沼田ダム

沼田ダム

[1] 沼田ダム

Webページ

[2] 利根川水系幻のダムめぐり - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160729197070_4.htm

最後にご紹介したいのはこれまでの4ダムとは年代も成り立ちも少し違うダムだ。

戦後すぐに関東地方を襲ったカスリーン台風で利根川流域に大洪水が発生し、大きな被害が出た。そこで利根川上流にそれまで計画、建設されていたダムを増強した計画が作られ、その中心として1953年に発表されたのが沼田ダムだ。

予定地点は沼田市の南、利根川が狭い渓谷を流れる場所で、高さ125mのアーチダムというプランだったらしい。

沼田ダムはもし完成していると総貯水容量が8億立方メートルとなり、現在でも日本一の貯水池となる。ただし利根川沿いの沼田市の市街地の大部分が水没することになり、2000世帯以上が移転対象となったため大規模な反対運動が起き、さすがに中止になった。

一説には上越新幹線や関越自動車道が沼田を通らなかったのは、計画時期にこのダム計画があったから、とも言われている。

[3] 綾戸バイパス - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E6%88%B8%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%91%E3%82%B9

綾戸バイパス(あやどバイパス)は、群馬県の渋川市から沼田市に至る、計画中の国道17号バイパス(全長2.3km)である。現在の路線が川に沿った急峻な地形のため、落石の危険やカーブでの事故の危険性が高く、安全確保が必要であるため計画された。 現在、調査・設計段階で供用区間はないが、2009年3月末、事業執行の当面見合わせが決定された。その後2009年7月下旬に事業の再開が決定された。

計画概要[編集]

起点:群馬県渋川市上白井

終点:群馬県沼田市岩本町

全長:2.3km

規格:第3種2級

道路幅員

一般部:25.0m

トンネル部:21.5m

橋梁部:22.5m

車線数:4車線

車線幅員:3.5m

設計速度:60km/h

歴史[編集]

ここでは綾戸渓谷沿いの道路の歴史について記述する。

現在の綾戸隧道の利根川側に弘化3年(1846年)7月、沼田の金剛院住職江舟がげんのうを使い岩盤をくり抜いて「穴道」と呼ばれる隧道を造った。この隧道は延長が17m、幅が2.4m、高さが2.4mと人が通れる程度の大きさであった。

明治になり高崎・長岡間の清水新道工事が幅6.36mでできたが、これにより綾戸渓谷の「穴道」を通らず白井寄桜木から利根川を渡り、棚下を経由し利根川を渡るルートに変更された。その後再び穴道ルートをたどる道が整備され、穴道の山側に綾戸隧道が完成、1km渋川寄りに綾桜隧道と綾桜橋が1901年(明治34年)10月に開通した。

1961年(昭和36年)、沼田ダムなどの将来構想に対応し綾戸・綾桜道路1,320mの現道拡幅が計画された。工事は1962年(昭和37年)8月、綾戸側から着手し現道の交通を確保しながら行われた。1車線分の幅員であった綾桜隧道は開削され切土面に3段の擁壁が施工された。綾桜橋付近は山側に入り込んだ線形で拡幅が困難であったため、函渠と河川側に擁壁を施工して線形を改良した。綾戸橋付近は川幅が狭く岩盤が切り立っているため川側の岩盤から扶壁式擁壁で施工し、更に幅員を確保できない所では張り出し梁を施工した。綾戸隧道も1車線分の幅員しかない素掘りの隧道であった。東京側の坑口を広げるために発破したところ切削線より大幅に崩落し、通行不能となってしまった。急きょ子持村鯉沢から中之条経由で沼田市鷺石橋までの37kmを迂回道路とし、通勤者のために利根川河川敷を迂回路として施工し乗客を

[4] 御母衣ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E3%83%80%E3%83%A0

御母衣ダム(みぼろダム)[1]は、岐阜県大野郡白川村、一級河川・庄川本流最上流部に建設されたダムである。

電源開発(J-POWER)が管理する発電専用ダムで、高さ131メートルと日本屈指の規模のロックフィルダムである。只見川の奥只見ダム、田子倉ダムと共に「OTM」の頭文字で呼ばれ、同社を代表する水力発電所の一つである。ダム湖は御母衣湖。水没予定地から移植された荘川桜のエピソードでも知られる。

計画の発足[編集]

庄川は太平洋と日本海の分水嶺に当たる烏帽子岳付近を水源とし、白山連峰と飛騨高地の山間を概ね北に向けて流れ、富山湾に注ぐ北陸地方における大河川の一つである。流域の大部分は山岳地帯で占められ、シベリアから吹く季節風によって冬季は豪雪地帯となる。また夏も台風の通り道になりやすく、全般的に多雨気候である。降り注いだ雨は険しいV字谷を形成する峡谷を急流となって流れ、日本海に注ぐ。急流で水量の多い庄川は水力発電を行うには理想的な川であり、大正時代から黒部川や常願寺川など近隣を流れる河川と共に水力発電所の建設が進められていた。

1926年(大正15年)に白山水力電気が平瀬発電所の運転を開始したことに始まる庄川の電力開発は、浅野財閥総帥であった浅野総一郎の庄川水力電気により1930年(昭和5年)に小牧ダムが完成、当時日本屈指の出力7万2,000キロワットの小牧発電所が運転を開始した。同年昭和電力が小牧ダム上流に祖山ダム・祖山発電所を完成させ、以後庄川は下流から上流に向かってダム式発電所の建設が進められていった。民間で進められた事業は戦時体制の進展に伴い誕生した日本発送電によって庄川水系の電力施設は接収、1942年(昭和17年)には小原ダム・小原発電所が完成する。その日本発送電が1951年(昭和26年)に電気事業再編成令によって分割・民営化されると、庄川水系の電力施設は旧庄川水力電気・昭和電力の流れをくむ関西電力が継承し、成出・椿原・鳩谷の各ダム・発電所が建設された。しかしこれらのダムと発電所は余りある庄川の水量を十全に活用できるほどの貯水池を持たず、電力需要の多くなる冬季に発電能力を発揮しきれなかった。このため庄川の最上流部に巨大なダムを建設し、それによって形成される大容量貯水池によって下流の水量を安定化させ、下流に建設された発電所の出力を増強する必要があった。

すでにこう

履歴

[5] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926413761922

メモ