ノモンハン

ノモンハン

[1] ノモンハン

Webページ

[2] 退職のち放浪, , http://tameike.net/journey/mongol4.htm

退職のち放浪 ライブ(13)

モンゴル編 �C

ノモンハンに行く事にした。

ノモンハンとは、モンゴル-中国国境付近のごく小さな集落もしくはエリアの名前である。【スンベル】という小さな町に近い場所にある。

日本の教科書では「ノモンハン事件」と書かれているが、モンゴルでは日本との最初の戦争と位置付けられている。そう、明らかに歴史上の大戦争なのである。

8000名近い日本人がわずかの間に亡くなったこの地を見ずして帰れない、と思っていた。

しかし、モンゴルを旅する人の中で実際にノモンハンまで行く人というのは本当に極わずかだ。モンゴルに来る多くの日本人が泊まる宿で聞くと、前回は2000か2001年に行った人がいる、というだけだった。それだけ個人の旅人が行く事はまれだ。

しかし、今年、一人の大学生がノモンハンを訪れた。彼女のおばあさんは満州への移民組だったそうだ。命からがら逃げてきたらしい。そんな背景もあって、彼女は大学で昭和前半の戦争を学んでいる。実に感慨深くノモンハンを見てきたという。

また『地球の歩き方』の2003〜2004年度版にノモンハンが大々的にうたわれている。しかし編集者と写真家の個人的な特別な思い入れによって掲載されたらしく、旅行者の日本人の間では「一体誰があんな遠くまで行くのさ」と評判が悪い。この編集者は確かにノモンハンに行ったようだが、ガイドブックにもかかわらず、訪れる為に必要な詳細情報はほとんど書かれていないのだった(こうなると趣味の世界かもしれない)。

モンゴルを訪れる日本人はほぼ間違いなくその『地球の歩き方』を持っている(金持ちの旅行者については知らないけど)。それだけ当地の情報が乏しいからだ。しかしほとんどの人はノモンハンの記述に目もくれない。極まれに、戦争でなくなった方々の遺族がグループツアーにて訪れることはあるらしいのだが…。

私に至っては北京で買ったのが古い2002〜2003年度版の『地球の歩き方』だったものだからノモンハンそのものの記述が乏しい。

では何故ノモンハンなのか?

ノモンハンについては高校2年の世界史で軽く習った程度だ。

強いて言えば、まんが『はいからさんが通る』だった。私には2つ上の女のいとこがいて、ごく小さい頃にこのまんがを見せてもらった。詳しいところは覚えていないが、主人公のフィアンセの“少尉”がロシア軍と戦い敗北するシー

[6] モンゴル・ノモンハン紀行, , http://outdoor.geocities.jp/halhingolnomonhan/mongolia2010/mong10_10.html

平成22年8月29日(日) 日程9日目、モンゴル第8日目

今日の予定は、市内観光と昼食の後に空路でチョイバルサンからウランバートルに移動である。

昨夜は雨が降ったのだろうか?灰色の雲が低く垂れ込めるどんよりとした朝だ。 本日は特に予定も無いので、朝食は遅めの9時からだった。目が覚めてからずいぶん時間を持て余すことになるので、暇つぶしにカメラを片手にホテルの周囲を散策してみることにする。先に散歩に出かけていたSTOさんが「今日は寒いですよ~」と言った。ポロシャツで一旦玄関まで出たのだが、やはり忠告通りフリースを着込んで出かける。

【朝の散歩】

ホテルはチョイバルサンの町の中心部に位置するため、周囲には何やら役所か企業のオフィスらしき建物が並んでいた。いわゆるここは“オフィス街”なのであろう。 オフィス街と言っても日本で想像するようなものとは程遠く、廃屋に見える建物も多い。それでもレンガ造りの古びたビルの前には10台程車が並んでおり、事務員の女性だろうか?玄関の前を掃除していた。その横をグレイハウンドのような痩せた灰色の犬が力無さげに歩いている。

人の気配はほとんど無いのだが、散策を続けるに従いポツリポツリと人に出会う。人通りが少ない中、朝早くからうろついている私を見て、出会った人々は一様に、不思議そうな表情をする。(とはいえ、嫌悪感のある表情ではない。)

私としてはこの小雨交じりの天気の中、 古びたコンクリート壁の建物 や、 庶民の生活が感じられる場所を撮影対象として探していたのだが、中途半端な人通りの中ではかえって目立ってしまい、カメラを向けて良いのやら悪いのやら・・・。そう考えると盗撮のようになってしまい、まるでスパイのようだ。

それでも5階建てのレンガ造りの集合住宅を見つけることができ、少しだけチョイバルサンの“生活の匂い”みたいなものを写真に収めることが出来たように思う。

09:00朝食

荷物を玄関に置いて食事。その間、タイシルが荷物の番をしていた。朝食はおかゆとトースト、サラミと目玉焼き、ピクルスだった。おかゆは米の粉を煮詰めたような感じで、粉砕された米の粉が少しザラザラした食感がする。

我々が食べ終わると、交代でタイシルが食堂に行った。

10:05。時間通りに大型観光バスが迎えに来た。チョイバルサンにも観光バスがあるのかと関心している

[7] ノモンハン1 of aizenkai, , http://www.jinruiaizenkai.jp/kolumno/mongolio/cn23/nomonhan-1.html

山崎 光男

6月25日(土)夕刻、東京からAさん(88歳)一行6名がウランバートル空港に到着した。Aさんは65年前、ノモンハンで多くの戦友を失った。他のメンバーも60歳を越えた年配の方々で共にノモンハン慰霊の旅を志してきた。

私は予てから、この旅を企画したETT社のアンハー専務から「山崎さん、一緒に行きませんか?」と度々誘われていた。

「それはよいですね。絶好の機会です」と気軽に返事をしておいた。私自身は目的地まで片道千キロと知ってはいたが、舗装道路を高速で走りぬけ、途中のホテルで熱いシャワーや食事をいただきながら快適な旅ができるものと思い込んでいた。

わたしの返事があまりに軽く感じられたのであろう。アンハーは本気にはしていなかった。

当初、この旅は全区間を車で往復する予定であったが、ウランバートルからチョイバルサン(3分の2行程ほど)まで往復国内便が出ることになった。当然、参加者は喜んだ。

ところが途中で往路だけしか便が出ないということになった。そして、出発の間際になって、さらに往路も便が欠航となった。普段は温厚なアンハーも激怒してしまった。航空会社は何の謝罪もしなかったらしい。日本ならば補償問題になっただろう。

最初の計画に戻すしかない。アンハーの決断は早かった。あいかわらず私は、起伏に富んだ草原の道・2千キロを走行するということが、どういうことか全く理解していなかった。

出発を目前に控えて「山崎さん、明日出発です。本当に行くんですね?」とアンハーが念を押した。「あー、行きますよ。何時に出発ですか?」「11時ごろになるでしょう」と彼が応じた。

翌朝8時に起床して朝食を準備し始めたとき、彼から携帯電話に連絡が入った。

「今から出発です。山崎さんのアパートに来ています。」

私はあわてて洗面具と着替えをバックに突っ込み、アパートを飛び出した。「これもモンゴル式なのだろう」と自問しつつ。

日本からの一行はフラワーホテルに昨夜到着していた。Aさんの他に男性が一人、残り4人は女性であった。新彊ウイグル自治区のウルムチやタクラマカン砂漠に行ったことのある女性もいた。それなりに旅慣れした方々なのであろう。

私は急いでホテルのトイレに駆け込み朝の用便を済ました。目の前にトイレットペーパーが1巻あった。私はそれをバックに入れた。草原で済ますときには必需品とな

[8] 「モンゴル・ノモンハン戦跡研修」, , http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm

海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(2)

常務理事 高橋 義洋

モンゴルの大草原、道なき道を3百キロ走破

首都ウランバートルから約6百キロ、モンゴルの最東端にあるドルノド県(北はロシア、東と南は中国と国境を接している)の県都チョイバルサンを出発して一路東へ3百キロのキャラバンが始まったのは6月27日13時50分であった。

その日、ウランバートルから1時間20分程のフライトで到着したチョイバルサン空港は一面に短い草がまだらに生えた平地の中にあって、見渡す限り360度地平線が遙かに見える。

これが滑走路かと疑問に思えるような荒っぽいコンクリート舗装、辺りには航空機の掩体と見られるものが散在している。

聞けば、この空港は元来ソ連軍により作られたもので、1990年の民主化までは約1万人のソ連軍がチョイバルサン一帯に駐屯していた(町の郊外に、当時のソ連軍が使用したであろうそれらしき施設の残骸がかなり広い地域に残っているのを見た)という。

そうだとすれば、あの掩体は中ソ対立厳しい頃、中国の攻撃に備えたものであろうと納得。

空港に我々を迎えたのは7両の四輪駆動車(トヨタ・日産各1両の他はロシア製の車両)の車列、全員分乗して空港から15分ほどの市内のホテルへ向う道路の状況は、四輪駆動車が出迎えたことを納得させるにふさわしいものであった(尤もその後のキャランバンに比べれば、序の口とは後で気付いたこと)。

チョイバルサンの町は人口3万というが、広い平原にまだらに集落が散在するような寂しげな町で、それでもさすがに中心部にはちょっとした街並みがあり一応設備の整ったホテルもある。

昼食を摂ったホテルの従業員に尋ねると「日本人を見たのは初めてだ」とのことで遥々着たかの感を強くした。

町のはずれに遠くウランバートルの北東部から延々と流れてきたヘルレン河がある。

この水が更に東進してハルハ河と合流し、中ソ国境のアルグン河更にアジア最大のアムール河となって太平洋に注ぐ、なんと4千5百キロの流れかと考えると気が遠くなる思いがする。

この町はチョイバルサンの出身地ということで名付られた。

チョイバルサンは1920年、スヘバートル(既述)等と共にソ連政府に選ばれてモスクワで共産主義の洗脳を受け、後日モンゴル人民革命(1921年)を指導した七人の一人。

スヘバートル(人民軍総司令官)の死

[9] コラム-Circuit(34), , http://nodahokubu.web.fc2.com/column4/column34.html

7月30日。06時。洋子さん、ひとみさん、吉郎少年、つれあい、わたしは空港へ向かうべく部屋をでて、アパートの門前で通訳のガル青年と落ち合う。ところが、予約しておいた迎えの車がきていない。運転手に携帯電話をかけるが通じない。タクシー会社もこの時間なので埒があかない。アパート前の道路に車を停めてたむろしていた連中(こんな早朝に彼らは何をしているのだろう、たむろしているとしかいいようがない)に、かたっぱしから、空港まで行ってくれないか、と声をかける。ひとりがOKして、彼の車で出発する。こういう、自家用車をタクシー代わりにつかうのは(日本流にいえば“白タク”)、ウランバートルではよくあることだという。街角に立って手を上げていると自家用車が止まる。行き先と値段の交渉をして折り合えば、変じてそれはタクシー(白タク)と化す。料金相場もきまっていて、正規のタクシーとほぼおなじく1km=300Tg(トゥグリク、約30円)である。走りだすとドライバーは車の走行距離メーターを0(ゼロ)にする。これで目的地までの公正な距離が計られるわけである。

白タクが走りだし大通りへでて、ヤレ一安心と思ったのもつかのま、車のスピードが上がっていかない。ドライバーはしきりにアクセルを踏むがフカフカと頼りなげな音がするだけで、そのうち止まってしまう。アクセルの故障である。フライトが07時20分なのでいささか焦る。この車を捨て、交通量はすくないがともかく走っている車を止めまくって、やっと1台と交渉がまとまる。走りだしてしばらく、市街地から空港へ向かう道路へでたところで霊柩車にでくわす。われらの行く手をふさぐがごとく走る霊柩車は、日本製のあの霊柩車である。えっ、この時間に葬式なの! まさか、まだ午前6時を回ったばかりである。それよりなにより、モンゴルの葬儀で霊柩車をつかうのか。死者を運ぶ車はあるだろう。目のまえを行くのは日本から輸入された霊柩車にはちがいないが、この車がこの地で日本とおなじ目的でつかわれているとは思えない。だとしたら何に利用されているのだろうか。!と?をいっぱい乗せたまま白タクは霊柩車を追い越し、とばしにとばして空港へと走りこんだ。なにやら、われらの前途に多難ありとおもわせる旅立ちであった。

07時20分、EZA909便(30人乗りのプロペラ機)はチンギス・ハーン空港を離陸し、チョイバルサンへ向

[11] シベリアに謎のクレーター出現 メタン放出を恐れる学者:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASH7H4T21H7HULBJ009.html

それはまるで、地球の表面にぱっくりと開いた口のように見えた。

先住民族ネネツ人の言葉で「世界の果て」を意味するロシア・西シベリアのヤマル地方。8日、高度100メートルを飛ぶヘリコプターから見下ろすと、地平線まで広がるツンドラの平原に、月面のクレーターのような巨大な穴が現れた。ロシアメディア以外では最初の現地取材だ。

輸送用ヘリの操縦士が2014年6月、初めて見つけた。最寄りの拠点となる街から約400キロ離れ、トナカイ遊牧民がわずかに行き交う北極圏にある。

地元政府の緊急要請でロシアの科学者が調査を始めた。穴は直径約37メートル、深さ約75メートルあった。その後、同様の穴の報告が相次ぎ、4個が確かめられている。

では、穴はどのようにして生まれたのか。隕石(いんせき)の衝突、不発弾の爆発、宇宙人の襲来――。出来た瞬間を見た者はおらず、さまざまな臆測がされた。

真冬には気温が零下40度まで下がる厳寒の地。地中には永久凍土が数百メートルの厚さで広がっている。メタンが多く含まれ、近くには世界有数の天然ガス田もある。研究者の間では「永久凍土が溶け、メタンガスの圧力が地中で高まって爆発した」との説が有力だ。

ロシア科学アカデミー石油ガス調査研究所のワシリー・ボゴヤブレンスキー教授は「ここのところの異常に高い気温の影響を受けた可能性がある」と話す。将来地球温暖化が進み、凍土全体から、温室効果の高いメタンの大量放出が始まれば、さらに温暖化を加速させかねない。(サレハルド〈ロシア〉=野瀬輝彦)

[12] 架空の町「アグロー」、地図上のウソがひとり歩き 米国:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASHB842VPHB8UHBI00K.html

架空の町「アグロー」、地図上のウソがひとり歩き 米国

ロスコー=宮地ゆう

2015年10月23日05時05分

米国ニューヨーク州の片田舎に、かつて地図上にだけ存在した「架空の町」がある。ところがあるとき、架空だったはずの地名を使った民宿が出現。その後、町の名は消えたが、「現代のおとぎ話」に引きつけられる人たちは後を絶たない。

ニューヨーク市内から北西へ約200キロ。フライフィッシングの釣り場として知られるニューヨーク州ロスコーは、人口500人あまりののどかな田舎町だ。行き交う車もまばらな道を走ると、林や平原の間にぽつりぽつりと民家が並ぶ。道路脇の支柱に小さな看板を見つけた。

「アグロー(Agloe)へようこそ!」

アグローは、地図上だけにあった架空の町だ。

町の図書館長で歴史家でもあるジョイス・コンローさん(74)によると、アグローという地名が地図に現れたのは1925年ごろ。地図製作者のオットー・G・リンドバーグ氏とアーネスト・アルパース氏が、ガソリンスタンドで配布する地図をつくった。このとき、複製されても偽物と分かるように工夫を施した。

「2人は自分たちの名前の最初の一文字をとって並べ替え、架空の町の名を作ったのです」。そして、地図上でロスコーの一角にアグローの文字を加えた。

それから数年後。地図出版大手ランド・マクナリー社が作った地図に「アグロー」が記されていた。2人はこれを根拠に「マクナリー社が自分たちの地図を複製した」と同社を提訴しようとした。

ところが、話は思いがけない方向へ向かう。話し合いの過程でマクナリー社は「アグローという町は実在する」と主張。確かに「アグロー・ロッジ」という民宿が存在していたのだ。30年代のことだった。

[13] モンゴルに旧ソ連軍の巨大基地跡 並ぶ廃虚、空撮で全貌:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASH6B5VGXH6BPLZU007.html

第2次世界大戦末期、旧ソ連軍が対日侵攻の拠点にしたモンゴル東部の巨大基地を本社機「あすか」から空撮し、その全体像を初めてとらえた。はるかに延びる対戦車壕(ごう)に囲まれた基地内部には、幾何学模様の配列で砲台や連絡壕、司令部跡とみられる廃虚が並んでいた。

サンベース、マタット、タムスクの巨大3基地は、旧関東軍が把握していなかった総延長約400キロの軍用鉄道で結ばれていた。基地内には攻撃を受けた時に身を隠す連絡壕や物資の貯蔵施設、司令部に使われたとみられるれんがや鉄筋コンクリート造りの建物跡が配されていた。

落ちていた薬莢(やっきょう)は1940年代前半の刻印。放置された車両の残骸は42~43年型のジープなど、独ソ戦を機に米国が現物でソ連に供与を始めた物資が多くを占めていた。平原をローラーで固めた滑走路が4カ所、鉄道の沿線で確認された。現地は極めて平坦(へいたん)な地形で、全体像は上空からでないとつかめない。

現地を踏査した日蒙共同調査団の岡崎久弥団長(52)は「上空から見て、大きさに圧倒された。鉄道の稼働状況や陣地建設の過程、施設の詳細など、解明すべき課題は多い」と話す。

■生々しい惨劇の記憶

70年を経た今も、モンゴルの大草原に刻まれた旧ソ連軍巨大基地の跡。関東軍に置き去りにされた旧満州の日本人には、生々しい惨劇の記憶につながる遺構だ。

大戦末期、かつて精強を誇った…

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926416592187

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