奈川渡ダム

奈川渡ダム

[1] 奈川渡ダム

Webページ

[2] 道路レポート 梓湖に沈んだ前川渡(長野県道乗鞍岳線旧道), , http://yamaiga.com/road/maekawado/main4.html

現地での最大の謎として残った、この写真の隧道の行く先は、旧版地形図を見ることで簡単に解決した。

次にご覧頂くのは、奈川渡ダム完成の17年前を描いた、 昭和27(1952)年応急修正版5万分1地形図「乗鞍嶽」 である。

長過ぎ〜!!

案の定、あの隧道はめちゃくちゃ長かった! 深追いせず正解。地形図上での長さを計ると、 3800m はある!

この数字は、過去に私が探索したあらゆる廃隧道の中で最長だと思う。

仮に洞内に泥が堆積していなかったとしても、さすがに途中で怖ろしくなって逃げ出したか、或いは本当に酸欠で大変な目に遭っていた可能性がある。

私は僅か20mほどでリタイアしたが、私は本当に果てしない長大な隧道に呑み込まれかけていたのである…。

そして肝心の出口には何があったかといえば、そこにはやはり発電所の記号が待ち受けていた。

その発電所の場所には、梓川と奈川が合流する奈川渡(ながわど)の地名があり、これは現在の奈川渡ダムサイトのすぐ近くだ。

上の図は、昭和27(1952)年と昭和47(1972)年の地形図である。カーソルオンやタップ操作で画像が切り換わる。

これらの地図には、私が今回発見した2本の水路橋を含む長大な発電用水路の全貌が描き出されているが、昭和47年版では既に奈川渡ダムが出現しており、その湖畔に本来なら既に廃止されていたはずの水路が引き続き描かれてしまっている。これは「資料修正版」という、ダム完成以前の図に簡単な修正を施しただけの版だからだろう。

昭和27年版に描かれた一連の発電用水路の上端は、大野川上流の乗鞍高原番所(ばんどころ)付近に設けられた取水堰であったようだ。

そこから小大野川の上流を経由して前川発電所の水圧管路(水を落とす水路)へ導かれていた。これが前半部分で、奈川渡ダムの完成後も引き続き稼働している。

対する後半部分が今回発見された廃止区間であり、ここでは2本の水路橋を経由し奈川渡にあった発電所へ導かれていた。

以上の水路の全長は10km以上もあり、しかもほぼ全線が隧道として描かれていた。

奈川渡ダムの湖底に眠る、長さ4km近い水路隧道。

その奥部は依然として未知のままであり、閉塞しているのか貫通しているのかも分からない。

我々はただ想像するのみである。

仄暗い湖底の底に、人知れず眠り続ける巨大な真闇のあることを。 ―

[6] 道路レポート 国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム, , http://yamaiga.com/road/r158_midono/main6.html

2008/7/2 10:23 【現在地(別ウィンドウ)】

この「新入山トンネル」だが、

実は 「しんにゅうやま」ではなく、

「にゅうにゅうやま トンネル」 と呼ぶ。

…と、読者の一人がコメントを下さった(大笑) ←座布団全部上げます。

動と静。

1面2相を一洞に宿した入山隧道。

いま、県道に供された「静」の坑口より脱出なる。

そこにあるものは、我々と、皆様のご想像通り……。

信濃川水系最大の湖、 梓湖(あずさこ)だ。

奈川渡ダムによって貯留された水の総量は1億2300万立方メートルもあり、これは同じ長野県の諏訪湖の2倍の容量である。(アーチダムとしては、全国6位の貯水量)

こうして目前にすると、確かに巨大だ。

しかし、この湖の膨大な水量は湖面の大きさより、その深さによるところが大きい。

沈んでいる谷の深さは、このダム堤体付近で湖面から数えて120mを超えている。

湖の平面形は平仮名の「く」の字を逆さにした形で、ダムはその頂点にある。

向かって左の腕が奈川で、沿う道は境峠を越えて木祖村(県道26号)や、野麦峠を超えて飛騨高山方面(県道39号)へと通じる。

右の腕は梓川の本流で、沿うのは国道158号。安房峠を頂点に飛騨方面へ通じる。

いずれの腕も、上流5km以上にわたって細く長く、そして深い湖水を連ねている。

前回の最後に、「未発見の廃道」を匂わせる記述をしたが、その謎解きは取りあえず後回しにして、少し周辺を確かめてみよう。

その中にも、いろいろとこの「入山隧道」の過去を思わせるものがある。

新入山の西側坑口から出ると、湖面を望む丁字路になっている。

左折方向にも、私にとって思い出の深い“オイシイ隧道”たちが並んでいるが、今回は右折だ。

こちら側も、国道158号と合流するまでの約150mが県道26号に指定されている。

新入山隧道の坑口前の様子。

左写真は、木祖側から坑口へ接近した際に目にする青看。右折して隧道へ侵入することは出来ないことが、シンプルに表現されている。

遠方に見える建物は、道路左がレストハウス、右が「梓川テプコ館」という東電のPR施設だ。

そして、昭和40年代らしくシンプルな作りの坑門。

こちら側からは進入出来ないので、お馴染みの「トンネルナンバーのプレート」も取り付けられてはいない。

代わりに、進入禁止の規制標識が

[11] 道路レポート 奈川渡ダムの謎の道, , http://yamaiga.com/road/nagawado/main3.html

2008/9/8 17:34

くずかごの置かれた広場から、階段でまっすぐ10mほどダム側へ下った地点。

そこに、この遊歩道の“目玉”であったろう奈川渡ダム展望の特等席がある。

この展望台からダムまでの距離は約350m。

両者の標高は、約1000mというところで一致している。

当然、ダム側からもこの展望台は見えるはずなのだが、今までその存在を意識したことはなかった。

7月の探索時にダム天端の国道から撮影した写真を見直してみよう。

確かに、写っていた。

だが、それと分かって見なければ気づかないのも無理はないだろう。

それにしても、展望台の周囲はものすごい急斜面だ。

どこか「ミステリーサークル」を彷彿とさせる展望台の様子。

丸いテーブルを中心に、詰めれば10人くらい座れそうな半円形のベンチが二つ置かれている。

いずれも、骨組みは鉄製であるが、肌に触れる部分は木製になっている。野ざらし雨ざらしの割に、腐りもせず良く残っている。

それにしても、テーブルとベンチの離れ方はどういう事だ。

これでは、ベンチに座ったままテーブルに手が届くかどうか、怪しい。

展望台は完全な袋小路であり、もと来た急な階段の他に出入り口はない。

日没が迫っている現状では、木の温もりがあるベンチもどこか寒々とした物に見えてしまい、一切腰掛けることなく、すぐに“くずかご”の有る広場に戻った。

広場に戻って辺りを見回すと、ここよりも上、すなわち痩せた岩尾根のてっぺんにも遊歩道は続いているようで、手すりばかりが嫌に目立つ階段が見えた。

この階段の入り口は、少し戻って…。

ここ。

先ほどはこの階段に上らず松林の中へ潜っていったが、山頂の展望台へは、右の急な階段を上れば行くことが出来るのだ。

…今度は何が見えるのか。

行ってみよう。

[16] 道路レポート 国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム, , http://yamaiga.com/road/r158_midono/main.html

右図は、安曇三ダムと通称される梓川に連なる3つのダムを中心とした、松本市安曇地区(旧安曇村)のマップである。

3つのダムは、東京電力が昭和30年代以降に開発したもので、主に発電、次いで農業水利と洪水頂設に用いられている。

最も下流の稲核(いねこき)ダムから水殿ダムをへて奈川渡ダム、そしてその上流端である沢渡まで、水面高低差200mを付けながら、梓川には約15kmも湖が連続していることになる。

ダム有るところに、廃道あり。

このセオリーはこの場所でも生きている。

梓川の本流に平行する国道158号はもちろん、奈川渡で南に分かれる県道26号、そして前川渡で分かれる県道84号のいずれにも、当然のように水没を喫した廃道が存在する。

おいおい紹介していくことにもなるだろう。

だが、私にとってこの国道158号の梓川筋は、単に廃道を巡って終わりという、行きずりの場所ではない。

日本中の道の中でも、ここの現国道には殊更おおきな思い入れがある。

右の地図にも描かれているが、奈川渡ダムの周辺はとにかくもの凄いトンネル連続地帯になっていて、明かり区間よりもトンネルの占める距離の方が長いほどなのである。

そして、これらのトンネルが

…幼かった私の心に

…二度と治らぬ病を

…暗くて狭い隧道への飽くなき憧憬を

…植え付けてしまった。

旧安曇村内の国道158号関連のレポートとしては、最も松本寄りの 「猿なぎ洞門(橋場地区)」 を公開済である。

次は水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間をお伝えしたいと思う。

いよいよ、我がオブ心の故郷、トンネル連続地帯にも掛かるレポートになるだろう。

これは、今回のレポート範囲のダムが出来る前の地図。

ちょうどこの地図が描かれた昭和28年に、従来は県道「松本船津線」であった梓川沿いの道が、二級国道158号「福井松本線」へ昇格したのであった。

地図を見ても分かるとおり、この区間には当時隧道はひとつも無かった。

そして、奈川渡付近では谷底を通っていた。

ここは明らかに奈川渡ダムによって水没しているであろうが、一方でその下流の水殿ダムは、必ずしも旧道に影響しなかったかも知れない。

地図を見る限り、水殿ダムから下流の稲核ダムにかけての道は、ダムが出来る以前からかなり高い山腹に付けられていたようだ。

続いて、現在の地形図を見てみよう。

今回

[17] 道路レポート 長野県道26号 奈川木祖線 奈川渡ダム〜奈川, , http://yamaiga.com/road/npr26_nagawa/main.html

【周辺地図(別ウィンドウ)】

このレポートは、「 道路レポート 国道158号 水殿ダム〜奈川渡ダム 」の続編である。

nagajis氏とタッグを組んで梓川筋の隧道・旧道・廃道を手当たり次第に攻略する旅は、その重要な経由地である奈川渡ダムに到達後、少し寄り道をすることにした。

ターゲットは、奈川渡で国道158号より分岐して旧奈川村から木祖村方面へ繋がる県道26号「奈川木祖線」にある、4本の隧道たちだ。

水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間にも5本の隧道があったが、ダムへのもう一つの接近路である県道26号にある隧道は4本。

由来もダム工事に関する路線の付け替えということで前者と共通する。

なお、前回レポートの冒頭でも語ったとおり、私にとってこの一帯は、 “トンネルではない「隧道」への目覚め” のエリアである。

特に我が家では、毎回この県道26号から梓川筋へ入っていた憶えがある。17.8年も前だから、当時は長野自動車道も未完成で、東京方面からの入路として必ずしも松本経由は最短ではなかったのかも知れないし、ハンドルを握る親父の好みだったのかも知れない。(帰りはいつも松本経由だったので)

ともかく、今回の探索では最後に遭遇することになるだろう「角ヶ平隧道」こそ、幼少の私にとって、 なぜだか分からないが興奮する隧道達との出会いと再開の場所 であった。

そこは、今日の ヨッキれんの原点 であるといっても、決して過言ではないはずだ。

大人になって初めて… 十数年ぶりの再会。

果たして隧道は、どうなっているのだろう。

地図を見る限り、当時と同じで5本健在であるようだが…。

ナガジスさん、すまないね〜。 俺の思い出拾いにつきあわせちゃって…。

「 イイヨイイヨー 」

読者さんにも、すまないね〜。

2008/7/2 10:24

県道26号の起点は、入山隧道内部の洞内分岐地点と、そこから約200m離れた奈川渡ダム交差点の、合計2箇所あることになる。

だが、そう厳密に考えなくても、起点から約200mほどで両者は合流する。前回紹介した、新入山隧道の坑口前の交差点で。

左の写真は、そこからさらに100mほど南へ進んだ地点だ。

早速、県道26号として1本目の隧道が見えている。

右に広がる広大な水面は、これでほぼ満水位の梓湖だ。

この湖面は、かつての梓川の右支流奈川を5k

[18] 梓川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%B7%9D

[編集] 地理

長野県松本市の北西に位置する飛騨山脈(北アルプス)槍ヶ岳に源を発し南流する。上高地で大正池を形成し、梓湖(奈川渡ダム)に注ぐ。島々宿で東に向きを変え、新淵橋を過ぎたところから右岸の波田と左岸の梓に河岸段丘をつくる。松本市大字島内で奈良井川を合わせ犀川と名を変える。奈良井川との合流点手前のラーラ松本付近では拾ヶ堰や勘左衛門堰が地下横断をする。

[編集] 歴史

仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡(あつみぐん)とし、境界の川も「熱躬川(あつみがわ)」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された[1]、とある。「熱躬川」であったにもかかわらず、梓川を「あつみがわ」ではなく「あずさがわ」と呼ぶ理由としては、二十巻本の和名抄(巻5)で、信濃国安曇郡を「阿都之(あつし)」と訓じてあることがあげられる。この「あつし」の訓は、「あづさ」の音にきわめて近い。

一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている[2]。

[編集] 利水

梓川の水は、発電用と、農業用灌漑のために、古くから用いられてきた。このため、新淵橋よりも下流の松本盆地での流量は豊かだとは言えない。

[編集] 発電用

水路式発電所は上高地に近い上流から、盆地部に下りての昭和電工赤松発電所・梓水力発電所まで、流域の各地に造られて古くから稼働してきた。1969年(昭和44年)11月には、奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダムの梓川3ダムが完成した(それまで梓川にはダム式発電所がなかった)。この梓川3ダムは揚水発電所として運用され、電力需要の多い時間に発電のためにいったん下流に放水された水を、電力需要の少ない夜間に再度揚水して上流のダム湖にためるようになっている。このために、下流のダム湖の上端が上流のダムの下まで来るように造られている。

[編集] 灌漑用

「堰」は一般には、川を堰き止める構造物をさすが、松本盆地ではその堰から取水して水を流す人工河川をも「堰」(読みは「せぎ」)といい、たくさん存在する。梓川から取水するものだけでなく、烏川から取水する烏川

[19] 道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯, , http://yamaiga.com/road/r158_sawando/main.html

廃道の中の廃道。

皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。

草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…

ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!

廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。

ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。

それゆえ、以前執筆させていただいた『 廃道をゆく (イカロス・ムック)

』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。

この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。

同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。

都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。

国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。

この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。

そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。

だが、この安房峠越えの道。

険しいのは峠だけではなかった。

むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。

右の地図を見ていただきたい。

密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。

どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。

北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。

そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。

[20] 飛騨山脈 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%B1%B1%E8%84%88

飛騨山脈南部鳥瞰写真。常念岳、大天井岳などの常念山脈があるため、上高地の奥側にある飛騨山脈主稜線上の穂高岳などは松本盆地からはほとんど見えない。

飛騨山脈(ひださんみゃく)は、富山県、岐阜県、長野県に跨って連なる山脈である。一部新潟県の部分もある。

現在では通称北アルプスであり、木曽山脈、赤石山脈を合わせ日本アルプスと呼ばれる。なお、日本アルプスという呼び名は、イギリス人鉱山技師ウィリアム・ゴーランド(ガウランド)による命名である。

山脈の主要部分は、中部山岳国立公園に指定されている[1]。山脈の最高峰は、標高3,190mの奥穂高岳で、富士山と北岳に次いで日本で3番目に高い山である。

[編集] 地質学的見地

飛騨山脈は、地殻へのマグマの貫入による隆起とマグマの熱によって地殻の厚み減少が起こり、そこに応力が集中し挫屈し隆起した。活動の初期では圧縮圧力が少なくその後、東西から大きな圧力を受け、褶曲により盛り上がってできた山脈である。位置的には、フォッサマグナ西端の外側で、造山運動前にあった岩石は西南日本を形成する古い地層である。山脈が出来たのは、第三紀で、活動期は2つに分けられる。最初の隆起活動は250万年前から150万年前に活発で、次の活動期は80万年前以降である。

250万年前から現在までのマグマ総噴出量は、1000km3 以上。250万年前から150万年前の活動では、成層火山の玄武岩質単成火山群による大規模火砕流堆積物により、約900km3 。150万年前から80万年前の火成活動の低調な時期には、岩脈・花崗岩類の貫入があった。80万年前から現在までに、成層火山の中規模火砕流堆積物により約240km3[2]。

また、飛騨山脈は、かつて乗鞍火山帯に属すると言われたほど火山が多い。反面、中央アルプス・南アルプスには火山はひとつもない。

なお、現在の火山学・地質学では、地名(山名)を使った○○火山帯という呼称は用いず、太平洋プレートあるいはフィリピン海プレートがユーラシアプレート・北アメリカプレートに沈み込むことにより火山が生ずるという理論に基づき、沈み込み帯のユーラシア大陸側に東日本火山帯と西日本火山帯の火山フロントが帯状に存在するという考え方である。

飛騨山脈は、太平洋プレートが北アメリカプレートの下、さらにその先のユーラシアプレートの下に潜り込むことによりその力で形

[21] 隧道レポート 釜トンネル , , http://yamaiga.com/tunnel/kama/main2.html

上高地の衛兵こと、釜トンネル。

国道158号に面する中ノ湯側坑口には、新旧の坑口が仲良く並んでいた。

当然我々のターゲットは“釜トン”こと旧隧道だったが、人の目もあり進入は不可能だ。

そこで我々は計画を変更して、上高地側坑口へと向かうことにしたのである。

平成17年に開通したばかりの(新)釜トンネルは全長1310mもあり、完全2車線で防災設備も完備した近代的トンネルである。

だが、この立派なトンネルを通ることが出来るのは、特別な許可を与えられた車…主にバスやタクシーのみである。

それでも、年間200万人を超す上高地の観光客がこぞって通行しているのだから、過剰な設備投資と安易に言えるものではない気がする。

自動車にとってはただの通過地点に変わってしまった“釜トン”だが、一方で今も自由に通行できるチャリにとって、たった一本で145mもの高低差を稼ぎ出すトンネルが印象に残らないはずがない。

「二度はない。」 そう思うほどのほどに苦しい道であった。

その通過にたっぷり20分近くも要していることからも、分かって貰えよう。

2008/7/2 17:21

連続11%の急勾配に耐え抜き、脱出した先は、産屋(うぶや)沢という。

トンネルから続く坂を登りきったところで突如平坦になって短い橋を渡るが、この下の小さな沢が産屋沢である。

釜トンの入口が中ノ湯なら、出口は産屋沢と、昔から知られた名前だという。

釜トン自体のカリスマは失われてしまったとはいえ、梓川の車窓の大なる変貌は、依然として釜トンの存在感を確認させてくれるものだ。

中ノ湯までの車窓はずっと急峻なV字谷の底にあったが、この産屋沢まで来ると、上高地を象徴するあの風景…大正池…を彷彿とさせる、壮大な山間の堆積平野に変わっている。

実際、ここから大正池まではもう2kmほどだ。

川べりを行くこの県道「上高地公園線」も、トンネルであんなに登らされたのがまるで嘘のように、あとは終点上高地までほぼ平坦である。

え? 上高地?

なにそれ? 美味しいの?

…というわけで、 Uターン!

つうか、 Ob ( オブ ) ターン??

nagajisさんとも笑ったんだが、ここまで登ってきて上高地へは行かないとか、どんだけマゾだって話だよ(笑)。

17:22

新トンネル上高地側坑口の目の前で分かれ、梓川河原の方へ急激に下っていく道

[22] 乗鞍岳 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E9%9E%8D%E5%B2%B3

— 『日本三代実録』(873年)

が残されており、「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれその当時から霊山として崇拝されていた[17][18]。平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている[注釈 2][17][18]。1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた[11]。飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた[12][19]。日本には同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している[20]。信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた[注釈 3][17][21]。最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」[注釈 4][21]。魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている[21]。1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった[22]。南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある[6]。

火山・地勢[編集]

日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである[23]。乗鞍岳は乗鞍火山帯に属し、複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。千町火山体(せんちょうかざんたい、128-86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている[9][23][24]。古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる[24]。新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された[19]。約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された[25]。

山頂部は南北6 km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15 km、東西に30 km、山域の面積は約250 km2と裾野が広いのが特徴で[23]、北アルプスの中では最も広い山域を持つ[19]。乗鞍高原などの8つの平原がある。火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼。

[23] 道路レポート 長野県道26号 奈川木祖線 奈川渡ダム〜奈川, , http://yamaiga.com/road/npr26_nagawa/main2.html

2008/7/2 10:36 【周辺地図(別ウィンドウ)】

県道26号奈川木祖線の奈川渡ダム建設に伴う付け替え区間には、合計4本の隧道が並んでいる。

いずれも昭和40年頃に開通したものであるが、このうち宮ノ下隧道だけが新隧道に切り替えられている。

この後編では、残る鈴平と角ヶ平の2隧道をチェック後、旧宮ノ下隧道の捜索を行う。

幼少の私に強烈な印象を残した旧隧道は、果たして無事なのだろうか。

ブナの木隧道を出ると、そこは湖面より80mも高い山腹である。

そう言えば、入山隧道からここまで道は僅かながら上り調子であった。

今は崖側にも木が育ち、崖下の湖面はほとんど見えないが、昭和50年に不幸にもこの斜面から湖へ転落し落命した、若い除雪車操縦技士の慰霊碑が路傍に祀られている。

矢尻のような形をした自然石の碑だ。

裏面には、長文の慰文をしたためた金属のプレートが収められている。

周りはなぜかそこだけ野花が咲き、碑前にはまだ新しい線香と煙草が供えられていた。

おれ、こういう、「何気ないけど実はひどい」景色が大好きだよ。

だってさ、目の前にトンネルが有るわけですよ。

で、トンネルまで奇麗な直線なわけですよ。

だのに、ここに立つ標識には… グネグネ が…。

このグネグネがどこにあるのか、考え得る可能性はひとつだけ。

わ…

ワクワクしますよね?

3番目のトンネル「鈴平隧道」に近づくと、余り目立ってはいないが、路傍にこんな看板も現れた。

「トンネル内急カーブ スピード落とせ 松本建設事務所」

傾いた背後の標柱には、小さな「落石注意」の標識が付いている。

敢えて標識を隠してまでの主張だが、目立っていない。

そもそも、対向車線側に取り付けられているというのが、スペースの都合上やむを得なかったのだろうが、目立たない。

もう一枚、標識が立っている。

で、その背後には、旧道らしきスペースが見えているじゃないか。

にもかかわらず、現地ではなぜかスルーしてしまった。

反省しています。

「鈴平」と書いて、その読みは「すずはら」と言うらしい。

どういう訛りなのか、ちょっと予想の付かない読み方だ。

全長は、153.3m。

幅や高さもおそらく前と同じサイズだ。

この長さならば見えていて良いはずの出口は、見えない。

そして、この隧道には定まった「通過儀礼」のようなものがある

履歴

[24] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926422716781

メモ