チョイバルサン空港

チョイバルサン空港

[1] チョイバルサン空港

Webページ

[2] モンゴル・ノモンハン紀行, , http://outdoor.geocities.jp/halhingolnomonhan/mongolia2010/mong10_10.html

平成22年8月29日(日) 日程9日目、モンゴル第8日目

今日の予定は、市内観光と昼食の後に空路でチョイバルサンからウランバートルに移動である。

昨夜は雨が降ったのだろうか?灰色の雲が低く垂れ込めるどんよりとした朝だ。 本日は特に予定も無いので、朝食は遅めの9時からだった。目が覚めてからずいぶん時間を持て余すことになるので、暇つぶしにカメラを片手にホテルの周囲を散策してみることにする。先に散歩に出かけていたSTOさんが「今日は寒いですよ~」と言った。ポロシャツで一旦玄関まで出たのだが、やはり忠告通りフリースを着込んで出かける。

【朝の散歩】

ホテルはチョイバルサンの町の中心部に位置するため、周囲には何やら役所か企業のオフィスらしき建物が並んでいた。いわゆるここは“オフィス街”なのであろう。 オフィス街と言っても日本で想像するようなものとは程遠く、廃屋に見える建物も多い。それでもレンガ造りの古びたビルの前には10台程車が並んでおり、事務員の女性だろうか?玄関の前を掃除していた。その横をグレイハウンドのような痩せた灰色の犬が力無さげに歩いている。

人の気配はほとんど無いのだが、散策を続けるに従いポツリポツリと人に出会う。人通りが少ない中、朝早くからうろついている私を見て、出会った人々は一様に、不思議そうな表情をする。(とはいえ、嫌悪感のある表情ではない。)

私としてはこの小雨交じりの天気の中、 古びたコンクリート壁の建物 や、 庶民の生活が感じられる場所を撮影対象として探していたのだが、中途半端な人通りの中ではかえって目立ってしまい、カメラを向けて良いのやら悪いのやら・・・。そう考えると盗撮のようになってしまい、まるでスパイのようだ。

それでも5階建てのレンガ造りの集合住宅を見つけることができ、少しだけチョイバルサンの“生活の匂い”みたいなものを写真に収めることが出来たように思う。

09:00朝食

荷物を玄関に置いて食事。その間、タイシルが荷物の番をしていた。朝食はおかゆとトースト、サラミと目玉焼き、ピクルスだった。おかゆは米の粉を煮詰めたような感じで、粉砕された米の粉が少しザラザラした食感がする。

我々が食べ終わると、交代でタイシルが食堂に行った。

10:05。時間通りに大型観光バスが迎えに来た。チョイバルサンにも観光バスがあるのかと関心している

[3] 「モンゴル・ノモンハン戦跡研修」, , http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm

海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(2)

常務理事 高橋 義洋

モンゴルの大草原、道なき道を3百キロ走破

首都ウランバートルから約6百キロ、モンゴルの最東端にあるドルノド県(北はロシア、東と南は中国と国境を接している)の県都チョイバルサンを出発して一路東へ3百キロのキャラバンが始まったのは6月27日13時50分であった。

その日、ウランバートルから1時間20分程のフライトで到着したチョイバルサン空港は一面に短い草がまだらに生えた平地の中にあって、見渡す限り360度地平線が遙かに見える。

これが滑走路かと疑問に思えるような荒っぽいコンクリート舗装、辺りには航空機の掩体と見られるものが散在している。

聞けば、この空港は元来ソ連軍により作られたもので、1990年の民主化までは約1万人のソ連軍がチョイバルサン一帯に駐屯していた(町の郊外に、当時のソ連軍が使用したであろうそれらしき施設の残骸がかなり広い地域に残っているのを見た)という。

そうだとすれば、あの掩体は中ソ対立厳しい頃、中国の攻撃に備えたものであろうと納得。

空港に我々を迎えたのは7両の四輪駆動車(トヨタ・日産各1両の他はロシア製の車両)の車列、全員分乗して空港から15分ほどの市内のホテルへ向う道路の状況は、四輪駆動車が出迎えたことを納得させるにふさわしいものであった(尤もその後のキャランバンに比べれば、序の口とは後で気付いたこと)。

チョイバルサンの町は人口3万というが、広い平原にまだらに集落が散在するような寂しげな町で、それでもさすがに中心部にはちょっとした街並みがあり一応設備の整ったホテルもある。

昼食を摂ったホテルの従業員に尋ねると「日本人を見たのは初めてだ」とのことで遥々着たかの感を強くした。

町のはずれに遠くウランバートルの北東部から延々と流れてきたヘルレン河がある。

この水が更に東進してハルハ河と合流し、中ソ国境のアルグン河更にアジア最大のアムール河となって太平洋に注ぐ、なんと4千5百キロの流れかと考えると気が遠くなる思いがする。

この町はチョイバルサンの出身地ということで名付られた。

チョイバルサンは1920年、スヘバートル(既述)等と共にソ連政府に選ばれてモスクワで共産主義の洗脳を受け、後日モンゴル人民革命(1921年)を指導した七人の一人。

スヘバートル(人民軍総司令官)の死

履歴

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メモ