山手トンネル

山手トンネル

[1] 山手トンネル

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[2] 改良進む首都高C2、でも渋滞は終わらない? その先にある新たな懸念 | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/49335/3/

C2の 渋滞 は無くならない? 新たな懸念、必要なその対策 2015年3月の品川線開通により、C2の交通量は大幅に増えています。開通3カ月後の調査では、熊野町JCT~西新宿JCT間の交通量は16%増。それによって、山手 トンネル 内の小さなサグを先頭にした渋滞がすでに恒常化し、ひどいときは中野長者橋付近の上り坂を先頭にした渋滞が、板橋JCT先頭の渋滞と一体化して延々とつながるようになりました。

「トンネルなら、もっとまっすぐ造ればよかったのに」という一般利用者の声も聞きますが、山手通り地下には 地下鉄 や共同溝など様々な構造物があり、 首都高 だけ水平に造るのは不可能でした。

2年後、板橋JCT~熊野町JCT間の拡幅が完成すれば、板橋JCTを先頭にした渋滞はほぼ解消されるはずです。しかし、代わって中野長者橋付近を先頭にした渋滞が、5号線上りやC2内回りへ延びる形になるのではないかと懸念されます。

新たなボトルネックになるかもしれないC2山手トンネルの中野長者橋付近(2016年2月、清水草一撮影)。 トンネルだけに拡幅は不可能。考えられる対策は、光の流れで速度の向上を促す「エスコートライト」ぐらいしか考えられません。山手トンネル内回りの中野長者橋付近には、なるべく早急に「エスコートライト」を設置すべきです。

「それについては以前から検討しており、トンネルだけに壁面が迫っており幅員に余裕がなく、幅を取るLEDランプは設置できないことから、薄型タイプを開発中でした」(首都 高速道路 株式会社)

首都高で第1号の「エスコートライト」である3号渋谷線下り池尻付近のものは、幅がおよそ15センチ。このままでは山手トンネル内には設置できないので今回、幅5センチの薄型タイプを開発し、まずはC2外回りの千住新橋付近に設置。その効果を見て、山手トンネル内にも導入を検討するとのことでした。

「エスコートライト」に過度の期待を持つべきではありませんが、トンネル内では光が目立つだけに、地上部より高い効果が期待できるでしょう。費用も数千万円レベルで、拡幅 工事 などに比べれば数100分の1以下。極めて安上がりです。

【了】

Writer: 清水草一(首都高研究家)

1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほ

[4] 新大宮バイパスに敗北 孤立した関越道、その未来は | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/40376/

東京から放射状に延びる高速道路のなかで、関越道だけ唯一、首都高に接続されていません。これにはかつて、現在の関越道より国道17号新大宮バイパスのほうが重要視されていた過去があります。関越道と首都高が接続されることは、もうありえないのでしょうか。その鍵は「幻の練馬線」が握っています。

関越より古い新大宮バイパス 関越道は、東京へ向かう 高速道路 のなかで、唯一 首都高 と直接接続していません。最も近くを走る首都高5号線は、途中で進路を北寄りに変え国道17号新大宮バイパスに接続しています。いったいなぜ関越は新大宮バイパスに負けてしまったのでしょう。いまの常識で考えると、重要度は関越道のほうがはるかに上。不思議に思えます。

東京から放射状に延びる高速 道路 で唯一、首都高と接続していない関越道(画像出典:首都高速道路)。 その背景には、こんな経緯があります。

まず、1971(昭和46)年に現在の関越道が練馬~川越間で開通した当時は、「東京川越道路」という名前の 有料道路 でした。これは川越街道(国道254号線)のバイパスに過ぎず、東名や中央などと比べると、重要度ははるかに下でした。

この東京川越道路の 工事 が始まった翌年(1968年)、関越道の最初の区間として、川越~東松山間の施工命令が出ています。つまり、あとから決まった関越道の方が、「せっかくだから東京川越道路に乗っかって、そのまま新潟まで造ってしまおう」だったのです。

一方、首都高5号線の新大宮バイパスへの延伸が決まったのも1968(昭和43)年。新大宮バイパスの着工は1962(昭和37)年と古く、そのときはまだこちらが上越方面への主要道路で、練馬インターはあくまで「東京川越道路」の終点予定地に過ぎず、目白通りも谷原交差点で途切れているありさまでした。

[5] 新大宮バイパスに敗北 孤立した関越道、その未来は | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/40376/2/

関越へ繋がる予定だった幻の「10号練馬線」 『首都 高速道路 公団三十年史』によれば、5号線の延伸は「単に新大宮バイパスの交通を都心、副都心(池袋)に流すことばかりでなく、東京都の都市計画事業のひとつである板橋トラックターミナルあるいは高島平に建設される大住宅団地といった大規模な交通発生源に対処することであった」とあります。この頃の 首都高 は、都が中心になって建設中の都市内高速 道路 で、地域的な交通の流れが重視されていたのです。

1973(昭和48)年、東京川越道路は、ようやく関越 自動車 道という名の国土開発幹線自動車道(つまり高速道路)に昇格しました。この昇格には、1972(昭和47)年に首相に就任した田中角栄氏の力があったといわれています。また角サンは、「関越道をまっすぐ目白御殿まで繋げろ!」と言ったという都市伝説もありますが眉唾です。

1969年の「大都市幹線街路調査報告書」では「延伸追加線」とされていた10号練馬線(画像出典:高速道路調査特別委員会)。 首都高には、もともと「10号線」という計画がありました。これも当初は関越道に直接接続するものではなく、終点は練馬区上石神井2丁目。現在の早稲田大学高等学院付近で外環道と接続する構想でした。

その後、関越道が徐々に延伸されるにつれ、70年代のどこかの時点で、この10号線は「練馬線」という名称になり、文京区関口(現在の早稲田出口)で5号線から分岐して、神田川上や目白通りを進んで関越道に直結する計画に変更されました(10号線は現在は晴海線の名称)。

これが実現すれば、目白御殿のすぐ裏へ本当に関越+首都高が繋がる形になったわけですが、こんな接続をしたら5号線の大 渋滞 は必至。そこで、やはり以前から計画にあった内環状線に直結させて……という紆余曲折があったものの、内環状線建設の見通しもまったく立たなくなり、着地点を失った練馬線は漂流を重ね、現在の“完全お蔵入り状態”になったのです。

[7] 首都高トンネル内で車から煙 一部通行止め | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160406/k10010469301000.html?utm_int=news_contents_news-main_006

6日午後、東京・豊島区の首都高速道路中央環状線の山手トンネル内で、車両から煙が出て、一時トンネル内に煙が立ちこめました。消防によりますと、けが人の情報はないということですが、一部の区間が通行止めとなっています。

[8] 「戦艦大和並みのムダ使い」と揶揄された新東名は高速道路屋たちの夢だった | 日刊SPA!, , https://nikkan-spa.jp/1450733

~不定期連載「あの日、あの道、そしていま」~

昨年10月、一部区間で最高速度が110km/hに引き上げられた新東名高速道路。新東名の計画概要が決まったのは、1987年の四全総(第四次全国総合開発計画)においてであり、建設が始まったのは1993年。しかし当時、「第二東名」と呼ばれたその存在は、世間的にはほとんど知られていなかった。

「第二東名」がマスコミにクローズアップされたのは、2001年から始まった道路公団民営化議論の過程においてだった。それは、「戦艦大和並みのムダ使い」という、国家的負の存在として、である。

確かに当時の日本道路公団には、コストダウンの概念がなく、後に明らかになったように官製談合も横行しており、建設による借金はふくらみ続け、このままでは第二の国鉄になると言われていた。つまり、悪しき赤字高速の象徴として、最大の大物である第二東名が血祭りにあげられたかっこうだった。

その頃私は、前年に『 首都高はなぜ渋滞するのか!? 』(講談社刊)なる本を書いたばかりで、次の課題として、全国の計画中の高速道路の必要性を検証しようと考えていた。そこで、真っ先に向かったのが、第二東名・第二名神の建設予定地だった。

[9] 「戦艦大和並みのムダ使い」と揶揄された新東名は高速道路屋たちの夢だった | 日刊SPA! | ページ 2, , https://nikkan-spa.jp/1450733/2

私が現場を見た約2年後、道路公団民営化議論は決着し、第二東名・第二名神はコストダウンを行ったうえで建設続行と決定された。これに対してマスコミは「骨抜き」「改悪」と集中砲火を浴びせ、民営化の立役者となった猪瀬直樹氏を悪役に仕立て、大いに叩いた。

が、私は、この民営化は69点はつけられると評価し、第二名神の一部区間を除いて他のすべての路線が建設続行となったことに、大いに胸をなでおろしていた。あの時、大マスコミがはやしたてたように、新東名・新名神の建設が凍結されていたら、今ごろどうなっていたのだろう。その検証を行った社は皆無である。

新名神(亀山JCT-草津JCT間)は2008年2月に開通。新東名(御殿場JCT-三ケ日JCT間)も、2012年4月に開通した。それぞれ私が現場を見てから6年および10年後だった。どちらも、もともとは片側3車線の計画だったものが、民営化議論の過程でコストダウンが義務付けられ、片側2車線にされていた。特に新東名の方は、トンネルや橋梁も含め、すべての区間が片側3車線で建設されたにもかかわらず、わざわざ2車線に狭めている(約4割の区間は、”付加車線”という逃げ道により、実質片側3車線)。

私は新東名の開通直後、実際に走ってみて、そのカーブと勾配の少なさに衝撃を受けた。起伏だらけの山間部を、トンネルと橋梁、切り通しの連続で真っすぐ貫いたそのダイナミックさ! 机上では知っていたが、なんというゼイタクな設計だったのかを実感した。これが計画通り、全線片側3車線で完成していたら、どんなに壮観だったか。さすが設計速度140km/hを担保した構造。これがドイツなら、間違いなく速度無制限だ。

新東名・新名神は、つまり、建設省道路局の高速道路屋たちの夢だったのだ。夢はあと一歩のところで実現しなかったが、今からでも遅くない。せっかく片側3車線で造った部分は、その幅で使うべきだ。

ちなみに、工事契約が2004年以降になされた区間、つまり新東名の御殿場JCT-浜松いなさJCT間および、新名神亀山西JCT-大津JCT間以外の区間は、設計そのものが片側2車線に縮小されたため、拡幅はほぼ不可能である。

取材・文・写真/清水草一

【清水草一】

1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『 そのフェラーリください!! 』をはじめとするお笑いフェラーリ

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[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926383092802

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