湯渡戸橋

湯渡戸橋

[1] 湯渡戸橋

Webページ

[2] ミニレポ第221回 国道48号旧道 湯渡戸橋, , http://yamaiga.com/mini/221/main.html

【周辺図(マピオン)】

仙台駅から西へ26kmほど広瀬川をさかのぼった奥羽山脈のただ中に、作並温泉がある。

そこは仙台と山形を結ぶ国道48号関山街道の通路にあたり、東北地方の在住者であれば一度は通った事があるのではないかと思う程度には、交通量が多い。

もちろん、私も過去何度となく自動車、そして自転車という手段で通行してきた道である。

仙台側からこの道を辿るとき、作並温泉の温泉街に入る直前で、 湯渡戸(ゆわたど)橋 という、比較的大きな橋を渡る。

名前からして温泉地の玄関口に相応しい感じを受ける好ましいものであるが、この橋には現在ほぼ使われていない旧橋が存在する。

しかもそれは旧道化して久しいにも拘わらず、未だに地理院地図に描かれ続けている。(前後の道は書かれていないが)

今回紹介するのは、この 湯渡戸橋の旧橋 である。

私は平成17(2005)年に一度探索しており、今回は11年ぶりの再訪であったが、レポートにするのは始めてだ。

2016/5/29 5:32 【現在地】

ここは仙台市青葉区作並の湯渡戸橋北詰めで、奥が仙台市方面である。

目の前にあるのが現在使われている湯渡戸橋で、記録によると 昭和28(1953)年の竣工 だから、これが旧橋でも何ら不思議でないくらい年季が入っているのだが、今もバリバリ働いていて、外見的にも古びた感じをまず与えない、希有な橋である。

本橋には、直接と間接の両面から古さを滲ませやすい親柱や銘板が存在しないことも、古さを感じさせない大きな理由であり、教えられなければ昭和28(1953)年の古橋と知らずに利用している人が大半だと思う。

この湯渡戸橋の歩道から広瀬川を見下ろすと、漏れなく旧橋を発見できる。

←これが、 旧湯渡戸橋 だ。

現橋の僅か30mほど下流に架かっているが、川面からの高さは段違いに低い。

そのため、歩道から下を覗かねば見つける事は出来ず、車で毎日のように橋を通行していても、この旧橋の存在を知らなかった人がいるかもしれない。

この高さの違いは、現橋が橋の前後で少しの上り下りもせず、直線的に河岸段丘の面同士を結んでいるのに対して、旧橋は深い渓谷となった広瀬川のかなり低い位置にまで入り込んでから渡っていることによる。

昭和28(1953)年竣工の湯渡戸橋よりもさらに古い旧橋 である。

それだけで、ほ

[3] ミニレポ第221回 国道48号旧道 湯渡戸橋, , http://yamaiga.com/mini/221/main2.html

2016/5/29 5:48 【現在地】

アーチの美しさに魅せられ、渡るよりも先に谷底に降りて眺めたばかりか、川の徒渉までやった。

図らずも、橋が無くても対岸へ行けることを証明してみせたわけで、その点では、何となく橋に申し訳ない気持ちになった。

が、それはもう済んだことだ。

今から改めて橋を渡って対岸へ向かうこととしよう。

橋を含む一連の旧道を走破するまでが、このミニ探索である。

旧 湯渡戸橋の南側橋頭に立って、橋上を望む。

ちょうど足元から先が橋なのであるが、手前半分ほどは、まるで森のようである。

仙台市と言えば、杜(森)の都というのがよく知られた愛称だが、そこにある橋の上まで森とは、なかなかに洒落ているではないか。

コンクリートで鋪装された橋の上が、人為的な客土もなく、これだけ綺麗に緑化されているのは、ひとえに樹木の作用であろう。

毎年秋に降り積もる落ち葉が、長い時間をかけて土となり、この緑を育んだのだ。

訪れる人もほとんどないようで、橋上の緑に踏み跡は見られない(11年前にはあったのだが)。それでも浅い草むらなので、見通しも悪くないし快適に進む事が出来た。

橋の長さはおおよそ30mだが、真ん中辺りまで来てようやく本来の路面が露出していた。

隣にある現橋から見下ろした時、よく見えていたのがこの辺りだ。

上から現橋を行く車の音が聞こえるが、それを除けば静かな環境で、川風が気持ちいい。

ただ、何となく見下ろされているような気持ち悪さがあるのは、現橋の存在だけでなく、正面の高層ホテルのせいだ…。

右の画像は、11年前の同じ場所。季節は1週間ほど右の画像の方が夏寄りだが、緑がより濃いのは左の画像だ。生長してる〜。

こんなビルに見下ろされながら、落ち着いて探索出来るわけがない〜(涙)。

また、温泉ホテルということもあって、その気は無いのにうっかり露天風呂を覗いちゃったりするんじゃないかという不安も、あった。

まあ、実際にはその危険は無いようだが。

それはそうと、11年前の写真と比較すると、今回の方が建物が綺麗である。

良く見ると、建物の配色が変わっている。最近、塗装し直されたようである。

読者さんの情報によれば、このホテル(グリーングリーン)は40年くらい前に建築されたが、近年一度倒産し、リニューアルされたらしい。

ところで、もし

[4] 源流から苦地橋, , http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/hirosegawa/hirose1.htm

第1回 広瀬川を歩く 「源流から苦地橋」 目次へ

山形県との県境、関山峠の東側から始まる広瀬川。

私たちが見慣れている広瀬川からは、想像もつかないほどの小さな沢でした。

そこから南東に流れながら沢を集めて水量を増やし、V字型の深い谷を刻んでいきます。

やがて、「新川ライン」「奥新川ライン」で知られる新川川と合流すると、

大小の様々な滝が連なる鳳鳴四十八滝や熊ヶ根橋付近の自然崖など、

広瀬川はその姿を多彩に変えていきます。

広瀬川の呼び名

広瀬川の源流

旧関山街道と番所

坂下境目御番所跡

旧関山隧道殉難碑

旧いずみ橋

作並温泉

湯渡戸橋

相生橋

作並宿御番所跡

新川川

新川川の木流し

旧荒沢鉱山

鳳鳴四十八滝

今井山不動尊

鷹の巣

学川淵(ガッカフチ)

カゴ岩

熊ヶ根橋

熊ヶ根堰

野川

熊ヶ根の糸滝

青下水源地

青下川の木流し

伊達政宗公の川狩り

広瀬川の魚捕り

仙台市の電気と水道の源

赤生木温泉旧町民憩の家

赤生木

1 広瀬川の呼び名

今は広瀬川と言っているが、昔の人達は自分たちの村や部落の前を流れる川は

自分達の部落の名前をつけて呼んでいた。

例えば、「作並川」、「熊ヶ根川」、「愛子川」などというように部落の名前がついている。

これらは、「安永風土記書出」にも出ている。

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2 広瀬川の源流

宮城県と山形県の境界の関山トンネル(国道48号線)の約300mほど手前の左側に

標柱が立っている。その標柱は建設省で立てたものであるが、「名取川水系一級河川

広瀬川上流端」と記されている。

そこが風倉沢と坂下沢との合流点で広瀬川の上流端になっている。

法律で河川の本流を決める条件としては、流域面積の広さ、流量の多さ、

社会的位置などがポイントになる。

この上流端より名取川の合流点(仙台市日辺付近)までが広瀬川で、流路延長

約45kmある。

「広瀬川源流付近」

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3 旧関山街道と番所

弘法山、聖山、文殊山、放山などの地形と落合付近の山(ドンデラ山)などが、

山形路の通行を阻んでいたようだ。また、城の後ろから攻め入られてはたまらないから

青葉城の背後地であったことも交通が少なかった理由になるだろう。

したがって、七北田川や名取川の流域に比べると交通網の整備はだいぶ遅れていた

ようで、二口峠や関山峠に行く際には七北田方面から宮城地区に入っていたものと

[5] 広瀬川 (宮城県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%B7%9D_%28%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%29

広瀬川(ひろせがわ)は、宮城県仙台市を流れる名取川水系名取川支流の一級河川である。仙台市のシンボルとして親しまれている川であり、ヒット曲となった『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われている。

中流域では仙台市都心部の西縁から南縁を経て東流するが、都心部が広がる河岸段丘の段丘面と川面との間には数十mの高低差の段丘崖となっている。そのため両岸には自然が多く残されている。初夏の鮎釣り、秋の芋煮会など、市民が川面や河原まで降りてレジャーを行うことが多い。牛越橋より上流ではカヌーも楽しまれている。仙台七夕花火祭や広瀬川灯ろう流しなど、祭りの会場ともなっている。

地理 [編集]

宮城県仙台市青葉区作並の山形県境に位置する関山峠付近に源を発する。国道48号に沿う風倉沢と関山峠から流れる坂下沢が合流した地点が一級河川の上流端である。山岳地帯を南東へ流れ愛子盆地に入る。大倉川を合わせる辺りは両岸に河岸段丘を発達させている。盆地内の支流を集め、陸前丘陵の一部である権現森丘陵と蕃山丘陵の間を抜ける途中はV字谷を形成する。ここまで仙山線と国道48号がほぼ川と平行に走っている。V字谷を抜けると、仙台市街地へと達する。右岸に青葉山、左岸に仙台市都心部を見ながら、蛇行しつつ都心部の南西端を形作って流れる。この区間では、広瀬川によって古い段丘面(より標高が高い)から台原段丘-青葉山段丘、仙台上町段丘、仙台中町段丘、仙台下町段丘の4つに大きく分けられる段丘を形成している。愛宕大橋より下流では、南東方向に直線的に流れ、太白区四郎丸地区で名取川に合流する。

上流は紅葉の名所で作並温泉がある。上流の渓谷の景勝はもとより、市街地に入っても草木と崖が多く趣ある景色を作っている。化石採集の適地がところどころにある。埋れ木や珪化木の産地として有名である。宮沢橋から広瀬橋辺りにかけての区間で長町-利府断層を越え、それより下流では沖積平野を形成する。両岸に自然堤防が発達し、その微高地上では旧石器時代から古代の遺跡が数多く見られる。

歴史 [編集]

長町-利府断層より下流の両岸(沖積平野)にある微高地には、旧石器時代から古代の遺跡が数多く見られる。そのため、この地区が同時期の仙台平野の中心地と見られている。南小泉遺跡などの集落跡や遠見塚古墳がある左岸が当初は中心地だったようだが、後に古墳群がある右岸に中心地が移った

[6] , , http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/sekiyamakaidou.html

仙台〜山形間は、東北横断自動車道の開通によって1時間15分という通勤並の時間となり、両市を核とした二つの県の地域で育った物心両面の交流が盛んとなり、気軽に買い物も出来るという一つの文化圏となっています。

人や物の交流の運び手は、江戸時代は人や馬でした。明治になると馬車の時代となりますが期間は短く、すぐ鉄道や自動車の時代となり、現在に至っています。

馬車の時代は明治9年の明治天皇東北巡幸に始まり、明治15年には関山街道にトンネルが開通し車道が完成します。笹谷街道も明治26年には山形県側が、同28年には宮城県側の改修が進み馬車の往来が可能となりました。

街道の名称も太政官布告によって最上街道が羽前街道と変えられました。余談ですが、関山街道は地図を見ると同じ路線を山形県側が関山街道、宮城県側が作並街道となっています。

仙台・山形をを結ぶ関山・二口・笹谷の三街道は三位一体で三者が有機的関連を持ちながら両城下を結んでいました。関山街道と二口街道の間は、東から茂庭道、仙台街道、板颪道、大雲寺道があり、板颪道(イタオロシミチ)は秋保の長袋から笹谷街道の川崎に通じていました。二つ目は、定義(ジョウゲ)道を含めて街道沿いに85の道標碑が立っています。ずいぶん人通りが多かったことを石碑は語りかけてくれます。

江戸時代の関山街道は仙台から奥羽山脈の関山峠(標高640�b)を越えて天童市で羽州街道と合流しており、ほぼ現在の国道48号と重なっています。

二口街道には、欽明天皇が天然痘の治療に秋保温泉の湯を用いたとか、平重盛(小松殿)の後裔基盛が長袋に居を構え秋保氏を名乗った、或いは平家落人伝説があります。また板碑も二口街道沿いに確認されていますが、関山街道の熊ヶ根以北にはそれらしい伝説・史実はないようです。

ここで試論として、東北大学植物園に残る「最上古街道」の延長を板碑でたどってみようと思います。

『仙台市史 特別編5 板碑』の「3 太白区秋保町湯元字青木 岩谷堂板碑群」(�E)について「この地は岩谷堂山とも呼ばれて、慈覚大師が立石寺を開く前に精舎を建てたが、領主のいやがらせにあって立ち去ったという伝説を伝える岩窟が山の中腹にある」と記されています。

《板碑でたどる最上への道》

この板碑の東の朱点線をを図でたどると弥勒寺にある元亨碑(�D)、さらに郷六館跡(�B)の建武

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