佐白山

佐白山

[1] 佐白山

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[2] ミニレポ第217回 佐白山観光道路, , http://yamaiga.com/mini/217/main.html

今回は、ミニレポの名前に相応しい、小さな山の、小さな道路を紹介しよう。

【周辺図(マピオン)】

舞台は、茨城県笠間市の中心部にこんもりと盛り上がった 佐白山 (さしろさん)だ。

左の写真は、笠間市街地から東に見えるその姿である。

標高は205mであるが、麓の地平も海抜が50mほどあるので、実質は150mくらいの高さをもった“小山”である。

そしてこの小さな山には、その名もズバリ「 佐白山観光道路 」という道路が存在する。

右図は現行の地理院地図だが、標高100mより上の山腹をぐるりと周回( 第1のループ )しながら、一部で山頂付近へも登っている道路がそれである。

一周約2.6km。

大した距離の道では無いけれど、小さな山だけあって、この観光道路は佐白山というものを存分に味わい尽くしているように見える。

登山と周遊を1本で満足させているとか、なかなか無い道路である。

しかも、この道には山頂附近に、双耳をなす峰の間くぐるような短いトンネルまで用意されている。

で、このトンネルを含めた山頂付近もまたループに近い線形である。

これが 第2のループ だ。

さて、この道にはサブタイトルの通り、 “第3のループ” もあるのだが、それはどこかというのが、本編のお話し。

2016/4/17 15:16 【現在地】

笠間市の代名詞的存在である笠間稲荷がある市の中心部から、佐白山への進路をとる。

車は麓の観光駐車場に停め、いつも通り自転車でのアプローチだ。

近世の笠間は、水戸街道の宿場町であり、笠間稲荷の門前町であり、かつまた笠間城を頂く城下町であった。

そしてそのお城の所在地が、まさに佐白山の山頂であった。

現在もお堀や石垣などの遺構が随所に残る全山が笠間県立自然公園として保護されており、麓から少し入るだけで鬱蒼とした木々の緑が、路上の空を小さくした。

そんな静かな市道を10分ばかり漕ぎ進むと、目指す観光道路の起点に着く。

15:25 【現在地】

標高150mのこの広い駐車場は、「千人溜り跡」と呼ばれている。

私は城跡には詳しくないが、各地の城跡に同じような名前の広場がある。山城が、その本分であるところの戦を、よく戦うための施設であろう。

そして、このまま真っ直ぐ進めば、高い木々の下に「大手門跡」と呼ばれている場所がある。

道なりに残り50mの高

[3] 巡霊者:心霊スポット取材記:茨城県【佐白山:その4】, , http://ghostplace.net/ibaraki/sashiro4.html

■その3へ戻る

■天守跡へ

かなりの急勾配の石段を登り、天守跡を目指す。 “それまでとは打って変わって”とは前回にも書いたが、これがまた急な階段と、その何とも荒々しい道程には、3月でありながら思わず汗をかくほどであった。確かにこれ以上の険しい道も多く経験してきたが、この佐白山の天守跡に向かう道程もナカナカなものである。

その石段を登り終わるころになると、頂上には神社らしきものが見えてくる。 前回の写真でも紹介しているが、その神社は「佐志能(さしの)神社」というらしい。なんでもこの神社は、笠間城を解体した際の廃材で作られているとのことである。

「天守こそ無いが、その部材を今の時代に見ることが出来るのか」

なんて思いながら眺めると、遠い古の時代に想いを馳せながら、何とも言えない気持ちにさせてくれた。いま思えば、この取材の中で一番“良い瞬間”であったような気もする…。

なお、当サイトに寄せられた情報によれば、「この神社には“長い髪の毛”が奉納されている」とのことであったが、当然ながら内部に入るなんて罰当たりな行為は行なっていない。よって、その事実を確認することは出来なかった。

■その先に伸びる道

この山の“一番高いところ”まで到着し、息を切らせながらも満足感に浸っていると、更にその先に続く道があるのに気づいた。

「うわ…まだ何かあるのかな…」

疲れきった身体…とまでは言わないが、この後にも取材のある身として体力は極力温存したいし、何より時間の都合(因みにこの日は茨城〜栃木〜群馬を廻る予定)により、そろそろ現地を出発してもよい時間でもあった。しかしながら、気づいておきながらチェックをせずに現地を離れれば、必ずや後悔することは分かりきっていることだし、何より「見てみたい」という強い好奇心が働くものである。結局、後先の事は考えないようにして、その先に伸びる道を進むことにした。

天守跡に向かう道に負けないくらいに険しい道を歩き、その先に見えてきたのは、何ともゴツゴツした“巨石群”であった。東京に住む私にとっては、こんな巨大な石を自然のなかで見ることも無いので、その姿に素で感動したのを思い出す。

ただただ巨石の凄さに感激しただけで、特に際立った恐怖を感じたわけでもないのだが、巨石のなかに、石を切り出そうとした痕跡を発見した。恐らく切り出したものを城の部材

[7] 佐白山(笠間城跡)(1), , http://www.k4.dion.ne.jp/~sinrei/kasamajouato.html

笠間城は、天文年間(1532~1555)に宇都宮頼綱が甥の持朝(笠間氏)に命じて、築城された城であり、宇都宮一門として戦国時代まで勢力を誇った。

その後、玉生氏→松平氏→浅野氏→井上氏→松平氏→井上氏→牧野氏と、城主の交代を経て明治時代に至った。

また、この城では合戦が幾度が起こっており、幽霊が出没してもならん不思議ではない。

アンビリバボーでも、心霊スポットとして紹介されており、茨城県内でも有数の心霊スポットとして知られている。

緩やかな坂を上り、山を登っていくと、この写真の標識が現れた。

ここを右折すると笠間城跡の駐車場にたどり着く。

先ほどの標識を右折して、しばらく進むと大きな岩がある。

この岩は、大黒岩というそうで、笠間城が築城される以前の鎌倉時代に、佐白山の僧兵が徳蔵寺の僧兵と戦い、佐白山の僧兵がこの岩をころがして敵の僧兵の多くをぺちゃんこにしたそうである。

かなり、無茶苦茶の話だし、「この岩の形じゃ転がせねーだろ」と、つっこみたくなるところではあるが、この岩が多くの人間の命を奪ったいわくつきの岩なのかもしれない。

ここが笠間城跡公園の駐車場です。

駐車場は、落ち葉だらけで荒れ放題です。

笠間城跡公園も、心霊スポットにありがちな寂れた観光スポットようです。

管理人は、国の税金の無駄遣いに嘆きつつ、右の写真の城跡への入り口へと向かう。

看板には車の進入禁止の表記がありました。

そこで、管理人は徒歩で進入した。

ガードレールがあるので、以前は車が通れたようです。

この写真は進入してから数十メートル歩いた地点で撮影したのですが、ただならぬ、雰囲気に気分が悪くなってきた。

空気が重いし、霊の存在をひしひしと感じる。

それから程なくして、井戸を発見した。

佐白山には、3~5つの井戸があり、すべての井戸を見つけると死ぬと言われている。

写真の井戸は、管理人が唯一発見することのできた「玉滴ノ井」という井戸です。

また、井戸の中を覗くと「神隠し」にあうと言われているそうだが、管理人は勇気をふりしぼって井戸の中を激写した。

まだ、井戸の底には水がはっているようです。

ちなみに、右の写真を見て神隠しにあっても管理人は責任負えないのでよろしく(笑)

この井戸のすぐそばにトンネルがあった。

これが佐白山の中でも特に有名な、お化けトンネルである

[8] 豆腐茶屋 佐白山のとうふ屋 | 茨城県笠間市, , http://www.toufuya.biz/

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[9] 笠間城 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E9%96%93%E5%9F%8E

歴史 [ 編集 ]

鎌倉時代 、この地域は 真言宗 の正福寺と徳蔵寺の勢力争いが盛んであり、両寺院の僧兵たちが争っていた。劣勢であった正福寺勢が 下野 守護 宇都宮頼綱 に援軍を求めたところ、頼綱は甥の 笠間時朝 (塩谷時朝)を派兵した。時朝は 元久 2年( 1205年 )、徳蔵寺の僧兵と戦うための拠点として佐白山山麓に麓城を築城し、徳蔵寺を討った。ところが麓城の規模があまりにも大きかったため、味方のはずの正福寺の僧兵までも時朝に敵対した。時朝は結局正福寺と徳蔵寺を滅ぼした後、 承久 元年( 1219年 、堅固な城を佐白頂上に築城した。これが笠間城の起こりである。その後 笠間氏 は18代にわたって笠間を治め、 南北朝時代 の5代 笠間泰朝 の時には、南朝に属して勤王の兵を挙げ、北朝の 佐竹義春 の攻撃を受けたが、籠城戦の末これを撃退している [1] [2] 。

天正 18年( 1590年 )の 小田原征伐 の際、18代 笠間綱家 が宗家の 宇都宮氏 に逆らい、同戦役後宇都宮氏に攻められ滅亡した(通説では笠間氏が 後北条氏 に組したために宇都宮氏に攻められたとされているが、笠間綱家が宇都宮氏に従って小田原征伐に参加した記録が存在するため、別の理由であると考えられている [3] )。その後、一時宇都宮氏が支配した後 蒲生郷成 が入城し、この郷成の手により織豊系城郭に改修されたと考えられている。

慶長 5年( 1600年 ) 関ヶ原の戦い 後には 松井松平家 が入り、その後 小笠原氏 が入ったが改易されて、ついで 戸田松平家 が入り、そして 永井氏 が入った。その後、 外様大名 の 浅野氏 が2代、 井上氏 が2代、 本庄氏 が2代、再び井上氏が3代入った後、 牧野貞通 入城以後廃藩まで 牧野氏 8代が居城した。

沿革 [ 編集 ]

元久 2年( 1205年 )、 宇都宮頼綱 が一族の 塩谷朝業 を派遣し、笠間の地を占拠し進出した。

承久 元年( 1219年 )、朝業の子の 時朝 が笠間の地に移り、佐白山に築城を開始した。

嘉禎 元年( 1235年 )、笠間城完成。

天正 18年( 1590年 )、当主 綱家 が宗家 宇都宮氏 の命に逆らい、 小田原征伐 の後に宇都宮氏勢に攻められ落城、替わって宇都宮氏の支配するところとなった。

文禄 元年( 1592年 )2月、宇都宮国

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926387108794

メモ