新宿中央公園

新宿中央公園

[1] 新宿中央公園

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[2] ポケモンGOのある風景①〜新宿中央公園、世田谷公園、駒沢公園、代々木公園、池袋西口公園 - ぐるりみち。, , http://yamayoshi.hatenablog.com/entry/2016/07/27/223403

おっすおっす。 『Pokémon GO』 はまったりプレイ中、ポケモン世代ド真ん中ということもあり最高にゲームを楽しみつつ、ようやくさっきレベル19になったばかりの僕です。もともと公園をお散歩するのが好きだったこともあり、最近はポケモンゲットがてら都内をぶらぶらしております。

既にネット上では、どこの公園でどのポケモンが出るかといった情報も共有されており、ほぼ出揃いつつある様子。後ほど、自分なりにも整理したいところではあります――が、そんな「攻略」的な情報はとりあえず置いといて。

今回は、都内の公園を巡りつつ撮影した写真と一緒に、その様子をざっくりとまとめました。どこの公園に、どれだけのポケモントレーナーが集まっているのかの参考になれば……と思いまして。 新宿中央公園 ・ 世田谷公園 ・ 駒沢公園 ・ 代々木公園 ・ 池袋西口公園 を掲載しています。

新宿中央公園(13:00)

新宿駅西口、東京都庁の直下に広がる緑豊かな都市公園が、 新宿中央公園 でござる。

平日のお昼どきということで、お昼休みのサラリーマンがいるかなー? と期待して訪れてみたところ、案の定。社員証を下げているワイシャツ姿が、ちらほらと見受けられました。 お疲れさまです。

かと言ってワイシャツばかりかと言えばそんなこともなく、夏休み中らしい大学生や、親子連れのグループもわんさか。場所柄もあってか外国人の姿も多く、かなり幅広い層のトレーナーが、思い思いにポケモンを捕まえているようでした。 ピクシーがいたよ!

世田谷公園(15:00)

「ミニリュウの巣」 として、すっかり有名になった 世田谷公園 。個人的に噴水広場の雰囲気が好きで、過去に何度か訪れているのですが、どうなっていることやら……。というか、既に手前の運動場あたりから人通りが多いんですがなんぞこれ。

なんじゃこりゃー!!!

さすがにちょっと、意味がわからない人口密度だ……!

ちなみに、同じ公園の 「一般的な“週末”のお昼どき」 の風景が、以下になります。

※2015年4月18日(土)撮影

……うん、これをさっきの写真と比べると、とてもじゃないけど「平日午後の公園の風景」には見えないね! でも仕方ないね!ミニリュウかわいいもんね! 進化すると強いぞ!!!

ミニSL! その発想はなかった……!

珍しくパノラマ撮影もしてみたけど、マジでなんぞこれ……

[3] 高額鉄道2駅間の「半額バス」、採算ラインに : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE), , http://www.yomiuri.co.jp/national/20140903-OYT1T50047.html

北総線の千葉ニュータウン中央駅(千葉県印西市)と新鎌ヶ谷駅(鎌ヶ谷市)を結ぶ直行路線バス「生活バスちばにう」が9日、運行開始から3か月を迎える。

高額と指摘される北総線の同区間と比べると、半額近い運賃が人気を集め、乗客数は順調に増えて採算ラインの8割超に達した。運営会社と支援団体は、増便や路線拡充を検討している。

運行3か月 生活バスは沿線住民の要望を受け、鎌ヶ谷観光バス(鎌ヶ谷市)が6月に運行を始めた。北総線の同区間が560円(現金)なのに対し、生活バスは300円(同)。月曜から金曜まで、朝夕は約30分、日中は約1時間の間隔で両駅間約11・5キロを走っている。所要時間は北総線の2倍程度となる20~25分ほど。

運行を鎌ヶ谷観光バスに働きかけ、現在はチラシを配るなどして利用を呼びかけているボランティア住民グループ「生活バスちばにう友の会」によると、運行1週目の乗車人数は1日平均244人。その後、お盆の時期などを除いて増加傾向が続き、8月最終週は同347人と、採算ラインの1日400人の86%まで増えた。7月の平日に実施したアンケートでは、乗車理由は「通勤」や「買い物」が多く、本数の増加や路線拡充を望む声が多く寄せられたという。

生活バス用の車両(定員59人)は現在2台だけで、増便や路線拡充にはバスの追加購入が必要。鎌ヶ谷観光バスの徳永昌子専務は「利用者は順調に増えてきた。さらに採算ラインに乗せるには、本数や路線の拡充が不可欠」と話し、同型バス2台を今年度内に購入する検討をしている。

友の会も、通勤者が多い朝夕の時間帯は現在の直行ルートを維持しつつ、日中は利用者から停留所として要望が多かった北総線の主要駅前や住宅地などにも止まる新ルートを構想、鎌ヶ谷観光バスに提案している。

友の会代表の武藤弘さん(70)は「交通が不便だった地域の新たな移動手段として根付きつつある。次の展開を議論する段階にきた」と話している。(石間亜希)

[4] 運賃高い北総線値上げは「便乗」…沿線住民提訴 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE), , http://www.yomiuri.co.jp/national/20140905-OYT1T50103.html

運賃が高額だと指摘される北総線の沿線に住む千葉県印西市民3人が3日、国を相手取り、消費税率引き上げに伴い、北総鉄道と北総線に乗り入れている京成電鉄に出された運賃引き上げ認可の取り消しを求め、東京地裁に提訴した。

原告は、北総線で通学する大学生2人とその父親(51)。北総線は4月の消費税引き上げに伴って運賃を値上げし、190円だった最も安い乗車券を現金では200円、ICカードでは195円に変更した。

訴状によると、原告は北総線の運賃を「日本で最も高い部類に入る」と主張した上で、〈1〉京成電鉄が北総鉄道に支払う線路使用料が不適正〈2〉北総鉄道は近年は黒字――などと指摘。「外見上は消費税転換であっても実質は便乗値上げだ」として、認可が鉄道事業法の適正原価・適正利潤の原則に反していると訴えている。

[5] 大久保公園 - DEEP案内不動産部, , http://e.deepannai.info/okubo-park/

度重なる浄化作戦が進められ見た目には観光客も闊歩する健全な繁華街となっている歌舞伎町も、まだまだ暗黒面とも言える場所はそこかしこに残っている。歌舞伎町の旧コマ劇場を過ぎたところにある「東京都健康プラザハイジア」裏手の「新宿区立大久保公園」を見ると、公園の外周部分が全てフェンスで覆われている。夜間早朝は立ち入る事ができず、午前9時から午後7時(冬季は夜6時)までゲートが開放されて出入り可能になっていて、定期的にイベント会場にもなるので、もはや公園と呼べるべき場所ではなく、多目的スペースと言った方が近い。

何故大久保公園がこうなったかというと、以前この場所は立ちんぼや違法なホニャララを販売する裏稼業の連中が集まる曰くつきのスポットとしてあまりに有名になってしまったせいだ。浄化作戦の一環でフェンスで覆われてしまい、夜間は一切出入り禁止。未だに大久保公園とハイジアの間の道や周辺で「客待ち」をしているババアの姿を目にする。周囲には歴史を感じさせる連れ込み旅館やラブホテルが密集しており、現代においても街の役目は変わっていない。ハイジアの前の道には「座り込み・立ち止まり禁止」の張り紙と共にロープが張られていて、立ち止まる事すら許されないのかと突っ込みたくもなる。

ちなみにこの大久保公園向かいに「公益社団法人日本駆け込み寺」の事務所があり、DV・家出・ストーカー被害者の相談サポートをしている傍ら、刑務所から出所後、社会復帰に困っている元受刑者及び元暴力団員の就職サポートを兼ねた飲食店「新宿駆け込み餃子」を近くで経営している。

[6] 百人町区営アパート (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/hyakunincho-kuei-apartment/

不法占拠バタヤ住民を住ませて半世紀、JR大久保駅近くにある「百人町区営アパート」の怪 2015/6/12 新宿区

新宿のお隣、最近元気が無くなってきたらしいコリアタウン新大久保の現状は先日お伝えしたばかりだが、またしてもこの街に残る胡散臭い話題を聞きつけてしまった。 JR大久保駅から線路沿いの道を職安通り方向に進むと現れる、三軒棟続きの二階建て長屋の存在…通りがかる人々は誰もがそこを何も無かったかのように通り過ごすが、実はこの場所にとんでもない「戦後史」が隠れ潜んでいた… この建物、地図上で見ると「百人町区営アパート」と記されている。それにしても全く生活感は感じさせないのだが、これが「住民」が存在する新宿区営のれっきとした区営住宅という事になる。何故こんなものが大久保駅近くのこの場所にあるのだろうか。 二階部分が住居、一階部分は事務所や作業所といった使われ方をしている様子だが、落書きされまくっているわ、どうにも荒れ果てている。外壁に蔦が絡まって余計に不気味さを増しているあたりが、かつての大久保の暗黒街ぶりを思わせる。 この区営住宅が特殊な存在である事は、二階へ上がる階段の手前の壁に据え付けられた住民の郵便ポストを見れば分かる。殆どどれも在日コリアンの苗字ばかりである。さすが大久保と言いますか、やっぱりガチなコリアタウンなんですね… 二階に上がると建物の裏側が廊下になっており各世帯の玄関口もこちら側にある。しかしこの陰鬱っぷり…JR中央総武線の線路の土手に阻まれ、昼間でもろくに日光が当たらず薄暗い廊下である。ベランダもなく洗濯物を干す場所は事実上ここしかない。生活環境としてはかなりアレな部類に入る。 この「百人町区営アパート」をネット上で調べると、とある 区民オンブズマンのブログ記事 に行き当たった。そこにはこの建物の正式名称が 「新宿区立百人町作業宿泊所」 である事と、月々の「使用料」という名目の家賃が2300円~6600円と極めて激安である事が記されている。大久保の賃貸相場で外国人でも借りられるような風呂なしボロアパートでも5万円台は見なければならないのに、このアパートの住民は特権的だ。 さらにその成立経緯についても、昭和39(1964)年の東京五輪開催を前にしたスラムクリアランスの一環で、職安通りを挟んだ南側にある「新宿都税事務所」(旧西新宿保健センター)の敷地

[7] 荒木町〜策の池 - 東京さまよい記, , http://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/b3df689bb1b1ddb7bdc70eaf902a74c9

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886〜1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い

[8] 十二社(じゅうにそう)の池(新宿区西新宿) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/12453676/

荒木町の策の池に続き、花街を擁した池ということで、「十二社(じゅうにそう)の池」を取り上げる。 十二社(じゅうにそう)の池は、新宿中央公園の西側を南北に通る十二社通りの西側、北側に開ける深い谷戸の底にあった(十二社は一帯の旧地名で、現在でも地元ではその名で呼ばれることが多い)。もともとは1606年、近隣の農業用の溜池として湧水をせき止め造られた池(上の溜井と下の溜井)だが、すぐそばに新宿一帯の鎮守社熊野神社があること、1667年に玉川上水から神田上水(神田川)への助水堀が引かれ、ちょうど熊野神社の所に滝が出来たこと、更に神田上水助水堀から池へいくつか滝が落とされたことなどから、江戸近郊の景勝地として知られるようになった。池の周囲には茶屋が並び、明治以降は料亭や芸者置屋も数多く出来て、池の西側からそれに続く丘陵地にかけて、花街として賑わった。 下の溜井(小池、下池)は明治期には既にかなり小さくなっていたようだが、上の溜井(大池、上池)は弁天池とも呼ばれ、明治〜大正期の時期で南北300m、東西50mの規模があり、池ではボートや釣り、花火が楽しめた他、屋形船まで浮かべられていたという。一帯は1924年には二業地(料理屋、芸者置屋)、1927年には三業地(二業地+待合)として指定され、賑わった。 花街が最盛期を迎える一方で、池は徐々に規模を縮小していく。大正後期〜昭和初期には、一番北寄りの小さな池(下の溜井の名残)が埋め立てられた。1934年には十二社通りが開通、弁天池は熊野神社と分断され、池の東側が少し道路の下となって埋め立てられた。同時に池の南側部分(現在のニューシティホテル以南)も埋め立てられ、竜宮殿、弁天閣、神風閣といった大きな料亭が建ち並んだ。 その後花街は戦争末期の経済統制と東京の空襲で一旦消滅し戦後、再度復興。戦前ほどの規模ではないが1950年代に戦後の最盛期を迎えた。1958年には弁天閣が温泉を掘削し、「十二社温泉」としてオープンする。しかし、その頃をピークに料亭、待ち合いは減少。池を取り巻く環境も、淀橋浄水場の廃止と副都心の開発、近辺の宅地化などによって大きく変化する。池は北側を残して徐々に縮小していき、最後まで残っていた弁天池北側の十二社通りに面した一角も、水質の悪化から1968年7月に埋めたてられ、完全に消滅した。花街も1980年代半ばにはほとんどの料

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926413339262

メモ