川根路橋

川根路橋

[1] 川根路橋

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[2] ミニレポ第218回 静岡県道77号川根寸又峡線旧道 奥泉地区, , http://yamaiga.com/mini/218/main.html

【周辺図(マピオン)】

今回紹介するのは、静岡県川根本町の奥泉地区にある、 静岡県道77号川根寸又峡線 の短い旧道である。

左図の通り、現在の県道は、奥泉集落の南にある大井川の小さな蛇行を、渡谷橋と川根路橋という2本の橋で串刺しにする形で、ほぼ直線的に通過している。

だが、このような線形があるとき、橋を介さない川沿いの旧道を想定するのは、もはやトンネルの脇に旧道を探すことと同じくらい、オブローダーにとって自然な行為である。

そして事実、ここには旧道が存在した。

実際にこの旧道を探索したのは2015年のことだが、2010年に初めてこの地区での探索を行った当初から、ここに旧道がある事は知っていた。

左図に旧「大井川林道」と表記した道を、「 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区 」の表題でレポートしているが、そこでもこの旧道の存在に触れている。

わずか600mほどの短い旧道なのだが、存在を把握しつつも探索までに時間を要した理由は、そこが短い割には“大変そう”だったということと、基本的には現道から見通せる程度の規模なので、優先順位があまり高くなかったのである。

だが、比較的短時間で探索出来るこうした小さな旧道は、 大きな探索 が終わった後の日が暮れるまでの空き時間を無駄にしないという目的にはちょうど良かったので、今回遂に探索する事になったのだ。いわゆる、スキマ時間の探索である。

探索レポートの前に、この川沿いの短い旧道が現役だった期間について、これまでに入手した情報を総合して考察しよう。

まず旧版地形図を見較べてみると、 昭和42(1967)年版では車道としてこの川沿いの道が描かれている。

現在の県道を構成する渡谷橋と川根路橋のうち、昭和36(1961)年に大井川林道の一部として開通した渡谷橋はこの当時すでに架かっていたが、 川根路橋は昭和48(1973)年に初めて架設されたので、その時に川沿いの道が旧道化したもの と思われる。

なお、この昭和42年版地形図にも描かれているとおり、川根路橋には先代と呼ぶべき奥泉橋なる橋があった。

これは昭和37(1962)年に開通したという記録があるが、現在も片岸に残る 吊橋の主塔跡 や、 昭和45(1970)年撮影空中写真 に写る非常に華奢な姿を見る限り、自動車を通せるような規模では無かったと思う。 (「橋梁史年表

[3] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main.html

【周辺地図(マピオン)】

今回採り上げるのはタイトルの通り、静岡県道388号接岨峡(せっそきょう)線の旧道にあたる道である。

右図に赤く示したラインが、それである。

地図上では、この旧道にこれといった不自然さは見あたらないと思うが、冒頭で「県道の旧道」と言い切らず、「旧道にあたる」という遠巻きな表現をしたのには訳がある。

もう一度地図を見て貰いたい。

この場所は、川根本町の中心地である千頭地区から5km半ほど北に入った奥泉地区で、寸又峡へ向かう県道77号川根寸又峡線と、接岨峡へ向かう県道388号接岨峡線が二岐に分かれている。

寸又峡へ向かう道と、接岨峡へ向かう道が、混在している場所。

この2系統の道が、それぞれのペースで新道を建設してきた結果、「旧道にあたる道」は、少しだけ複雑な変遷を遂げているのだ。

その過程で、名前も何度も変わってきた。

本編に入る前に、一帯のルートの変遷を地図上で見てみよう。

鍵になるのは、大きな文字で示した“3本の橋”たち。

渡谷(とや)橋、川根路(かわねじ)橋、泉大橋である。

※右のように枠が赤い画像は、カーソルオンで表示が変わります。もし変わらない方は、こちらから【表示】して下さい。

昭和27年と42年の地形図を比較してみる。

なお、右下の円部は奥泉地区の拡大図である。

上の2枚の地形図から分ることは、昭和27年当時、接岨峡へ通じる道と寸又峡へ通じる道は、奥泉集落内で分岐して“いなかった”ということだ。そして、この当時はまだ、自動車が通れる道が奥泉まで到達していなかったことも読み取れる。

対して昭和42年版になると、渡谷橋を通って大井川の左岸伝いに接岨峡を目指す車道が開通している。

だがこの道は県道接岨峡線ではなく、森林開発公団が建設した「大井川林道」という林道だった。

『森林開発公団十年史』によると、大井川林道は昭和35年から40年の間に建設され、全長は14.4km。 その一部として渡谷橋が完成したのは昭和36年だった。

一方の奥泉集落を通って寸又峡へ通じる道も車道に変わっているが、こちらもほぼ同じ時期に東京営林局が建設した林道である(『本川根町誌』による)。

おおよそ15年の間に相次いで林道が開通し、一帯の交通事情は一変したことが理解される。

(本編とは関係しないが、大井川鉄道も中部電力の専用線から旅客も扱

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