 串本町 串本)の管轄。

「 649-42xx 」 = 中部地域(明神・小川地区など)。明神郵便局の管轄。

「 649-44xx 」「 649-45xx 」 = 西部地域

[6] 十津川村 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E6%9D%91

産業 [ 編集 ]

林業、農業、鮎など川魚の養殖・加工が主たる産業になっている。主な特産物は鮎の加工品、山菜、 ゆうべし 等。

風屋ダム・二津野ダム・十津川第一発電所

なお、十津川第二発電所は村内ではなく、十津川村に隣接する新宮市にある。

金融機関 [ 編集 ]

南都銀行 十津川支店(折立)

新宮信用金庫 十津川支店(平谷)

農業協同組合 [ 編集 ]

奈良県農業協同組合 (JAならけん)

十津川支店(武蔵)

なお、村内にはJAバンクATMは設置されていない。

日本郵政グループ [ 編集 ]

2014年6月現在。

日本郵便株式会社

上野地(うえのじ)郵便局(上野地)

風屋(かぜや)郵便局(風屋)

小原(おはら)郵便局(武蔵)

折立(おりたち)郵便局(折立)

平谷郵便局(平谷)

重里郵便局(重里)

瀞(どろ)郵便局(神下=こうか)

これらの郵便局はすべて集配局となっている。また各郵便局には ゆうちょ銀行 のATMが設置されており、小原郵便局ではホリデーサービスを実施。

十津川村の郵便番号は以下の通り(番号右隣の括弧内は集配担当の郵便局)。

「 637-11xx 」(上野地)=沼田原(ぬたのはら)、長殿(ながとの)、旭、上野地、宇宮原(うぐはら)、谷瀬(たにぜ)、林、高津(たこうつ)。

「 637-12xx 」(風屋)=内原(ないばら)、滝川、風屋、野尻、山崎(やまさき)、池穴、川津、内野、三浦、五百瀬(いもぜ)、山天(やまてん)、杉清(すぎせ)。

「 637-13xx 」(小原)=大野、小井、小森、湯之原、小原、武蔵。

「 637-14xx 」(折立)=小川、高滝、樫原(かしわら)、込之上(こみのうえ)、折立、山手谷。

「 637-15xx 」(平谷)=那知合(なちあい)、谷垣内(たにがいと)、山手、平谷、猿飼(さるかい)、桑畑、七色、出谷(でたに)、上湯川。

「 637-16xx 」(重里)=重里、永井、玉垣内(たまがいと)、西中、今西、小山手(こやまて)、小坪瀬(こつぼせ)、迫西川(せにしがわ)。

「 647-15xx 」(瀞)=上葛川(かみくずがわ)、東中、玉置川(たまいがわ)、神下。

また、竹筒(たけとう、 647-1271 )は日足(ひたり)郵便局( 和歌山県 新宮市 熊野川町日足)の集配担当となっている。

なお十津川村の大字としてその他「大谷」もあるが、大

[7] 小辺路 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%BE%BA%E8%B7%AF

小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく[1]。そのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである[2]。(→#自然誌参照)

近世以前の小辺路は紀伊山地山中の住人の生活道路であり、20世紀になって山中に自動車の通行できる道路が開通してからも、おおよそ昭和30年代までは使用され続けていた。そうした生活道路が、熊野と高野山を結ぶ参詣道として利用されるようになったのは近世以後のことであり、小辺路の名も近世初期に初出する。小辺路を通行しての熊野ないし高野山への参詣記録は近世以降のものが大半を占め、近世以前の記録もいくつか確認されているが少数である。(→#歴史参照)

高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。(→#小辺路の峠参照)

古人のなかには全ルートをわずか2日で踏破したという記録もある[3] が、現在では2泊3日または3泊4日の行程とするのが一般的である[4]。日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている[5] 他は交通至難であることも手伝って歩く人も少なく、静謐な雰囲気が保たれている。また、高野山から大股にかけてなど著しい破壊の見られる区間(後述)も若干あるものの、良好な状態の古道がまとまって残されている[6] 点も評価されている。

ただ、全ルートの踏破には1000メートル級の峠3つを越えなければならず、一度山道に入ると長時間にわたって集落と行き合うことがないため、本格的な登山の準備が必要で、冬季には積雪が見られるため、不用意なアプローチは危険と言われている[7]。

歴史[編集]

開創[編集]

高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』[8] としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額

[8] 国道311号線(3), , http://3koku.uroneko.com/nr311-453.htm

R311は和歌山県新宮市熊野川町(旧:東牟婁郡熊野川町)宮井地区の宮井橋西詰を右折すると、R168と重複して北(十津川方面)に向かう。R168との重複区間は平坦な2車線道で、熊野川に沿って淡々と北上する。川沿いに進むのでカーブの多い区間を走る。やがてR168熊野川本宮道路区間に入ると、東敷津トンネル(L=1380m)・二ッ石トンネル(L=798m)と続けてトンネルを越えて、和歌山県田辺市本宮町(旧:東牟婁郡本宮町)に入る。本宮町大津荷地区を過ぎて請川地区の町外れでr45

(県道那智勝浦本宮線)交差点を過ぎて800mほど進むと、大日山トンネル(L=200m)東口にあるR168とR311との交差点に到着する。宮井橋西詰から約12kmである。

R168との交差点を左折するとすぐに大日山トンネルに入る。トンネル東口すぐが交差点となっているのだ。約200mのトンネルを抜けると四村川を渡り、田辺市本宮町渡瀬地区の山間を進んで行く。渡瀬温泉横を通り過ぎると2車線坂道となり、坂を上ったところで旧道が分岐すると渡瀬トンネル(L=417.5m)に入る。

田辺市本宮町内は整備改良が進んでおり、R311は整備された2車線道とトンネルで進んで行く。R311は渡瀬トンネルを出ると四村川を渡り、四村川左岸を平坦な2車線道で進んで行く。皆地トンネル(L=355.4m)・武住トンネル(L=394m)・大瀬トンネル(L=729m)とトンネルが3つ続き、蛇行する四村川沿いに進む旧道に対して直進して進むようになっている。

田辺市本宮町大瀬地区の山間を進むと、細野トンネル(L=117.5m)、平井郷トンネル(L=370m)と2つトンネルを抜ける。このトンネルは平成9年〜10年(1997〜98年)にかけて開通したトンネルで、平成11年(1999年)4月〜9月に開催された南紀熊野体験博開催に合わせて急ピッチで整備され、平成10年(1998年)12月18日に全通したR311中辺路バイパスの一部であった。

平井郷トンネルを過ぎて少し進むと田辺市中辺路町(旧:西牟婁郡中辺路町)域に入る。沿道には民家はなく、何もない山間を整備された2車線道で淡々と進んで行く。やがて中辺路バイパス旧道が分岐すると、緩やかで長い坂道を上り

、小広トンネル(L=519m)東口に到着する。R168交差点から約14kmである。

[10] @nifty:デイリーポータルZ:飛び地のアイデンティティ, , http://portal.nifty.com/2009/04/02/c/4.htm

やっぱり気になる飛び地の理由

やはり飛び地になった理由は気になる。観光センターの人に飛び地になった理由を聞いてみた

「昔このへんは林業が盛んだった。伐採した木材は筏を組んで川に流して下流の和歌山県新宮市に運んでいたため、新宮市との結びつきがとても強かった。なので地理的には奈良県であるにも関わらず、新宮市と同じ和歌山県に!という要望で和歌山県となった。という説が有力だけど実際のところはわからない」

とのことです。実際はわからないとか要望で実際にそうなっちゃうとかアバウトな感じ、人間っぽさを感じるのがとても素敵だと思った。

飛び地の謎も解けた。中身も感じた。後はおばあさんのくれたじゃばらを味わおう。

サンマ寿司の作り方

おばあさんが言っていたようにサンマの寿司と焼酎でいただこう。

この地方でサンマの寿司と言えばお酢で〆て巻いた姿ずしのことだ。地元の人にとってはお寿司屋さんなどで食べるよりも自宅で作って食べるほうが多い。ということで僕のおばあちゃんに作ってもらった。

[11] 和歌山県道230号高田相賀線 高田トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/wpr230/main3.html

2015/7/24 17:10 《現在地》

現在、全長約1.3kmの旧道のラスト200mに差し掛かっている。

だがそこには、手前200m辺りから遠望出来されていた、大規模な路盤流出地点が横たわっていた。

500m手前の、おそらく橋が流出していると思われる地点よりも、さらに長距離にわたって、路盤が失われていた。完全に川に削り取られてしまっている模様。

ここを越えれば、すぐにゴールだ。奥に現道が見えている。

どうせ自転車を置き去りにしているので最後は戻らねばならないが、折角ここまで来たならば、“完抜”で締め括りたい。

そんな気持ちで歩みを進めた。

この場所は、もともと難所と呼べる地形であったと思う。

道は、蛇行する川の流れが山にぶつかり、激しく岩肌を削る“衝”の部分を横断しており、これは最も典型的な“川道の難場”である。

たとえ洪水がなくても、つぶさに保守補強を続けなければ、やがて浸食によって壊される運命にあった道だろう。

件の大水害は、平時なら数十年分にあたる変化を、わずか数日の間にもたらしたようだ。

ちなみに、この分かりやすい難場が、新宮市の大字相賀と大字高田の境になっている。これは明治22(1889)年の町村制施行により高田村となる以前の相賀村と高田村の境であった。

さて、 ここからが本題。

段階を踏んで先細っていく路盤を早々に見限った私は、画像に示した“矢印のルート”で、先に河原へ下りてしまうことにした。

岸が垂直に切り立っていて、安全に下りられないことを心配していたのだが、幸いそれほど険しい傾斜ではなく、問題なく河原へ下りることが出来た。

が、そこに衝撃の発見があったのだ。

この河原への下降の最中、ちょうど画像の“☆印”の地点で私が見たものは、 全く想定外 のものだった!!

――河原に築かれた石垣――

この写真だけでは、私がなにゆえ驚愕したのか、全く伝わらないと思う。

だがこの石垣は、 本来ここにあるはずのないものなのだ。

崩れた石垣の中から、 別の石垣が出現した?!

もう少し引きの画で見てみると、特異な状況がより一層際立って見える。

明らかに、 県道の路肩の下にあった石垣の内部には、別の石垣が内蔵されていた。

洪水によって県道の石垣が破壊されることがなければ、決して明るみにはならなかっただろう石垣だ。

この隠されていた石垣の正体を考え

[12] ☆ 岩門 ☆|癒しの和歌山, , http://ameblo.jp/968-910/entry-10683051288.html

12:55ごろ

「石門」バス停です。

ここにもクジラの絵が描かれています。(‐^▽^‐)

バス停のそばに岩門(せきもん)があります。

麻巳子たちは 燈明崎

からこの岩門を見にやってきました。

坂を下った漁港そばで、国道240号線沿いになのですぐ分かりました。

岩門(せきもん)の説明板がありました。

『古来、和田の岩屋とか和田の岩門(せきもん)と呼ばれていた。

紀伊風土続風土記には「和田の岩穴 村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。内に入れば村居に適せり。和田氏住居せし所といふ。」

と記載されている。(和田氏とは、太地古式捕鯨の創始者のこと。)

和田氏は、この石門の内側に4,5千坪もある屋敷をもち、のちにここを和田の東屋敷と呼んだ。』

鎌倉時代の武将・朝比奈三郎が北條氏に鎌倉を追われた後、この岩門の内側に居を構えたと伝えられているそうです。

また、和田家の通用口だったようですが、現在は屋敷は無く、この向こうには住宅が密集していました。

岩門は素彫りのトンネルかと思ったら、風化作用で自然にできた岩穴なんですって。\(゜□゜)/

内部は崩落防止のために、今はコンクリートで補強されています。

[13] 和歌山県道230号高田相賀線 高田トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/wpr230/main.html

この探索は、夕暮れ前のちょっとした“隙間時間”(探索にもこのようなタイミングはしばしば発生する)に行ったものだ。

特に事前の計画はなかったが、地図上に「手頃そう」な姿で載っていたので、ミニレポにでもなればいいやという軽い気持ちで夕暮れ時に乗り込んだ。

《所在地(マピオン》

そんな探索のターゲットになったのは、 和歌山県道230号高田相賀線にある高田トンネルと下河トンネルの旧道である。

この県道は紀伊半島の南東部、三重県との県境になっている熊野川の畔に位置する和歌山県新宮市相賀(おうが)地区から、同川の支流である高田川を遡り、その源流部を占める同市高田(たかた)地区へ至る(県道の起点と終点はこれと逆)、全長約7kmの“ピストン”(=行き止まりの)路線だ。

高田地区住民の生活路線であると同時に、雲取温泉などを訪れる観光客も利用するが、全体としてはあまり交通量の多くない地味な県道だと思う。

最近の道路地図でこの県道を見ると(→)、全線のほぼ中間地点、相賀と高田の大字境の辺りに、下河と高田という名の2本のトンネルが描かれている。

高田トンネルは結構長く、地図読みで800mは下らない。あまり長くない県道なので、余計にトンネルの存在感が大きく見える。

そして、この2本のトンネルのすぐ傍を併走するように、明らかに旧道と思われる道がはっきりと描かれている。

しかも、下河トンネル脇の旧道には、「下河隧道」という注記がなされた “旧隧道”まであるではないか!

約1.3kmという旧道の長さといい、隙間時間の探索にはお誂え向きな趣だった。

それではさっそく、地図上の「現在地」地点から、探索を始めよう!

2015/7/24 16:42 《現在地》

既に17時近い時刻だが、夏の日差しはまだ山に隠されることなく、強烈な熱射をもって道路に陽炎を湧かせていた。

ここは新宮市相賀の国道168号分岐地点から、県道高田相賀線を2.5kmほど進んだ地点である。

ここまでの道は完備された2車線道路で、既に相賀の集落は過ぎている。

そして地図によれば、このもうすぐ先から、1.3kmに及ぶ一連の旧道が始まるはずだ。

私は車を駐めて自転車を下ろすと、いつもの出で立ちで探索をスタートさせた。

県道沿いを流れる高田川は、意外に思えるほど川幅が広く、水量豊富だった。

まるで入浴剤を溶かし込んだ

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926425158670

メモ