本川根町

本川根町

[1] 本川根町

Webページ

[2] 道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道), , http://yamaiga.com/road/mituno/main5.html

2015/3/10 14:26 【現在地】

大量の食器片や陶器片が散乱する鬱蒼とした杉植林地を東に抜けると、ようやくはっきりとした道の跡に出会う事が出来た。

とはいえ、杉植林地にいたときにはまるで道を見失っていた(地形が緩やかなので形跡がないようだ)わけで、ここで道を見つけたのも、すんなり一発では行っていない。少しうろうろさせられた。

だが、最終的に「緩やかな杉林」から「険しい斜面」に移動する過程を素直に受け入れれば、それは漏斗の中を通るように行動範囲が狭まることを意味しているから、やはり一番自然に足が向いたところに道形は待ち受けていたのである。

思えば、慰霊碑前を出てから初めての明確な道路跡である。これにはホッとした。

14:40 【現在地】

道を見つけてから、しばらくはとても順調に進行し、GPS画面内の現在地も着実に千頭へと近付いていた。

そんな足が十数分ぶりに止まったのは、この写真の場面だった。

これ、 キテ るな…。

確かにここまでも順調とは言いながら、ちょっと岩の配置や崩れ方が違っていたら、一気に難しい場面になりそうだと思う場所が数ヵ所あった気がする。

それがここに来て遂に、良くない方に転んでしまったようだ。

あと一つか二つ、具合の良い岩の出っぱりでもあったら、「これまで」と大差なく、スッと行けたはずなんだよ…。

…なんて、恨み言をいっても始まらない。

むしろ、惰性で危険地に飛び込んでしまう前に、ちゃんと違和感に気付いて足を止めたことを、評価してやろう(自分に対して何様ナンだこの表現w)。

というわけで、正面突破がムリで、高巻きも現実的でない地形となれば…。

残るは“下巻き”ということになる訳だが…

直前に歩いていた部分は、ご覧の通りの 屈託なき回廊状の狭隘絶壁通路…!

眼下20mほどの所には、幸いにして横断移動ができそうな樹林帯斜面が見えているが、まずはその高さまで下りることが一仕事で、結局ここでは50m以上は来た道を戻り、小さな尾根を回り込むために通路の回廊性が薄れたピンポイントを狙って、尾根を下降。

それから眼下に見た斜面を慎重に横断して……

どうにかこうにか、正面突破を諦めた谷筋の直下に到達。

後はここから“桃色の矢印”のように谷を攀じ登り、路肩や橋台の一部だったらしき石垣が僅かに残る路盤(黄色の矢印)へ、復帰したのであった!

[5] 川根本町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E7%94%BA

行政[編集]

歴代町長

杉山嘉英(2005年10月16日〜 2009年10月15日)

佐藤公敏(2009年10月16日〜 2013年10月15日)

鈴木敏夫(2013年10月16日〜、1期目)

庁舎

川根本町役場 本庁舎(郵便番号428-0313 静岡県榛原郡川根本町上長尾627)

川根本町役場 総合支所(郵便番号428-0411 静岡県榛原郡川根本町千頭1183-1)

川根本町教育委員会(郵便番号428-0411 静岡県榛原郡川根本町千頭1183-1)

産業[編集]

農業

全国的に知られる「川根茶」の産地で、天皇杯や全国品評会等で産地賞受賞などを多く受賞している。また農業生産額では、ほとんどを茶(生葉)、荒茶が占めている。

2000年での農家1戸あたりの平均経営耕地面積は0.41haと、県平均の0.69haのおよそ6割に過ぎず、経営規模は小さいといえる。

林業

町の森林面積は、町全体の約94%を占めている。そのうち国有林の比率が高いのが特徴で、県内国有林の28.6%を占めている。

工業

町には少数だが精密機械、電気機械、製茶(仕上茶製造工場)等の企業が立地している。2001年の時点で、事業所は35か所、従業者数は719人、製造品出荷額は89億円弱となっている。

県全体の水準と比較して1事業所当たりの規模が小さいこと、従業員1人当たりの出荷額が低いことが特徴。

建設業

全産業に占める建設業の比率を見ると、事業所数が13.1%、従業者数が18.8%を占め、県全体よりも高い数値を示している。特に従業者数の構成比は、県全体の水準7.6%の2倍以上の数値を示しており、地域の雇用の受け皿として重要な産業であることがうかがえる。

商業

2002年の商業統計をもとに、地域内の小売業を見てみると、店舗数は215店、従業者数702人、年間商品販売額は約68億円となっている。このことから、町内には大規模小売店舗立地法に基づく店舗面積1,000m²以上の大型店舗がなく、小規模店舗が多いことが分かる。

観光

町内には日本で5か所のみという原生自然環境保全地域の大井川源流部、静岡の自然100選に選ばれたブナの原生林などの美しい自然に加え、寸又峡温泉、接岨峡温泉、白沢温泉、千頭温泉の温泉、さらには大井川鐵道のSL通年運転や日本で唯一のアプト式鉄道などの様々な観光資源がある。

主な学校[編集]

[6] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main.html

【周辺地図(マピオン)】

今回採り上げるのはタイトルの通り、静岡県道388号接岨峡(せっそきょう)線の旧道にあたる道である。

右図に赤く示したラインが、それである。

地図上では、この旧道にこれといった不自然さは見あたらないと思うが、冒頭で「県道の旧道」と言い切らず、「旧道にあたる」という遠巻きな表現をしたのには訳がある。

もう一度地図を見て貰いたい。

この場所は、川根本町の中心地である千頭地区から5km半ほど北に入った奥泉地区で、寸又峡へ向かう県道77号川根寸又峡線と、接岨峡へ向かう県道388号接岨峡線が二岐に分かれている。

寸又峡へ向かう道と、接岨峡へ向かう道が、混在している場所。

この2系統の道が、それぞれのペースで新道を建設してきた結果、「旧道にあたる道」は、少しだけ複雑な変遷を遂げているのだ。

その過程で、名前も何度も変わってきた。

本編に入る前に、一帯のルートの変遷を地図上で見てみよう。

鍵になるのは、大きな文字で示した“3本の橋”たち。

渡谷(とや)橋、川根路(かわねじ)橋、泉大橋である。

※右のように枠が赤い画像は、カーソルオンで表示が変わります。もし変わらない方は、こちらから【表示】して下さい。

昭和27年と42年の地形図を比較してみる。

なお、右下の円部は奥泉地区の拡大図である。

上の2枚の地形図から分ることは、昭和27年当時、接岨峡へ通じる道と寸又峡へ通じる道は、奥泉集落内で分岐して“いなかった”ということだ。そして、この当時はまだ、自動車が通れる道が奥泉まで到達していなかったことも読み取れる。

対して昭和42年版になると、渡谷橋を通って大井川の左岸伝いに接岨峡を目指す車道が開通している。

だがこの道は県道接岨峡線ではなく、森林開発公団が建設した「大井川林道」という林道だった。

『森林開発公団十年史』によると、大井川林道は昭和35年から40年の間に建設され、全長は14.4km。 その一部として渡谷橋が完成したのは昭和36年だった。

一方の奥泉集落を通って寸又峡へ通じる道も車道に変わっているが、こちらもほぼ同じ時期に東京営林局が建設した林道である(『本川根町誌』による)。

おおよそ15年の間に相次いで林道が開通し、一帯の交通事情は一変したことが理解される。

(本編とは関係しないが、大井川鉄道も中部電力の専用線から旅客も扱

[7] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[8] 廃線レポート 千頭森林鉄道 [総扉ページ], , http://yamaiga.com/rail/senzu/main.html

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。

このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。

ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。

それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。

大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。

そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。

千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来な

[9] 橋梁レポート 無想吊橋 , , http://yamaiga.com/bridge/musou/main2.html

2010/4/21 14:07 【現在地】

着いた。

いったいどれくらいの長さなんだろう。

途方もない大きさを前に、当然のように足が止まる。

そう易々と一歩目を踏み出せそうにないことは、【遠目で見た】ときから予想がついていたが…。

この橋は、フェアであると同時に残酷だ。

ここへ来る前に、その全体像を知ることを半ば強制しているのだから。

こうして橋の前にたどり着いて、いざ渡ってみようと思うとき、【あの景色】が脳裏から離れない。

空中に架け渡された板きれの列は、たおやかな懸垂曲線を描いて、対岸の山腹へと吸い込まれるように達している。

橋は見ての通り、まだ架かっている。

すぐ近くとだいぶ遠くの2箇所で踏み板が部分的になくなっているのが見えるが、それ以外はまずまず整っている …ような感じを受ける。

しかし、まだこの外見を見ただけで、渡って良いかどうかの判断は出来ない。

実際に構造をよく確かめて、体重を十分に支えられる強度があるかどうかと、踏んでよい場所と悪い場所を知った後でなければ、とてもじゃないが落ちて助からない高さへ進み出る気にはなれない。

まずはチェックだ!

自分を守るための、橋のヘルスチェック!

う、薄い!

やばすぎる薄さ…。

マジカヨ…。

横から見ると、本当にペラッペラ。

ガチで “板きれ” じゃねーか。

頼るべき踏板は、その厚みが2cm程度しかないのである。空手の達人ならば、素手で割りそうな厚み。

この踏板を下で支えるように30cm程度の間隔で敷かれた横板も、基本的には同じくらいの厚さでしかない。

また、鉄線1本だけの手摺りなどは、よろけた体を支えるつもりは毛頭なく、よろけないようにバランスを取る程度の役に徹している事が分かる。

橋の上で左右に転倒した場合は、そのまま橋外へ転げ出る可能性がある。

一旦下がり、改めて橋の袂の状況をチェックする。

まず驚いたのは、これほど大規模な橋でありながら、主塔部分にコンクリートや鉄を一切用いていない事だ。

門のように立っている2本の木柱が主塔であり、その上端にケーブル(主索)が張られている。

ケーブルの一方は対岸の主塔に架け渡され、手前側は前回見てきた通り、ここへ来る途中の立ち木や岩盤などに分担されたアンカーに続いている。

単純な吊橋の力学では、この主塔全体は鉛直下方向に吊橋の自重の半分程度の力

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926394371424

メモ