目黒川

目黒川

[1] 目黒川

Webページ

[2] 目黒川がきらい, , http://anond.hatelabo.jp/20160404105021

目黒川 の桜って何で あん な人気なの。 コンクリ で護岸がちがちに固められた川だよ? 桜っていう「 自然 」と コンクリ っていう「 構造物 」はそもそも 矛盾 してるし。 要は、 目黒 じゃん。 あん たたちが好き なのは 目黒川 の桜じゃない。 目黒 だ。 おしゃれな 東京 の街・ 目黒 にある から 行く。 地域ブランド 信仰 の賜物。 目黒 おしゃれ 自由が丘 おしゃれ 埼玉 ダサい 。 もし 目黒川 の桜が 目黒 になかったら、誰も見向きもしないだろうにね。人 もこな いだろう。 ちょっと 田舎 行けば 目黒川 よりすばらしい桜の 風景 は山ほどある。たぶん。もちろん、川の両側は コンクリ じゃなく、よもぎがあるような川堤。 それがある 場所 が 田舎 の 自治体 だ から 宣伝 が下手で知られてないだけ。

[4] 品川用水流末の断片と点在する赤煉瓦 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/19237844/

京浜急行で品川駅から2駅、目黒川の流路に跨る新馬場駅から徒歩数分のところに、第一京浜と目黒川に挟まれて寺社が集まったエリアがある。そのなかのひとつ、大龍寺の参道途中から住宅地の中に分かれる路地に、奇妙な段差が出来ている。

路地の入口はではさほどの段差ではないが、奥に進むとその差は広がる。左側の道が高さを維持し、右側の道が下がっていっているようだ。 「しながわ観光協会」のサイトによれば、この段差の高い方の道は、品川用水の末流の痕跡だという。品川用水では低地を越えるために築堤を設けたり、迂回するために斜面の途中に段を設けて水路を通したりといった事例がしばしば見られる。ここもそれらのひとつなのだろうか。

[106] 暗渠ハンター 内川の南馬込支流群: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-d364.html

(品川用水シリーズの途中ですが、違うトピックを挟みます。これも速報系ですねw)

内川については、当ブログでも何回か触れてきました。 初めて行ったときは 主に上流の流路の確認だったり。 次に行ったのは 開渠から暗渠になる付近だったり。

この二つの記事の間の流路は、 桜並木としてよく整備された道となっているのですが、 今回はその本流でなくその付近の支流、 特に内川の谷と、その南西に位置する本門寺の山の間にある いくつかの暗渠をご紹介していきます。 ここではこれらまとめて、内川の南馬込支流群、と呼ぶことにします。 一度にたくさんご紹介させていただきますので、 ぜひ今回はじっくりとご覧いただければ、と思います。 どうぞよろしくお願いいたします。

ひとつめはこちら。 地図中の南馬込支流①です。 南馬込6-24のブロックから、 隣のブロック6-19に延びる暗渠。 目視できるのは、6-24と20の間のところと、

隣の6-19と16の間でだけ。

ここ、ちょっと奥を覗きこんでみましょう。

そしてその西。 地図中の南馬込支流②です。 6-14と15の間にも短い暗渠が隠れています。

この左手の崖下の歩道から奥に。 歩道が尽きると金網に囲まれてしまいます。

その金網のさらに奥に蓋が続いていました。

残念ながら終点は未確認です。

地形からしてこれと繋がっているのかもしれないもう一つの暗渠。 地図中の南馬込支流③は、 さらに一つ西のブロックです。

道を隔てた6-9の空き地に現れる水路。

その行く先は、ブロックの反対側の、 高台の公園の崖下を縫って続きます。

しかし残念ながらこちらもこの先行方不明…。

圧巻は次。 地図中の南馬込支流④です。 北西に2ブロック辿ると、 梅田小学校がありますが、 なんとその校庭の端っこには細く深く抉られた小さな谷があり、 その奥は「はしご式開渠」になっていまいた。 これはびっくり。思わず声を上げてしまったくらいです。 (左側が小学校校庭です)

ちょっとアップで。

この開渠、校庭に沿ってまっすぐ北(内川方向)に行くのですが、 ぎっしり民家があってその後の流路は ブロック反対側でしか確認できません。 逆に上流方向は、暗渠はつながっているようなのですが 今回確認はできませんでした。

で、ブロック反対側で確認できるポイントがこれ。

多少油の浮いた、赤茶

[107] 暗渠ハンター 池尻堀の大仏支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-c554.html

以前、大田区馬込付近の 「池尻堀」のことを書きました 。

地形図を見ると、その付近にはいくつも谷があります。 (「こたたん山通信」のろっちさんはこの谷たちを<楓谷>と名づけられています 。いい名前ですねw)

地図を見ていると只でさえうずうずしてくる萌え地形なのですが、 ある日あるとき思い立って、 この楓谷の上のほう、 馬込駅の北・国道1号線横からぱっくりと始まる谷を 訪ねてきました。

毎度google earthさん「東京地形地図」さん、どうもありがとうございます。

楕円の中にはいくつかの谷が見られますが、 この谷たちが新幹線高架下あたりで一つに合わさります。 そこには確かに一つ、ドブのような流れがありました。

経緯は後程お話ししますが、 ここではこの北の谷をらが合わさって流れる水路を 「池尻堀・大仏(おおほとけ)支流」と勝手に名づけ、 痕跡や流路の街並みを見ていきたいと思います。

谷の入口は都営浅草線の馬込駅の北。 今回は、五反田から国道一号線を南下するバスでアプローチ。 馬込の東急バス荏原営業所前で降りました。 ここは、 立会川と品川用水が交差する水の要所。 またそんなところにバスターミナルがあるという 私的にもわくわくするところです。

東急バス荏原営業所を少し南に下ると、 1号線の広い道路からいきなり東側の崖下に下る 狭い階段が現れます。

おお、結構な勾配っすね。

谷頭にあたるこのあたりは路地の多い、 情緒たっぷりなエリアです。

ただ、「これは暗渠か」と問われると 正面切って「間違いない」と答える自信はこの時点ではまだありませんw

さきの階段近辺谷頭から、数本谷底に降りていく細い道があります。 その中の一つには、 丸と四角の異なる形の「おしくらマンホール」もどきが ありました。

ちょっと珍しいかも。

あまりの珍しさに遠目に猫も近づいてきた模様。(うそ)

ここからより低いところに向かって 比較的広い道が3本。 あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、 たぶんこの3本ともが怪しいんじゃないかと思うように なってきました。 (文末の地図参照)

本編と全く関係ないのですが、 谷の南の崖上を歩いていたら、 すりすり猫にもあうことができました。

むー。かわいいにゃあ。

あ、なんかあんまり見たことがない ハンキョ形態のマンホール蓋に谷底で遭遇。

怪しい3本

[108] 荒木町〜策の池 - 東京さまよい記, , http://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/b3df689bb1b1ddb7bdc70eaf902a74c9

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886〜1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い

[109] 暗渠ハンター 内川のまんなかへんをちょっとだけ: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-360c.html

大田区遠征、前回までは池尻掘をご紹介しましたが、今回は内川を。 内川は北馬込2丁目、環7内側の谷頭から流れ出て、大田区中央から東海道本線をくぐったところで突如開渠となり、まっすぐに京急線をくぐって大森ふるさとの浜辺公園あたりで海に注ぐ変化に富んだ川です。 いちど 上流付近を辿ったことがありましたが 、今回池尻掘と六郷用水北堀を巡る時にその中流(?)付近を通ったもので予定外でしたがチラ見してまいりました。 (ちなみに 庵魚堂さんが内川の記事を精力的に書かれていたのは丁度去年の夏でしたね )

中央と大森西の間で東海道線をくぐるあたりでは、内川は数本の流れに分岐しています。 これは、その北側の暗渠。 こんなふうにJRをくぐります。今回の内川チラ見はここからスタート。 JRは高架とは名ばかりで「低架」ですw その橋裏もこれまでみたことがなかったようなビジュアル。 蚕の足を思い出しました。(うわ、そういう比喩ちょっとキモいなあ・・)

昭和30年代前半の地図では、この低架のちょっとだけ上流までは開渠の表記がありました。 これをくぐるとまたいくつかに分岐しますが、まずは内川本流に近づいて開渠を拝むか・・・。 なんて思っていたら支流暗渠発見。 ずうっと西に向かって内川に並行するように延びているのですが、これまた「おしくらマンホールもどき」がたくさん見られる豊か(w)な暗渠でした。

こんなのも!

この暗渠は大森8中にぶつかって途絶えてしまいます。 そこからいよいよ内川開渠に向かいます。

出ました。内川にかかる富士見橋です。 富士見橋から上流を望む。今回は下流には行かず、上流を戻ってまた六郷用水北堀に向かいます。

ここからさらに2つほど橋を越えると、また東海道本線をくぐることになります。

これが東海道本線をくぐる高架。・・・でなくてここも低架。 奥に水門が見えます。ここが内川の開渠と暗渠の境目となります。 なんかこう、メカニカルでかっこいい・・・。

この低架は、ここからくぐります。 うわw-ほんと頭ぶつけそうです。自転車すれ違えないほど狭いしー。 まあ「橋裏」としても鑑賞に堪える見事なものなんですけどね。 こんな危なっかしい通路でも相当便利なようで、ちょっとの間に何人もの方が行き来していました。しかし閉所恐怖症のひとはここヤバいだろうなー。

そして暗渠となった内川は、一

[110] 渋谷川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%B7%9D

[編集] 名称

「渋谷」の地名は、渋谷川を流れる渋色(赤茶色)の水に由来する、という説がある。渋谷川流域では渋谷粘土層と呼ばれる特有の地層が水を遮るため、上層にある関東ローム層(赤土層)に染み込んだ雨水は、その鉄分を溶かし込みながら川へと排出され、水を赤茶色に染めるのだという。現在も、渋谷で湧いている井戸水には、全国平均の24倍にあたる鉄分が検出されている[1]。

「渋谷」および「渋谷川」の本来の由来は、今の大和市渋谷地区(旧・渋谷村)を出自とする渋谷氏一族が、周辺地域に居を構えたことによるようである。

なお、穏田川は宮益橋から新宿御苑方面へと遡る渋谷川支流の名だが、古地図などではその名が見えず、かわりに渋谷川と書かれている場合が少なくない。この場合渋谷川は新宿御苑付近から始まるということになり、これは「渋谷川」の広義の用法であったということになる。

[編集] 流路・支流

(大雨時には)上流の東京都公共下水道の千駄ヶ谷、宇田川両幹線で集水された雨水を収容し、渋谷駅前の宮益橋を起点とし、広尾、麻布の台地下を流下して、芝公園の南側を通り、東京湾に注ぐ[2]。

宮益橋の約200 m下流の稲荷橋から開水路となり、市街地を流れる。渋谷川では1986年から、老朽化した護岸を包み込む形でコンクリート護岸による河川改修が行われているが、天現寺橋から下流の古川では、古い石積護岸が今も残る。赤羽橋から河口までは、昭和30年代から防潮堤が整備されている[2]。また、天現寺出入口付近より下流は首都高速2号目黒線が、一ノ橋JCTより下流は都心環状線が直上を通っている。

渋谷川はいくつか主要な源流をもっていたが、現在ではほぼ全て暗渠化されて下水道として使われ、渋谷川には流入しなくなっている。現在渋谷駅付近の渋谷川は大雨時を除きほとんど水が流れていないが、清流復活事業の一環として、新並木橋のところで下水を高度処理した水を流している。

(以下、下流より記載する)

入間川(いりあいかわ) - 厳密には支流ではなく、旧川筋。江戸時代に現在の流路が開削されて付け替えられた

赤羽川

玉名川 - 白金台二丁目にあった「玉名の池」が水源。明治学院大学と八芳園のあいだを北上し、高松中学校、松秀寺のわきを通って新古川橋にて合流する

笄川 - 南青山一丁目-六丁目付近からの流れ

いもり川 - 青山学院大学敷地東側に

[111] 六本木、麻布十番、元麻布の川跡(1)がま池からの流れ : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/13955876

六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れて古川(渋谷川)に注いでいた小川の痕跡を再訪してきました。東京の水2005revisitedで、5年前にすでに詳しく記事にしていますが、なかなか面白いエリアですので、最新の写真をメインに2005年の写真、1997年の写真も織り交ぜて、何度かに分け、再度紹介してみます。六本木のところは、先日ちょうどブラタモリ最終回でも取り上げられていました。 ==================================================== まずは元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた小流を追ってみよう。 麻布十番から枝上に分かれる谷の一つに、有栖川宮記念公園の南側、谷頭の窪地には江戸時代より有名な「がま池」(「蝦蟇ケ池」)が残っている。「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされており、いくつか伝説が残っている。がま池の由来やその変遷については、こちらのサイトが詳しい。 明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれている。この時点で池の広さは1600平方メートル。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いている。

「五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より 現在の池の姿は、googlemapの空中写真で確認できる。池の広さはおよそ600平米。池の北側が埋め立てられ、池の上にせり出すかたちでマンションが建っている。中島はおそらく明治の地図に描かれているのと同じものだ。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまい、現在は、循環水で水面を維持しているようだ。

大きい地図はこちら 現在、住宅街の道路端と、とあるマンションの玄関脇にがま池の説明版が掲示されているものの、先のマンションの中庭となっていて、入ることはおろか見ることもできない。マンション入り口の看板には池を公開している旨書かれているが、聞いてみたところ公開していないとの回答。5年前に訊いたときにも、一時的に取りやめているといっていたが・・・現在のマンションは2002年に建替えられたもの。その際は建設業者が池の公開を約束したというが、どうも有名無実になっているようだ。 池の周囲も住宅に囲まれていて、その姿を見ることは不可能だったのだが、数年前に池

[112] 砧地域 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7%E5%9C%B0%E5%9F%9F

砧地域(きぬたちいき)は世田谷区の定める5地域の一つで、砧総合支所管内を指す。 成城学園前駅を中心として、大規模な住宅街を形成している。 また、成城は住宅地として名高い。国分寺崖線を中心として砧公園や多摩川など、都市部にあって自然環境に恵まれた地域である。東京近郊では、かつては安行に次ぐ植木の主産地であった為、造園業者が多く所在する。

含まれる町名[編集]

世田谷区の内、

宇奈根

鎌田

岡本

砧公園

大蔵

千歳台

祖師谷

成城

喜多見

地理[編集]

世田谷区の南西部に位置する。 南には多摩川が流れ、その支流が幾つか流れる。 多摩川の河岸段丘である国分寺崖線があり、そこを中心として 自然が広がり、都区内でも緑被率はトップクラスの地域である。 また、国分寺崖線や刻み入る谷戸などで、土地の起伏の激しさは都区内有数である。

川[編集]

多摩川水系

多摩川

野川

仙川

丸子川

谷戸川(一部暗渠)

清水川

谷川(暗渠)

宇奈根川(一部暗渠)

目黒川水系

烏山川(暗渠)

沿革[編集]

1936年(昭和11年)北多摩郡砧村・千歳村が東京市に編入され、世田谷区に属す。

1991年 世田谷区が地域区分を設定し、砧総合支所が設置され、旧砧村村域の大部分・旧千歳村村域の南部を砧地域として定める。

公共機関など[編集]

世田谷区役所砧総合支所・成城出張所

区役所喜多見出張所

区役所砧出張所

区役所船橋出張所

区役所祖師谷出張所

警視庁成城警察署

警視庁交通安全指導センター

東京消防庁成城消防署

郵便局株式会社成城郵便局(郵便事業成城支店、ゆうちょ銀行成城店を併設)

国立成育医療研究センター(旧 国立大蔵病院→国立成育医療センター)

NHK放送技術研究所

所轄となる機関[編集]

警察 成城警察署

消防 成城消防署

郵便 船橋が郵便事業東京千歳支店(〒156)、それ以外が郵便事業成城支店(〒157)

経済[編集]

東京メディアシティ

東宝スタジオ

かつては、円谷プロダクションが砧地域に本社を構えていた。

産業[編集]

生産農地が存在する。

東京都中央卸売市場世田谷市場

かつて砧農協という単独の農協が存在したが、現在は合併により、JA東京中央砧支店になっている。なお、最寄のバス停には2011年3月31日まで「砧農協前」の名称が残っていた。

教育[編集]

大学・短期大学[編集]

成城大学

日本大

[113] 東急玉川線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A

下記のデータは特記なければ路線廃止時点(溝ノ口線については大井町線編入前)のもの。

路線距離(営業キロ):

玉川線:渋谷 - 二子玉川園間 9.1km

砧線:二子玉川園 - 砧本村間 2.2km

溝ノ口線:二子読売園 - 溝ノ口間 2.1km

軌間:1372mm

駅数:(起終点駅含む)

玉川線:15駅

砧線:5駅

溝ノ口線:4駅

複線区間:

玉川線:全線

砧線:なし(全線単線)

溝ノ口線:二子 - 溝ノ口間

電化区間:玉川線・砧線・溝ノ口線とも全線(直流600V)

閉塞方式:スタフ閉塞(砧線)

歴史[編集]

玉電(玉川線)は、1896年(明治29年)、玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1902年(明治35年)に渋谷 - 玉川間の軌道敷設が許されると、1903年(明治36年)玉川電気鉄道が設立され、1907年(明治40年)、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業した[1]。

玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1922年(大正11年)、玉川電気鉄道により渋谷 - 渋谷橋の間に天現寺線が開通すると、玉川線と天現寺線は直通運転された。 1924年(大正13年)には玉川 - 砧(のちの砧本村)間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。

玉川電気鉄道は路線を拡張してゆく。1925年(大正14年)、三軒茶屋-下高井戸間に下高井戸線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線を、同年溝ノ口線(玉川 - 溝ノ口)を開業した。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となった。

1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、

[114] 呑川 - 世田谷の川探検隊, , http://tanken.life.coocan.jp/setagaya/nomikawa-2.html

呑川 (のみ-かわ)

桜新町で忽然と姿をあらわし、日本体育大学の脇を抜け、深沢をゆうゆうと流れていく。 なんといっても深沢7丁目付近の親水公園が見事。それから桜の季節のこの川は何往復でも歩きたくなる。

桜新町

ここがすぐそれと分かる形で残っている呑川(暗渠)のスタート地点。

ちょうど「サザエさん通り」の2ブロックほど東を並行している道です。

下流から川筋に沿って住宅地をどんどん遡ってきたら、ここに着きました。

沿線はこんな感じの暗渠が続きます。

源流を探そう

→探してみると、たくさん見つかる呑川の源流。

国道246号線と交差

246号線の北側に残された欄干。

古色漂うつくりから想像すると、高架はもとより国道が現在のように拡幅される以前からあったものかもしれません。

246号の南側から始まるのが、呑川親水公園。

ひとつひとつが優美に、奇抜にデザインされた橋。沿道には桜。

ここはちょっとした花見の穴場でもあります。

呑川親水公園

ここには決してクルマで来ちゃダメです。無理してでも歩いて行くこと。

ちょっと距離がありますが、東急新玉川線桜新町駅が最寄駅。

さくらの季節は特に見事です。

呑川橋

親水公園はここまで。ここから下流は緑の散歩道が続きます。

しもやま橋

駒沢公園通りが呑川を渡る“しもやま橋”の跡。

かつて川だった部分には潅木がうっそうと茂っています。

あまり手入れされていない様子ですが、それほど悪い感じはしません。

桜の並木

幅が広くて、ゆったりした桜並木。

学校が多いせいか、落ち着いた感じのする街並みです。

ちょっと季節を外しちゃいましたが、これが全部桜の木。

東深沢小学校付近

緑道を探訪していると、必ずと言っていいくらい近くに小学校が建っています。

このあたりはソフトな舗装が足に気持ちいい。転んでも痛くないぞ、きっと。

緩やかに蛇行しながら川筋は東に進みます。

けっこう大きな川だったことがわかります。

目黒区へ

ここらへんで緑道は一度目黒区内に入ります。

八雲

呑川の南側に続くしどめ坂。

見下ろすとこんな感じ。

このあと呑川は目黒通りを越えて南東に進み、都立大学駅付近で東急東横線を越えます。

緑が丘

東京工業大のキャンパスを通過します。

東急目黒線と大井町線を越えたあたりで九品仏川が合流します。

ここから下流の呑川は開渠になります。

[115] @nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探す, , http://portal.nifty.com/2011/06/16/b/

分水嶺とは水系と水系の境界線、つまりその場所に降った雨がどの川に流れてどの海に注ぐのか、というエリアの境目である。

たとえば日本列島の中心部分には太平洋と日本海の分水嶺が縦断していて、同じ山でも雨や雪が降った場所によって、流れ着く先が太平洋か日本海かに変わるのだ。

そこまで大げさでなくても、川が2本流れていればその間のどこかに分水嶺があるはずだ。それがたとえ山の中じゃなくて住宅街であっても。

(萩原 雅紀)

東京の水系事情

東京には大きく分けて荒川と多摩川という2つの大きな川が流れていて、それぞれが東京湾に注いでいる。都心部だとさらに渋谷川とか目黒川とかの水系もあるけど、東京の大部分はほとんど荒川水系か多摩川水系と言っていい。

[116] 暗渠でひろったかけら~立会川暗渠で: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-deab.html

立会川を下りましたが、詳しい経過はまた後日。

しかしちょっとしたトピックスを拾ったのでそれだけまずご紹介します。

ひとつめ。

立会川暗渠、荏原町付近で見つけた「大径マンホール跡」。( 参考:tokyoriverさんページ )大きさがわかりずらかろうとクツをおいてみましたw。

ふたつめ。

立会川(立会道路)と国道1号線が交差する地点に・・・・。

またバス、しかも東急バスですか・・・。 東急バス荏原営業所」発見・・・。 やっぱり何か水路と関係あるとしか思えませんが。真偽のほどは今後の課題として。

さて、トピックスは以上。

より大きな地図で 立会川で拾ったかけら を表示

この日は立会川水源の碑文谷池から立会道路を下って河口である勝島までいってきました。

復路では近くの品川用水を上り、先日tokyoriverさんに教えていただいた「清水池と402号線の間にあるL字水路跡」を見てきました。

行程詳細は追ってご報告します。

[117] 暗渠ハンター 立会川を下る①: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-627a.html

立会川を3回ほどに分けて掲載します まず初回は、立会川の源流とされる碑文谷池から立会道路を下り、中原街道との交点(旗の台駅すぐそば)まで行きます。

また次回以降は立会川に原町から合流する、清水池からの支流を遡り、さらにその後中原街道から海まで。

スタートはここ、碑文谷池です。東横線の車窓からも見える、大きな池です。貸しボートなんかもあるくらい大きな池ですが、この日は相当暑くて誰もお客さんいませんでしたw。

池の北のほうに、こんこんと水が湧く様子が確認できます。

池の南から、東横線高架下に流れを発しているそうです。 碑文谷5丁目にあるみどりの散歩道が立会川。 目黒通りを越えると、一旦自転車も通さない車止めがあり、その先は公園に繋がっています。

ちなみに、都会の真ん中の「 マンションと合体しているセメント工場物件 」はこのすぐそば。

公園の先は「川の地図辞典」によると2車線の通り沿いに進むようですが、鵜呑みにせずその周辺の暗渠を探しましたが、どうも決定打に欠けます・・・。 そのうちに立会道路に出てしましました。大門橋。 立会川暗渠に造られた緑道で、真ん中が遊歩道になっています。 こちらに進むと下流、 こちらに進むと碑文谷池とは別の水源から伝わる上流です。 まずはこちらの上流を辿ります 程なく碑文谷八幡神社の参道となり、奥の社務所や社にたどり着きます。

この辺に湧水があるのかなあと注意深く探してみましたが・・・・。 井戸と水場があるくらいですね・・・。

暑い日でしたが鬱蒼とした森が作る木陰は涼しく、しばし一休み。

さて改めて立会道路を下ります。 お。ここは宮前橋。

しかしこの立会道路には、たくさんの「まっすぐな道」が交差しています。 この交差するまっすぐ道は、過去の区画整理のためなのか、それともこのそれぞれが「水道道路」的なものなのか・・・。これもあとで調べてみようっと。 目黒線西小山駅前に近づくあたり・原町清水池からの支流と合流し、その後流れは右にかくんと曲がって、あとは中原街道までやや蛇行したりして続きます。 その中原街道手前には、「荏原雨水調整池」があると以前「 目黒区川の資料館 」A津さんに教わりました。 それがこれ。 ここと隣接する公園との地下に巨大な調整池があるそうです。そういえば公園の片隅にはたくさんの土嚢が置かれていました。地下はどんなんなってん

[118] 暗渠ハンター 立会川を下る②: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-bc11.html

立会川の水源は、碑文谷池、碑文谷八幡神社周辺、清水池の3つとされています。 今回はこの清水池から原町で立会川に注ぐ暗渠を巡ります。

まずは清水池。清水池公園を構成する主要素ですね。 公園の池としては珍しく釣りOKで、普段は釣り人がたくさんいらっしゃいます。(ただし魚の持ち帰りは禁止) ちょっと前、雑誌「pen」の「有名人の、東京の中でも特に好きな場所」みたいな特集があって、高橋幸宏さんはこの清水池公園を挙げてらっしゃいました。 (高橋さんは大の釣り好き。またYMO結成当時から数年はこの近辺のお家に住んでらっしゃったようです・・・当時のお家についてはこちら参照「 A Fragment 」)

この池から南下する道路が流路です。 途中、こんな不自然な(あ、ほんとは川筋だから「自然」かw)カーブを描いきながら碑文谷1丁目と目黒本町6丁目の境目を流れていき、原町との境界で立会道路に合流しています。 ずっと前からこの道は知っていて「なんでこんなカーブしてんだろ?」と思ったことはありましたが、なるほどこれは「川筋」なんだよなあ・・・といまさら納得です。私が一皮剥けました(セルフ・ピーリングw)。

比較的近いところには「月光原小学校」というどこか心に染み入るような名前の小学校があります。昔月光原と呼ばれていた土地があるようです。 なんかいいですねー。月光原。いいなあ。月光原。(<しつこい) 今回の地図は、暗渠ハンター 立会川を下る①の項をご参照ください。

次回はいよいよ河口まで。

[119] 暗渠ハンター 立会川を下る③: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-0273.html

さて立会川も最終回。

では中原街道と立会道路との交点から。 手前が中原街道、その奥に緑道が続きます。

進んでいくと、旗の台駅近くでいったん線路を前に中断。

さらに荏原町の駅をまたぎ中延を通って国道1号線まで続きます。 その途中にあった物件が、先日ご紹介したこの「大径マンホール跡」。 荏原町付近にはこんな味のある質屋さんも。大谷石づくりですね。 わき道もいい感じ。 地図上では立会緑地と名前を変え、こんな感じになります。 途中から工事中。すぐわきのストロングタイプの暗渠道を行きます。 中延あたりではこんな川辺っぽい光景も。 さて、ここが国道1号線との交点です。国道1号線ですが地域での愛称は「2国」。

東京横浜を結ぶ大幹線を、海側から1国(産業道路)、2国(1号線)、第3(第3京浜)と呼ぶんですって。かえって混乱しそうですけどねw。 そして、上の写真の左の敷地が、先日から問題視wしている「東急バスの荏原営業所」です。 うーん、川筋と操車場、どんな関係があるのでしょう・・・。 2国(<やっぱ紛らわしい)を越えると道幅がぐっと広がり、こんな光景になります。 ところでこの道をまっすぐ30m程度進むと、品川用水と立会川が交わる地点に。 立会川を下流に向かって左を望んだ写真が下ですが、この道がおそらく品川用水。立会川を突っ切って右に続いていたようです。 しかし横切るって・・・立体交差だったのでしょうか・・・。 さて、さらに立会川を下ります。道は上りへの一方通行道路となり、その脇をこんな歩道が続きます。 こんな魅力的は道も交差。ただし立会道路はすこし盛り土して作ったのか、支流からはこのように階段で数段上るようにして交差しています。 横須賀線・新幹線の高架と交差する場所が近づいてきました。 これを越えるとすぐにJR西大井駅。

ここからはこんな整備された緑道となり、いまいちテンション下がりますw。 JR大井町方面に向かっています。道もまた細くなったり、こんな暗渠らしい道になったり。 (あ、これは立会道路に交差する道だったかもしれません;;;;) いわくありげな舗装跡ですねw。

大井町に到着。川筋を見失いそうになりますが、しっかり立会道路の続きがあるので大丈夫。 駅の南にある線路を渡って、 右に現れる大きなガードをくぐると こんな緑道が復活します。 蛇行して進むこの道の傍らには、なんだ

[120] 暗渠ハンター 大田区郷土博物館から内川を遡る: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a061.html

調べ物(当然暗渠・川関連♪)をするために、 大田区南馬込にある郷土博物館 に行ってきました。

収穫は上々。博物館を出て坂を下っていくと、この辺りは内川の流があったことを思い出しました。 庵魚堂さんがちょうどこの夏かなりの勢いで特集されていた内川 w。

どれどれせっかくだから。私も辿って遡ってみることにします。

すぐに流路は見つかりました。

だってこんな立派な桜並木になってるしw

すぐに国道1号線を跨ぎます。

流路脇にはこんな立派な柳の木。でかいっす。時間があれば木の下に佇むご老人にお声を掛けたいところでしたが・・・スルー。

程なく、 庵魚堂さんもかかれていた巨大施設 に行く手を阻まれます。こんな「あからさまに隠してる」ところって、すごく興味をひくもんですね。

この施設の北側は東海道新幹線・横須賀線の通り道。線路高架を越えて内川上流の流れ出るポイントを探してみると・・・・。

ありました。ここですね。

ここで右からくる下水開渠が、内川に流れ注いでいる模様。

この写真はその足元に流れ込む下水開渠を上から写したもの。

ちょっとわかりずらいか・・・。

これまた見事にあからさまな下水溝です。禍々しげな雰囲気に魅せられてちょっとこの支流を追ってみます。ここが今回の自分的ハイライトでしたw

線路と並行して走る支流はすぐに坂(っつか山w)の中腹に飲み込まれてしましました。写真は支流が確認できる最遠ポイントからさっきの内川合流点を望んだところ。金網じゃまw。

内川本流に戻ります。細い暗渠道が、環7まで続きます。

途中は両岸(?)工事中だったり。

暗渠道自体の工事中だったり。

警備の方に何の工事ですか?と訊いてみると、

「・・・・・えっと・・・・下水管の付け替えです」と自信のなさそうなお返事。

まあこれ以上詳しく聞いてもお仕事の邪魔になるかと追加質問を断念w。

そして環7にこの階段で分断されます。

環7を越えるともうすぐに「水源の碑」があり、暗渠道が終わります。

これはその碑の足元から見る生内川。

しかし庵魚堂さんもご指摘の通り、ここが水源とは思えません。唐突すぎる。

そこで周りをしばし探索してみました。

どうやらこの「水源」の背後(北側)は山となっている様子。

写真のような急勾配が迫っています。よく湧水地にありがちな地形ですね。

結局水源の特定はできなかったけど、やはり「水源」碑は本当

[121] 暗渠ハンター 山王崖下の「池尻掘」?①湧水つきの東側掘: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-c37c.html

大田区に遠征してきました。 今回から数回にわたって、池尻掘、六郷用水北堀、内川の様子をシリーズでご紹介します。

まずは池尻掘から。 実はこの池尻掘、 カケダシのころからの愛用テキスト「 川の地図辞典 」にはしっかり載っているのですが、 その他の文献でも見当たらないしググっても出てきません;;;; もしかして名前の記載ミス?・・・という疑いを持ちつつも、便宜上もうこの「池尻掘」という名前で通すことにしますw ※補記:大田区の資料ではいくつか「池尻川」という表記が見られます。

※2011.7.18追記:大田区の小学校史の記事に、「環7内側・山王近辺の谷からの流れも内川の源流のひとつ」である旨の記述を見つけ、池尻堀も内川水系として扱うことにいたしました。

池尻掘は、 環7の馬込交差点あたりを真ん中にして 西と東それぞれから流れ出して南下し、 途中でこの2本が合流して 池上通りとの交差点あたりで六郷用水北堀と合流する水路です。Yの字形みたいに。

まずは東側の水路から探検。 「川の地図辞典」と手元地図を見比べていると、 どうも川の地図辞典の記載より上流がありそう。 そこから探ってみましょう。

「川の・・・」記載の始点に立ってみると、 果たしてさらに東のほうにあからさまな暗渠がありました。 この先が上流ですね。

すっかり無理固められていますが、ザッツ川筋。

おっと、金網フェンスで囲われている洋館。廃屋のようですがとことなくキッチュな風格(なんだそれw)があります。

奥に進んでいくと二筋に分かれるところがあります。まずは右に折れて進んでみます。

さらに狭い暗渠がまっすぐに続いていました。

足元には「 おしくらマンホール 」モドキが出現!

うわっさらに狭くなってきたw かなり好みの暗渠ですよこれ!!!

この暗渠は100mくらい続き、最後はは10段程度の階段となって、崖上に出ます。 その崖上からの暗渠の眺めはこれ。

この崖の横には駐車場があり、このへんが谷頭となっているようです。

この崖を含む台地が山王、台地の向こう側がJR大森駅となります。 先ほどの二筋の分かれ道のもうひとつの暗渠は、数10m続いてすぐに終り、この奥に消えてしまいます。

もうちょっと奥まで分け入っていくとこんなかんじ。 まだこの先の崖下伝いに先がありそうですが、もう流路は追えません・・・。

[122] 暗渠ハンター 山王崖下の「池尻掘」?②西側の掘と合流後の暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f286.html

では池尻掘の2回目は、まず東側の掘との合流点から上流に遡ってみましょう。

西側の堀は、環7の向こうからやってきます。

この正面の道を入ると、いきなり崖。 この崖上は大倉山公園という公園になっています。

崖上から流路をみるとこんな。高いですねえ。

西側堀は蛇行もなく、ちょっと見所は少ないです。 � �

どんどん北上して、馬込東中を左に曲がって坂を上ります。

「川の地図辞典」では、このあたりが起点。 この古い民家なんて怪しいな・・・。

何気なく隣のアパートをみると・・・

コーポラスいずみ。・・・「いずみ」!!!? ここが湧水ポイントか!? なわけありませんw

まだ上り坂が続くので、もはや「川の・・・」をちょっと無視してあたりをさぐってみます。 道は蛇行し、「もしかしたら流路が続いてる?」と思わせるには充分。 こんな不自然(いや、自然?w)な三角形のヘタ地まで登場。

古い川の流路と新しい計画道路が交わるところに、よくこんなヘタ地ができますよね。 渋谷区の例はここ 。 坂を上りきるあたりには大きな敷地の古い神社。 水源があったとしたら、このあたりじゃあないかなあ。

さて、東西合流後の流路は少しだけ環7とともに南下します。 なぜかこのあたりの環7沿いには看板建築物件が多く見られました。

環7と池上通りの立体交差あたりから、池尻掘は環7の西に離れていきます。 左が環7の立体交差。流路は右に。しかし先に見えるカーブは曲がらずにほぼまっすぐ進みます。

お!この立体交差付近で支流暗渠発見。

さっそく追ってみます。

曲がり角はわくわくするほどマンホールが連なっています!

残念ながらこの暗渠はこの角を曲がるとおわり。 本流に戻ります。

あ。ここにも支流。(写真まんなか奥)

ちょっと進むと行き止まりになります・・・。

民家から排水口が道に突き出ていますね。

さらに下ると春日神社横に橋跡がありました。

明神橋、という橋です。

欄干の親柱だけが移築されているのですね。

さらに南下して、池上通りにぶつかるところで六郷用水北堀と合流します。 このへんが合流点。

写真を撮っていたら、にこにこしたおじさんが近寄ってきて 「その花ね、種から植えたんだよw きれいでしょうww」 と。 「いえ、花を撮っているのではなく暗渠を撮っているのです」とはいえませんでしたww

[123] 暗渠ハンター 立会川プリンセス支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-9bd2.html

環7を自転車で走っていたら、気になる谷を見つけました。 目黒線洗足駅のちょっと北から東に延びる谷です。

環7をちょっと入った谷頭付近でうろうろしていると、 ご近所の方に声を掛けられました。 (怪しかったかな、私・・・)

模型店の雷王というお店 のご主人で、 このあたりの町内会の役員もされているという方でした。 (模型は鉄道やガンダム系強し。外観はふつうのおうちっぽいですが、 中はものずごい品ぞろえのようです!!! Nゲージもあるでよ)

たまたまそこにいたこれまたご近所の旦那さんと一緒に、 「ここにどぶが流れていたよ」 「その続きはあっちで、小学生のころ冒険に行ったよ」 などなどいろいろお話をうかがえました。

特にこの雷王のご主人には 「こっちから流れが始まってるから」 と、谷頭であるお庭の奥までいてていただいただけでなく、 「この流れは良く知ってるから、自転車で案内しますよ」 とおっしゃっていただき、この谷の途中までご案内いただきました。 雷王さん、ほんとうにどうもありがとうございました。

ってことで、まずは洗足2-15近辺。 この奥が谷頭らしいです。

そしてこの奥が模型屋さん「雷王」。 ご近所のお二人のお話では、 この真ん中の白いところが生活排水だったようです。

雷王ご主人のご厚意で、 この奥のお宅の横に流れるこの上流を 撮影させていただきました。

まずは雷王さんの入り口。 ちょと意外な店構えですが、 ご主人も気さくな方。遠慮なく門をたたいてみましょう!

この雷王さんの敷地の環7側に、 流路の上流が延びています。

ささ、奥に。

狭いけど、さらに奥に進みます。ご主人様、ありがとうございましたw

ここは実は品川区と大田区の区境。となりのマンションは、 区境の共有部分に強引に塀を掛け、 つまりこの流路のまんなかに塀を作ってそのためにこの流路が 暗渠化された模様。ふむふむ・・・。

はしっこまで来ると、すぐそこに環7が見えました。 ここが始まり、なんですね。

環7をはさんで西側には、洗足池に流れる支流のひとつ、 清水窪の湧水 があります。

さてこっから、下流を辿れるところまで行ってみましょう。 雷王さんも案内してくださる、とのことなので心強いです。

・・・しかし雷王さんからご注意を受けました。 特に年末年始は(この日は12月30日)、空き巣ねらいと間違われるので 注意し

[124] 暗渠ハンター 馬込山王・楓谷を歩く: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-f93e.html

前回は大田区馬込付近の、池尻堀につながると思われる 「大仏支流」を追いました。 さて、せっかくここまで来たので、 大田区名物(?)の 「馬込山王・楓谷」(ろっちさん命名) の 北のほうの谷を横切って帰ろうと思います。 ほんとこの楓谷は見どころがいっぱいで、 足腰も鍛えられますw

立ち寄ったのは、この地形図の 「この谷A」「この谷B」。

まずは「この谷A」に環七からつまり下流からアプローチ。

実はここは、 この記事 を書いた時に 猫またぎさん から 「その裏にすごいとこあるよ」と教えていただいて、 立ちよらなかったことを激しく後悔したスポットでもありました。

「不自然に広い歩道」くらいしか暗渠サインは見当たりませんが、 この道は十分谷底感が味わえます。

まっすぐ登っていくと、萬福寺というお寺が小高い丘に建てられています。

入り口には「するすみ」の像が。 え?するすみって何だって?

漢字では「磨墨」。

平家物語の「宇治川の先陣」に出てくる名馬の名前です。 いやー、高校の教科書で出会って以来このストーリーは 全く忘れてしまっていたのですが、この馬の名前「するすみ」ばかりが 妙に頭に残っていて、たまに思い出して「するすみ」と口に出したりしていましたw なんか口に出してみたい日本語、じゃありません?「するすみ」。 ちなみに以前インターンではるばる会社に来たドイツ人は、 「デンシレンジ(電子レンジ)」という言葉が面白いといって、 自分で口に出しては笑っていましたっけ…。 確かに韻を踏んでて面白いような気もする。

あ、でその「宇治川の先陣」ってのは、 鎌倉幕府ができるちょっと前のお話で、源義経側にいる二人のオトコ、 するすみに乗った梶山某といけづきという馬に乗った佐々木某が、 合戦の途中で 「どっちが先に宇治川を渡って『やあやあわれこそは…』って 名乗りを上げるか」と張り合う短いエピソードです。 見事「馬に乗っての一番乗り」はするすみでなくいけづきになるのですが、 そのあと徒歩(かち)で渡ったのが大串某。 この大串某があまりにもちゃっかりしてたため敵味方ともにウケた、 というお話。

横道にそれましたが、 そのするすみの持ち主である梶山某縁のお寺だそうです。するすみ。

さてこのお寺の丘を挟んだ反対・北側にももう一つの谷筋があります。 もうこの辺は先のろっちさんの記事に詳しいの

[125] 暗渠ハンター 立会川・清水池「下」支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-b1b1.html

立会川の主な水源は、3つに大別でき、西から東へ順番に挙げると ①碑文谷八幡付近 ②碑文谷公園弁天池(碑文谷池) ③清水池公園清水池 となります。

このうち、最近この辺りを改めて探索してみて、 ・②の弁天池からさらに上流にある暗渠 ・③の清水池からさらに上流にある暗渠 ・③から流れ出る立会川本流の傍流暗渠 などを見つけてきたので、 何回かに分けて書き進めて行こうと思います。 まず今回は、最後に挙げた 「③から流れ出る立会川本流の傍流暗渠」のお話、いってみましょう。

清水池(それと、今後触れる弁天池・別名碑文谷池)については、 とっても詳しくわかりやすく説明する 目黒区のページ を見つけてしまったので、 これをご参照ください。

清水池は古くから湧水を湛える名勝地。

ここから立会川(のひとつ)が流れ出していくのですが、 清水池の南に、それに寄り添うように流れる一つの水路がありました。

位置からすると、 もしかしたら清水池からあふれ出すもう一本の水路だったのかもしれません。 (たぶんそう解釈した方が自然でしょう) ではまずは地図を。この緑色のラインです。

より大きな地図で 立会川 を表示

立会川の主ルート(紫線)はこちらなんですが、

これを下っていくとある一つ目の大きなカーブ。

ここに、左手の後方から鋭角に合流してくる水路があるのです。 それがこれ。 左が本流、右というか正面が今回取り上げる傍流です。

まあ清水池の下(南)あたりから始まってるから、 これを「立会川清水池下支流」と仮に名づけることにします。

この清水池下支流にちょっとだけ入って、 合流後の本流方面を眺めたのがこの写真。 合流点付近には点々をマンホールが連なっています。

ではここから上流に向かって入って行ってみましょう。

未舗装です。

草の生え方からいって、 交通量はたいへんに低そうな道ですねこれは。

その原因は、やはり「狭いから」でしょうね。

ですがある意味見事な暗渠です。 このワイルドさは 桃園川たかはら支流 (リンク先はnamaさんの「暗渠さんぽ」) の一部にちょっと通じるものがあります。

これですから。この連続ですから。

盛夏だし、もう見たことない羽虫とかが いつ出てきてもおかしくない雰囲気ですが、 私の好奇心がそれに勝るのだw

化石のようになったマンホール。

見た瞬間、ジョージ

[126] 暗渠ハンター 立会川・清水池のさらに上流があった!?①: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-5706.html

立会川の3つの主水源のうち、 前回に引き続いて清水池周辺の話題を続けます。 このシリーズは清水池の周りの短い暗渠を取り上げ続けるので、 「ANGLE」を使った考察はしばらくお休み。

実は、水源と言われている清水池のさらに上流には、 付近を走る品川用水からの取水路と思われる水路が 大きく二つ確認できます。

一つは今回で取り上げる東の水路( 清水池上流東水路 と名付けます)、 もうひとつは次回を予定している、 鷹番を貫く西の水路( 清水池上流西水路 と名付けます)。

元々は、「目黒区文化財マップ」に切れ切れに載っていた暗渠を参考にしました。 これらを周辺含めて辿りながら、そして「東京時層地図」を見ながら 「一つの水路」として考察していく方法を今回はとっています。

ではまず東の水路、 目黒区中央町1-10での品川用水との接点から 清水池に向かう流路をご紹介していきます。 品川用水の、目黒通りに下る手前からこんな暗渠が始まっています。

ちなみに、この背後にも暗渠が伸びていて、 つまり品川用水からはこれから辿る清水池方面と、 反対側の目黒区防災センター方面の二つの落水が この地点で行われていたことになります。 その防災センター方面の暗渠というのは、 この奥に続くやつ。

今回はこれは追わずに、清水池方面に向かいましょう。

緑道チックに整備されたこの暗渠を通ると

すぐに目黒通りに出ます。

そして目黒通りを越えると、 またこんな風に続いています。

ちなみにこの川筋のところは 目黒通りがこんなに凹んでいるので一目瞭然。 (写真奥の窪み)

この暗渠はまっすぐ続いていて、 おそらく住宅区画整理で付け替えされた用水路、 なのだと思われます。

ここを通って曲がったあとは、殆ど道に紛れてしまいます。

もう清水池の北側、池まで至近距離。 どうもこの辺りは西水路につながる水路含めて若干水路は錯綜しています。

清水池の隣のブロックにて、 また暗渠空気全開の道が姿を現します。

目黒区本町2-14。

そしてこのような広すぎる歩道を経て (まるで2車線道路のセンターラインみたいですね)

清水池につながっていきます。 ちなみにこの水路は、次回ご紹介する西水路とも東西に繋げているようです。

清水池まで来ました。

と、まあこんな具合に、 水源である湧水・清水池より上流で品川用水からの水を受け

[128] 暗渠ハンター 立会川・碑文谷池上流で妄想落ち水探し: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-c067.html

立会川の3つの主水源のうち、 前回は清水池から品川用水に遡上するラインを探してみました。 今回は、もうひとつの主水源である碑文谷池を起点にして おんなじようなことをしてみました。

池から遡る前に、ちょっと池自体のお話も。 名前自体も、碑文谷池とか碑文谷公園の弁天池とかどうも通称は二つあるようです。 また 目黒区のHP では、 前回の清水池とは「兄弟池」という位置づけだとしていますね。 江戸の鷹狩の時代に野鴨がたくさんいた、とか その後水田灌漑に活用されまた池の中の島に弁天様が祀られてるとか、 紆余曲折あって今は池を中心とした公園として整備されているからとか。 結構いい感じのテイストで取り上げられてますね。

で、ここでは「碑文谷池」としていますが、 同じ 目黒区のHPでもこちらでは 「弁天池」になってます。 ま、どちらでもいいんですが、ここでは「碑文谷池」でいきましょう。 弁天池だと他にもたくさんあるし。

まだ暗渠道にはまらないはるか昔、 東急東横線に毎日乗っていた時期は 電車の高架からこの池をほぼ毎日見ていたものです。 そのころは「なんて池かなあ」 「近所に住んでる同僚に聞いても池のこと知らなかったし、マイナーなんだろな」 「でもたまにボートで遊んでる人いるなあ」 くらいのぼんやり度でしか注意を傾けていませんでしたね…。 まあ基本的にそんなに華やかな池ではないわけです。

水源とされる池ですが、 どうも昔の地図をちらちら見たりしてると この上流方向にもたまに水路が見えたりしてるし。 しかもそれを延長していくと品川用水にぶち当たるし。

しかしまあ結論から言うと 品川用水とはここでジョイントしていた!的な エキサイティングな展開にはなりません;;; あ、そんながっかりしないでくださいよw

どうやら碑文谷池からは2系統の水路で 品川用水につながっていたのではないかと思っています。 ひとつは池から西に向かっていくやつと、 もうひとつは北に向かっていくやつ。

まず西方面からいきましょうか。 公園の西側にこんな入り口があって、

そこからこう歩道を通って上流が辿れます。

なんとこの歩道の右側(つまり左岸)には、プール! 日大水泳部の寮と温水プールがありました。 なるほど。

この歩道を上流に辿ると 寮の敷地に沿って、こんなふうにかくんと曲がります。

そして敷地の端まで行く途中

[129] 暗渠ハンター 貉窪をこえて洗足で「弁天橋」をみた。: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-57be.html

以前、洗足池に流れ込む何本かの上流を探しに行ったんですが,、そのひとつとして大井町線北千束駅そばを掠めて環七に延びる 「貉窪」を散策 しました。

で。しばらくたってから、ドブ川研究家(?)の 俊六さんのブログ にレィルウェイライフさんという方が、 「洗足駅のそばに池と橋があって、その谷筋は洗足池につながってるかもしれない…」という コメントをされているのを 見て、これはいつか行かねば!確かめねば!と思っていました。 今回は、その貉窪と洗足駅そばの池とそれに繋がる川筋について、レポートします。

まずは前回の貉窪の谷頭を探しましょう。 環七に西から東にぶつかるのはここ。

環七は盛土されたような高台を通っていますが、この流れはその下にぶつかり低いまま。 高台・環七から貉窪の低い支流を見下ろします。

この低い流れが、環七の内側のどこにつながっているのかどうか・・・。 古地図をみると、貉窪の続きの谷頭がちょっとだけ環七内側に張り出しています。 それを探してみました。 地形から言って、ここのようです。

昭和大学歯科病院の横。ここ。

ではここで、地形を確認しましょう。 いつものように、google earthさんと東京地形図さんに感謝しつつ。

先の写真の環七内側のところは、上の図貉窪楕円形の右上の端っこです。

で、レィルウェイライフさんが指摘されていたのは地形図中の「厳島神社」近辺のこと。 どうもここは、環七内側から新たに始まる谷の途中にあり、 そのまま立会川方面に流れていくようですね。 つまり地形図で谷を辿っていくと、さっきの貉窪とはちょっと別の谷筋のようです。 おそらく環七の尾根(厳密には現環七と微妙に左右にズレがありますが)がもともと分水嶺になっていたのか…。

さてそれでは、この新たな東に流れる谷の谷頭を探してみよう!

環七から内側をじろじろ見ながらあるくと、一目瞭然で「ヤバい」感じの路地が見えます。

ここを入っていきましょう。路地の出口はこんな。

うーん、ワケありげです。たぶんここからドブのような流れが始まっていたのでは。 その先は、住宅ブロックを無視してわずかな高低差をおうことになります。 じつはここはそんなふうに住宅ブロックの真ん中を目黒区と品川区の区界が走るちょっとかわったところなのでした。 この写真。

敷地の両側に、左は目黒区洗足二丁目27、右は品川区

[130] 暗渠ハンター 南馬込の谷の、ミッシングリンク「池尻堀 南馬込1丁目支流(仮)」: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-5458.html

前回「練馬にある石神井川の谷イッキ攻め」的なシリーズをはじめたばっかりですが、このシリーズは息長く不定期連載ということにさせていただいて、今日は全く違うエリアのお話をさせていただきます。

以前、南馬込1丁目にある短い暗渠をご紹介しました。 この記事 で「この谷B」と書いてあるところです。 「この谷B」を出た水の行く先については、 ろっちさんの記事 でも取り上げられていましたが、まあずっと気になっていたわけなんです。

先日、またまた断片的ではありますが、その水の行く先について手掛かりを見つけたのでご報告。

まずは概況を掴んでいただくために地形図を。

左上から右下にかけて、環7がざばっと通っています。 そして右上から左下へ鉄道・横須賀線と東海道新幹線が通っています。 以前「この谷B」として見つけた暗渠は水色のところ。 この先どんなふうに谷底(つまりこの「楓谷(ろっちさん命名)」の真ん中の方)に向かって行くのかなあと思っていたところ、今回、オレンジ色の暗渠を見つけました。 これはすなわち以前の水色の暗渠の「行く先」だと思われます。 水色とオレンジ色を結ぶと、桃色のような流れが推測できるなあ、 というワケなんです。

ではさっそくその現場を。 南馬込1-14-5。 ここ、環7沿いなんですよ。 環7の歩道から、こんな風景が見えるんです。

怪しい金網。 覗き込んでみると。 立派なはしご式開渠です。 まさか、環7からこんなあからさまな川跡が見られるとは思っていませんでした。

”小学○年生”的な雑誌に 「あなたのすぐ近くに、四次元への見えない入り口がある!」 みたいな特集がよくあったような気がしますが、そんな見出しを思い出して軽く興奮してしまいますw 轟轟と車の行き交う何車線もある幹線道路から、 異世界への入り口が駐車場と民家の間の小さなスペースに残っていたわけです。

駐車場に足を踏み入れ、行く先(上流)を観察します。

ちょっと底が浅いですが、はしご式開渠が続きます。 そして駐車場の敷地を回り込むように折れ曲がります。駐車場スペースの背後は小さな崖なので、その崖下を回り込む、といった方が正しいでしょう。

崖下を伝う流れには蓋がされてしまいます。

しかし流路は明確。

駐車場スペースから、民家の狭間へと続きます。

では上流を、コの字ウォークで追っていきましょう。

民家の狭間か

[131] 暗渠ハンター 大田区楓谷・崖を下る暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-9d8e.html

前回の「 暗渠の愉しみバランスシート 」からいうと、今回の記事はこんな内容です。

では本文、行ってみます 。

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南馬込に行きました。そう、例の谷あたりに。 街角ねこさん写真家(でいいんでしょうかw)の ろっちさん が、 「楓谷」と名付けたところ 。 猫またぎさんをして「V字谷の聖地」と呼ばしめた 馬込の地形ですが、 楓谷はこの猫またぎさんが取り上げたエリアのもうちょっと南の方に位置します。

私もこの近辺は何度か断片的に記事にしました。 環七を両脇から囲む池尻掘りの 東 と 西 。 そして池尻堀東の奥から来る 大仏支流(仮)。 さらに池尻堀西の奥の奥から来る 池尻掘り南馬込1丁目支流(仮)。 その手前 のするすみ支流群(仮)。 そんなに家から近いわけじゃないのに、我ながらよく通ったものです。 会社で「住まいは馬込なんです」というひとがなぜか結構いるんですが、もうその一人一人に、「で、何丁目何番地?谷の底のほう?そばに坂はない?」と問い詰めたくなることが多いのですが、ずっと我慢してます。

で、今回はその楓谷エリアで、たぶんあまり知られていない(と思います;;;)暗渠を見てきたので、2回にわけてご報告します。

まずは全体の地形図をどうぞ。(GoogleEarthさん東京地形地図さんありがとうございます)

■序章代わりの「1」 では地形図の「1」とした矢印。これは、さきにご紹介した「楓谷」の命名者ろっちさんにすでにご紹介されてますので、軽く。 バスが行き来する南馬込1-60-5の尾根道からぽっかりとした暗渠が見えます。

ここからこの流れに階段で降りていきます。振り返るとこんな景色。 すでに秘境感満載ですね…。この先はこんなふうに続きます。

いったん道に出てガードレールに阻まれた後も…。

やはり階段で下ります。この谷のきつい高低差を物語りますね。

その先はいったん右に曲がって、左に曲がり、するすみ支流群(仮)の中心となる支流となって流れていくようです。

■するすみ支流群・南馬込2丁目崖支流(仮) 「2」 次は、今回新たに見つけたするすみ支流(仮)の副支流のひとつ。 それが地形図の矢印「2」。 南馬込2-23から唐突に始まる支流です。 ここ。

車の間をすり抜けて進んでみましょう。

進むと、崖

[132] 暗渠ハンター 大田区楓谷・こんどは断崖絶壁暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-4c65.html

■池尻堀西・馬込支流「3」

前回からの続きです。 今回の記事も、趣としてはこんな感じの「 暗渠の愉しみバランスシート 」となります。

まずは前回の地形図を再掲します。 (GoogleEarthさん東京地形地図さんありがとうございます)

今回は上地図の「3」という矢印のところ。 前回のするすみ支流群とは谷を異にするところですね。

「2」の場所から「3」へと移動する途中、 尾根道のT字路に井戸(サンタイガー式)がありました。なんか岬に立つ防人みたいな風情で。

このあたりから、これから下る谷を一望できます。

うっわーすっげえ高低差!とついつい「ですます調」が乱れてしまいます。

さてここ。南馬込3-17に突如金網が見えてきました。

覗き込んでみると…。

おわっ。 この先は崖になっていて、その崖を下る一筋の暗渠があるのです。 望遠で奥の方を見てみましょう。

大谷石で築かれた家の土台の高さを見ても、この谷の深さがわかるかと思います。 ただ、行く先がよくわかりません…。

この写真を撮った足元には、土管も見えています。

下流をなんとか確認するため、一つ先のブロックに回り込んでみましょう。 ブロックを囲む道は、こんな急階段になっていました。

そりゃそうだよなあ、あんな崖だったんだもんなあ…。

そして。 この階段を下りたところがまさに暗渠の出口だったのです。

右側に見えるお宅と階段とのスキマが暗渠。 半分プライベートな空間っぽかったので、 ちょっと覗き込んで写真を撮るのは自粛いたします。

ここからは、馬込二小の敷地の横を通って下っていく様子。

うん。道もちょっとヘンな造り。

この先すぐには 池尻堀西 が流れています。 おそらくそこに合流していたものと思います。 地理的にも時間的にも断片的にこの楓谷を巡ってきましたが、 ようやここへきて全体像を掴みかけたような気がしました。

より大きな地図で 池尻掘・六郷用水北堀・内川 を表示

[133] 暗渠ハンター オチのない内川支流の話。: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0538.html

「大田区の文化財 第25集『地図で見る大田区』(2)」 という資料を眺めていたら、こんなものを見つけました。 そう、真ん中に流れる川(オレンジ色)は、内川。

明治19年測量、というこの地図には、 西から内川に合流する支流が二本くっきりと描かれています! 赤い丸のところ。

以前内川をたどっていて偶然見つけたのは もうちょっと上(北)のほうに位置する暗渠でしたが、 このあたりに暗渠なんてあったっけな…。

でもこんなに堂々と書かれているんだから、痕跡がないならないでいいや、行ってみよう! と鼻息も荒く出かけていきました。 大正9年の測量時にすでに消えているんですけどね。

まあ地形図でもね、こんなくっきり谷があるし、 なにか面白いことが待っているかもしれないし。 (東京地形地図さん毎度引用させていただいてます、ありがとうございます。)

一応東京都の下水道台帳をみるとこの川筋には合流式の下水道管が通っているので、まあ暗渠と呼んで差し支えはないかと思うんです。

以下、便宜上それぞれの住所から、南側を西馬込2丁目支流、 北側を西馬込1丁目支流と仮に呼ぶことにして話を進めてまいります。

■ 西馬込2丁目支流

2丁目支流は、南馬込5-27あたりで内川に合流します。 ちょうど都営地下鉄西馬込から延びてくる商店街の谷のところ。 一見なんの変哲もない商店街。

このあともなんの変哲もありません。 ただ、両脇を見るとぐぐっと下がった谷地形であることは間違いない。

国道1号線・第二京浜とまじわるところには、 文化堂というスーパーがあるのですが、 何かの資料で「ここに昔湧水があった」と書かれていましたので、 その湧水はこの西馬込2丁目支流にあわさって 内川へと流れ込んでいたのだと思います。

第二京浜を越えても川らしい跡が浮き上がってきません。

今日はテンションが低いまま終わってしまうかも知れません。 いまから覚悟しておいてください。 大阪の人と飲んでるときにオチのない話をして怒られたことがありませんか? そんな感じ。

道端に公園。 お。 なんか川っぽいもの発見!

でもこれ、絶対ダミーです。 でもこの公園の端っこが急にがくんと低くなっていて、 おそらく谷頭部はこのへんなのだと思います。

その谷頭の上のほう、西馬込2-9の界隈にはちょっとした路地が。

特定はできませんが、配水路などがあった

[134] 1Q64 « 庵魚堂日乗, , http://tanken.life.coocan.jp/weblog2/?p=341

東海道新幹線の高架下。

そこをくぐっている水路を見に来ました。

内川の上流のひとつです。

1964-1 という刻印がくっきりと残った壁面。‥‥まあ鉄道高架が風化してボロボロだったら怖いんですけど。

東海道新幹線が開業したのがこの年の10月のことだそうです。

樹齢45年の雑草たち。

周辺情報ではなく、暗渠化された年がはっきり刻まれた物件って、ちょっと珍しいですね。

そもそも内川自体が、東京の河川の歴史を小さく凝縮したような側面を持っている一方で、今となってはなぜそこを流れているのか分からない、存在自体が謎の川。

そんなわけで、探ってみるとなかなか興味深いものが出てきます。

[135] 水路をゆく・第二運河 中島閘門ふたたび…1, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1610.html

(『 富岩運河で遊ぶ…9 』のつづき) ● 幅がぐっと広くなった閘門前の水域に入ると、「ふがん」は行き足を再び落し、待機の姿勢をとったようです。ぐんぐんと開いて、シルエットを縮めてゆく後扉室のマイタゲートの動き、滝のような滴を落とし、開くほどに視界を圧するローラーゲートの豪快さを動とすれば、まさに静の魅力を醸し出すゲートといえるでしょう。 いや、胸が高鳴ります! 前回の訪問から8年を経て、いよいよこの閘門を通ることができるんだ! ● 気づけば、操舵室の後ろにお客さんが集まって、時ならぬ人だかりが。後ろだけでなく、左の通路にも陣取り、スマホやカメラを構える人まで。ちなみに、我々以外はほとんが、外国からのお客さんでした。 巨大な水上の扉を前にして、高ぶる気持ちに国境はないことが感じられて、どこか嬉しくなるシーン。しかしこれを見ると、やっぱりオープン艇にしたほうが、遠来のお客さんにも喜ばれそうではあるなあ、と‥‥。 いやいや失礼、単なる個人的な好みを、他人をダシにして語ってはいけませんね。 ● ゲートが全開になると、管理橋の上に出てきていた係の方とおぼしき人影が、大きく手を振って、こちらに合図を送ってきました。同時に「ふがん」も、ゆるゆると前進を再開。お待ちかね、閘室へ進入であります。 係の方の合図でハッとしたのが、中島閘門、東京の水門ではおなじみ、信号のたぐいは備えられていないのですね。まあ、重文指定を受けていることもあり、原形を失うような追加設備は、なるべく避けられていると見てよいでしょう。 ● 鼻先に迫ってくる扉体を一枚、径間9.09m、扉高5.765mの威容。平成10年に新製された扉体だけに、痛みも見られず、塗り替えも定期的に行われているのか、実にきれいです。 「鋼製ゲート百選」(技報堂出版、平成12年)によれば、65年ぶりに新製更新された扉体は、竣工当時のままに復元することを旨とし、15000本に及ぶリベットによって組まれたのだとか。復元とはいっても、組み立ては溶接で行い、鋲頭のみをお飾りで添えるという方法もある中、このリベットは決して伊達などではないあたり、さすが重文といったところでしょうか。 ● 「ふがん」が閘室に納まったところで、早くも扉体は水面に渦を作りながら、閉まり始めました。今度は近いせいか、ロッドを駆動しているとおぼしき、モーターの唸りが聞こえてき

[150] 東急東横線・みなとみらい線10両化工事(2012年4月取材) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/blog-entry-1155.html

東急東横線では今年度末に 東京メトロ副都心線との直通運転開始 が予定されています。前回はこの直通運転に向けて行われている渋谷~代官山間の地下化工事と、関連する渋谷ヒカリエについてお伝えしました。続いて今回は、 副都心線直通と同時に予定されている優等列車の10両編成化に向けて、東横線とみなとみらい線で行われているホーム延伸工事の現状 についてお伝えします。 ▼関連記事 東急東横線・みなとみらい線10両編成対応化工事(2011年1・6月取材) (2011年7月3日作成) 東急東横線地下化工事&渋谷ヒカリエ開業(2012年4月取材・その1) (2012年5月11日作成) 東急東横線地下化工事&渋谷ヒカリエ開業(2012年4月取材・その2) (2012年5月12日作成) ■東急東横線・みなとみらい線の10両編成対応化工事の概要 現在、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線は 全列車が8両編成 での運転となっており、地上設備もそれに合わせた構造となっています。今年度末より開始される東京メトロ副都心線との直通運転開始後は直通先の東京メトロ・西武鉄道・東武鉄道に合わせる形で、 「特急」「通勤特急」「急行」の各優等列車を10両編成に増車 することが計画されています。このため、優等列車が停車する駅のホームと元住吉駅の下にある車両基地について 2両分の延長工事 が進めらrています。工事が行われているのは以下の駅です。 ●東急東横線 中目黒・学芸大学・自由が丘・田園調布・多摩川・武蔵小杉・日吉・綱島・菊名・横浜 ●みなとみらい線 新高島を除く全駅 なお、この工事は前回お伝えした渋谷~代官山間の地下化工事とともに 特定都市鉄道整備事業 の対象となっており、2005年度より運賃に上乗せする形で事業費の調達が行われています。(詳しくは前回の 「その1」 の記事を参照。) では、中目黒駅から終点元町・中華街駅へ向かってどんどん見てまいりましょう。 ■東急東横線内の状況 今回は全線を2分割して取材を行いました。( 2012年4月21日:中目黒~自由が丘、2012年4月30日:田園調布~元町・中華街 ) ●中目黒駅 左:中目黒駅下り線渋谷方のホーム端。ホームの拡幅が完了した。 右:下り線渋谷方の端から駅中心方面を見る。拡幅部分のホームはまだ仮設。2枚とも2012年4月21日撮影 ※クリックで拡

[151] 創業期の鉄道, , http://uub.jp/hmt/hmt36.html

日本の鉄道創業 140周年を機会に、hmtマガジン 鉄道特集号 を作ることにしました。 最初の特集は 「創業期の鉄道」 と題して、1872年6月12日の品川−横浜間仮開業の記事から 同1872年10月14日【注1】に 明治天皇を迎えて行なわれた 新橋−横浜間開業式の記事へと 進めようと思いました。 【注1】日付について 「10月14日」は、ご存知「鉄道の日」ですが、政府が好んで使う「太陽暦換算」です。当時使用されていた暦(太陰太陽暦)では明治5年9月12日になります。品川仮開業日は明治5年5月7日です。 しかし、品川仮開業時【注2】の本格的記事は見当たらず、いきなり本開業の記事 [80065] [49808] から始めます。 【注2】品川〜横浜(現・桜木町)間仮開業時 所要時間は35分というから、意外なスピードに驚きます。但し新橋まで開通して途中駅に停車するようになったら53分。 [39140] [80065] には、公文録付属の「新橋横浜間鉄道之図」(国の重要文化財指定)、本営業に先立つ工部省布達 「汽車運転之時限並賃金表」、それに明治天皇の御案内役を勤めた 山尾庸三の伝記も リンクしてありますから、ぜひ リンク文書も御覧ください。 山尾の伝記には、工事中の明治4年8月に、早くも木戸孝允・大隈重信の試乗があり、11月には鉄道反対論の大久保利通も試乗した結果、双手を挙げて鉄道賛成に転じたというエピソードも綴られています。 [49808] には、開業時の終点であった(初代)横浜駅(現・桜木町駅)が記されており、両ターミナルの位置から「市街地に入れない」鉄道の問題点に触れています。この問題については、特集: 市街地乗り入れに成功した鉄道 を御覧ください。 明治5年の京浜間に続いて開業した鉄道は、明治7年の阪神間であり、この時の仮開業達も [80065] にリンクしました。 阪神間鉄道が大津まで延びた後は、とりあえずは水運が使える 琵琶湖を挟んで 長浜から大垣への 中山道鉄道 になりますが、この鉄道建設の起点が 日本海の港湾 金ヶ崎とされたのは 建設資材輸送があるためです。 そして中山道鉄道の東側も、半官半民の日本鉄道によって建設が開始されました。最初は資材輸送に隅田川の舟運も使われましたが、本格的には 品川−赤羽間の支線により 横浜港からの鉄道輸送を可能とする体制 を取

[152] 亀城公園 東櫓(ひがしやぐら) 茨城県土浦市 - 墳丘からの眺め, , http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/06/24/000000

3回前のつづき。

外濠にかかる橋(下図の左上)をわたって公園にはいった。下の案内図は後で公園を出たときに撮ったもの。広さは グーグルマップ でみると1.7haほど。サッカー場2面くらい。

土浦城が築かれた時期は定かではありませんが、現在知られている土浦城は江戸時代に整備されたものです。江戸時代前期には 松平氏 、西尾氏、朽木氏等、中期以降には土屋氏が城主となりました。土浦城を拠点とする土浦藩は、土屋氏のときに藩領が9万5千石となり、 常陸国 では 水戸藩 に次ぐ領地の広さをほこりました。

土浦城は「亀城」とも呼ばれています。明治時代以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館等として利用されてきました。昭和に入り本丸と二の丸の一部を公園として整備し、亀城公園の名で現在も親しまれています。昭和27(1952)年には櫓門とともに 茨城県 指定史跡第一号となりました。

櫓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝えられ、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方で唯一現存するものです。階上に太鼓を置き、時刻を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれていました。

土塁上の見事な松。

土塁上の別の箇所にはシイの巨樹もあった。説明板あり。

県指定 文化財 亀城のシイ

天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名は、 スダジイ 〈別名イタジイ・ナガジイ〉である。

スダジイ は 福島県 と 新潟県 以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。

このシイの胸高周は7m、樹高は16m、枝張り21m、樹齢は約500年と推定されている。県下のシイの中でも有数の巨樹である。平成8(1996)年3月 土浦市 教育委員会

広場を横切って「本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方で唯一現存する」櫓門、太鼓櫓(1656年築)をくぐる。

太鼓櫓前の石橋から内濠。正面奥は旧前川門( 高麗 門)

門をくぐると本丸跡広場。西の角、市立博物館のそばにある西櫓。

説明板があった。地元の方々の尽力で平成に再建された。

土浦城 西櫓(にしやぐら)

由来

本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。

土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。

土浦城内の建造

[153] 理想的な「立体Y字路」を探して - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160826197281_4.htm

「せめてもう一例」とはやる心。雨宿りをすべきところを強行。ずぶぬれ。そしてなかなかいいものは見つからない。つらい。

ここもまた「大通りから脇にのびる惜しい例」。五反田駅からすぐ国道1号線の脇だ。おもしろいのは、細い方の通りは向こうで上り坂になってふたたび国道に同じ形で合流すること。つまり国道1号線のこの部分は窪地に盛った橋のような状態。いずれにせよ、雨がしんどい。

履歴

[155] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926382640735

メモ